ドイッチュラント級装甲艦とは、第二次世界大戦中のドイツの装甲艦である。
概要
第一次世界大戦後、疲弊したドイツ海軍はヴェルサイユ条約によって、「排水量1万トン以下」「旧式戦艦の代替に限り」装甲を施した軍艦の建造が許された。
という訳でその条約の制限ギリギリの中で開発された装甲艦である。
「装甲艦」という妙に旧態依然とした区分であるが、これはヴェルサイユ条約文の記載をそのまま使ったものであり、周辺国への配慮の結果である。
この戦艦のようで戦艦でない奇妙な新型艦は各国からは豆戦車ならぬ「ポケット戦艦」と呼ばれた。
実質的には重巡洋艦といって差し支えなく、当のドイツ海軍も後に重巡洋艦に区分変更している。
ただ主砲だけは28cmと戦艦級である。参考までに各国の重巡は20.3cmである。
設計
この制限の中でも最大限の高性能艦にするべく、開発陣は頭を捻った。
・プランA「とりあえず戦艦作りたい」
38cm連装砲2基、15cm連装砲2基、8,8cm高角砲2基、艦舷装甲200mm、速度20ノット
(主砲がデカ過ぎて列強の反対に遭いそう)
・プランB「しょうがねえから重巡っぽいのを」
21cm連装砲4基、8,8cm高角砲4基、艦舷装甲80mm、速度32ノット
(戦艦の代替に21cm砲では火力に不安が)
・プランC「せめて30センチ砲は下さい」
30,5cm連装砲3基、10,5cm単装高角砲3基、艦舷装甲200mm、速度21ノット
(そんなの1万トンに収まるわけないわ!)
・プランD「所謂ピンチですね」
30,5cm連装砲2基、15cm連装砲3基、8,8cm連装高角砲3基、艦舷装甲150mm、速度24ノット
(悪くないけど主砲4門じゃ公算射撃し辛いでしょ。あと観測機も必要よね)
・決定稿(ドイツの妥協案は世界一ィィィィィッ!! 排水量オーバー? なんのことかな?)
28cm3連装砲2基、12,7cm連装高角砲4基、艦舷装甲100mm、艦載機2機とカタパルト1基、速度28ノット
少しでも排水量を軽くし、強力な主砲を搭載するためドイツの技術が惜しげもなく投入された。まずクルップ社が、電気溶接が可能な全く新しい鋼材を開発。これを使ってリベットを廃し、全面的に電気溶接を使用。これにより約15%の軽減を実現した。更なる軽量化を図るべくMAN社製のディーゼルエンジンを採用。蒸気タービンより機関員が少なく済むので、居住区画を削減して軽量化に繋がった。速力28ノットの快足と長大な航続距離を得たが、故障や振動に悩まされた。防御力だけは低かったが、それでも巧みな装甲の配置によって補われている。主砲はドイツ海軍初の三連装砲を採用、火力を底上げした。排水量は1万1700トンとオーバーしてしまったが、ドイツは「1万トン以下に抑えた」と喧伝している。よほど宣伝が上手だったのか、ドイッチュラント級の真の排水量に気が付いたのは1945年の時だった。
こうして出来上がったのは良く言えば「砲力で重巡に勝り、速度で戦艦に勝る」艦であった。
だが逆に言えば「砲力で戦艦に劣り、速度で重巡に劣る」なんとも微妙な艦なのだ。(元々コイツは戦艦の代替である)
そのため身内からは「政治で造られた船」「巡洋戦艦のできそこない」と散々な酷評っぷりであった。
しかしこの欧米諸国はこの艦に強く注目した。
制限を課せられた設計(結局オーバーしたけど)でありながら弩級戦艦に匹敵する主砲、巡洋戦艦並みの速度、そして何よりもディーゼル機関の採用による軽量化と長大な航続力(一般的な重巡の倍ほど。地球を半周以上できる)。防御力には触れないやさしさ
これは植民地との連絡線を数多く持つ欧州諸国には看過できぬ性能であった。
