「高杉晋作」(たかすぎ・しんさく 1839年9月27日 ~ 1867年5月17日)とは、幕末における討幕派・尊皇攘夷派の志士であり、長州藩士である。またの名を谷潜蔵(たに・せんぞう)。
※晋作は通称で、諱は春風(はるかぜ)。通称は他に東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は楠樹小史、東行(とうぎょう)、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生、些々生、黙生、市隠生、研海、赤間隠人など多くを名乗った。変名を谷潜蔵、谷梅之助、谷梅之進、備後屋助一郎、備後屋三郎、三谷和助(和介)、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。後に、上記の谷潜蔵と改名。
元は中級藩士の息子だったが、松下村塾で西洋軍学や世界情勢(欧米列強のアジア進出とアヘン戦争の顛末など)を学んで、日本の将来を憂慮。先鋭的な倒幕論者となり、尊皇攘夷思想を持つに至った。
革新的な軍事指導者として、奇兵隊を始めとする長州藩諸隊の設立と指揮に携わり、伊藤博文や木戸孝允らと共に長州藩の実権を握った。同藩の倒幕運動を牽引した功労者の1人である。
明治維新と日本の近代化に貢献した英傑の1人であり、維新後も生き存えていれば相応の地位を与えられていたはずだったが、若くして没したためにそれは叶わなかった。彼が日本史上に及ぼした影響力の大きさは語るに及ばないが、その過程で行った破壊活動や、過激かつ自由奔放すぎる言動については意見が分かれる。
生涯
激動の時代に生まれ
天保10年(1839年)に長州藩士・高杉小忠太の子として生まれる。
嘉永5年(1852年)に藩校である明倫館に入学するが、久坂玄瑞に誘われて、身分に因らず入塾できる吉田松陰の私塾・松下村塾にも掛け持ちで入塾。晋作は優秀な塾生として、当時から周囲にも認知されていた。(松下村塾四天王の1人、とまで呼ばれるようになったとかないとか。)
嘉永6年(1853年)に、黒船が来航。これに対して何ら有機的な動きの取れない幕府に対して、世人達は不安感を募らせていく。幕末と呼ばれる歴史ピリオドが始まった。
こうした上方における情勢変化を受けてか、晋作は安政5年(1858年)に藩命により江戸へ留学し、昌平坂学問所でも学んだ。だがその翌年に安政の大獄があり、師であった吉田松陰が捕らえられてしまう。急報を受けた晋作は松陰をすぐに見舞うが、その直後に松陰は処刑されてしまった。
吉田松陰は晋作のことを評価していたが、剣術ばかりに傾倒して学業には熱心でなかったために、平素はあまり褒められる事はなかったとされる。(ただし剣術に関しては本当に熱中していたらしく、柳生新影流免許皆伝という趣味や片手間では済まない腕前を習得していたりする。)
松陰は晋作の同輩で、同じく優秀だった久坂玄瑞を専ら褒めており、晋作はむしろ陰に隠れがちだったらしい。だが元来負けず嫌いな性格でもあった晋作はその現状に満足せず、久坂に対抗心を燃やして学業にも徐々に熱意を移していき、その才能を開花させていったとされる。(実は、晋作の性格を利用した松陰の深謀遠慮であったとも言われているが、その真偽は定かではない。)
兎にも角にも、師を幕府によって殺された晋作は、それ以前に松下村塾で受けていた教育を下敷きとして、徐々に幕府への反感を募らせていった。(ちなみに、安政の大獄を主導した幕府大老・井伊直弼は、1860年に桜田門外で暗殺されている。)
海外渡航と旧態幕府への危機感
文久元年(1861年)に、晋作は藩保有の軍艦『丙辰丸』に乗船する。
丙辰丸は長州藩が黒船来航を受けて建造した初の西洋式軍艦であり、軍艦として特筆する性能はあまり持っていなかったが、新生長州海軍の象徴的な船であった。
