ドイッチュラント級装甲艦単語

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ドイッチュラント級装甲艦とは、第二次世界大戦中のドイツの装甲艦である。

アドミラル・グラーフ・シュペー+ラングスドルフ艦長

概要

第一次世界大戦後、疲弊したドイツ海軍ヴェルサイユ条約によって、「排水量1万トン以下」「旧式戦艦代替に限り」装甲を施した軍艦の建造が許された。
という訳でその条約の制限ギリギリの中で開発された装甲艦である。

「装甲艦」という妙に旧態依然とした区分であるが、これはヴェルサイユ条約文の記載をそのまま使ったものであり、周辺への配慮の結果である。
この戦艦のようで戦艦でない奇妙な新艦は各からは豆戦車ならぬ「ポケット戦艦」と呼ばれた。
実質的には重巡洋艦といって差し支えなく、当のドイツ海軍も後に重巡洋艦に区分変更している。

ただだけは28cm戦艦級である。参考までに各重巡は20.3cmである。

設計

この制限の中でも最大限の高性艦にするべく、開発は頭を捻った。

プランAとりあえず戦艦作りたい」
38cm連装2基、15cm連装2基、8,8cm2基、艦舷装甲200mm、速度20ノット
(主がデカ過ぎて列強の反対に遭いそう)

プランB「しょうがねえから重巡っぽいのを」
21cm連装4基、8,8cm4基、艦舷装甲80mm、速度32ノット
(戦艦代替に21cmでは火力に不安が)

プランC「せめて30センチは下さい」
30,5cm連装3基、10,5cm単装高3基、艦舷装甲200mm、速度21ノット
(そんなの1万トンに収まるわけないわ!)

プランD「所謂ピンチですね」
30,5cm連装2基、15cm連装3基、8,8cm連装高3基、艦舷装甲150mm、速度24ノット
(悪くないけど4門じゃ射撃辛いでしょ。あと観測機も必要よね)

・決定稿(ドイツ妥協案は世界一ィィィィィッ!! 排水量オーバー? なんのことかな?)
28cm3連装2基、12,7cm連装高4基、艦舷装甲100mm、艦載機2機とカタパルト1基、速度28ノット

少しでも排水量を軽くし、強力なを搭載するためドイツの技術が惜しげもなく投入された。まずクルップ社が、電気溶接が可な全く新しい鋼材を開発。これを使ってリベットし、全面的に電気溶接を使用。これにより約15%の軽減を実現した。更なる軽量化を図るべくMAN社製のディーゼルエンジンを採用。蒸気タービンより機関員が少なく済むので、居住区画を削減して軽量化に繋がった。速力28ノットの快足と長大な航続距離を得たが、故障や振動に悩まされた。防御力だけは低かったが、それでも巧みな装甲の配置によって補われている。ドイツ海軍初の三連装を採用、火力を底上げした。排水量は1万1700トンオーバーしてしまったが、ドイツは「1万トン以下に抑えた」と喧伝している。よほど宣伝が上手だったのか、ドイッチュラント級の排水量に気が付いたのは1945年の時だった。

こうして出来上がったのは良く言えば「力で重巡に勝り、速度戦艦に勝る」艦であった。
だが逆に言えば「力で戦艦に劣り、速度重巡に劣る」なんとも微妙な艦なのだ。(元々コイツ戦艦代替である)
そのため身内からは「政治で造られた」「巡洋戦艦できそこない」と散々な酷評っぷりであった。

かしこの欧はこの艦に強く注した。
制限を課せられた設計(結局オーバーしたけど)でありながら戦艦に匹敵する巡洋戦艦並みの速度、そして何よりもディーゼル機関の採用による軽量化と長大な航続力(一般的な重巡の倍ほど。地球を半周以上できる)。防御力には触れないやさしさ
これは植民地との連絡線を数多く持つ欧州には看過できぬ性であった。

そしてフランスは本級への対抗のためにダンケルク戦艦の建造を承認。
そしてイタリアダンケルク級への対抗のためにコンテ・ディ・カブール戦艦カイト・ドゥイリオ戦艦近代化改装、ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造を承認。
そしてイギリスフッドレナウン戦艦近代化改装を……

