橘(橘型駆逐艦) 単語

タチバナ

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橘(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争末期大日本帝國海軍が建造・運用した/改/改丁駆逐艦1番艦である。1945年1月20日工。7月14日函館襲で敵機80機を相手に孤軍奮闘し、撃沈された。戦果は敵機6機撃墜。

概要

背景

艦名の由来はミカンミカン属の常小高木タチバナから。の名を持つ艦は本艦で2代目

ガダルカナル島争奪戦で多くの駆逐艦を喪失し、また対潜任務や輸送任務など駆逐艦められる役割が多様化してくる中、帝國海軍は状況に即した松型駆逐艦の建造を開始。僅か8ヶの工事で建造了出来る設計にし、官営だけでなく民間永田所も参加させて大量生産を図った。しかしアメリカ軍の猛攻は留まる所を知らず、次々に撃沈される駆逐艦を補うにはでも間に合わなかったため、1944年3月に艦政本部はを更に簡略化した改(改丁)の量産計画を始動させる。計画上ではは8番艦として誕生するはずだったが、1945年に入った時点で同年度前期に完成の見込みが八重桜、矢、若の5隻が建造中止となり、番号が先のはずのや樺よりもく就役したため事実上の1番艦となる。ネームシップ名前から取ってと呼称する資料も確認出来る。

松型駆逐艦は不断の努力によって6ヶにまで工事が短縮されていたが、改はその半分の3ヶで就役出来るよう新技術の投入や底的な簡略化がめられた。そこで既に簡略化されていた一等輸送艦海防艦丙型海防艦丁型海防艦を参考。に採用されたシアーをした直線状の体を採用、殻の構造は一等輸送艦丙型海防艦を参考にし工数をの8万5000から約7万に減少、電気溶接ブロック工法を全面的に使用して工期を短縮、体装甲をDS鋼から軟鋼に変更して電気溶接を容易なものになるよう工夫、二重底も単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略リノリウムの全面止をするなど底に底を重ねた簡略化を実施。工期を3ヶにまで短縮する事に成功した(ただし1番艦のノウハウが蓄積されていなかったせいか半年以上を要している)。このおかげで戦争末期の登場ながら14隻が完成している。

の長所だった機関シフト配置はちゃんと引き継がれ、左右のスクリューシャフト機関室を振り分ける事で被弾しても航行不能に陥りにくくしている。スクリューシャフト度を変えて作らなければならないため建造の手間が掛かるが、重要な部分は簡略化せず、きちんと作り上げているのが分かる。

戦時急造を更に簡略化した改丁だが戦訓により測装備はより強化された。性が貧弱だった九三式探信儀と九三式聴音機を、ドイツから持ち帰った技術を取り入れた高性の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。四式聴音機は艦底に装備する関係上、流が乱されて速力が低下する懸念があり、装備を見送る意見もあったが速力低下を承知に装備してみたところ悪ど見受けられなかったという。また対力の強化にも力を入れ、13号電探、22号水上電探、九七式2メートル測距儀を搭載。ですら高に置き換えるという対艦攻撃を全に捨て去る思い切った設計となっている。ただし射撃揮装置を持っていなかったため航空機に対する命中率は低かったらしい。輸送任務への投入も視野に入れられ、小発動艇2隻と6メートルカッター2隻を有していた。速力の低さが泣き所だった点を除けば意外と高性であり戦時急造とは思えない成績を残している。また改丁の量産で培われた技術とノウハウ戦後の造に大きく寄与した。

排水量1350トン、全長100m、全幅9.35m、出力1万9000力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重搭載量370トン。武装は40口径12.7cm連装1基、同単装1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機4門、同単装機8基、九四式爆雷投射機2基。

戦歴

瀬戸内海西部での活動

1942年に策定された改マル五計画において改丁一等駆逐艦5511号艦として建造が決定。当初は松型駆逐艦での建造を予定していたが、設計を変更して改丁での建造となった。第84及び第85帝国議会において予算が成立。

1944年7月8日横須賀海軍で起工、9月1日駆逐艦と命名され、10月14日に進12月10日装員事務所を設置。そして1945年1月20日工(予定では1月17日工するはずだった)。利房少佐が艦長に就任し、横須賀鎮守府へ編入されるとともに訓練部隊の第11戦隊へ部署する。