そしてフランスは本級への対抗のためにダンケルク級戦艦の建造を承認。
そしてイタリアはダンケルク級への対抗のためにコンテ・ディ・カブール級戦艦とカイト・ドゥイリオ級戦艦の近代化改装、ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造を承認。
そしてイギリスはフッドとレナウン級戦艦の近代化改装を……
黒の装甲艦 - 1番艦 ドイッチュラント / リュッツォウ
ドイッチュラント級装甲艦1番艦ドイッチュラント(Deutschland)は、1929年2月5日にドイチェヴェルケ造船所で起工。1931年5月19日、当時のヒンデンブルク大統領によって進水式と命名式が行われ、ドイッチュラントの船体が船台から水上へと滑り落ちた。グロエーネル国防相は「今日は我が新興海軍にとって最も重大な日である。この新しい戦艦は世界の造船技術界に一新紀元を劃するのみならず、実に我がドイツ民族の伝統的精神を象徴する所のものである。祖国の名ドイッチュラント…嗚呼、何たる誇らかな名であろう。そしてこの名は我が新興海軍にとって、そもそも何を意味するものであろうか。」と祝辞を送り、多くの民衆から歓呼の声が届いた。進水後はクレーンで吊るして28cm三連装主砲を搭載。1933年1月に公試を行い、出力4万8390馬力を記録。そして4月1日に竣工した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を取ってから初めて竣工した戦艦だった。
ドイッチュラントの竣工は遠く離れた日本でも取り上げられ、「豆戦艦」「袖珍(しゅうちん)戦艦」「超海防戦艦」の名で報道された。またドイツが水上艦用のディーゼルエンジンや電気溶接技術を実用化せしめた事で、大日本帝國海軍は技術の導入を試みようと潜水母艦大鯨の建造で実験を行った。しかしドイツの高い技術力に追随できず、失敗に終わってしまったエピソードがある。
さて、1933年4月1日に竣工したドイッチュラントは戦闘艦隊の旗艦に就任。戦闘訓練を行うとともに、ドイツの顔としてスウェーデンやイギリスに公式訪問している。列強の航空機発達を受け、1935年末にヴィルヘルムスハーフェン工廠へ入渠。対空兵装を8.8cm連装砲3門に換装し、電波探信儀De-Te装置を搭載した事で対空性能を大幅に向上させた。
スペイン内戦
1936年7月17日、スペイン内戦が勃発。フランコ将軍率いる国粋派と共和国政府軍が戦闘状態に入った。国粋派は短期決戦を目論んでいたが、政府軍の反撃により失敗。窮地に立たされたフランコ将軍は同じファシスト国家であるドイツとイタリアに救援を求め、快諾した独伊は次々に部隊を送り込んだ。7月24日、ドイッチュラントはロルフ・カールス中将が座乗する旗艦としてスペイン沖に到着。コンドル軍団を初めとするドイツ軍部隊は国粋派と協力して政府軍を攻めていたが、ドイッチュラント率いるドイツ艦隊は国際的な不干渉哨戒と戦火に追われた難民の避難が主任務であった。姉妹艦アドミラル・シェーアとともに難民救助と避難船の護衛に尽力した。その一方でファシズムの同志たるフランコ将軍を秘密裏に支援し、共和国軍艦隊の動向を監視。ドイツ艦隊の通報はエスパルテル岬沖海戦の勝因にもなった。他にも援助物資を積んだ輸送船の護衛、政府軍の通信の傍受等を行っている。
