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山内一弘(1932年5月1日~2009年2月2日)とは、愛知県出身の元プロ野球選手(外野手)である。旧名は「山内和弘」。
現役時代は毎日大映オリオンズ、阪神タイガース、広島東洋カープに所属。現役引退後は、読売ジャイアンツ、阪神、オリックス・ブルーウェーブ、ヤクルトスワローズなどでコーチを務めたほか、ロッテ、中日ドラゴンズでは監督を務めていた。
通称は「打撃の職人」「シュート打ちの名人」「教え魔」など様々なものがある。
概要
OB | |
---|---|
山内一弘 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県一宮市 |
生年月日 | 1932年5月1日 |
没年月日 | 2009年2月2日 |
身長 体重 |
175cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1952年 |
引退 | 1970年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
意外にも高校時代は野手ではなく投手であり、野球自体も硬式ではなく軟式だった。
高校2年生の時には中日の入団テストを受けるが不合格、翌年には三重のノンプロのテストも受けたがこれも不合格となり、結局社会人野球の川崎紡績に入社することになる。ここで山内は打者に転向してその打撃センスを開花させるが、プロのスカウトからはあまり注目されなかった。しかし、1952年に毎日オリオンズのテストを受けて合格し無事プロ野球選手になることが出来た。
プロ入り後
テスト入団にも関わらず、1952年(1年目)から44試合に出場し打率.336を記録する。1953年(2年目)には72試合に出場、そして3年目の1954年には開幕から4番に座って全試合に出場し、打率.308、28本塁打97打点の成績で打点王に輝き、早くもレギュラーの座を手にする。
1955年には、137試合で打率.325、26本塁打99打点の成績で再び打点王を獲得、またこの年は日米野球にも出場、日本は初来日したニューヨーク・ヤンキースに1分15敗という容赦なくフルボッコされた成績だったが、当時の監督だったケーシー・ステンゲルは帰国の際、日本で印象に残った選手はいるかという質問に、「打者なら山内だ。メジャーでも通用すると思う。」と山内を高く評価した。
1956年は前年よりマークが激しくなりやや成績を落とすが、マークされた勲章か、それまで2度しか受けなかった敬遠をこの年だけでリーグ最多の17敬遠を受けた。
1957年は打率.331で初の首位打者を獲得するが、1958年はチームの名称が毎日から大毎に変わる中、故障で76試合の出場に終わる。
1959年、この年の山内は今までにないほどの絶好調で、「戦後初の三冠王か」といわれるほどの好調をキープしていたが8月27日の近鉄戦にて相手投手のグレン・ミケンズの死球を顔面で受けてしまい戦線を離脱、最終成績は112試合に出場して打率.320、25本塁打74打点で初の本塁打王を獲得するが、後に山内自身が「あれ(死球)がなかったら、おそらく(三冠王を)取れていた。」と語るほどの苦い思いをした年となった。
1960年、監督が別当薫から西本幸雄に変わったこの年、山内は開幕前に「三冠王を狙う」と宣言し、開幕から田宮謙次郎、榎本喜八、葛城隆雄とともに「ミサイル打線」と呼ばれる打線の四番打者として宣言に違わぬ好調なペースで打ちまくり、最終的に首位打者は同僚の榎本に譲ったものの、打率.313、32本塁打、103打点という自己最高成績で本塁打・打点の2冠王を達成、チームを優勝に導きMVPにも輝いた。しかし日本シリーズでは三原脩率いる大洋の投手陣に翻弄され打率.182、本塁打・打点なしという成績でチームも4連敗を喫し、山内を高く評価していた西本監督はオーナーの永田雅一と対立しこの年限りで辞任した。
1961年にはチームは低迷しながらも、112打点という成績で4度目の打点王に輝き、62年・63年もオリオンズの四番打者として活躍していたが、63年のオフ、「世紀のトレード」とのちに呼ばれるトレードで山内の運命は大きく変わる。
