- プロ野球選手一覧 > 岩瀬仁紀
岩瀬仁紀(いわせ ひとき、1974年11月10日-)とは、愛知県出身の死神・岩、地面タイプのポケモン元プロ野球選手(投手)である。現役時代は中日ドラゴンズに所属した。
概要
OB | |
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岩瀬仁紀 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県西尾市 |
生年月日 | 1974年11月10日 |
身長 体重 |
181cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1998年ドラフト2位 |
引退 | 2018年 |
経歴 | |
選手歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年、2008年 |
プロ野球選手テンプレート |
抜群の制球力と驚異的な切れ味のスライダーを駆使し、9回を淡々と3人で終わらせていく様は「ジェノサイド」と言われ、背番号13とかけて死神(DEATH13)と呼ばれる、球史に残る抑え投手。
類い希な頑丈さを持ち、ルーキーイヤーの1999年から15年以上第一線のリリーフとして投げ続けながら、2014年に離脱するまで長期に渡って故障で戦線離脱したことは一度もなかった。
通算セーブ数歴代1位(407セーブ。2018年終了時点)、通算登板数歴代1位(1002試合。2018年終了時点)、プロ入り以来15年連続50試合以上登板(プロ野球記録)、3年連続40セーブ(史上初)、9年連続30セーブ(プロ野球記録)など、リリーフ投手としてのプロ野球記録を多数持つ、文字通りのレジェンド。タイトルも最優秀中継ぎ投手3回、最多セーブ5回(最多記録タイ)。2010年には通算250セーブを達成して名球会入りを果たした。
プロ入り後しばらくは中継ぎ投手、2004年からは抑えを務め、2016年に故障から復帰してからはまた中継ぎ投手を務めるリリーフ一筋の鉄腕(2000年に一度だけ先発登板がある)。その活躍で従来評価の低かった中継ぎ投手についての認識を塗り替えた存在である。
日本シリーズには非常に強く、6度出場して20試合に登板し、無失点。
愛知大学時代は外野手兼任であり、通算安打数でリーグ歴代2位の数字を記録している。リリーフ投手のため打席に立つ機会は非常に少ない(打席に立ったのは2007年が最後)が、通算打率は2割を超えている(48打数10安打の.208)。川上憲伸のようなスラッガータイプではなく巧打者タイプだった。
球界を代表する投手でありながら、グラウンド外では全くそれらしいオーラが無いことでも知られ、川上憲伸のマネージャーと間違われたこともあるという。ちなみに酒は体質的に全く飲めない。
球歴
西尾東高校では3年夏に甲子園大会に出場しノーヒットノーランを記録したが、4回戦で敗退。
NTT東海で野球を続けていたところ、中日のスカウトに見いだされる。1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名しドラフト2位で入団。ドラフトの同期には福留孝介、小笠原孝、蔵本英智(英智)がおり、かなりの当たり年と言えるドラフトであった。
中日時代
1999年、ルーキーイヤーからセットアッパーとして大活躍。65試合に登板して防御率1.57、10勝を挙げ最優秀中継ぎ投手を受賞。この年のリーグ優勝に大きく貢献したが、同じくルーキーで20勝を挙げた上原浩治がいたため新人王はならなかった。
以後、2003年まで左のセットアッパーとして奮闘。この間、毎年50試合~65試合に登板しながら2001年以外は防御率1点台という驚異的な安定感を誇ったが、1999年は宣銅烈、2000年~2003年はエディ・ギャラードが守護神に座っていたため、クローザーとして起用されることはほとんど無かった。この間、3度の最優秀中継ぎ投手のタイトルを受賞。
2004年、前年のシーズン中にエディ・ギャラードが退団したこともあって、新監督の落合博満から新守護神に指名される。ところが、この年は開幕前に風呂場で転んで故障、その影響で前半戦は不調が続く。それでも22セーブを挙げ、5年ぶりのリーグ制覇に貢献した。
2005年からは不動のクローザーとして君臨。2005年には佐々木主浩の持つ記録を塗りかえるプロ野球新記録の46セーブを記録した。
2007年はシーズン中盤から打ち込まれる場面が増えたが、クライマックスシリーズは4連投で突破に貢献、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第5戦において8回までパーフェクトを続けていた山井大介の後を受け、9回を3人で抑え史上初の継投での完全試合を達成(ちなみに参考記録)。53年振りの日本一の胴上げ投手となる。
2008年も前年に続いてやや苦しむ場面が多く見られた。また北京五輪では不調であるのが明らかにも関わらず星野仙一監督が起用にこだわったため、日本代表が喫した5敗のうち3敗を岩瀬が占めることになる。シーズンでも36セーブを挙げたが防御率は2.94と、前年の2.44に続いてプロ入り以来初めて2年続けて防御率2点以上となった。これによってそれまで通算で1点台だった防御率が2点台になった。