1937年5月29日18時40分、バレアレス諸島イビザ島沖で停泊中のドイッチュラントに共和国軍のツポレフSB-2爆撃機2機が夕日を背にして接近。対空砲火を放つも時既に遅し、2発の50kg爆弾が命中して中破させられてしまう。後の世に言うドイッチュラント号事件が発生し、最終的に31名が亡くなった。政府軍は「カナリアス(国粋派の巡洋艦)と間違えた」と言い訳したが、中立パトロールで自国民を殺されたヒトラー総統はブチ切れ、報復として共和派都市アルメリアの砲撃を命令。アドミラル・シェーアと独伊の駆逐艦4隻が市街地を砲撃して壊滅へと追いやった。中破したドイッチュラントは英領ジブラルタルで応急修理を受け、6月16日にヴィルヘルムハーフェンへ帰投。10月5日、スペイン沖へ戻って哨戒任務に復帰した。1939年1月26日に国粋派がバルセロナを占領した事でスペイン内戦は終結。戦勝祝いとしてドイッチュラントは各都市を巡航して回った。
第二次世界大戦
1939年
1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。開戦に備えて既に北大西洋に潜んでいたドイッチュラントは鋭利な爪牙で通商破壊を始めた。しかし開戦当初はヒトラー総統が英仏との和平を望んでいたため攻撃が許されず、攻撃許可が下りたのは9月27日の事だった。
10月5日、バミューダ諸島東方5600海里にて英商船ストーンゲート(5044トン)を発見。28cm主砲を向けて停船を呼びかけたが、遭難信号を発したため撃沈した。10月8日、ハリファックス・イギリス間の航路で米商船シティ・オブ・フリントを発見。相手は中立国の船なので臨検したところ、戦時禁制品を運んでいる事が発覚。直ちに積み荷を没収し、船体を拿捕してドイツ本国へ回航した(道中でノルウェー海軍に捕まり、回航に失敗)。10月16日、ニューファウンドランド東方でノルウェーの小型貨物船ローレンツ・W・ハンセンを発見。イギリス向けの木材を運搬していたため撃沈した。同日中にデンマーク商船を停船させたが、入港先が中立国だと判明し、ローレンツ・W・ハンセンの生存者を託して解放している。大西洋では英仏連合軍が血眼になってドイッチュラントの行方を捜していたものの、悪天候を巧みに利用して索敵網を突破。11月15日、キールへ帰投した。帰還後、「ドイツの名を冠した艦が撃沈されるのはまずい」というヒトラー総統の独断により、リュッツォウ(Lützow)へと改名した。
1940~1943年
1940年4月、ヴェーザー演習作戦(ノルウェー・デンマーク侵攻)に参加。元々はトロンヘイム攻略部隊に編入されていたが、作戦開始の10時間前にエンジン台座の亀裂が認められ、やむなく最も航行距離が短いオスロ攻略部隊(第5戦闘グループ)に転属した。4月6日夜、アドミラル・ヒッパー級重巡ブリュッヒャーに率いられてヴィルヘルムスハーフェンを出港。首都オスロを目指す。オスロへ至るには狭いドレーバク水道を抜けなければならず、道中にはノルウェー軍の要塞や軍港が集中配備されていた。ラウエイ要塞とボレルネ要塞は視界不良である事を突いて航海灯を点灯。味方と思わせる奇策で見事突破したが、4月9日午前5時20分にオスカシボルグ要塞から砲撃を受けて本格的な戦闘が生起。要塞砲と島岸設置魚雷の集中砲火を食らったブリュッヒャーが瞬く間に轟沈し、リュッツオウも150mm砲弾3発を喰らって第二砲塔が使用不能にさせられるという思わぬ損害を受ける。ここからリュッツォウの奮戦が始まった。まず撃沈されたブリュッヒャーに代わって臨時旗艦となり、味方艦艇を率いて砲台の射程圏外へ退避。応急修理で第二砲塔を復旧させるとともに、便乗していた歩兵を哨戒艇に乗せて要塞制圧へと向かわせる。また突破に時間が掛かる事を想定し、山岳猟兵400名をソンス入江に上陸。陸路でオスロに向かうよう指示した。ホルテン軍港制圧には水雷艇アルバトロスとコンドルを差し向けた。