晋作はこれに乗り、「海軍修練」と称して各地へ出向。翌文久2年(1862年)には、長崎から大陸の海都・上海へと渡る。だが彼がそこで目にしたのは、かつての大国・清国が太平天国の乱やアヘン戦争の余波で衰退し、欧米列強によって植民地化されつつあるという厳しい現実だった。(この時、上海で購入したリボルバー拳銃が、後に坂本龍馬の手に渡る。)
一方、晋作が大陸へ渡航している間に、長州藩では政変が起こっており、桂小五郎(木戸孝允)や伊藤俊輔(伊藤博文)ら尊皇攘夷思想に基づく倒幕派が台頭した。同年帰国した晋作も、旧態依然とした幕府への強い危機感から、この一連の倒幕運動に積極的に参加していく事になる。
晋作は、久坂玄瑞らと共に英国公使の暗殺を目論むが、この最初の計画は当時の藩主・毛利敬親の長子だった毛利定広(後の元徳)の耳に入ったために、謹慎を命じられた。
だが晋作は諦めず、同年暮れに久坂玄瑞、伊藤俊輔らと共に江戸品川の英国公使館を焼き討ちした。これは長州藩士による倒幕運動において象徴的な出来事であり、世間の耳目を集めた。藩首脳部はこれによる幕府の制裁や外国との過度な関係悪化を憂い、晋作を江戸から召還して再び謹慎を命じた。
列強の脅威と長州の孤立
文久3年(1863年)、長州藩は幕府から下された(正確には朝廷の勅命である)攘夷命令に基づいて、下関に集結していた外国船に対して砲撃する。(下関戦争)
だが、その結果は惨憺たるものであり、長州軍は米仏軍艦からの報復を受けて壊滅。従来の軍事力による攘夷は不可能であると断じた晋作は、身分制度に縛られない私兵軍隊『奇兵隊』の創設に乗り出した。(また晋作は同時期に下関防衛総監に任じられているが、教法寺事件の責任を取らされて間もなく任を解かれている。)
一方、京都では八月十八日の政変によって長州派勢力が一掃され、長州藩は孤立化の一途を辿る。覚悟を決めた晋作は文久4年(1864年)に脱藩して京都に潜伏し、情報収集にあたる。その後間もなく晋作は桂小五郎の説得に応じて帰郷するが、当然の如く脱藩の咎により投獄されてしまった。
同年7月、禁門の変により長州藩は朝敵として討伐対象となり、いよいよ追い込まれていく事になる。この一連の戦いの中で、晋作の朋友だった久坂玄瑞が自刃、他にも多くの志士たちが戦死してしまう。
文久4年8月、下関に米英仏蘭の四ヶ国連合艦隊が来襲。これに長州軍は砲台を増強して応戦したが、新式装備を持つ連合軍には太刀打ちできず、またしても惨敗を喫する。この戦いの時、晋作は不在であり、奇兵隊を始めとする長州藩諸隊は山県狂介(山県有朋)が指揮していた。
赦免された晋作(当時24歳)は、いきなり連合軍との和睦交渉役を任された。この時の晋作は終始とても高慢な態度だったが、連合軍の講和条件は全て受け容れた。(ただし、賠償金については藩ではなく、そもそも攘夷命令を出した幕府へと請求した。またこの時、連合軍は彦島の植民地化をも目論んでいたとされるが、晋作がそれだけは頑として受け容れなかったために実現はせず、第2の香港誕生を未然に防いだ・・・と言われているが、伊藤博文の回想による話なので真実か否か不明である。)
四ヶ国連合軍との講和が纏まったのも束の間、今度は幕府軍による長州征伐(第一次長州征伐)が始まる。
先の連合軍との交戦によって及び腰となった長州藩首脳部は、武力による攘夷はもはや不可能、幕府に恭順して生き残りを図ろうという穏健派(俗論派)が幅を利かせ始めていた。
藩内が穏健派と日和見主義者達で占められていく中、居心地の悪くなった晋作は福岡へと一旦逃れる。だが彼はそれしきで諦めるような男ではなく、自らの手足と言っても過言ではない私兵集団・奇兵隊や、伊藤俊輔、石川小五郎といった股肱の臣達を動かし、長州藩から穏健派を一掃してその実権を握るべく行動を開始する。
元治の内乱と四境戦争
