ワルシャワ蜂起とは、第二次世界大戦中の1944年8月1日から10月2日にかけて行われたポーランド人の反乱である。しかし支援するはずの米英とソ連が連携するどころか足を引っ張りまくったため、ドイツ軍に鎮圧されて失敗。犠牲者を大量に出すだけで終わった。
概要
背景
1939年9月1日、ポーランドは西方よりドイツ軍の侵攻を受ける。更に9月17日には東からソ連軍が攻め寄せ、強国に挟撃されたポーランドは10月5日に降伏。政府はルーマニアを経由してイギリスへと亡命した。ポーランドの領土はドイツとソ連によって仲良く分割統治されたが、1941年6月22日に発動したバルバロッサ作戦(独ソ戦)によって全土がドイツの支配下に収まった。長らくポーランドはドイツに支配されていたが、水面下では「ポーランド国内軍」と呼ばれるパルチザン勢力がロンドンの亡命政府の協力を受けて活動。東部戦線へのドイツ軍部隊移送を拒否したり、ゲリラ戦を仕掛けて約15万人の枢軸軍の兵士を殺害するなどドイツ軍を悩ませていた。
1943年秋、ポーランドはソ連軍によって解放される事が決まった。カティンの森事件でポーランド軍捕虜を虐殺したソ連にブチ切れた亡命政府は断交を発表しており、亡命政府とソ連の共闘路線は最初から存在しなかった。それどころかソ連はポーランドの赤化を企んでおり、自国に忠実な傀儡政権を打ち立てようとしていた。水面下でポーランドの領土を巡る亡命政府vsソ連の戦いが幕を開けた。
1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を開始。一大反攻によって東部戦線は崩壊し、ドイツ軍は急速に西方へと後退していった。7月21日、ソ連は共産主義者で構成されたポーランド国民解放委員会を設立。7月29日夕刻にモスクワからのラジオで蜂起を呼びかけた事で国内軍、亡命政府ともに共産化の危険を感じ取る。敵はドイツ軍だけではなかった。そして、8月1日にソ連軍がポーランドの国内に突入した。占領地域に親ソ政権が樹立される事を恐れたロンドンのポーランド亡命政府は、ポーランド国内軍に決起を呼びかけた(異説ではソ連軍側から呼びかけられたとも)。同日17時にポーランド国内軍5万人が首都ワルシャワで蜂起。女性や子供まで国内軍に加わり、ワルシャワ市民ほぼ全員が国内軍に加入。ドイツ軍と交戦状態に入った。かつて祖国を占領したソ連と手を組む事には疑問の声もあったが、ともかく眼前のドイツ軍をやっつける事を優先。
ワルシャワに駐留していたドイツ軍の戦力は約1万2000名だったが、大半が治安維持を目的とした部隊であり戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン投擲兵連隊1000名のみと数の上では圧倒的劣勢だった。ワルシャワ蜂起の報を受けたヒトラー総統は激怒し、国内軍の弾圧をヒムラーに命じてカミンスキー旅団とSS特別連隊を派遣した。
経過
蜂起した国内軍は要所の占領を目指して攻撃を仕掛けたが、彼らの弱点は武器の不足であった。備蓄していた武器は1944年春にドイツ軍に摘発されており、攻撃力が弱化。8月1日時点の武装はピストル3846丁、ライフル2629丁、機関銃657丁、重機関銃47丁、対戦車ライフル29丁、迫撃砲16丁、手榴弾4万3971個、対戦車手榴弾416発等だった。とても5万人以上いる兵士に行き渡らず、このため多くの国内軍兵はツルハシ、斧、バール等で武装していた。戦闘で国内軍兵2000名近くが死傷、ドイツ軍は500名の戦死者を出した。多くの武器を失ったが、それでもドイツ軍の補給所を奪取し、戦利品として軍服や銃器類を入手。両軍ともドイツ軍の軍服を着る事になったため、識別のため国内軍の兵はポーランド国旗を模した腕章やワッペンを用いた。またワルシャワ市民は国内軍に協力し、ドイツ軍の反撃に備えてバリケード作りを手伝ってくれた。8月2日、連合軍が空中投下した補給物資や、ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー2輌の鹵獲によって武器不足が若干解消された。前日の戦闘でドイツ軍の士気が低かった事、蜂起をワルシャワ市民が受け入れた事で戦局は国内軍有利に傾く。