勇敢にも内燃機船ノルデンが敵前に出て偵察すると申し出たので、リュッツォウは28cm主砲で要塞を砲撃して援護。オスカシボルグ要塞は釘付けとなり、無事ノルデンは情報を持ち帰ってきた。その後、要塞制圧に向かった歩兵がドレーバクの街を占領した事でカホルム要塞が降伏。アルバトロス等の活躍によりホルテン軍港や他の要塞も降伏し、オスロまでの道を切り開いて見せた。オスロまで辿り着いたリュッツォウであったが、既に陸軍の空挺部隊によって占領が完了。先を越された形となった。また、ドレーバク水道で足止めを受けた影響でノルウェー王室は脱出に成功しており、占領統治における不安要素となった。それでもドレーバク突破の戦果は認められ、リュッツォウの艦長には鉄十字勲章が授与された。
ドイツ本国から帰国を命じられ、オスロを出発。ところが4月11日午前1時29分、待ち伏せていた英潜水艦スピアフィッシュの雷撃を受け、4本中1本が艦尾に直撃して大破航行不能に陥ってしまう。幸いスピアフィッシュにもう魚雷が無かったため、トドメは刺されなかった。キールから救援に来た海難救助船に曳航され、命からがらキールに入港。19名の戦死者を出した。直ちに修理が行われ、12月5日に出渠。
1941年6月10日、駆逐艦5隻に護衛されてキールを出港。大西洋で通商破壊を行うべく、ノルウェーのトロンヘイムに向かった。ところが道中の6月12日深夜、ボーフォート爆撃機20機に襲撃され、雷撃を受けて大破航行不能に陥る。駆逐艦に曳航され、行き先をスタヴァンゲルに変更するが、相次ぐイギリス軍機の襲来で作戦の続行が不可能になり、6月14日午後にキールへ戻った。
1942年1月17日、修理完了。東部戦線の夏季攻勢を支援するため、5月15日にキールを出港。5月24日、ノルウェー北部のナルヴィク近郊へ進出した。6月27日、スパイからレイキャビクを出発したPQ17船団の情報がもたらされる。これを攻撃するためレッセルシュプルンク作戦が発令され、リュッツォウは7月3日に泊地を出撃した。ところが午前2時45分、濃霧に包まれたストルボーエン灯台沖で座礁事故を起こし、中破。この辺りは潮流が早い魔の海域だったのだ。戦う前から中破したリュッツォウは作戦に参加できなくなり、反転離脱。7月9日にトロンヘイムへ回航されたが、応急修理が終わるまでディーゼル燃料が流出して海を汚染してしまっている。意外と傷は深かったようで、8月12日にシュヴィーネミュンデまで戻って修理を受けている。10月30日、修理完了。
リュッツォウの受難は続く。1942年12月30日18時、レーゲンボーゲン作戦に参加すべく重巡アドミラル・ヒッパーや駆逐艦6隻とともに出撃。翌日、敵のJ5W1B船団をバレンツ海で捕捉してバレンツ海海戦が生起する。しかし現地は想像を絶する寒さと霧が支配しており、逃げる敵船団に味方した。視界不良は終始ドイツ艦隊を振り回し、リュッツォウの砲撃も不正確なものにした。結局リュッツォウは敵駆逐艦オブデュリトを大破させた程度に留まり、商船を1隻も仕留められないまま取り逃がした。この醜態はヒトラー総統の怒りを買い、レーダー提督を更迭。更に水上艦艇を全て解体すると宣告したが、後任のデーニッツ提督の説得により撤回。解体だけは免れたが練習艦に格下げとなり、戦闘任務から外された。以降はイギリス本国艦隊を束縛する目的でナルヴィクに停泊し続ける。
1943年9月22日、駆逐艦4隻の護衛を伴ってアルテンフィヨルドを出港。9月29日にキールへ入港、続いてゴーテンハーフェンのリエパーヤ造船所に回航され、10月1日に入渠。
1944年