元々大毎は打線こそ強力な選手を多く要していたが、反対に投手陣が脆弱で計算できる投手が小野正一くらいしかいなかっため、オーナーの永田雅一はエース級の投手を獲得するためのトレードを計画することになる。
永田雅一オーナーからすれば、エース級であれば誰でも良く、特に誰を狙っていたというわけではない。だが、かつて阪神に在籍し、凄腕として知られた青木一三スカウトの「村山実を可愛がるタイガースに嫌気がさして、小山正明はチームを出てもいいという考えがある。」という言葉に反応し、阪神に譲渡を申し入れた。
永田オーナーの「小山君を譲ってくれるなら、山内一弘でも榎本喜八でも好きな選手を出す。」という申し出に阪神の野田誠一オーナーと戸沢一隆代表は仰天し返事を保留にする。戸沢代表から話を聞いた藤本定義監督は呆れ返ったものの、「山内一弘を出す」という言葉に思い直し、ついにこの“世紀のトレード”を了承した。
12月14日に築地の料亭にて大毎の永田オーナーと阪神の戸沢代表が会談し正式に山内と小山のトレードが決定、12月15日に山内にトレードが通告、「後世に、いいトレードだったと言わせてやろう。」という永田の説得を受けて山内はトレードを了承し、阪神のユニフォームに背を通すこととなった。
12月26日に梅田の阪神電鉄本社で行われた記者会見は異例の光景であった。阪神の野田誠一オーナーと大毎(現ロッテ)の永田雅一オーナーのみならず、トレードでそれぞれの球団に移る山内一弘と小山正明の両名が同じひな壇に並んで座っていたのである。そして二人は席上で固い握手を交わしたのであった。
1964年、阪神の一員となった山内は広い甲子園球場でプレイすることになったため、周りから成績を落とすのではないかと言われたが、その勝負強い打撃でチームを引っ張り、見事阪神は優勝を果たす。
山内自身の成績は打率.257、31本塁打94打点とやや打率は見劣りするが、初のセ・リーグでのプレイであることを考えれば十分な成績であるといえる。日本シリーズでは南海と対戦し、自身は打撃賞・敢闘賞に選ばれるほどの活躍を見せるが、ほかの打者がジョー・スタンカをはじめとする南海の投手陣に抑えられ、日本一は成らなかった。
その後は徐々に成績を落とすも阪神の中心打者として活躍し、1965年には史上初の通算300本塁打を、1967年には川上哲治に次いで史上二人目の2000本安打を達成する。
1968年には根本陸夫の誘いを受け広島に移籍、久々に打率3割を記録するなど活躍、70年には通算400本塁打まであと4本というところまで迫る成績となったが、この年についに引退。広島で付けた背番号8はのちに山本浩二に受け継がれる。
引退後
様々な球団で打撃コーチを務めたほか、ロッテ・中日では監督を経験、ロッテでは1980年、1981年に前期優勝をするものの、プレーオフで近鉄・日本ハムにそれぞれ敗れ優勝を逃し、球団の優勝への姿勢が消極的と指摘して辞任、中日では1年目の1984年こそ2位に入るが、2年目は5位、3年目はシーズン途中で休養となった。
1994年には、当時吉田義男が監督を務めていたフランスのナショナルチームを一か月ほど指導し、1998年には高齢ながら台湾の球団である和信ホエールズのコーチに就任し、1999年までの2年間その手腕を振るった
2009年、その年のシーズン開幕前に肝不全で76歳で亡くなった。その死はかつてのライバルだった野村克也や指揮官だった西本幸雄など多くの人に悼まれた。
人物・プレースタイル
山内の代名詞であるシュート打ちは、プロに入って間もないころ、打撃練習中に打撃投手がやたらと内角にボールを投げてくることが多かったため、これをしっかりと打ち返すように意識しながら練習を重ねた結果会得した。
内角捌きのうまさを証明するかのように、通算死球数はわずか29。内角を攻められやすい右の強打者としてはかなりの少なさを誇る。
また常日頃から練習熱心で、チームでは誰よりも多く練習を重ね、体のケアを徹底し、下半身強化のため趣味のハンティングで野山を駆けずり回ったり、球場まで自転車で通っていた他、毎日・大毎時代はあの榎本喜八と打撃論をしょっちゅう語り合うなど、まさに職人とよばれるほど野球には情熱的だった。
打撃ばかりが注目されるが守備も決して下手ではなく、外野手の通算最多補殺記録を保持している。
