費禕 単語

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費禕ひい、字を文偉は、後漢からの人物。諸葛亮琬に次ぐを代表する政治家である。生年不明~253

劉備と劉禅に仕える

荊州江夏鄳県の出身。幼い頃にを失い、戚ので養われた。益州の牧であった劉璋とは遠縁にあたり、その伝手で益州へと遊学する。後に入した劉備に仕える事となる。友人董允たちと名を等しくし、劉禅の立太子によって、董允と共に太子府へと入り、劉禅のお付きとなる。

諸葛亮南蛮遠征から帰還した時、費禕は出迎えた群臣から特に選ばれて、諸葛亮に同乗する待遇を受け、衆を集めた。そして諸葛亮が帰還したことを孫権に報告する為、への使者となった。では孫権諸葛恪たちの舌鋒をうけたが、費禕は見事に受け答えたので、孫権から高く評価されている。

から帰ると中に昇進し、諸葛亮から要請されて北伐軍の幕僚となる。中において楊儀魏延の仲は非常に悪く、傷沙汰の手前まで及ぶことすらあった。費禕は常に両者の間に立ち、二人の間を取り持った。その一方で孫権に気に入られていたので、への使者も何度か務めている。

諸葛亮没後

234年に諸葛亮が亡くなると、費禕は楊儀に命じられて魏延の下に行き、魏延諸葛亮の遺命に背いて北伐の続行を論んでいることを探り出した。そして魏延に味方するふりをして逃げ帰った。報告を受けて魏延の叛意を知った楊儀は、魏延に先んじて行動を起こし、魏延粛清され、北伐軍は事に帰還を果たした。

楊儀諸葛亮の後継者が自分ではなく、蒋琬となった事に不満を抱いていた。荒んで人を寄せ付けない楊儀を費禕だけはを訪れて慰めていた。ある時、楊儀は「北伐軍ごと亡命すれば良かった」と愚痴をこぼした。これを聞いた費禕は密かに上奏したので、楊儀は庶人に落とされた挙句、地に流された。後にに下されて自殺した。

蒋琬前線中に赴くと、費禕は後任の尚書となり務をり、さらに大将軍、録尚書事といった重職を歴任する。244年に曹爽が侵攻した時には、諸軍を率いて援軍となり、防備を固めた。その堅さに軍は補給の不備もあり撤退した。この功績により成郷侯に封ぜられ、蒋琬が辞退した益州刺史も兼ねる事となった。

蒋琬没後

246年に蒋琬が亡くなると、費禕は政の第一人者となる。248年に中に赴いて防を担当する。引き続き政務も行い、の恩賞と刑罰は費禕への諮問なくして決裁される事はなかった。この頃から姜維は北伐をたびたび行うようになった。費禕は姜維に一万人以上の兵を与える事はなく「丞相諸葛亮)でさえ理であった、丞相はるかに及ばないらに出来ようか、今は内政に専念して、人材が現れるのを待とうではないか」と諌めている。

253年、駐屯地の寿で催された正月の大宴会泥酔してるところを、の降人である循(記録では脩)により刺殺された。敬侯と諡された。

その後

費禕の死後、姜維を抑えられる人物はいなくなり、大将軍となった姜維は何度も遠征を行い、を消耗させていく。姜維軍事に重きをおいて内政を顧みる事はなく、政を担える人物もいなくなった。

犯である循はで顕された。長楽郷と威侯の諡、領千戸を与えられ、息子取り立てられた。当初は劉禅を狙っていたが、警護が厳しかったので費禕が標的となったという。

息子の費承が、費禕の後を継いだ。もう一人の息子の費恭は名があり、)を娶ったが若くして亡くなった。長女は劉禅皇太子劉璿の妃となった。の時代になると、かつて費禕の部下であった文立は「諸葛亮蒋琬、費禕らの子孫は各地を転々しているので、任命して用いるべき」と上奏し、採用されている。

