武市半平太(1829~1865)とは、土佐勤皇党の首魁であり、幕末に活躍した武士である。
墨龍先生・武市半平太
武市家は伊予国で開拓に励んだ公家の子孫と称しており、1440年代の武市康範の代に土佐の仁井田に移ったらしい。武市家の主君・池氏は長宗我部家臣であり、長宗我部氏の没落と山内氏の土佐入りによって、武市家は他の長宗我部旧臣同様郷氏となった。
しかし郷士の中でも武市家の開拓した土地は広く、二代武市半右衛門のころには郷氏御用人として藩主に仕え、父・四代武市半右衛門の代には大変裕福な生活をしていたようだ。
こうした中、武市鹿衛・後の武市半平太小楯は郷士の中でも上の階層に属する身分の家柄に生まれた(もちろん江戸時代の身分秩序では限りなく卑しい身分に近いが)。叔父・鹿持雅澄は国学者であり、傍証ではあるものの半平太の幼名、半平太の諱はこの叔父に付けられた可能性もあるらしい。
武市半平太は和漢の勉強と剣術稽古に励み、14歳の頃には藩の務めを父から代わっている。1849年には両親を失い、その年のうちに郷士・島村源次郎の娘・島村冨と結婚している。
1850年にはそれまで剣の師だった、千頭伝四郎が亡くなり、馬廻の次男という大身の浅田勘七の弟子となり、その年のうちには初伝になっている。1854年には皆伝を許され、弟子らしき人々も出来始めるが、安政の南海地震で家を失う。しかしそれにもめげず、家を小さくする代わりに道場の建築に力を入れ、以前と変わらず剣の修行に打ち込んでいった。一方で西洋流砲術の先生である徳弘孝蔵に弟子入りし、剣術以外にも関心を持ち進んでこれを学びに行く人物であった。
やがて幕命で江戸の鏡新明智流の桃井春蔵の道場・志学館に岡田以蔵らと入り、館内の規律を正したようだ。しかし山本琢磨と田那村作八のロシア製時計の盗難の事件を処理した後、祖母が中風で倒れ、1857年に土佐に帰国した。
尊王攘夷志士・武市半平太
土佐に帰った武市半平太のもとには100人を超える弟子がおり、師・浅田勘七の推薦もあり、土佐藩の中で白札・郷士以下の剣術指導に関わる役についた。やがて1860年に祖母が亡くなったころ、久松喜代馬、島村外内、岡田以蔵を連れて武者修行の旅に出た。
しかしすでに世は桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺される激動の時代に突入している。半平太は武者修行から帰ると江戸にわたり、ロシア艦・ポサドニック号が対馬に強引に停泊していることを知ると衝撃を受けた。すでに半平太は大石弥太郎をつてに久坂玄瑞ら長州藩の志士と知り合いになっていった。さらに薩摩藩士・樺山三円とも知り合い、尊王攘夷の実現に向けて動き出したのである。
こうして1861年、武市半平太は土佐勤皇党を結成する。初期のメンバーには大石弥太郎や島村衛吉、柳井健次、河野万寿弥、小笠原保馬、池内蔵太、広田恕助、岡田以蔵らが集まった。目標は「一藩勤王」を掲げ、土佐に戻るとさらに同士を集めていった。
しかし、当時の土佐藩は公武合体論を藩是としており、やがて福岡藤次、市原八郎右衛門ら大目付は彼ら土佐勤皇党の動きを無視できなくなり、半平太を説得しようとする。しかし、半平太は逆に山内容堂を尊王攘夷に向かわせようとし、そのために仕置役・吉田東洋が邪魔になりつつあった。
長州藩の久坂玄瑞も長井雅楽の説得に苦悩していたが、藩の中にとどまり「一藩勤王」を目指す半平太と異なり、玄瑞は草莽の志士が立ち上がるほかない、と血気にはやっていた。それに影響された吉村虎太郎、坂本龍馬ら脱藩者が出始めると、半平太はついに吉田東洋を倒す決意をする。
こうして郷士の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助が選ばれ、1862年に吉田東洋を暗殺。東洋体制は倒され、土佐藩は尊王攘夷を掲げるようになったのである。
京から江戸、そして…
1862年、薩摩藩国父・島津久光、長州藩主毛利敬親の養嗣子・毛利定広らが相次いで入京し、他の雄藩でも着実に尊王攘夷派の工作が進んでいた。しかし吉田東洋こそ倒したものの、半平太の意向とは裏腹に、重役は保守的であり、延期に延期を重ねた参勤交代も、ようやく大坂に入った所で麻疹の流行で止まってしまった。ここで半平太は、このタイムラグを利用し、天皇の意向を「御内沙汰書」として受け取り、土佐藩にの入京にも成功したのである。
さらに京では、島田左近の暗殺をかわぎりに、天誅が行われ始めた。半平太も本間精一郎をはじめとした天誅事件に関わっており、公武合体論者であった九条尚忠・岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の「五奸二嬪」の排除をもくろむ。さすがに尊王攘夷派公家・中山忠光の主張する彼らの暗殺には乗れず、忠光の父・中山忠能や三条実美らと相談し、彼らの京都追放に成功した。