2009年は41セーブを挙げ、3年ぶり3度目のセーブ王を獲得。
2010年6月16日の日本ハム戦で史上3人目となる通算250セーブを達成。高津臣吾、佐々木主浩に続いて史上3人目のリリーフでの名球会入り資格を得た。シーズンでも42セーブを挙げ2年連続4度目のセーブ王を獲得したが、シーズン終盤には「最後の1イニング」ではなく「最後の1・2アウト」を任されることが多くなった。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでも高橋聡文が9回2アウトまで取ってから最後の1アウトのために登板する場面があり、以前ほどの絶対的な信頼を置かれる立場では無くなる。
2011年は守護神の座を守れるか正念場のシーズンとして迎える。序盤は「失点しても失敗はしない」投球でセーブを重ね、6月12日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で高津臣吾の日本記録通算286セーブに並ぶ。そして6月16日の福岡ソフトバンクホークス戦でセーブを挙げ、通算287セーブで日本新記録、歴代1位となった。後半戦は調子を上げ安定感を取り戻し、9月3日の広島戦で通算300セーブを達成。最終的に37セーブ、防御率1.48で2006年以来の1点台もマークした。
2012年は救援失敗が増え、8月には10年ぶりとなるシーズン中の二軍落ちも経験。シーズン後半にはついに山井大介に抑えの座を譲る場面が増えたが、それでも33セーブを挙げて5回目のセーブ王のタイトルを獲得した(トニー・バーネットと同率)。5回目はリーグ最多記録、37歳での獲得は最年長記録。
2013年は山井の不調もあって、結局シーズンを通して抑えを務めた。4月18日、前人未到の350セーブ達成。7月17日、プロ野球史上初の10年連続20セーブ達成。9月18日には通算382セーブとし、佐々木主浩のNPB・MLB通算での381セーブの日本記録を更新、日本人通算セーブ数単独最多となった。最終的に55試合に登板し36セーブを挙げ、連続50試合登板を15年、連続30セーブを9年に伸ばした。
2014年7月26日の読売ジャイアンツ戦でNPB前人未到の400セーブを達成した。しかし8月に左肘の張りのため登録を抹消され、そのままシーズンを終えたため、15年続いたシーズン50試合登板、9年続いたシーズン30セーブの記録がそれぞれ途絶えた。
2015年は左肘の故障を引きずり、二軍でも登板のないままシーズンを棒に振った。オフ、和田一浩、小笠原道大、谷繁元信、山本昌と同僚の大ベテランが次々と引退する中、2億5千万円減の年俸5000万円で契約更改。
2016年4月9日の巨人戦で2年ぶりの一軍復帰登板を果たした。8月6日には史上3人目(米田哲也、金田正一に続く)の通算900試合登板を達成するが、1死も取れずに3失点と打ち込まれ、敗戦投手となる。
2017年は御年42歳ながら左のセットアッパーとしての登板をこなし、6月23日には2014年以来のセーブを記録し最年長セーブ記録を更新。さらに6月は14試合の登板で全試合を無失点・10ホールド・1セーブという活躍でなんと2005年4月以来、実に12年振りとなる月間MVPを受賞した。これはセ・パ通じて最長のブランク期間である。8月6日には日本新記録となる950試合登板記録を樹立した。
2018年は開幕前のみ投手コーチを務めた。9月28日の阪神戦でNPB史上初の1000試合登板を達成。10月2日に現役引退を表明し、10月13日の阪神戦が引退試合となり、元同僚の福留孝介から三振を奪って現役生活を終えた。
引退後
2019年から中日スポーツの野球評論家を務める。3月2日の千葉ロッテマリーンズ戦(オープン戦)では引退試合のために育成選手契約を結び、先発で出場。井上晴哉から空振り三振を奪って降板した。
成績
年度別投手成績
年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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1999年 | 中日 | 65 | 0 | 0 | 0 | 10 | 2 | 1 | -- | .833 | 74.1 | 22 | 73 | 16 | 13 | 1.57 |
2000年 | 58 | 1 | 0 | 0 | 10 | 5 | 1 | -- | .667 | 80.1 | 28 | 65 | 20 | 17 | 1.90 | |
2001年 | 61 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 62.2 | 16 | 62 | 23 | 23 | 3.30 | |
2002年 | 52 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | -- | .667 | 59.2 | 15 | 66 | 8 | 7 | 1.06 | |