1944年2月27日、出渠。バルト海で士官学校の練習艦やUボートの標的艦を務めた。6月9日、ソ連軍がフィンランドへ侵攻。前々からフィンランドは単独講和しようとする動きを見せていたため、6月24日と27日にフィンランド湾でプリンツ・オイゲンや魚雷艇3隻と演習。フィンランド政府を威圧した。6月28日、ウトー島近海に進出。フィンランドが降伏した時に備えて迅速にスールサーリ島を占領する予定だったが、リュティ大統領が徹底抗戦を誓ったため帰投。ソ連軍の足音は、平穏なはずのバルト海にまで届きつつあった。
ソ連軍のバグラチオン作戦により中央軍集団が半壊。東部戦線の崩壊が始まり、ドイツ兵や難民が本国へと逃げ出し始めた。この危機的状況を受け、デーニッツ提督は大型艦の戦線復帰を懇願。ヒトラー総統の許可を取り付け、戦闘グループを編成した。7月1日、リュッツォウはアドミラル・シェーア、プリンツ・オイゲン、アドミラル・ヒッパーとともに第2戦闘グループを結成。7月8日に合同訓練を行った。8月9日、増大する敵機の脅威に対抗するためゴーテンハーフェンにて対空兵装を強化。そして、リュッツォウ最後の晴れ舞台が始まった。
9月22日、オーランド諸島近海に進出。ついにソ連と講和したフィンランドは国内のドイツ軍を追い出し始め、撤退する味方を支援するため3日間に渡ってフィンランド軍を砲撃した。10月10日、中央軍集団と北方軍集団の連絡を断ったメーメルのソ連軍に向けて艦砲射撃。スヴォルベ半島南部に追い詰められているドイツ陸軍を助けるため、陸軍の観測支援を受けながら36時間に渡ってソ連軍を砲撃。28cm砲弾304発、15cm砲弾292発、10.5cm砲弾282発、40mm単装機銃弾121発を叩き込んだ。同時に撤退の指揮も執り、陸兵を待機中の船団のもとへ導いた。28cm主砲はどの野砲よりも強力だったため、ソ連軍に絶大な出血を強いた。11月23日、補給で後退するアドミラル・シェーアと入れ替わる形でメーメル方面のソ連軍を砲撃。弾切れになるまで撃ち続け、補給を終えたシェーアとヒッパーと交代してゴーテンハーフェンに向かった。リュッツォウらの活躍で助かった陸兵は非常に多く、グデーリアン大将はデーニッツ提督に感謝の電報を打った。
1945年
1945年1月1日、リュッツォウはアドミラル・シェーアとともにピラウに停泊していた。小さな港町ピラウは東プロイセンの外港であり、首都ケーニヒスベルクから逃げ出してきた難民で溢れかえっていた。そこへソ連軍の砲弾が着弾し、敵の侵攻が近い事を知らしめる。少しでも時間を稼ぐためシェーアと艦砲射撃を行い、街を飛び越えた砲弾はソ連軍の陣地に直撃した。1月20日、とうとう防衛線が破られてメーメルにソ連軍が押し寄せた。堰を切るように侵入してきたソ連軍部隊の頭上に28cm砲弾が降り注いだ。リュッツォウから放たれた砲撃は、正確に第1バルト正面軍部隊を粉砕。予想以上にメーメルを持ちこたえさせたが、1月28日に失陥。2月8日、魚雷艇3隻とともにソ連軍のエルビング陣地を砲撃。2月19日に再びピラウへ戻り、迫り来るソ連軍を砲撃して難民が脱出する時間を稼ぐ。3月23日、プリンツ・オイゲンと協同でダンツィヒに迫るソ連軍を砲撃。大戦果を挙げたが、奮闘むなしく3月30日にダンツィヒも失った。出撃拠点だったゴーテンハーフェンにも侵攻が迫り、艦砲射撃で応戦。守備隊に立て直しの時間を与えたものの、4月7日に失陥。休む間もなく今度はヘラ半島で孤立中の陸軍の撤退支援に回り、熾烈な砲撃でソ連軍を鈍らせつつ陸兵を乗せた小型艦艇の護衛を行った。半年以上戦い続けてきたリュッツォウにとうとう限界が迫り、砲身は焼けただれていた。4月10日、補給のためシュヴィーネミュンデに入港。雷撃を警戒して水深が浅いカイザーファールト運河に投錨した。