その後も長野主膳の配下だった役人たちの襲撃を半平太自身が指揮し、以降関白・近衛忠煕に止められたため半平太自身の関与した天誅はなくなるも、京都は依然として陰惨な空気が漂っていった。
やがて三藩志士たちは幕府に攘夷の勅使を贈ることをもくろみ、三条実美、姉小路公知の勅使の派遣が青蓮院宮から伝えられた。この勅使には島村衛吉、小笠原保馬、岡田以蔵、久松喜代馬、阿部多司馬、多田哲馬、森助太郎ら土佐勤皇党の警護に加え、半平太自身も姉小路家の雑掌・柳川左門として勅使に付き添ったのである。
一方江戸では山内容堂が勅使への対応を、尊王攘夷派に対する危機感から、行っていた。容堂自身も尊王派であったものの、その濃度と攘夷に対する対応では半平太とずれが生じていたのだ。
そして勅使は江戸についたものの、徳川家茂の麻疹を利用して、幕府は牛歩戦術に出ていた。そんなさなか、久坂玄瑞、高杉晋作らはイギリス公使の襲撃を計画し、半平太や毛利定広の工作で中止の説得には成功したものの、長州藩士・周布政之助が山内容堂を罵倒し、次第に半平太らと長州藩士の中心人物たちとの間に齟齬がきたしていた。
勅使自体は尊王を将軍が明言することで、成功に終わり、松平春嶽らとも会見した半平太は江戸から戻っていった。ところが先行して江戸を発った間崎哲馬、弘瀬健太は京で平井収二郎と、青蓮院宮から「令旨」を出すように願い出、土佐に帰国し、藩の重役たちに伝えたのである。収二郎と会った半平太は一抹の不安を感じながらも、京で上士・留守居組に昇進することで、依然山内容堂の補佐を務めていくこととなった。
攘夷決定と武市半平太の最期
そんなさなか中山忠光が今度は攘夷決定を他の公家に迫り、久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟木武兵衛が半平太のアドバイスによって忠光に接近し、時の関白・鷹司輔熙邸へ座り込みをし、姉小路公知や正親町実徳らの協力もあって、孝明天皇に攘夷の実行を幕府に命じさせることに成功したのである。
しかし一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂ら在京していた幕府の重鎮たちは、この決定が無理に近いことを理解していた。そしてその起点となった半平太と容堂の間の齟齬がついに表面化しだしていったのである。
その中で最初に犠牲になったのは、先日令旨を受け取った平井収二郎である。収二郎は、下士であるにも関わらず、容堂に提言、姉小路公知に護身用のピストルを渡したり、鷹司輔熙に議論をかけたりと、大胆な行動に出ていた。容堂は、収二郎を叱っただけではなく、役職を取り上げ、止めようとした間崎哲馬や弘瀬健太らに青蓮院宮の令旨の非を諫め、自白書を出させたのである。
半平太は容堂を諫めたが、公武合体論者である薩摩藩士・高崎猪太郎が容堂に次第に接近していた。ここまで歩調を合わしていた薩摩藩が、島津久光の意向もあり離脱し始めていたのである。しかし容堂は半平太に限っては自分のもとに留め置こうとし、京都留守居加役につけたのだ。
そして山内容堂と武市半平太は土佐に帰国。容堂は尊王攘夷派を取り除き、土佐勤皇党の解散を命じた。また青蓮院宮からの、令旨はやむなく発したものという主張もあり、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太を切腹させた。
半平太は三人を失い、尊王攘夷を決行するよう容堂の説得を行った。しかしついに八月十八日の政変が起きる。中川宮、つまりかつての青蓮院宮が参内し、孝明天皇を公武合体派と結びつけ、松平容保と島津久光率いる会津・薩摩両藩の軍が京を制圧。長州藩と土佐勤皇党、三条実美ら尊王攘夷派公卿たちが取り除かれたのである。この結果半平太も八方ふさがりに陥っていく。
そして9月21日、武市半平太は逮捕される。苦しい状況に置かれたものの、牢番たちを魅了し、半平太は同士や家族との交流が行えたようだ。1864年に取り調べが始まり、岡田以蔵の逮捕と彼の自白によって、土佐勤皇党の党員たちが次々と捕まり、半平太も苦境に陥る。実弟の田内衛吉の服毒自殺、妻・冨のいとこであった島村衛吉の拷問死等、土佐勤皇党のメンバーが次々と死んでいき、ついに1865年閏5月11日に切腹が決まった。介錯は冨の弟・島村寿太郎、姉・奈美の養子・小笠原保馬が務め、ついに亡くなったのであった。
半平太のその後
土佐勤皇党は、半平太の死で事実上壊滅し、後に土佐藩が討幕勢力に加わった際に中心となったのは、土佐勤皇党の弾圧を行った後藤象二郎や、上士の板垣退助であった。
やがて田中光顕らの支援で半平太の名誉回復が行われ、1891年4月8日に正四位を追贈されたのであった。
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