と、本級の登場は海軍列強に思わぬ混乱を招いたのだった。

黒の装甲艦 - 1番艦 ドイッチュラント / リュッツォウ

ドイッチュラント級装甲艦1番艦ドイッチュラントDeutschland)は、1929年2月5日にドイチヴェルケ造所で起工。1931年5月19日、当時のヒンデンブル大統領によって進水式と命名式が行われ、ドイッチュラント体が台から水上へと滑り落ちた。グロエーネル防相は「今日が新海軍にとって最も重大な日である。この新しい戦艦世界の造技術界に一新紀元を劃するのみならず、実にドイツ民族の伝統的精神を徴する所のものである。祖国の名ドイッチュラント…嗚呼、何たる誇らかな名であろう。そしてこの名はが新海軍にとって、そもそも何を意味するものであろうか。」と祝辞を送り、多くの民衆から歓呼のが届いた。進後はクレーンでるして28cm三連装を搭載。1933年1月試を行い、出力4万8390力を記録。そして4月1日工した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を取ってから初めて工した戦艦だった。

ドイッチュラント工は遠く離れた日本でも取り上げられ、「豆戦艦」「袖(しゅうちん)戦艦」「海防戦艦」の名で報道された。またドイツ水上艦用のディーゼルエンジン電気溶接技術を実用化せしめた事で、大日本帝國海軍は技術の導入を試みようと潜水母大鯨の建造で実験を行った。しかしドイツの高い技術力に追随できず、失敗に終わってしまったエピソードがある。

さて、1933年4月1日工したドイッチュラント戦闘艦隊の旗艦に就任。戦闘訓練を行うとともに、ドイツの顔としてスウェーデンイギリス公式訪問している。列強の航空機発達を受け、1935年末にヴィルヘルムスハーフェン工へ入渠。対兵装を8.8cm連装3門に換装し、電波探信儀De-Te装置を搭載した事で対を大幅に向上させた。

スペイン内戦

1936年7月17日スペイン内戦が勃発。フラン将軍率いると共和政府軍が戦闘状態に入った。は短期決戦論んでいたが、政府軍の反撃により失敗。窮地に立たされたフラン将軍は同じファシスト国家であるドイツイタリアに救援をめ、快諾した独は次々に部隊を送り込んだ。7月24日ドイッチュラントはロルフ・カール中将が座乗する旗艦としてスペインに到着。コンドル軍団を初めとするドイツ軍部隊と協力して政府軍を攻めていたが、ドイッチュラント率いるドイツ艦隊は際的な不干渉と戦火に追われた難民の避難が主任務であった。姉妹アドミラル・シェーアとともに難民救助と避難の護衛に尽力した。その一方でファシズム同志たるフラン将軍秘密裏に支援し、共和軍艦隊の動向を監視。ドイツ艦隊の通報エスパルテル戦の勝因にもなった。他にも援助物資を積んだ輸送の護衛、政府軍の通信の傍受等を行っている。

1937年5月29日18時40分、バレアレスビザで停泊中のドイッチュラントに共和軍のツポレフSB-2爆撃機2機が夕日を背にして接近。対空砲火を放つも時既に遅し、2発の50kg爆弾が命中して中破させられてしまう。後の世に言うドイッチュラント号事件が発生し、最終的に31名が亡くなった。政府軍は「カナリアス(巡洋艦)と間違えた」と言い訳したが、中立トロールで自民を殺されたヒトラー総統ブチ切れ、報復として共和都市アルメリア撃を命アドミラル・シェーアと独駆逐艦4隻が地を撃して壊滅へと追いやった。中破したドイッチュラントは英領ジブラルタルで応急修理を受け、6月16日ヴィルヘルハーフェンへ帰投。10月5日スペインへ戻って任務に復帰した。1939年1月26日バルセロナを占領した事でスペイン内戦は終結。戦勝祝いとしてドイッチュラントは各都市を巡航して回った。

第二次世界大戦

1939年

1939年9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。開戦に備えて既に北大西洋に潜んでいたドイッチュラントは鋭利な牙で通商破壊を始めた。しかし開戦当初はヒトラー総統が英との和を望んでいたため攻撃が許されず、攻撃許可が下りたのは9月27日の事だった。

