東郷平八郎とは、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を破った提督である。
概要
弘化4年12月22日(1848年1月27日)に薩摩藩士・東郷実友と益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。
明治4年(1871年)から明治11年(1878年)にかけてイギリスへ留学する。この間にウースター商船学校に入学し、国際法などを学ぶ。
明治19年(1886年)に病に倒れ、海上勤務を退き、療養に専念するが明治22年(1889年)になるまで本調子になれなかった。療養中は読書と国際法や外交について勉強するなどして自己研鑽を怠らなかった。
明治24年(1891年)療養より復帰。防護巡洋艦「浪速」艦長となる。
明治26年(1893年)ハワイでのクーデター(当時はまだハワイ王国であり、アメリカに併合しようと地元アメリカ人商人が手動しアメリカ海兵隊もこれに協力していた)に際して、「浪速」以下数隻を率いてハワイへ進出。在留日本人保護の名目と合わせて日本国初めての砲艦外交を行う。このときのの併合を防ぐ一因となった。
明治27年(1894年)日清戦争が勃発し、「浪速」の艦長として参加。東郷は豊島沖海戦で清国兵を乗せたイギリス商船を撃沈する事件(高陞号事件)を起こすが、これは国際法に反する行為でなかったため、日英間の国際問題に発展することはなかった。その後黄海海戦、威海衛海戦に参加し、威海衛海戦後は常備艦隊司令官に補されると同時に第一遊撃隊司令官となる。
明治32年(1899年)佐世保鎮守府司令長官、明治33年(1900年)常備艦隊司令長官、明治34年(1901年)舞鶴鎮守府司令長官となる。
明治36年(1903年)、再び常備艦隊司令長官となり、その後常備艦隊を改編、連合艦隊及び第一艦隊司令長官になる。
明治37年(1904年)日露開戦後、旅順口攻撃を指揮する。このとき旅順港閉塞作戦が行われ、広瀬武夫少佐が戦死(死後、中佐に昇進)。旅順港攻略は海軍だけでは困難とし、海軍は陸軍に陸からの旅順港攻略を要請。乃木希典大将率いる第三軍が旅順攻略を行う。同年、旅順から出てきたロシアの太平洋艦隊との海戦を指揮する(黄海海戦)。この海戦で丁字戦法をとる上での問題が見つかり、後の日本海海戦で生かされた。
明治38年(1905年)5月27日、ロジェストウェンスキー中将率いるバルチック艦隊が日本海に現れ、東郷平八郎大将率いる連合艦隊と対戦することになる。会敵後、極めて短期間の間で戦いの雌雄は決し、翌28日にはバルチック艦隊は壊滅した。一方、連合艦隊の被害は軽微で、史上稀に見る一方的勝利だった。
戦後、戦勝会に招かれたアメリカ海軍士官候補生らに胴上げされたのちに歓談。ちなみに士官候補生のうち一人はのちに対日本海軍として辣腕をふるうチェスター・ニミッツ(提督)であった。流暢な英語を話す東郷にニミッツ士官候補生は感銘を受けたという。
明治39年(1908年)アメリカ海軍大西洋艦隊(GWF…白船艦隊)世界一周任務時に日本を訪れる。
アメリカにしてみればロシア太平洋艦隊亡き今、太平洋で権勢を誇る日本への示威行為が多分にあり、日本もその意図は十分に感じていた。日本では幕末の黒船ならぬ「白船」来襲であるととらえていた。アメリカ海軍最新鋭16隻はすべて戦艦であり、十分に脅威であった。(海外では日本とアメリカの間に戦端が開かれることを警戒していた)
これに対して東郷は同数の艦艇をもって出迎えることを主張。日本は戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻のほぼ全力をもって横浜沖にて邂逅を果たす。
警戒されると思っていたアメリカ海軍であったが、出迎えたのは園遊会やら花火やらの宴会騒ぎであった。
くしくもこの時、派遣艦隊に乗り合わせていたウィリアム・ハルゼー少尉、レイモンド・スプルーアンス少尉候補生ら若い海軍士官らは東郷平八郎自身と声をかわし、感銘を受けている(ハルゼー少尉はいささかちがったようだが)。
二人もこれより30年あまりのちに日本海軍を相手に戦う艦隊指揮官となるのは歴史の皮肉でもある。
明治42年(1909年)には軍事参議官に就任。
明治44年(1911年)、ジョージ5世の国王戴冠式に乃木大将とともに随行。イギリスに到着後、「東洋のネルソン」として歓迎される。
大正3年(1914年)、東宮御学問所総裁に就任し、皇太子(後の昭和天皇)の教育にあたる。
昭和5年(1930年)、ロンドン軍縮会議に対して艦隊派に組する形で軍縮反対の立場をとる。また海軍制度改革にも反対したため、海軍内部の制度対立のみならずその後の国政などにも影響を及ぼした。(ただし、本人の発言としては『訓練には比率も制限もないだろう』という言葉が残ってやり、艦隊派提督らに利用された感は否めない)
結果的に、この行為は晩節をけがしたものと近年ではとらえられることが多い。
昭和9年(1934年)5月29日、侯爵位賜るが翌日息を引き取る。日比谷にて国葬が執り行われる。
国葬にあたっては、英国、アメリカ、フランス、イタリア、中国など各国から派遣された儀礼艦が横浜沖に集まり、半旗をかかげた。
死後、神格化が行われ東京渋谷区をはじめ数か所に「東郷神社」が作られ、祀られることになった。
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主な栄典
明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章、並びに功一級金鵄勲章を賜る。
大正7年(1918年)、正二位を賜る。
この他、諸外国からの勲章も数多く賜っている。
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