横須賀電波探知機三実験に従事した後、準備出来次第瀬戸内海西部への回航命を受け、1月23日に出港。翌日まで館山で仮泊したのち太平洋側を通って1月27日に安下へ到着し、1月29日13時より総務部で駆逐艦とともに射撃実験の打ち合わせに参加。1月31日瀬戸内海西部へ回航されて第11戦隊と合流した。しかし深刻な燃料不足から本格的な訓練は行えずから半日で行ける距離までしか行動出来ないなど乗組員の錬成に大きな支障が出た。

2月7日午前8時軽巡北上とともに安下を出発し、艦長が北上の元航長だった縁か北上艦長の示を受けながら四式水中聴音機の訓練を実施。日後は駆逐艦に横付けして燃料を供出した。2月9日午前8時から13時9分まで軽巡酒匂北上駆逐艦、波と出動訓練を行い、2月12日午前6時30分には安下を出発して大津方面に回航。回天基地の訓練に協力した。2月22日13時軽巡酒匂駆逐艦、欅、楢、波と安下を出港し、出動訓練をしながら本へ移動。翌日午前6時に同地を出発して2時間後にへと入港した。

3月4日17時30分にを出港して翌5日午前0時26分に訓練地の安下に投錨。と出動訓練を実施する。3月15日椿、欅、、楢からなる第53駆逐隊に編入され、3月22日午前9時佐を出港して1時間程度の航諸訓練に従事。3月25日に八泊地からへ回航されて第6艦隊の作業に協力。3月26日午前10時47分、連合艦隊アメリカ軍沖縄攻略の意図を確信し、第11戦隊と第31戦隊戦艦大和率いる第1遊撃部隊へ編入。全可動兵力は戦闘準備を整えたのち瀬戸内海西部での待機を命じて天一号作戦を発した。機動部隊を誘引を行うべく佐世保に回航される予定だったが、九州方面襲の的で機動部隊の方から接近してきたため4月3日午前7時35分に作戦中止。

4月7日午前10時2分に軽巡酒匂に率いられてを出発して八泊地へ移動。ところが二号試験中に換装管に四ヵ所の裂を発見し、急遽訓練を取りやめて応急修理ディーゼル発電機に防振用ゴム取り付け及び付属諸装置改良、耐熱器から漏していた機関修理と試運転を4月20日までに了させる。翌21日23時20分、第6艦隊から大津にて回天の標的艦を務めるよう要請があり、4月22日から25日にかけて回天の訓練に協力。

大湊警備府への異動

千島列島から兵員を乗せて撤退作戦中の船舶、内地へ石炭等の物資を運ぶ輸送護衛のため、5月7日に第53駆逐隊から大湊警備府部隊に抽出され、5月11日には直卒部隊へ編入。速やかな回航をめられる。2隻が抜けた修理を終えたばかりので補われた。

5月13日15時駆逐艦を出港して14ノットで瀬戸内海を西進。ところが翌14日、周防F6Fヘルキャット8機の襲撃を受けて対戦闘。実はの進む先に、大分の飛行場を襲して対空砲火で撃墜された空母ランドルフ所属のSB2Cヘルダイバーパイロット2名を乗せた救命艇が漂っており、それを発見したF6Fが2隻の注意を引くために襲い掛かって来たのである。幸いには被害は出なかったが伴走者のは機掃射で戦死者1名と重軽傷者4名を出した。関門海峡アメリカ軍によって機雷封鎖されていたため部崎で路掃を待ち、5月19日午後12時20分に部崎を出発、13時30分に峡を突破して日本海側へと進出し、5月21日16時に大へ入港。

既に日本本土近は敵潜水艦全包囲されている危機的状況で、一般の漁ですら容易には漁に出られないほど危険度が増す中、津軽海峡を往来する船舶の護衛や敵潜の掃討に従事。撃沈された生存者を救助したり、時には自身が雷撃の標的にされながらも爆雷攻撃で応戦するなど献身的に任務をこなし続けた。