第一次長州征伐(1864年の暮れ)の結果、長州藩首脳部は三家老(福原元僴・国司親相・益田親施)を切腹させ、尊皇攘夷派の後ろ盾となっていた五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)を幕府側へ引き渡すことで藩の存続を図った。
生き残りのため、と言ってしまえば聞こえは良いが、これは幕府への事実上の降伏であった。またこの時期、穏健派(俗論派)の拠る山口と、強硬派(長州正義派)の拠る萩とで意見対立が深刻となっており、長州藩そのものも内部分裂を起こしていた。穏健派は、幕府による大規模な軍事制裁を招いた責任を、全て強硬派を始めとする尊皇攘夷派へと転嫁して事態を収束させようと図る。
そんな動きの中、穏健派による強硬派幹部への粛清が始まり、井上聞多(井上馨)が襲撃されて重傷を負ってしまう。福岡の野村望東尼の元で匿われていた晋作は、この事を聞いて遂に藩へのクーデターを決意する。クーデター計画に関して、山県狂介らは無謀であるとして反対はしたが、晋作のことを強くは止めなかった。
1864年12月14日、晋作は伊藤俊輔を筆頭とする私兵部隊84名を率いて、功山寺で挙兵(元治の内乱)する。晋作らは幕府側へ引き渡されかけていた五卿の身柄を確保すると、藩の中枢部を武力占拠。後から山県の奇兵隊など、クーデター慎重派だった諸部隊も合流し、討幕派の勢いは大きくなっていった。(ちなみに、12月14日は赤穂浪士による吉良邸討ち入り、吉田松陰の脱藩と同一日であった。)
晋作らの行動によって、藩内部は倒幕・尊皇攘夷派(つまり強硬派)によって統一された。だが、長州側のこの一連の動きを見ていた幕府側は、再びの長州征伐を計画する。幕府直轄軍と九州諸藩の軍を動員して、長州藩を包囲しようと図った。(当初、幕府は状況を楽観しており、大軍で包囲すれば長州は降伏してくると睨んでいた。)
これに対して、長州側は軍備を増強する。長防士民合議書(国防マニュアルのようなもの)を印刷して領民を士農工商関係なく動員して皆兵制度を構築し、奇兵隊などの長州藩諸隊を更に増強させる。
またこの動きの中で、晋作はかつて敵視していたイギリス公使ハリー・パークスと会談。土佐藩に依頼して薩摩藩との関係を取り持ってもらい、薩長同盟を実現させた。薩摩藩・イギリスとのルート開通により、長州には西洋式の最新鋭銃砲火器が入ってきた。
幕府軍もフランスの支援によって装備の近代化を進めており、最新鋭火器を多数保有していたが、ごく一部に過ぎなかった。また幕府軍は諸藩の連合軍だったために意思の疎通が図れておらず、烏合の衆に近かったために、幕府軍監として任命された老中・小笠原長行にも全く統率が取れていなかった。
慶応元年(1866年)、10万の幕府軍は四方面(四境・・・大島口、芸州口、石州口、小倉口)から長州へ侵攻。第二次長州征伐(四境戦争)の始まりである。
晋作は幕府軍の侵攻に対して、長州海軍総督として軍艦『丙寅丸』に乗艦。周防大島沖に停泊していた幕府海軍の艦隊を夜襲して大打撃を与え、第二奇兵隊(指揮官・世良修蔵)を投入して周防大島を奪還する。また小倉戦線では海上からの砲撃によって幕府側の砲台と陸上部隊を攻撃し、報国隊を始めとする藩諸隊を上陸させて沿岸部を制圧する。それ以外の戦線では状況は膠着状態に近かったが、長州軍の予想外の抵抗に幕府軍は出鼻を挫かれる形となり、長州征伐計画は完全に頓挫してしまった。
この戦いで明らかになったのは、長州藩の強さというよりも幕府軍の惰弱さだった。
わずか5000足らずの長州軍に、10万以上の幕府軍が潰乱してしまったという事実は、天下に幕府の終わりを予感させるに十分なものだった。戦いに勝利した長州藩は、余勢を駆って一気に倒幕を推し進めていく事になるが、その動きの中に高杉晋作の姿はなかった。
彼は、第二次長州征伐の勝利から程なくして病(肺結核)に倒れ、死の床に着く事になったのである。
大政奉還を眼前にしての死没
第二次長州征伐の休戦後、幕府の影響力は低下していき、長州藩を始め討幕派諸藩への介入は事実上不可能になっていった。