10月5日、バミューダ諸東方5600里にて英商ストーンゲート(5044トン)を発見。28cmを向けて停を呼びかけたが、遭難信号を発したため撃沈した。10月8日ハリファックスイギリス間の航路でティオブフリントを発見。相手は中立なので臨検したところ、戦時禁制品を運んでいる事が発覚。直ちに積み荷を収し、体を拿捕してドイツへ回航した(中でノルウェー海軍に捕まり、回航に失敗)。10月16日ニューファウンドランド東方ノルウェーの小貨物ローレンツ・W・ハンセンを発見。イギリス向けの木材を運搬していたため撃沈した。同日中デンマークを停させたが、入港先が中立だと判明し、ローレンツ・W・ハンセンの生存者を託して解放している。大西洋では英連合軍が血眼になってドイッチュラント行方を捜していたものの、悪を巧みに利用して索敵網を突破。11月15日キールへ帰投した。帰還後、「ドイツの名を冠した艦が撃沈されるのはまずい」というヒトラー総統の独断により、リュッツォウ(Lützow)へと改名した。

1940~1943年

1940年4月ヴェーザー演習作戦(ノルウェーデンマーク侵攻)に参加。元々はトロンヘイム攻略部隊に編入されていたが、作戦開始の10時間前にエンジン台座の裂が認められ、やむなく最も航行距離が短いオスロ攻略部隊(第5戦闘グループ)に転属した。4月6日アドミラル・ヒッパー重巡ブリュッヒャーに率いられてヴィルヘルムスハーフェンを出港。首都オスロをす。オスロへ至るには狭いドレーバクを抜けなければならず、中にはノルウェー軍の要塞や軍港が集中配備されていた。ラウエイ要塞とボレルネ要塞は視界不良である事を突いて航を点。味方と思わせる奇策で見事突破したが、4月9日午前5時20分にオスカシボルグ要塞から撃を受けて本格的な戦闘が生起。要塞設置魚雷の集中火を食らったブリュッヒャーがく間に沈し、リュッツオウも150mm弾3発を喰らって第二が使用不能にさせられるという思わぬ損を受ける。ここからリュッツォウの奮戦が始まった。まず撃沈されたブリュッヒャーに代わって臨時旗艦となり、味方艦艇を率いて台の射程圏外へ退避。応急修理で第二を復旧させるとともに、便乗していた歩兵艇に乗せて要塞制圧へと向かわせる。また突破に時間が掛かる事を想定し、山岳猟兵400名をソンス入江に上陸。陸路でオスロに向かうよう示した。ホルテン軍港制圧には雷艇アルバトロスコンドルを差し向けた。勇敢にも内燃機ノルデンが敵前に出て偵察すると申し出たので、リュッツォウは28cmで要塞を撃して援護。オスカシボルグ要塞は釘付けとなり、事ノルデンは情報を持ち帰ってきた。その後、要塞制圧に向かった歩兵がドレーバクのを占領した事でカホルム要塞が降アルバトロス等の活躍によりホルテン軍港や他の要塞も降し、オスロまでのを切り開いて見せた。オスロまで辿り着いたリュッツォウであったが、既に陸軍部隊によって占領が了。先を越された形となった。また、ドレーバクで足止めを受けたノルウェー王室は脱出に成功しており、占領統治における不安要素となった。それでもドレーバク突破の戦果は認められ、リュッツォウの艦長には十字勲章が授与された。

ドイツから帰を命じられ、オスロを出発。ところが4月11日午前1時29分、待ちせていた英潜水艦スピアフィッシュの雷撃を受け、4本中1本が艦尾に直撃して大破航行不能に陥ってしまう。幸いスピアフィッシュにもう魚雷かったため、トドメは刺されなかった。キールから救援に来た難救助航され、命からがらキールに入港。19名の戦死者を出した。直ちに修理が行われ、12月5日に出渠。

1941年6月10日駆逐艦5隻に護衛されてキールを出港。大西洋で通商破壊を行うべく、ノルウェートロンヘイムに向かった。ところが中の6月12日深夜、ボーフォー爆撃機20機に襲撃され、雷撃を受けて大破航行不能に陥る。駆逐艦航され、行き先をスタヴァンゲルに変更するが、相次ぐイギリス軍機の襲来で作戦の続行が不可能になり、6月14日午後にキールへ戻った。