一方、ワルシャワ蜂起の一報はヒトラー総統の耳にも届いた。総統は空軍によるワルシャワ爆撃を命じたが、市内には依然ドイツ軍の関連施設や兵士が残っていて避難も難しかったので、武装親衛隊のハインリヒ・ヒムラーとエーリヒ・フォン・デム・バッハ上級SS大将に鎮圧を命じた。8月3日に鎮圧軍司令官のバッハ上級SS大将が現地入り。戦況は国内軍に有利で、警察署や郵便局でドイツ軍部隊が包囲下で敢闘していたものの、8月4日に市のほぼ全域が国内軍に掌握された。これでは各個撃破されると判断したバッハ上級SS大将は部隊をかき集め、8月5日より攻勢に出た。8月7日に市内の国内軍を分断し、包囲されていた部隊の救出に成功。しかし国内軍の強烈な抵抗を受けて進撃が滞り、また風紀が悪いカミンスキー旅団の略奪行為がワルシャワ市民の戦意を煽るなど凶報が次々に飛び込む。バッハ上級SS大将は民間人の殺害を禁じたが、以降も兵士による殺害は続けられた。更にソ連軍はワルシャワに向けて進撃を続けており、米英も国内軍を支援する動きを見せるなど蜂起は成功するかに見えた。
ところが8月上旬、ワルシャワに向かっていたソ連軍は突如ウィスワ川の対岸で停止。ルーマニア方面へと転進し始めたのである。ソ連軍は国内軍の態度(軍事的には反独、政治的には反ソ)を見抜いており、国内軍を見捨てたのである。米英は国内軍用の補給物資を空中投下しようとしたが、ソ連側が飛行場の使用許可を出さず、支援の手は完全に止められる事となった。米英とソ連が揉めている様子を見たヒトラー総統は「ソ連の援軍は来ない」と確信したという。ドイツ軍は体勢を立て直し、国内軍を攻撃。だが国内軍も8月19日に反撃を行い、電話局を占領。ドイツ兵120名を捕虜とした。ウィスワ川にいるソ連軍は静観を続けていたが、ポーランド人で構成された第1ポーランド軍のみが渡河を許され、国内軍の支援を行った。しかしソ連軍は全くと言って良いほど第1ポーランド軍を援助せず、ワルシャワに向かった同部隊もドイツ軍の妨害に遭って到着できなかった。
連合国からの再三の支援要請を受けてもソ連軍は拒否し続けた上、支援活動の妨害すら行った。このため国内軍は徐々に追い詰められていく。重火器、戦車、火炎放射器の前では徒手空拳の国内軍は全く歯が立たなかった。特にカミンスキー旅団の略奪や残虐行為は目に余るほどだったため、8月27日にヒムラーはカミンスキー旅団長の処刑を許可した。旅団長は呼び出しを受けた際に射殺された。8月31日、国内軍は支配していた北区を放棄し、地下道を通って南区に退却する。9月中旬、ソ連軍はようやく重い腰を上げ、ウィスワ川対岸のドイツ軍橋頭堡を陥落させる。そして飛行場の使用許可を出し、米英は補給物資を続々と投下させたが、既に国内軍は虫の息であり手遅れだった。
ポーランド国内軍は蜂起に失敗し、10月2日に降伏。ドイツ軍に敗れて20万人(国内軍兵は1万6000名)の犠牲者を出した。ドイツ軍は報復としてワルシャワ全市の破壊を行い、蜂起に加担した市民はテロリスト扱いを受けて処刑された。同時に70万の市民も追放処分を受けた。ドイツ側の損害は戦死2000名に留まった。ソ連軍は1945年1月12日に進撃を再開し、1月17日に廃墟と化したワルシャワを占領した。
結果
戦後を見据えた権力闘争によりポーランド国内軍はソ連に見捨てられ、そして敗れた。仮に米英と足並みを揃えていれば1944年中にポーランドは解放されていたと思われる。
蜂起の失敗によりロンドンの亡命政府は弱体化。ワルシャワの建物は8割破壊される羽目になり、歴史的建造物や文書の多くが失われた。ソ連の裏切り行為に激怒した国内軍の残党は地下や郊外の森に潜伏し、今度はワルシャワに進駐したソ連軍を相手にゲリラを仕掛けた。反ソ感情の激化からか、亡命政府情報部は機密情報であるソ連の対日参戦を日本に密告している。戦争が終わった1945年5月8日に、青年が共産党の幹部1名を射殺。犯人も射殺されたが、その後も共産政府の要人を殺害し続け、ソ連から「呪われた兵士」と恐れられた。この出来事はポーランドに反ソ意識を徹底的に植え付けたとされる。
毎年8月1日17時にサイレンが鳴り響き、ワルシャワ市民は1分間の黙祷を捧げるという。あまりの犠牲の大きさに、現在でも蜂起の正当性について議論が交わされている。
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関連項目
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