米沢城 続日本100名城 109 |
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別名 | 松ヶ岬城 舞鶴城 |
城郭構造 | 連郭式平城 |
天守構造 | 無し |
築城主 | 長井時広 伊達晴宗 蒲生郷安 上杉景勝 |
築城年 | 1238年(歴仁元年) |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
米沢城とは、山形県米沢市にあった日本の城である。続日本100名城に認定されている。
本記事では城址に立てられた上杉神社や近隣の関係施設も合わせて記述する。
米沢城は上杉謙信を藩祖とする上杉家の本拠で、現在の米沢市街のほぼ中心に位置する平城である。石垣や天守は設けられず、城の防備は水堀と土塁に任せた構成となっている。
明治に入っての廃城令で城を構成していた建造物は破却され、上杉神社が本丸跡に建立された。その後、城址は松ヶ岬公園として整備され一般開放された。
大正には米沢市内で大火災が発生し、松ヶ岬公園一帯も被害にあったため、現在建てられている建築物は大火以降に建てられたものということになる。
詳しい概要などはWikipediaの記事にまかせておくとして、大雑把に記しておく。
西暦(元号) | 出来事 |
---|---|
縄文時代~ | 米沢盆地には縄文時代の遺跡もあることから、古代から人が集まる立地であったと考えられる。 |
1238年 (歴仁元年) |
鎌倉幕府の重臣である大江広元の次男・長井時広が地頭として米沢を領して、城を築いたのが米沢城の始まりだとされている。 |
室町時代初期[1] | 長井氏が伊達氏の侵略により米沢を追われる。 |
1548年 (天文17年)頃 |
伊達家当主・稙宗と嫡男・晴宗の父子内紛から奥州一帯に波及した天文の乱の末に、晴宗側が勝利し実権を握る。
晴宗が米沢に本拠を移す。 |
1567年 (永禄10年) |
伊達政宗が生まれる。[2] |
1582年 (天正10年) |
本能寺の変発生からのなんやかんやで、羽柴秀吉が天下の大勢を制する。 |
1589年 (天正17年) |
伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし会津の黒川城へ本拠を移したものの、豊臣秀吉が認めず会津召し上げとなり米沢に戻る。 |
1591年 (天正19年) |
北条氏を滅ぼし天下統一を達成した秀吉による奥州仕置で、政宗は陸奥の岩出山城に飛ばされた。
米沢一帯は会津に封じられた蒲生氏郷が領することになり、氏郷は米沢城に重臣の蒲生郷安を城主として据え、米沢城も郷安の手で改修が加えられたとされている。 |
1597年 (慶長2年) |
氏郷が40歳の若さで早死にしてしまい、跡を継いだ秀行は器量に乏しく家中がドンパチな状態(蒲生騒動と呼ばれる)を招いてしまい、蒲生家は宇都宮へと飛ばされることとなってしまった。
なおドンパチは郷安の専横が火種であり、最終的に郷安は蒲生家を追放されてしまった。 蒲生秀行の後の会津120万石は上杉景勝が領することになり、景勝は米沢城に重臣の直江兼続を城主として据えた。 |
1600年 (慶長5年) |
豊臣秀吉の死後、徳川家康の専横に対抗して上杉家は有名な「直江状」で喧嘩を売り、家康による会津討伐を受ける。
それに呼応して石田三成が挙兵。その報を手にした家康は引き返し、関ヶ原の戦いで三成を破り天下の大勢を制する。 家康側に与した最上家に侵攻していた直江兼続率いる上杉軍だが、最上家の猛抵抗を突破できない間に、三成側敗戦の報が入り撤退を余儀なくされる。 関ヶ原の戦いの結果、上杉家は30万石に減封され、景勝は米沢城に居を構えることになった。 |
1613年 (慶長18年) |
1608年(慶長13年)から景勝が兼続に命じて始められていた米沢城改修工事が完了する。 |
1664年 (寛文4年) |
3代藩主・綱勝が急逝し、吉良義央(吉良上野介)の長男(綱勝の甥にあたる)が末期養子として上杉家を継ぐことが認められ綱憲と名乗ることになる。しかし、石高が30万石から15万石に削られてしまう。
もともと120万石の時代から家臣をそのまま抱えていた米沢藩だが、15万石になっても家臣を解雇しなかったため、慢性的な財政悪化に悩まされることになる。 |
1689年 (元禄2年) |
上杉綱憲は自身の次男(後の吉良義周)を父・吉良義央の養子に入れる。
これにより吉良家との関係がさらに深まり、藩は厳しい財政にもかかわらず吉良家の面倒を見ることになってしまう。 |
1701年 (元禄14年) |
江戸城内で吉良義央が浅野長矩(浅野内匠頭)に切りつけられる事件が発生する。 |