1942年1月17日修理了。東部戦線季攻勢を支援するため、5月15日キールを出港。5月24日ノルウェー北部のナルヴィク近郊へ進出した。6月27日スパイからレイキャビクを出発したPQ17船団情報がもたらされる。これを攻撃するためレッセルシュプルンク作戦が発され、リュッツォウは7月3日に泊地を出撃した。ところが午前2時45分、濃霧に包まれたストルボーエン灯台で座礁事故を起こし、中破。この辺りは潮流がい魔の域だったのだ。戦う前から中破したリュッツォウは作戦に参加できなくなり、反転離脱。7月9日トロンヘイムへ回航されたが、応急修理が終わるまでディーゼル燃料が流出してを汚染してしまっている。意外と傷は深かったようで、8月12日シュヴィーネミュンデまで戻って修理を受けている。10月30日修理了。

リュッツォウの受難は続く。1942年12月30日18時、レーゲンボーゲン作戦に参加すべく重巡アドミラル・ヒッパー駆逐艦6隻とともに出撃。翌日、敵のJ5W1B団をバレンで捕捉してバレン戦が生起する。しかし現地は想像を絶する寒さとが支配しており、逃げる敵団に味方した。視界不良は終始ドイツ艦隊を振り回し、リュッツォウの撃も不正確なものにした。結局リュッツォウは敵駆逐艦オブデュリトを大破させた程度に留まり、商を1隻も仕留められないまま取り逃がした。この醜態はヒトラー総統の怒りを買い、レーダー提督更迭。更に水上艦艇を全て解体すると宣告したが、後任のデーニッツ提督の説得により撤回。解体だけは免れたが練習艦に格下げとなり、戦闘任務から外された。以降はイギリス艦隊を束縛する的でナルヴィクに停泊し続ける。

1943年9月22日駆逐艦4隻の護衛を伴ってアルテンフィヨルドを出港。9月29日キールへ入港、続いてゴーテンハーフェンのリエパーヤ所に回航され、10月1日に入渠。

1944年

1944年2月27日、出渠。バルトで士官学校練習艦やUボートの標的艦を務めた。6月9日ソ連軍がフィンランドへ侵攻。前々からフィンランドは単独講和しようとする動きを見せていたため、6月24日と27日にフィンランド湾でプリンツ・オイゲン魚雷艇3隻と演習フィンランド政府を威圧した。6月28日、ウトーに進出。フィンランドが降した時に備えて速にスールサーリを占領する予定だったが、リュティ大統領徹底抗戦を誓ったため帰投。ソ連軍の足音は、穏なはずのバルトにまで届きつつあった。

ソ連軍のバグラチオン作戦により中央軍集団が半壊。東部戦線の崩壊が始まり、ドイツ兵や難民が本へと逃げ出し始めた。この危機的状況を受け、デーニッツ提督は大艦の戦線復帰を懇願。ヒトラー総統許可を取り付け、戦闘グループを編成した。7月1日、リュッツォウはアドミラル・シェーアプリンツ・オイゲンアドミラル・ヒッパーとともに第2戦闘グループを結成。7月8日合同訓練を行った。8月9日、増大する敵機の脅威に対抗するためゴーテンハーフェンにて対兵装を強化。そして、リュッツォウ最後の晴れ舞台が始まった。

9月22日オーランド諸に進出。ついにソ連と講和したフィンランド内のドイツ軍を追い出し始め、撤退する味方を支援するため3日間に渡ってフィンランド軍を撃した。10月10日、中央軍集団と北方軍集団の連絡を断ったメーメルソ連軍に向けて艦砲射撃。スヴォルベ半島南部に追い詰められているドイツ陸軍を助けるため、陸軍の観測支援を受けながら36時間に渡ってソ連軍を撃。28cm304発、15cm292発、10.5cm282発、40mm単装機弾121発を叩き込んだ。同時に撤退の揮も執り、陸兵を待機中の団のもとへ導いた。28cmはどの野よりも強力だったため、ソ連軍に絶大な出血を強いた。11月23日、補給で後退するアドミラル・シェーアと入れ替わる形でメーメル方面のソ連軍を撃。弾切れになるまで撃ち続け、補給を終えたシェーアとヒッパーと交代してゴーテンハーフェンに向かった。リュッツォウらの活躍で助かった陸兵は非常に多く、グデーリア大将はデーニッツ提督感謝電報を打った。

