藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお)とは、日本の男性漫画家である。本名は藤本弘(ふじもと ひろし)。
1933年12月1日生まれ、1996年9月23日没。享年62。遺作は「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」。
概要
1951年、安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と共同でプロ漫画家デビュー。1954年にコンビ名を「藤子不二雄」へと変え「オバケのQ太郎」をはじめとした多くの作品を世に出した。
1988年、様々な理由によりコンビを解消し「藤子不二雄Ⓕ」名で単独活動を始めるも、1年程度で「藤子・F・不二雄」へ再改名。 藤子不二雄名義時代からの単独作「ドラえもん」などの執筆を行う。
1996年9月20日、自宅の仕事部屋で「のび太のねじ巻き都市冒険記」を執筆中に鉛筆を握ったまま意識不明となる。娘が発見し病院に運ばれたが意識は回復せず、3日後の9月23日に肝不全で死去した。
(前略)
みんな、今の自分より少しはましになりたい、もっと向上したいと思う。
でも、毎日同じ反省を繰り返しながら、足踏みをしている。
結局のところ、それが人間というものなんじゃないかと思うんです。
作風
デビューから筆を擱くその時まで、常に児童漫画の第一線で活躍しつづけた。同世代の漫画家が児童漫画家として出発しながらも次第に作風を大人向けに変える中、最後まで児童漫画にこだわった稀有な存在であった。
手塚治虫に強い影響を受けたひとりである。作品の形態はほとんど一話完結か短編であり、初期を除けば単行本1冊分(大長編ドラえもんなど)を超える長さのストーリーのものはほとんどない。
自らの作品のSF性を厳密な「サイエンス・フィクション」ではなく、日常性に根ざした「すこし・ふしぎ」であると称した。初めての大ヒット作である「オバケのQ太郎」以降、日常に紛れ込んだ非日常の存在が巻き起こすドタバタギャグのパターンを確立し、多くのヒット作を生む。
その一方大人向けのSF短編も手がけており、こちらの知名度は児童漫画に劣るものの、(狭義の)SFファンからも高い評価を受け、アニメ化、舞台化もされた。2023年には、発表から40年以上経過しているエピソードも含まれているのにもかかわらず、NHKで短編テレビドラマ化もされた。
多趣味で読書家であり、トキワ荘の仲間である赤塚不二夫は「俺が漫画を書けたのは藤子にいろいろ教わったおかげ」と語っていた。とくに恐竜、西部劇、落語、模型製作などのモチーフは作品の中に繰り返し用いられた。
主な作品一覧
共同作品
単独作品
- SF短編(ミノタウロスの皿、ヒョンヒョロ、カイケツ小池さん(ウルトラ・スーパー・デラックスマン)、老年期の終わり、ノスタル爺、ある日……、等)
- エスパー魔美
- キテレツ大百科
- T・Pぼん
- ドラえもん / 大長編ドラえもん
- 21エモン
- パーマン
- ポコニャン
- モジャ公
手塚好き
たぶん世界一手塚治虫が好きな人物。どれぐらい好きかというと、子供の頃から毎日本屋に行き手塚の漫画を全て集め、手塚にハガキを送り、返事を貰って歓喜するほど。
高校生の頃に藤子Ⓐと一緒に手塚の実家に会いに行き、手塚に「漫画家になれるか?」と質問。「君たちならやっていけると思う」と言われ漫画家になることを決意する。
初期のペンネームは「手塚の足元にも及ばない」という意味の「足塚不二雄」。手塚のデビュー作が載っていた毎日小学生新聞に「今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい」と封筒を送り、藤子Ⓐと漫画家デビュー。その後、手塚が住んでいたトキワ荘14号室に藤子Ⓐと住む。トキワ荘時代は手塚の机で漫画を描いていた。
プライベートでも付き合いがあり、一緒にラーメンを食べたり映画を見たりもしていたが、2人で「惑星ソラリス」を見た時は藤子Fは徹夜をしていたので爆睡していた。また結婚式の仲人は手塚が務めている。
雑誌『コロコロコミック』初代編集長の千葉和治が手塚への批判を漏らしたところ、火が出るほど怒り、千葉を1週間近く事務所に出入りさせなかったこともある。
手塚没後の数日間は悲しみのコメントを毎日のように雑誌やテレビに発していた。特に「高校生になっても先生のまんがを読み続け…、気がついてみると自分もまんが家になっていた」と発言したことは有名。
世の中に手塚が好きな人は多くいると思われるが、実際に会いに行き、手塚が住んでいたトキワ荘14号室に住んだり、自身も漫画家になったり、プライベートでも付き合いがあったのは彼ぐらいなものである。
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