1703年 (元禄15年) |
1月(旧暦では12月)、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、吉良義央が殺害される。
江戸の藩邸で討ち入りの報せを聞いた上杉綱憲は父・義央を援けるべく兵を出そうとするが、家臣の反対により、出兵の断念を余儀なくされた。 |
1767年 (明和4年) |
日向高鍋藩より養子として迎えられていた上杉治憲(鷹山)が上杉家の家督を継ぐ。ちなみに治憲の祖母が上杉綱憲の娘という縁。
米沢藩は先代の重定が統治を諦めて公儀に藩を返上しようと考えたほどの負債を抱えていた。治憲は藩政改革と質素倹約を以って負債に立ち向かった。 |
1773年 (安永2年) |
改革反対派による強訴(七家騒動と呼ばれる)が起こされたが、治憲はこれを退け改革路線は続けられた。 |
1823年 (文政6年) |
治憲からの改革が実を結び、治憲の次々代の斉定の代で負債は完済された。 |
1867年 (慶応3年) |
大政奉還。 |
1868年 (慶応4年) |
米沢藩は奥羽列藩同盟を仙台藩と共に主導し戊辰戦争を戦うが、9月に新政府軍に降伏する。
9月、明治と改元される。 |
1873年 (明治6年) |
廃城。 |
1919年 (大正8年) |
米沢市内の大火災により焼失。2年前にも米沢市内で大火災があり、二度の大火で米沢市内はほとんど焼け野原になったという。 |
現在は水堀が巡らされた緑豊かな公園となっていて、四季折々の風景が人々に愛されている。
米沢城本丸跡に建立された藩祖・上杉謙信が祀られた神社。建立時には9代藩主・上杉治憲(鷹山)も共に祀られていた。
謙信が所用した「色々威腹巻」(重要文化財)、景勝が所用した「紫糸威伊予札五枚胴具足」(県指定文化財)、愛の前立てで有名な兼続の「金小札浅葱糸威二枚胴具足」など様々な宝物が所蔵されている。
上杉神社が別格官幣社に列せられることになったのにあわせて、米沢城二の丸世子御殿跡に新たに摂社を建立し治憲はこちらに遷された。
時代を経て初代藩主・上杉景勝、直江兼続に、治憲の師である細井平洲、治憲の下で改革に貢献した竹俣当綱、莅戸善政が合祀されている。
公園名としては「松ヶ岬」「松が岬」「松岬」と表記ぶれがあるが、神社名としては「松岬」が用いられているようだ。
松ヶ岬公園に隣接する市文化施設「伝国の社」を構成する博物館。
目玉展示物としては戦国時代頃の京の都を描いた「洛中洛外図」[4]や謙信の愛刀「姫鶴一文字」が挙げられる。どちらも割とよく他県の博物館に貸し出されているようなので、観光予定を立てる際には情報収集はしておきたい。
もとは明治29年に(上杉家14代)上杉茂憲伯爵の本宅として米沢城二の丸跡に建てられた。大正になり上述の大火で焼失し再建された建物が現在まで残る。第二次大戦後に上杉家から米沢市に寄贈された。
建物や庭園は無料で見学できる他、米沢牛など郷土料理を味わえる料理屋や和風甘味処がある。
上杉謙信から11代藩主・斉定と治憲の長男で10代藩主・治広の養嗣子となっていたものの夭折した顕孝が埋葬されていて、国の史跡に指定されている。
故・宮坂善助初代館長が個人で収拾した前田慶次が所用した「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式」、上杉景勝が所用した「浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足」、謙信が所用した「素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻」といった様々な甲冑や屏風、火縄銃などなど700点あまりの資料が収蔵された博物館。
「前田慶次供養塔」や慶次が里人たちと力試しをしたと伝わる「力石」、小高い山の上には月見などの遊山を楽しんだ「月見平」がある他、周囲には慶次が晩年を過ごしたという「無苦庵」跡や無苦庵の飲料水用に掘られたと伝わる「慶次清水」がある。
アジサイの名所でもあるらしい。
JR米沢駅から市民バス万世線「桑山団地中」で下車、徒歩10分。ただし本数が少ないので注意。徒歩ならJR米沢駅から東に30分ぐらいの距離だが、かなりわかりにくいので素直にタクシーを使った方がいいかも。
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最終更新:2024/11/24(日) 19:00
最終更新:2024/11/24(日) 19:00
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