12月末、東プロイセンの港町ピラウに移動。

1945年

1945年1月1日、リュッツォウはアドミラル・シェーアとともにピラウに停泊していた。小さな港町ピラウは東プロイセンの外港であり、首都ケーニヒスベルクから逃げ出してきた難民で溢れかえっていた。そこへソ連軍の弾が着弾し、敵の侵攻が近い事を知らしめる。少しでも時間を稼ぐためシェーアと艦砲射撃を行い、を飛び越えた弾はソ連軍の地に直撃した。1月20日、とうとう防衛線が破られてメーメルソ連軍が押し寄せた。堰を切るように侵入してきたソ連部隊の頭上に28cm弾が降り注いだ。リュッツォウから放たれた撃は、正確に第1バルト正面軍部隊を粉砕。予想以上にメーメルを持ちこたえさせたが、1月28日に失陥。2月8日魚雷艇3隻とともにソ連軍のエルビング地を撃。2月19日に再びピラウへ戻り、迫り来るソ連軍を撃して難民が脱出する時間を稼ぐ。3月23日プリンツ・オイゲンと協同でダンツィヒに迫るソ連軍を撃。大戦果を挙げたが、奮闘むなしく3月30日ダンツィヒも失った。出撃拠点だったゴーテンハーフェンにも侵攻が迫り、艦砲射撃で応戦。守備隊に立て直しの時間を与えたものの、4月7日に失陥。休む間もなく今度はヘラ半島で孤立中の陸軍の撤退支援に回り、熾撃でソ連軍を鈍らせつつ陸兵を乗せた小艦艇の護衛を行った。半年以上戦い続けてきたリュッツォウにとうとう限界が迫り、身は焼けただれていた。4月10日、補給のためシュヴィーネミュンデに入港。雷撃を警して深が浅いカイザーファールト運河に投錨した。

4月16日17時15分、イギリス空軍アブロランカスター爆撃機15機が襲来。この第617爆撃機中隊は1トン爆弾トールボーイ」を携えていた。護衛の駆逐艦対空砲火を上げて1機を撃墜するも、リュッツオウの30mに至近にトールボーイが着弾。桁外れの破壊力によりが損傷しただけでなく、艦底に大穴まで穿たれて左舷へ傾きながら大破着底。更に2発のトールボーイがそれぞれ前部と後部に突き刺さるというオーバーキルを喰らうも、幸い2発とも不発弾だった。だがを使用不能にするには十分だった。ついに身動きが取れなくなるリュッツォウだったが、闘志は消えていなかった。4月22日、新艦長として着任したランゲ中佐示により応急修理を開始。シュヴィーネミュンデにソ連軍が現れるのは時間の問題であり、それまでに戦闘が出来るよう修理しておかなければならなかった。工作艦の助力で突き刺さっていたトールボーイ2発を撤去し、救難の活躍で艦体を復元。艦底の大穴は多数の材木で塞いだ。不断の努力で前部の復旧に成功。4月27日には1台の発電機が復旧し、副群が息を吹き返した。

4月28日、突如鳴りいた警報ソ連軍の侵入を伝えた。何とか戦える状態になっていたリュッツォウの最後の戦いが幕を開けた。28cm哮を上げ、敵の重戦車や突入部隊を次々に撃破。30kmという長大な射程距離活用し、を飛び越えて後方のシュチェチンも攻撃。あまりの長距離撃にV1号飛行爆弾による攻撃と思われたほどだった。実に350発の弾を発射したが、5月1日に発電機の火災戦闘力を喪失してしまう。機弾に燃え移って火勢が強くなったため、ランゲ中佐は艦の放棄を命。のちに弾が誘爆したと思われる爆発音がいた。火災5月2日を迎えても止まらず、電気回路が焼き切れて頼みの前部も使用不能になってしまった。甲上に散らばった弾薬があちこちで誘爆し、消火不可能に見えた。乗組員はシュヴィーネミュンデに向かったが、徹底抗戦を命じられ、5月3日にリュッツォウのもとに戻った。不思議な事に、消火困難とされた火災自然鎮火していた。乗組員は一使える副武器抵抗を続けた。ところが同日、とうとうソ連軍の機関銃が届く距離にまで接近され、22時15分にランゲ中佐鹵獲を防ぐための爆破処分を決断。余っていた装イギリス軍の不発弾を集めて設置した。5月4日午前0時12分、爆発の炎がリュッツォウを包んだ。残された残骸はソ連軍に鹵獲された。