2003年 | 58 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 4 | -- | .714 | 63.2 | 12 | 69 | 10 | 10 | 1.41 | |
2004年 | 60 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 22 | -- | .400 | 64.1 | 14 | 53 | 20 | 20 | 2.80 | |
2005年 | 60 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 46 | 2 | .333 | 57.1 | 8 | 52 | 12 | 12 | 1.88 | |
2006年 | 56 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 40 | 5 | .500 | 55.1 | 8 | 44 | 8 | 8 | 1.30 | |
2007年 | 61 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 43 | 3 | .333 | 59.0 | 9 | 50 | 18 | 16 | 2.44 | |
2008年 | 51 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 36 | 5 | .500 | 49.0 | 10 | 41 | 16 | 16 | 2.94 | |
2009年 | 54 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 41 | 1 | .400 | 46.2 | 13 | 34 | 11 | 11 | 2.12 | |
2010年 | 54 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 42 | 3 | .250 | 48.0 | 13 | 41 | 12 | 12 | 2.25 | |
2011年 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 37 | 7 | .000 | 48.2 | 10 | 45 | 12 | 8 | 1.48 | |
2012年 | 54 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 33 | 6 | .250 | 51.0 | 13 | 30 | 15 | 13 | 2.29 | |
2013年 | 55 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 36 | 8 | .400 | 53.1 | 19 | 37 | 16 | 11 | 1.86 | |
2014年 | 34 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 20 | 4 | .333 | 30.2 | 10 | 18 | 12 | 12 | 3.52 | |
2016年 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | .000 | 10.1 | 3 | 5 | 8 | 7 | 6.10 | |
2017年 | 50 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 2 | 26 | .333 | 35.2 | 14 | 28 | 19 | 19 | 4.79 | |
2018年 | 48 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 10 | 1.000 | 35.0 | 7 | 28 | 18 | 18 | 4.67 | |
NPB:19年 | 1002 | 1 | 0 | 0 | 59 | 51 | 407 | 82 | .536 | 985.0 | 244 | 841 | 274 | 253 | 2.31 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
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最優秀中継ぎ投手 | 3回 | 1999年、2000年、2003年 |
最多セーブ投手 | 5回 | 2005年、2006年、2009年、2010年、2012年 |
表彰 | ||
月間MVP | 2回 | 2005年4月、2017年6月 |
カムバック賞 | 1回 | 2017年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 10回 | 2000年-2001年、2003年、2005年-2007年、2010年-2013年 |
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