これにより天下の情勢は急速に倒幕へと傾いていく事になる。その動きを高杉晋作は歓喜しながら見ていたが、病に倒れた彼はこれに直接関与する事はできなかった。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、幕府は遂に大政奉還(日本の統治権の朝廷への返上)に踏み切る。
大政奉還は徳川慶喜による公武合体政治への移行を目論んでの深謀遠慮だったのだが、これは明治維新に向けての更なる波乱の幕開けに過ぎなかった。
当の高杉晋作は、大政奉還の瞬間を見ることなく慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死没していた。だが、彼は江戸幕府の崩壊とその後の展開を予見していただろう。(仮に彼が維新後まで生き残っても、彼のような苛烈な人物に活躍の場が残されていたかどうかは、疑問の残るところだが・・・)
享年29歳。短くも激しく、苛烈な人生を送った『革命家』の最期を看取ったのは、父母や息子といった近親者と、山県狂介や田中顕助といった股肱の臣達だった。
彼のことを、新時代を牽引した『風雲児』『英傑』と表する者もいれば、破壊と狂躁に塗れた『暴君』『テロリスト』と表する者もいる。だが、彼という原動力がいなければ、優秀な者も多いが優柔不断な者も多い長州派維新志士たちが力と意志を持つ事もできなかっただろう。
中立的な形容をしても、彼は『近代日本の元勲の1人』と言い切る事ができるのではないだろうか。(大日本帝国初代総理大臣の伊藤博文ですら、当時は伊藤俊輔を名乗って高杉晋作の元で数多くの殺戮や破壊活動に身を染めていた。当時はまだ、自由な言論や政治活動が許された、自由民権も民主主義もない時代だったのだし、仕方がないといえば仕方がない。)
彼の死後、彼が『谷潜蔵』と名乗って興していた谷家の家督は遺児の谷梅之進(後に高杉東一)が継いだ。また晋作の父である小忠太は、維新が成功した1891年まで長生きした。
維新後、晋作は正四位を追贈されて、木戸孝允・大村益次郎らによって靖国神社へ祀られた。
高杉晋作について、伊藤博文の評価。彼の人生をまさに表している。
辞世の句
「おもしろきこともなき 世"を" おもしろく」
「おもしろきこともなき 世"に" おもしろく」
世にも有名な晋作の辞世の句であり、現在は上記の二通りの説に分かれている。晋作自筆の句や遺書は残っていない。
ちなみに、面白き~のくだりは晋作自身が書いたが、病により筆を取り落としてそれ以上は書けず、枕元にいた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と下の句を付けたとされる。それを見て、晋作は「面白いね」と評したとか。
上の句だけを読むと、『面白くない世の中を、もっと面白くできないのか?』または『世の中を面白くする事はできなかった』とも『面白くない世の中を面白くしてやったぞ』いう意味にもとれる。だが下の句を付け加えて、全体を読み通すと『面白くもない世の中を面白く生きるには、何事も心意気次第だ』という意味にもなる。
どう受け取るかは、後世に生きる者達の解釈次第であろう。その方が、想像力を掻き立てられて面白いし。
余談
坂本龍馬にピストルを渡す役割をし、長州を代表する幕末志士の一人としての知名度を誇っているが、活動をした範囲がほぼ長州中心だった為かNHK大河ドラマでは意外と出番が少なく1977年の『花神』(演者:中村雅俊)の次に登場する2010年の『龍馬伝』(演者:伊勢谷友介)までなんと33年の間があった。(なので強い印象を残す為にあえてTVドラマに顔出しを殆どしない俳優を起用したのだとか)
そして2015年の『花燃ゆ』で吉田松陰の妹、杉文を主役にした長州メインの作品になる事が確定したので当然ながら晋作も登場する。(演者:高良健吾)
関連動画
関連項目
- 5
- 0pt