第二新興丸(だいにしんこうまる)とは、日本海軍が第二次世界大戦時に戦時徴用した特設砲艦兼敷設艦である。
もと東亜海運所属の貨物船「新興丸」。同名の「新興丸」という特設艦船がすでに存在したために艦名に「第二」を冠せられた。
総トン数2,577トン、排水量5,886トン、全長90.80m、幅13.72m。横須賀の浦賀船渠にて貨物船として建造された。1939年に竣工し、1941年には海軍に挑発された。以後北方での任務にあたり、終戦を迎えた。
その直後1945年8月22日、樺太からの引揚者を小樽へと輸送する途上、国籍不明の潜水艦による雷撃を受け大破。いわゆる「三船殉難事件」に巻き込まれた。このとき、第二新興丸は潜水艦に応戦し、おそらく撃沈させたといわれている。この時、すでに戦闘停止命令が出ており、第二新興丸は日本海軍の艦船の中で最も最後に戦った船となった。
修理後は復員輸送艦として再び樺太・ナホトカからの引揚者の輸送にあたった。そののちは貨客船・貨物船として外洋航路に就航し活躍。1966年に国外へと売却された。
1988年に北海道新聞社から出版された、三船殉難事件について書かれた「慟哭の海」にはこのような記述がある。
(前略 再び復員輸送艦として樺太からの航路についたことについて)しかし新興丸に命があるとすれば、どんな思いでこの航路を走っていたのだろうか。
想像してみよう。数奇な運命を辿った船・新興丸。彼女の生き様を…
ぼくの名前は新興丸。横須賀の浦賀船渠で建造されたんだ。1939年に竣工。貨物船だったんだけど、1941年に海軍に徴発されて特設艦船になったんだ。ぼくの人生(船生?)を紹介するね。
ぼくは1938年11月29日に進水して新興丸と名付けられた。1939年3月29日に竣工。はじめの船主さんは大阪の大阪商船株式会社だったんだ。3月の末には神戸と朝鮮の仁川の航路に就いた。
でもその年のうちに国策企業の東亜海運会社に移籍して、神戸と中国の上海への航路に就いたよ。
海軍に徴用されたのは1941年9月のこと。兵装を付けられて特設砲艦兼機雷敷設艦になったんだ。大湊警備府に所属して北方の哨戒・警備・船団護衛の任務にあたったよ。特設艦船にはすでにぼくと同じ名前の新興丸という船が他に2隻もいたからややこしかったから、ぼくは第二新興丸という名前になった。船首の近くのぼくの名前の上に小さく「第二」と書き加えられたんだ。
ちなみに、浦賀船渠で建造されたぼくと同型の姉妹船たちもぼくを含めて13隻が特設砲艦として徴用された[1]よ。でも、ぼく以外はほとんど潜水艦の魚雷を受けて沈んじゃった[2]んだ…。
徴用されて大湊警備府の一員となってからは北海道と樺太、千島を行ったり来たりで大活躍したよ。でもその年の12月のこと、択捉島・単冠湾の天寧の海岸で座礁してしまったんだ。海防艦の「国後」や「八丈」、救難船の「那須丸」が助けてくれたけど、痛かったなあ…。1943年1月には樺太の中知床岬の沖合で流氷にはまってしまった。ぼくは北方でも就航できるように船首部分は強化されていたんだけど砕氷艦並みというわけではなかったからうまく脱出できなかった。この時は砕氷艦の「大泊」に助けてもらったよ。冬ってのは鬼門なのかな…。
1943年の8月8日には占守島の片岡湾から小樽に向かう途中だったんだけどアメリカの潜水艦「サーモン(Salmon)」に追いかけられて魚雷を撃たれてしまった。なんとか振りきって小樽に到着したけど、本当に死ぬかと思ったよ!!