戦後

1946年ソ連海軍は自軍編入を試みようとリュッツオウにロシア語発音の「リュッツオフ」という名称を与え、浮揚してレニングラードに回航。9月26日バルト艦隊へ編入してモスボールを行った。1947年、第77救助隊が体の調を開始。結果、7月20日修理不能と判定され、バルトにて撃沈処分される事になった。

1947年7月22日、艦内に仕掛けられた爆弾により沈没

北海のバッカニア - 2番艦 アドミラル・シェーア

2番艦アドミラル・シェーアAdmiral Scheer)は1931年ヴィルヘルムスハーフェンで起工、1933年した。

1939年に英空軍のブレニム爆撃機爆撃を受け、500ポン爆弾3発を食らうがすべて不発であった。

改装後の1940年から通商破壊に出撃。
長大な航続力を活かし、インド洋・大西洋を荒らし回った。撃沈・拿捕した商は10万トンにも及ぶ。
また拿捕した補給冷蔵庫から数トンもの野菜を手に入れた際には友軍艦に惜しみなく分け与えたという。

1944年にはソル半島で退却中の友軍へ支援撃を二ヶに渡り敢行。
1945年4月、整備のために造所内にいるところへ300機以上もの英空軍機の夜襲を受け、横転沈没する。

戦後駐車場建設のために瓦礫ごと埋め立てられた。

誇り高き伯爵 - 3番艦 アドミラル・グラーフ・シュペー

3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーAdmiral Graf Spee)は1934年、故マクシミリアン・フォン・シュペー伯爵提督の孫により命名され進

1937年5月20日ジョージ六世の戴冠記念観艦式日本足柄フランスダンケルクらと共に参加。

1939年9月より通商破壊に従事。
この際、撃沈した商の乗組員を一人として死傷させることはなかったという。
順調に戦果をあげていくが、1939年12月英海軍の追跡艦隊に捕捉される。

「敵艦との戦闘の禁止」の厳命があったにも関わらずハンス・ラングスドルフ艦長(ナチ嫌いで有名)は砲雷撃戦を開始。ラプラタ沖海戦が勃発する。
数に勝る英艦隊の重巡クゼターを大破、軽巡エイジャックスを中破させるも、不用意に距離を詰めた戦い方で次々と被弾を許してしまう。
元々雷屋であったラングドルフ艦長は“ポケット戦艦ドイッチュラント級の特性を見誤っていたのだ。
ここにドイッチュラント級の速力の低さ、防御力の低さといった欠点が顕著に露呈した。だがなによりも広大な航続力を支えたディーゼル機関耐久性の低さが問題となった。
常温では性の高いディーゼル燃料を加熱し、液状化させるための装置のポンプが艦上に露出している上に非装甲であり、一発で使用不可能・航行不能になる危険性をんでいたのだ。

大破したシュペーに使える燃料はもはや16時間分しか残っていなかった。
シュペーは中立であるウルグアイに救援をめて逃げ込むが、ウルグアイイギリスの強いで、さらに英駐在大使の圧力により72時間での退去を宣告されてしまう。
それでは到底修理などできる訳もない。
おまけに港の外には英重巡カンバーランド、先ほど交戦したエイジャックス軽巡アキリーズが待ち構え、更に巡洋戦艦レナウン空母アーク・ロイヤルウルグアイに向かって急行中であった。