大湊警備府より、占守島爆撃を受けて損傷した海防艦八丈の舞回航を支援するよう命じられ、6月11日午前4時とともに大を出港。津軽海峡西口の対潜を行いながら八丈と合流し、8ノットの速力で警護しつつ6月13日16時事舞へ送り届けた。その後、舞で整備を受けたのち待機する。

その頃、バーニー作戦により潜水艦9隻が対馬峡の機雷原を突破して日本海へ侵入し、大函館と繋がる航路を狙って通商破壊を開始、13隻の商伊122が犠牲となった。侵入にいちく気付いた帝國海軍舞鶴鎮守府大湊警備府上護衛総部から対潜部隊を投入して潜水艦狩りを実施。6月13日に発された大湊警備府信電作第57号でともども津軽防備部隊に編入、もまた日本海に潜む敵潜の掃討に加わる。翌14日、中に潜クレヴァルから雷撃を受けるも幸い命中しなかった。6月22日からは潜の日本海脱出を警して函館港を拠点に対潜掃討任務に従事。しかし6月25日深夜、撃沈されたボーンフィッシュを除く潜8隻の脱出を許した。

航続距離の関係で今まで東北及び北海道方面にはB-29が飛来していなかったが、6月26日未明に初めて津軽海峡に出現し、6月29日には津軽と大を偵察するかのようにめていくなど緊が高まり、また警警報の頻度も増えていった。7月1日に補給と打ち合わせのためと一緒に大へ寄港した後、再び函館で活動。

政府青函連絡船が維持出来るのは概ね2ヶと判断。7月11日から緊急輸送体制へと移行した。

たった1隻で敵機80機に立ち向かった御楯

1945年7月14日午前4時40分、大湊警備府から「敵機動部隊0450より0550、F6F三群6機40機15機、八戸三沢、大北海道地区に分かれて爆撃中」との通信が入り、10分後、が明けたばかりの警報が鳴りいた。近第38任務部隊から飛び立った敵機の大群約100機が北上してきたのである。

午前5時函館南方恐山より数え切れないほどの黒点が出現し、青函連絡船地の壊滅を狙って函館市に殺到。大湊警備府から管内を航行中の船舶に退避命が出された。函館山には台が設置されていたがそのどが対艦用だったための敵には力であり、高射砲は僅か3基のみしかなかった。このため花火を打ち上げてこけおどしせざるを得ず市民や港内のはただ逃げ惑う事しか出来ない。大防備隊戦時日誌戦闘詳報には「その攻撃法は執拗大胆を極め」「艦と名の付くものは其の大小種別を問わずいはいは爆撃によりその暴虐ぶりを遺憾なく発揮せり」とられている。

その中で戦闘力を有していたのは駆逐艦だけだった(は離れた渡島福島冲におり、他の特設艦艇も津軽海峡口の東西や室蘭等に散在していた)。当初米軍機はの存在に気付かず連絡地にばかり攻撃を加えていたという。午前5時40分、艦内で戦闘ラッパき、錨をチェーンで切断して緊急出港。軍艦旗を掲げたあと乗組員総員が配置についてによる撃を開始。ここに至ってようやく駆逐艦の存在に気付いて約80機の米軍機がに襲い掛かる。午前6時、抜錨したは8の字を描くように右へ左へ針路を変えながら最大速力で対戦闘誘爆を防ぐため魚雷爆雷は投棄された。抵抗の連絡と違って応戦してくるは脅威であり障りな存在。米軍機の矛先の大半はただ1隻に向けられ、1対数という絶望的な戦いが繰り広げられた。

最も有効なのは25mm三連装機4基だったとされ、これらが装備されている艦には敵機が近づけなかったのか命中弾がど出なかったが、それ以外の場所は凄惨であった。敵機は4~5機で1つのグループを作って波状攻撃を加え、それを全と対で迎撃するが、防ぎ切れずに機掃射を浴びて甲上の機員が次々と鮮血を噴き出しながら倒れる。いつの間にか床は血だまりで滑りやすくなっていた。苛なる撃ち合いの中、被弾したと思われる1機の米軍機が白線を引きながら地方面へと逃げていくのが見えた。の周囲には艦の高さに匹敵するほどの柱が高々と築かれたが、その柱を突き破るように移動して一時的なくらましに活用するなど巧みに敵を振り回す。本来であれば回避運動がしやすい湾外へ出るべきだが、港内の船舶と湾外の連絡2隻から敵機を釣り上げて守るため、敢えて湾内と外洋ので回避運動を取り続けた。