人物

諸葛亮琬、董允と共に四英、四相にも数えられ、諸葛亮の後継者として、琬と共にの重鎮として活躍した。劉禅の側近、への外交官、北伐軍の幕僚としてキャリアを積んでいる。策としては専守防衛を旨とし、北伐には積極的ではなかった。

費禕は実務に長け、尚書としての務を夕でさばきながら、は客を招いて宴会や博奕を楽しんだ。理解に優れ、一度見たものは人の数倍の速さで理解し、決して忘れる事はなかったという。後任の董允真似たところ10日で仕事が滞り「これ程の差があるのか」と嘆いたという。外交官として孫権達の無茶振りにも上手く対応し、威を辱めることはなかった。外交官では鄧芝に次いで、孫権のお気に入りであったという。董允とは若い頃からの友人であった。最初、両者は優劣付け難い俊英と思われていたが、次第に費禕が抜きん出るようになった。

費禕は慎み深い性格で、蓄財もせずに質素な生活を送っていた。張嶷からは「明け透けで人が良すぎる、降った者たちを信用しすぎている」と手紙で忠告されている。から大赦を行ったことを面前で批判された時は、恐縮してあやまるだけだった。

評価

諸葛亮出師の表において「郭攸之、費禕、董允の三人は先が遺した忠臣であり、彼等に大小の相談をして行えば間違いはない」と奏している。また死の間際には「蒋琬の次は費禕に務を継がせよ」と遺言したという。

陳寿は『三国志』の評で「費禕は寛容で差別なく人を愛し諸葛亮の路線を継承して国家を安定させた」と賞賛した。しかし、暗殺された経緯から「務以外での身の処し方を弁えていなかった」としている。裴松之陳寿の評に対して「私人としてのの甘さは、宰相としての功績をべれば瑕にはならない」と弁護しているものの、別件では殺犯の循の事に触れて「費禕は中程度の才しかない宰相なのだから、殺しても何の利益がにあろうか、循は全くの駄死だ」と、かなり酷い事を書いている。

軍が攻めてきた時、出前の喧騒中にもかかわらず、費禕は知人とのの勝負に応じている。これは費禕の冷静沈着を示す逸話であるが、後世では「そんな事ができるのは大まかで、細かいことに気を配らないからだ、刺客に殺られるのは当然」という批判もされている。

三国志演義

劉備の入の際に投降した文官の一人として名前が出る。史実とは違い南蛮遠征に参加。逆に北伐では成都劉禅の補佐を行いつつ朝廷前線との使者を務めた。亭の大敗では、自らを処罰したいとい諸葛亮の意向をみ、中に赴いて諸将を説得する役を担う。後に丞相への復職を告げる使者にもなり、しぶる諸葛亮を説得している。外交官として正史での逸話はられていない。

劉禅宦官の讒言を信じ、諸葛亮前線より呼び戻された事件には、劉禅を諌めることが出来なかったとして、蒋琬と共に諸葛亮から叱責を受けている。

李厳怠慢に対する処罰では、先以来の宿将だと諭して諸葛亮に取りなした。諸葛亮の臨終時には北伐軍の客となっていたので、魏延の反乱事件の鎮圧にも関与する事となった。姜維を諌める事も史実通り。諸葛亮亡き後の名相ぶりは描かれず、いつの間にかフェードアウトしている。『横山光輝三国志』では最後が描かれている。

三國志(コーエー)

コーエー三國志シリーズにおける費禕の力一覧。
Ⅰ~と次第に評価が上がり、Ⅴ以降は統率、知政治、魅が高い一の宰相に相応しいなっている。

力一 統率 政治 身体 運勢
三國志 17 79 51 71 49
三國志II 24 83 82
三國志III 25 75 82 85 23 6
三國志IV 38 17 75 88 82
三國志V 55 77 96 81
三國志VI 72 26 73 97 80
三國志VII 28 86 94 84
三國志VIII 28 82 88 80
三國志IX 74 22 83 92
三國志X 73 29 84 94 83
三國志11 77 30 83 92 83
三國志12 77 30 83 92
三國志13 77 30 83 92
三國志14 77 30 83 92 83

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