またコーチ歴を見て貰えればお分かりいただけるだろうが、とにかく打撃指導が大好きで、練習中だろうと試合中だろうと味方チームだろうと敵チームだろうと日本人だろうと外国人だろうと、とにかく打撃指導が大好きなお方である(大事なことなので二回言いました。)
一度指導が始まれば口から唾を飛ばしながら熱弁を振るう様は「かっぱえびせん(やめられない、止まらないから)」や「教え魔」と呼ばれている。
新人時代の落合博満やイチローを指導したことでも知られるが、落合にはその打撃理論が理解されず(落合曰くとても難しくて理解できなかったためであり、仲が悪かったわけではない。)、イチローにはその振り子打法を修正するように執拗に迫ったため、イチローの才能を見抜けなかったコーチと言われたこともあったが、山内自身はそれこそ外国人選手からも賞賛の声が来るほどのコーチであり、落合とイチローに関してはあの二人が余りにも特殊で異質な例であることを読者の皆様にはご理解いただきたい。
オールスター男
山内は通算で16回オールスターゲームに出場し、そのうち計3度のMVPに輝いている。オールスターでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」と呼ばれた。また、毎年のように商品などを手にしていくことから、皮肉をこめて「賞金泥棒」という呼び名で呼ばれることもあった。
参考までに、山内はオールスター通算で歴代15位となる38試合に出場し、打率.314(歴代13位、50打数以上の選手の中で)、33安打(歴代9位)、8本塁打(歴代5位)、24打点(歴代5位)、12四球(歴代6位)の成績を残している。
満塁振り逃げ本塁打
1960年7月19日、東映フライヤーズ戦に出場した山内は1-3とリードされた8回、二死満塁というチャンスで打席に立つが、土橋正幸の前にあえなく三振に倒れる。
しかしこの時、捕手の安藤順三がボールを後逸してしまい、本来は一塁に送球しなければならない場面で安藤はボールを拾って山内にタッチしただけで、東映ナインは全員ベンチに引き上げてしまった。
東映の選手達の動きを見て、同じくベンチに戻りかけた山内だが、周囲が一塁へ走るよう指示し、山内は理由もわからないままにグラウンドを一周してホームベースを踏む。これにより、山内は振り逃げで一気にホームに生還するという前代未聞の珍記録を達成。東映ベンチは、必死に抗議をしたが、ルールで振り逃げが認められているため判定がくつがえることはなく、ここに逆転満塁振り逃げ本塁打が成立した。
成績
通算打撃成績
通算:19年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2235 | 8887 | 7702 | 1218 | 2271 | 448 | 54 | 396 | 1286 | 118 | 8 | 88 | 1060 | 29 | 820 | 222 | .295 | .378 |
通算監督成績
通算:6年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 712 | 336 | 313 | 63 | .518 | Aクラス3回、Bクラス3回 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
打点王 | 4回 | 1954年、1955年、1960年、1961年 |
首位打者 | 1回 | 1957年 |
本塁打王 | 2回 | 1959年、1960年 |
表彰 | ||
オールスターゲームMVP | 3回 | 1954年第2戦、1955年第1戦、1959年第1戦 |
ベストナイン | 10回 | 1954年-1957年、1959年-1963年、1968年 |
日本シリーズ敢闘選手賞 | 1回 | 1964年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 16回 | 1954年-1966年、1968年-1970年 |
関連動画
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関連項目
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