確かに、ぼくたちはいつも死と隣り合わせだった。第二次世界大戦では日本海軍は多くの船を潜水艦の魚雷で失っているしね。いつ魚雷で沈んでもおかしくなかった。でも、それ以上に恐ろしい思いに遭うなんて思いもしなかったんだ…。
終戦間近になるとぼくは輸送船団の旗艦を任されることが多くなった。北方を担当していた重巡洋艦の「那智」、軽巡洋艦の「木曾」や「多摩」、「阿武隈」たちが所属する第5艦隊が南方の任務に就いてしまったからだ。ぼくはその時になると北方の船の中でも比較的大きい方だったからね。
そして運命の1945年8月がやってきた。ぼくは稚内から千島の得撫島への食糧輸送任務についていた。でも稚内と千島の中間辺りで、稚内へと引き返すことになった。戦争がようやく終わったんだって。ぼくもまた貨物船に戻るのかなと思ったんだけど、軍の仕事はまだあるみたい。急いで樺太の大泊(現・コルサコフ)に向かったんだ。宗谷海峡では7月3日に貨物船の「第十一札幌丸」が。7月18日には客船・「宗谷丸」の護衛を務めていた「第112号海防艦」が米潜水艦「バーブ(Barb)」に沈められていたから少し怖かったな。
その時の大泊の港はいつもと同じに見えた。でも話を聞くと樺太にソ連軍が攻めてきたからみんな逃げなきゃいけなくなったらしい。当時、稚内と大泊を結ぶ稚泊航路は宗谷丸(総トン数 3593トン)が就航していた。本当は「亜庭丸」(総トン数 3298トン)という船もいたんだけど、その直前、7月にアメリカの空襲で壊滅状態になった青函連絡船の応援に行ったんだ。当時、沢山の人が乗れる大きな船は宗谷丸しかいなくて、樺太の人たちはみんな「亜庭丸もいれば…」と思っていたみたい。…でも、実は終戦の5日前、8月10日に亜庭丸は青森でアメリカの空襲を受けて沈没していたんだ。樺太の人達はそれを知らなかったみたいだ。もちろんぼくも。
そこへ総トン数2,577トンのぼくがやってきたから樺太の人たちは喜んだ。ぼくは勇気がみなぎってくるのを感じながらさっそく本土へと引き揚げる人々を乗せて稚内へと出港したよ。大泊と稚内を3回往復して、4回めに大泊に入港した時は8月19日の深夜だった。
すでに大泊の港は沢山の人が今か今かと船を待ち、人だかりを作っていた。北方の樺太とはいえ8月は炎天下だ。女の人、子供、お年寄りには相当つらかったと思う。ぼくの4つの船倉にはぎっしりと人々が乗り込んだ。子どもや女の人、お年寄りがほとんどだったよ。石炭庫や積み荷のお米や粉味噌の上には筵や叺(かます:筵で作った袋)が敷かれて、その上にも人々は座った。乗り込んだ人々は3500人ほどだった。
その夕方にはまた稚内へと向けて出発しようとしたんだ。でも、艫綱がスクリューに絡まって動けなくなっちゃった。水兵さんたちは艫綱をほどくために潜水夫を呼ぼうとしたけど港は大混乱で潜水夫は見つからなかった。泳ぎが上手な水兵さんがナイフで艫綱を切ろうとしたけど艫綱は水を含んで硬くなってて、切れなかったみたいだ。結局ぼくは乗り込んだ人々と大泊で一夜を明かした。…これさえなければ…。
ぼくが大泊を出港したのは21日の午前9時の事だった。
樺太から北海道へと向かう航路で何が怖いってそれはやっぱり浮遊機雷だった。ぼくは機雷敷設艦でもあったから相当この付近に機雷を撒いたけど、それはソ連軍も同じだった。乗組員たちは右舷、左舷に見張り員を配置して機雷の警戒にあたった。
最初は稚内に向かう予定だった。でも正午前、輸送司令部から稚内港の受け入れ能力が限界を超えたので小樽に向かうようにと指令があった。ぼくは指令に従って小樽へと舵を切った。
夜になると雨が降ってきた。悪いことに海は荒れ始め時化になった。ぼくはなんとか揺れないようにがんばったけどやっぱり揺れはひどかったみたいだ。甲板にいた人は雨に打たれ、毛布をかぶった。船倉にいた人たちは夏の暑さ、雨による湿気、人々が密集することによる換気の悪さ、ぼくの揺れによる船酔い、船酔いで戻してしまった"もの"による悪臭と闘いながら、狭い中で膝を折りじっとしていた。
やがて夜は明け8月22日午前5時ごろ、悪夢はやってきた。ぼくは小平町鬼鹿の沖を航行していた。すでに雨は止んでいた。もうすぐ小樽だ。
でも右三〇度の方向に船みたいなものが見えた。ぼくも乗組員たちも敵かな? とは思ったけど安心していたよ。だって戦争はもう終わったはずなんだから。
でもそれは大間違いだった。右舷の見張り員が「右五〇度、雷跡!」と大声で叫んだ。ぼくは面舵いっぱい、右へと必死にかわそうとした。でもつかの間、ぼくの右舷の、2番船倉のあたりに大きな痛みを感じた。
痛くて痛くてたまらなかった。横に12m、縦に5mの大きな穴が2番船倉に開いてしまった。潜水艦の雷撃だ。魚雷がぼくのお腹をえぐったんだ。2番船倉にいた人々のほとんどはそれで命を落としてしまった。無事だった人でも逃げ遅れた人は海に吸い込まれていった。積み荷の米は血に染まった。
ぼくは衝撃で大きく右に傾き、船首は前に傾いてつんのめった。甲板にいた人々がぼろぼろとこぼれ落ちていく。中にはふっとばされたデリックの破片で串刺しになった人もいた。地獄絵図だった。