4月16日17時15分、イギリス空軍のアブロランカスター爆撃機15機が襲来。この第617爆撃機中隊は1トン爆弾「トールボーイ」を携えていた。護衛の駆逐艦が対空砲火を上げて1機を撃墜するも、リュッツオウの30mに至近にトールボーイが着弾。桁外れの破壊力により竜骨が損傷しただけでなく、艦底に大穴まで穿たれて左舷へ傾きながら大破着底。更に2発のトールボーイがそれぞれ前部砲塔と後部砲塔に突き刺さるというオーバーキルを喰らうも、幸い2発とも不発弾だった。だが主砲を使用不能にするには十分だった。ついに身動きが取れなくなるリュッツォウだったが、闘志は消えていなかった。4月22日、新艦長として着任したランゲ中佐の指示により応急修理を開始。シュヴィーネミュンデにソ連軍が現れるのは時間の問題であり、それまでに戦闘が出来るよう修理しておかなければならなかった。工作艦の助力で突き刺さっていたトールボーイ2発を撤去し、救難船の活躍で艦体を復元。艦底の大穴は多数の材木で塞いだ。不断の努力で前部主砲の復旧に成功。4月27日には1台の発電機が復旧し、副砲群が息を吹き返した。
4月28日早朝、突如鳴り響いた警報がソ連軍の侵入を伝えた。何とか戦える状態になっていたリュッツォウの最後の戦いが幕を開けた。28cm主砲が咆哮を上げ、敵の重戦車や突入部隊を次々に撃破。30kmという長大な射程距離を活用し、湖を飛び越えて後方のシュチェチンも攻撃。あまりの長距離砲撃にV1号飛行爆弾による攻撃と思われたほどだった。実に350発の主砲弾を発射したが、5月1日夜に発電機の火災で戦闘能力を喪失してしまう。機銃弾に燃え移って火勢が強くなったため、ランゲ中佐は艦の放棄を命令。のちに主砲弾が誘爆したと思われる爆発音が響いた。火災は5月2日の朝を迎えても止まらず、電気回路が焼き切れて頼みの前部主砲も使用不能になってしまった。甲板上に散らばった弾薬があちこちで誘爆し、消火は不可能に見えた。乗組員はシュヴィーネミュンデに向かったが、徹底抗戦を命じられ、5月3日朝にリュッツォウのもとに戻った。不思議な事に、消火困難とされた火災が自然鎮火していた。乗組員は唯一使える副砲郡を武器に抵抗を続けた。ところが同日夜、とうとうソ連軍の機関銃が届く距離にまで接近され、22時15分にランゲ中佐は鹵獲を防ぐための爆破処分を決断。余っていた装薬やイギリス軍の不発弾を集めて設置した。5月4日午前0時12分、爆発の炎がリュッツォウを包んだ。残された残骸はソ連軍に鹵獲された。
戦後
1946年春、ソ連海軍は自軍編入を試みようとリュッツオウにロシア語発音の「リュッツオフ」という名称を与え、浮揚してレニングラードに回航。9月26日にバルト艦隊へ編入してモスボールを行った。1947年、第77救助隊が船体の調査を開始。結果、7月20日に修理不能と判定され、バルト海にて撃沈処分される事になった。
北海のバッカニア - 2番艦 アドミラル・シェーア
2番艦アドミラル・シェーア(Admiral Scheer)は1931年ヴィルヘルムスハーフェンで起工、1933年進水した。
1939年に英空軍のブレニム爆撃機の爆撃を受け、500ポンド爆弾3発を食らうがすべて不発であった。
改装後の1940年から通商破壊に出撃。
長大な航続力を活かし、インド洋・大西洋を荒らし回った。撃沈・拿捕した商船は10万トンにも及ぶ。
また拿捕した補給船の冷蔵庫から数百トンもの肉・野菜・卵を手に入れた際には友軍艦に惜しみなく分け与えたという。
1944年にはソルブ半島で退却中の友軍へ支援砲撃を二ヶ月に渡り敢行。
1945年4月、整備のために造船所内にいるところへ300機以上もの英空軍機の夜襲を受け、横転沈没する。