万策尽きたラングドルフ艦長はシュペーを港外に出すとその場で艦を自沈、総員退艦を命ずる。
彼自身は艦と運命を共にしようとしたが、彼を慕う乗組員たちに半ば引きずり出される形で救助。
逗留先のアルゼンチンで妻に別れの手紙を書いた後、ハーケンクロイツ旗ではなく旧ドイツ帝国海軍時代の旗に身を包み拳銃自殺を遂げた。

その後、報を受けたヒトラーラングドルフ艦長をしく罵ったが、葬儀には乗組員はもちろん捕虜となった英国人も数多く参列したという。

1942年3月スラバヤ沖海戦においてエクゼターは足柄によって撃沈された。

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ドイッチュラント級装甲艦

7 ななしのよっしん
2017/02/06(月) 14:30:42 ID: Cowdh0V8y1
こんなものを作らざるを得ないような事態に陥ってる時点で国家として詰んでる。どうしようもない
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8 ななしのよっしん
2017/05/15(月) 17:16:05 ID: EI4kARjtFU
実のところ、強行突破を決意していればシュペー号には生還のがあったとされてる。

>>7
排水量の上限が決まっていれば、後はドクトリンによってめられる的に沿って性を盛り付けしていくだけなので、条約重巡としてのドイッチュラント級は別に他の艦に劣ってはいない。
そもそも世界に三隻しか存在しない巡洋戦艦(内一隻は近代化改修を受けていない上、三隻とも航続範囲が狭い)に、広大大西洋で鉢合わせすることまで想定していたら一万トン艦の設計なんかできない。
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9 ななしのよっしん
2018/06/22(金) 17:18:25 ID: AQHPPE2Xy9
6inch一発事実上撃沈されたあまりにも終わってる防御力...
通商破壊艦専門艦としても全く役に立たないだろ
さすが「戦艦には撃ち負け、巡洋艦より遅い」
駄作だなw 迷軍艦に乗ろうに出ただけあるはww
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10 ななしのよっしん
2018/07/06(金) 20:17:39 ID: Cowdh0V8y1
WW1時代のフォンデアタン以下じゃね?
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11 ななしのよっしん
2019/08/14(水) 18:02:03 ID: kCAPYO8kKN
>>8
湾口をエイジャックス傷のアキリーズカンバーランドが封鎖していたんだけどそれを蹴散らすアテはあったの?
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12 ななしのよっしん
2019/09/08(日) 13:04:53 ID: 19PgjfJCjm
巡洋艦として見たバランスとしてはだけど、最強重巡デモインを相手にしても
装甲をぶち抜ける可性があると考えると、そう悪くはいと思えてくる不思議
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13 ななしのよっしん
2019/09/28(土) 02:06:41 ID: 5OX9IRZLyw
>>7
>>9
>>10
そもそもドイッチェランドは艦隊決戦を意図した軍艦じゃねーし(呆

この戦艦的はあくまでも通商破壊と自勢力下の航路の防衛維持が的だから、巡洋艦より優れた火力であれでそれで事足りたし、戦艦と戦う事は最初から想定してないから戦艦から逃げ切れる程度の速力があれば、それで十分な艦なのさ。

列強が豆戦艦をきっかけに海軍休日から、ちょっとした建艦競争時代に突入したのも「こんな艦が本植民地との間の航路を荒らしまわってはたまったもんじゃない。しかし今の巡洋艦で対処しきれないし戦艦では捕まえきれないかも」と考えたから。
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14 ななしのよっしん
2019/09/28(土) 02:16:08 ID: 5OX9IRZLyw
>>12
この艦はあくまでも「豆戦艦」で巡洋艦じゃないよ。だから巡洋艦と同じ使い方したら役には立たない。
3姉妹の中で一番活躍したアドミラル・シェーアが、この艦の運用思想を一番忠実に実行した艦だね。
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15 ななしのよっしん
2020/01/20(月) 12:47:14 ID: Cowdh0V8y1
>>12
重巡最弱クラスエクセターすら倒せなかったのにデモイン相手なんてとても
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16 ななしのよっしん
2023/09/03(日) 16:13:30 ID: MBzPt21Ovs
グラーフ・シュペー通商破壊任務のというか効果って、実際のところどれくらいあったんだろうか。
なんか、通商破壊任務ならUボートによる効果の方が高そうだし。
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