萱場松次郎艦長は応戦を命じた。ぼくは4年ほど特設艦船として任務にあたっていたわけだけど実戦の経験は全くなかった。戦争は終わったというのに初めての戦いだった。艦内に戦闘配置につけというラッパが鳴り響いた。水兵さんたちが慌ただしく弾薬庫に駆けつけるとなんと鍵がかかっていた。鍵を持っていた人は犠牲になってしまったらしい。扉を破ってようやく弾薬を取り出した。無事だった引揚者の人々はさながらバケツリレーのように弾を運ぶのを手伝った。
弾が込められると一斉掃射がはじまった。爆雷も撃とうとしたけど人々を更に危険に晒すことになる。だから使えなかった。
やがて敵の潜水艦が浮上してきた。潜水艦も機銃を掃射してきた。甲板にいた人々をめがけて。人々は甲板に伏せた。「南妙法蓮華経…」と一心不乱にお題目を唱える人もいた。怖さを紛らわせるためか「君が代」を大声で歌い出す人々もいた。
ぼくは無我夢中で12センチ単装砲を撃った。船腹への痛みをこらえながら。砲弾は敵にあたり[3]、大きな黒い水柱をあげて潜水艦は消えた。黒い水柱が重油だとすれば多分沈めたんだと思う。
もしかしたら潜水艦はぼくのことを普通の商船と間違えていたのかもしれない。旋回砲は竹矢来で偽装されていたし、潜水艦からは見えなかったはずだしね。実際には駆逐艦並みの兵装はあったわけだけど。
仇を撃ったと喜ぶ人もいたけどこのままでは沈没だった。ぼくは痛みで十分な速力を出すことが難しくなり、5ノットほどの速さしか出せなくなってしまったんだ。これがいつもなら12ノットは余裕のはずだったのに…。
それでも艦長はじめ乗組員たちの必死の操舵でぼくは最寄りの留萌港へとやっとの思いでたどり着いた。すでに留萌港には騒ぎを聞きつけた人たちが集まっていた。着岸したぼくから無事だった引揚者の人々が降りていった。多くの人々は呆然としたり、泣いていたり、恐怖で顔がこわばったりしていていたたまれなかった。やがてぼくの船首は港の海底へと沈んだ。まさに沈没寸前だったんだ。
ぼくの船内には潜水艦の雷撃や機銃掃射で命を落とした人々の遺体が多く残されていた。船内からは229の遺体が収容された。行方不明者も合わせると400名が犠牲になったと言われている。
この日、ぼくよりもっとひどい目にあった引揚船が逓信省ケーブル敷設船「小笠原丸」と貨物船「泰東丸」さ。小笠原丸はぼくが雷撃を受けた1時間ほど前に魚雷を受け撃沈。600人以上が犠牲になった。泰東丸はぼくと同じ東亜海運所属の貨物船。午前9時ごろに機銃掃射、雷撃を受けて撃沈している。これも600人以上が犠牲になった。海に投げ出された人が相当いたから死者の数は正確にはよくわかっていない。この2隻はぼくと違って護身程度の兵装しか装備していなかった。
ぼくは致命的な損傷を受けていたけど、当時の日本は船舶不足だったから修理されてまた働くことになった。そして第二復員省のもとで復員輸送艦として働いたんだ。1946年8月に徴用解除されて樺太・ナホトカからの引き上げに従事したよ。1年越しでようやく任務を果たせたんだ。あんな悲劇があった海だ。怖くなかった、悲しくなかった、平気だったと言えば嘘になる。でも、ぼくに任されたことは引揚者の人たちの輸送なんだ。だから一生懸命に仕事をしたよ。1949年まで引揚船として就航していた。
その後、古巣の大阪汽船から名前を変えた関西汽船に移籍したぼくは普通の貨客船として働いた。タイのバンコクへの航路や阪神~沖縄間の航路など頑張って働いたんだよ。1956年にはエンジンが石炭エンジンからオイルバーナーに換装された。嬉しかったなあ。だってまだまだ必要とされているってことだからさ。
1960年、佐野安商事に売却されたぼくは「第二金丸」と名前を変えて香港やフィリピン、ボルネオなどの航路に就いた。日本のみんなのためにたくさんたくさん働いたぼくは1966年、パナマに売却されて「ゴールデン・バッファロー(Golden Buffalo)」とまた名前を変えた。さらに1970年に「ユエン・タ(Yuan Ta)」、1972年に「チ・ファ(Chi Fa)」、そして1973年に「リエン・シン(Lien Hsing)」と何度も名前を変えた[4]。
ぼくは1975年にその役目を終えた。何度も名前が変わったし、いろいろあった人生だったけど、ぼくを必要としてくれた沢山の人々の役に立てて嬉しかったよ。
…こんな運命を辿ったぼくを覚えていてくれたらとってもうれしいな。
この通り、第二新興丸は三船殉難事件という悲劇に遭遇しながらも乗組員とともに勇敢に戦い、戦後も日本だけでなく多くの人々に必要とされ、そして務めを全うし、船としての人生を終えた。
人間と同じように船の生涯にも運、不運があるとすれば、烈しい嵐には見舞われたが、常に時代に求められ、エンジンを休めるまもなく走り続けた彼女の生涯は幸せな一生だったといえるだろう。
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最終更新:2025/12/06(土) 14:00
最終更新:2025/12/06(土) 14:00
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