誇り高き伯爵 - 3番艦 アドミラル・グラーフ・シュペー
3番艦アドミラル・グラーフ・シュペー(Admiral Graf Spee)は1934年、故マクシミリアン・フォン・シュペー伯爵提督の孫娘により命名され進水。
1937年5月20日、ジョージ六世の戴冠記念観艦式に日本の足柄やフランスのダンケルクらと共に参加。
1939年9月より通商破壊に従事。
この際、撃沈した商船の乗組員を誰一人として死傷させることはなかったという。
順調に戦果をあげていくが、1939年12月に英海軍の追跡艦隊に捕捉される。
「敵艦との戦闘の禁止」の厳命があったにも関わらず、ハンス・ラングスドルフ艦長(ナチ嫌いで有名)は砲雷撃戦を開始。ラプラタ沖海戦が勃発する。
数に勝る英艦隊の重巡エクゼターを大破、軽巡エイジャックスを中破させるも、不用意に距離を詰めた戦い方で次々と被弾を許してしまう。
元々水雷屋であったラングスドルフ艦長は“ポケット戦艦”ドイッチュラント級の特性を見誤っていたのだ。
ここにドイッチュラント級の速力の低さ、防御力の低さといった欠点が顕著に露呈した。だがなによりも広大な航続力を支えたディーゼル機関の耐久性の低さが問題となった。
常温では粘性の高いディーゼル燃料を加熱し、液状化させるための装置のポンプが艦上に露出している上に非装甲であり、砲弾一発で使用不可能・航行不能になる危険性を孕んでいたのだ。
大破したシュペーに使える燃料はもはや16時間分しか残っていなかった。
シュペーは中立国であるウルグアイに救援を求めて逃げ込むが、ウルグアイはイギリスの影響の強い国で、さらに英駐在大使の圧力により72時間での退去を宣告されてしまう。
それでは到底修理などできる訳もない。
おまけに港の外には英重巡カンバーランド、先ほど交戦したエイジャックスと軽巡アキリーズが待ち構え、更に巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルがウルグアイに向かって急行中であった。
万策尽きたラングスドルフ艦長はシュペーを港外に出すとその場で艦を自沈、総員退艦を命ずる。
彼自身は艦と運命を共にしようとしたが、彼を慕う乗組員たちに半ば引きずり出される形で救助。
逗留先のアルゼンチンで妻に別れの手紙を書いた後、ハーケンクロイツ旗ではなく旧ドイツ帝国海軍時代の旗に身を包み拳銃自殺を遂げた。
その後、報を受けたヒトラーはラングスドルフ艦長を激しく罵ったが、葬儀には乗組員はもちろん捕虜となった英国人も数多く参列したという。
1942年3月、スラバヤ沖海戦においてエクゼターは足柄によって撃沈された。
関連作品
動画
関連項目
- ドイッチュラント / アドミラル・シェーア / アドミラル・グラーフ・シュペー
- ドイツ
- 第二次世界大戦
- 重巡洋艦
- 軍事/軍事関連項目一覧/軍用艦艇の一覧
- ハンス・ラングスドルフ
- シュペー奮闘記(iM@S架空戦記シリーズ。作中に3番艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」が登場、ダンケルクの惨劇を切っ掛けとするドイツ大躍進の原動力となり、ドイツ勝利の立役者となる。)
- ハイスクール・フリート(プロダクションアイムズ / A-1 Pictures 制作のアニメ作品。作中に3番艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」が登場)
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