午前6時40分、至近弾により機関の1基が故障して速力が低下。そこへ直撃弾を喰らって航行不能となってしまい容赦のい機掃射が上甲の機員の命を奪う。動けなくなった駆逐艦はもはや敵機の格好の的に過ぎず、たちまち弾と爆弾の集中火を受け、午前6時50分に艦後部へ命中した2~3発の爆弾が致命傷となって右舷側へ傾斜。艦長は総員退艦を命して乗組員はに脱出。まだ敵機の攻撃を受けていなかったより「沈す。0653」という遺言を受信した。そして艦首を掲げながら5分ほどで沈没していった。を撃沈した敵機は地へ興味を移したため生存者への機掃射はかった。

から血のように流れ出たい重面に広がり、生存者の体もまたく塗り潰される。彼らは2時間の漂流を強いられたが潮流に乗って湾内へ運ばれた事、がぬるかった事、また港が近かった事が幸いして157名が地元の漁隊の上陸用舟艇に救助された。重傷者27名は臨時列車に停止してもらって移送し、軽傷者は後の列車を待ってから函館へ移動、傷の者は自力で歩いて民家に分宿した。しかし治療の甲斐なく死んでしまう者が続出し、最終的な生存者は全乗組員の半分である140名。海岸に流れ着いた遺体函館山埋葬されたという。この対戦闘で敵機6機撃墜、1機撃破の戦果を挙げた。

の撃沈に伴って函館港には戦える艦艇がゼロとなり、を失った青函連絡船は12隻中8隻が沈没、生き残ったも何かしらの損傷を負ってしまう。函館在勤海軍武官府は函館鉄道管理部に対し、翌日の襲に備えるべく港内の船舶を脱出させるよう要請したが、既に函館港に航行可はいなかった。青函連絡船の壊滅は北海道からの石炭輸送が途絶える事を意味し、函館襲を内の工場の稼働状況が一気に悪化した。7月15日、第53駆逐隊の解隊に伴って大湊警備府の警備駆逐艦となる(発のみ)。8月10日に除籍された。

ちなみに改丁14隻の中で撃沈されたのはだけだが、後に引き揚げられた不死鳥のように再就役した事を鑑みると、で撃沈されたのは実質だけとなる。

戦後

艦長は戦争を生き延びて海上自衛隊へ入隊、護衛艦うらなみの艦長を務めた。

の残骸はしばらく海底に放置されていたが、朝鮮戦争の特需や戦火からの復により需要の高いが多くめられるようになってきた。生き残った帝國海軍の艦艇は既に解体し終わっていたため本土近に眠る沈没艦にを向けられ、1956年9月からの引き揚げ作業を開始。12月18日体をっ二つに折って沈没していたが引き揚げられ、艦内にあった遺80柱を回収して函館市極楽寺に埋葬。高を睨むように最大仰、艦上には信管付きの弾が残されていたなど、撃沈される最後まで戦っていた事をわせる。死してなお日本に貢献したにこそ武勲艦の誉れが相応しいと言えよう。

1989年北海道新聞インタビューにて元艦長は「に立ち向かうカマキリ2匹()の戦いだった」「もし戦争終結が1ヶかったらと考えるのは歴史に対する冒涜だろうか」と述懐している。1991年7月14日、元乗組員たちの尽力によって函館神社内に「帝国海軍駆逐艦 之碑」が建立され、刻まれた碑文が当時の闘を後世に語り継ぐ。また護神社では毎年7月14日前後にの犠牲者を供養する慰霊祭が行われている。

2016年7月14日、撃沈から71年のこの日、の元機関科員である三留直高氏が救助活動をしてくれた茂別(現北斗市)の住民に謝意を示し、100万円を寄付した。彼は「学校漁業関係を中心に役立てて欲しい」と語っている。

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