仲翔は、ほほ笑みながら、青空へ溶け入る小禽の影を見送っていた──これから生きる自分のすがたと同じものにそれが見えたからであろう。
己を貫き通した狂直
虞翻とは、三国時代に登場する人物である。字は仲翔、揚州会稽郡余姚県(浙江省寧波市余姚市)の出身。
王朗、孫策の配下として
虞翻の一族は代々易学の研究をしており、虞翻も学問に励んでいた。若い頃、兄を訪れた客が虞翻の所には見えなかったためそのことを責める手紙を送ったが、客はその内容に感心したため虞翻の名が世に知られることになったという。
虞翻は最初、会稽太守の王朗に仕えた。江東で勢力を広げていた孫策が会稽を攻めると、虞翻は父の喪中にも関わらず王朗との面会を求め抵抗せず避難するよう進言した。王朗はこれを聞かず一戦を挑んで敗れ逃亡すると虞翻も一緒に随行し、王朗の身の安全に尽くした。王朗は虞翻に、会稽に残した母の身を案じて会稽に戻るよう薦め虞翻はこれに従った。
孫策は虞翻を友人として遇することを申し出てこれを召し出し、会稽郡の事務を行わせた。狩猟が趣味だった孫策に対し虞翻は暗殺の危険性を訴え、ある時は山越討伐で一人きりになった孫策の警護を申し出たりしている。また豫章太守だった華歆の元に使者として面会し、これを戦うこと無く降している。
孫策が不慮の死を遂げた時は富春県長をしていたが、山越が不穏な動きをしていることを理由に配下達を留め富春で孫策を追悼し、孫暠(孫策の従弟、孫堅の弟孫静の長男)が会稽郡を占拠しようとするのを防いでいる。
孫権の時代
孫策の弟孫権が兄の勢力を継ぐと、虞翻は曹操からの招聘を断り、騎都尉として孫権に仕えた。
虞翻は孔融や張紘から易学の研究の業績を評価され、陸績(陸遜の同族)と親しく付き合った。しかし虞翻は率直に物言いをするだけでなく他人との協調性に欠く性格であり、孫権は虞翻を疎んじて一時丹陽郡に左遷する。
呂蒙は虞翻の才能を評価していたので荊州の関羽を攻める時にこれを従軍させた。虞翻は呂蒙の命令で公安を守っていた士仁(傅士仁)に降伏するよう説かせる。一度は断れられるも虞翻は懇々と士仁を説得し、その間に呂蒙の手勢が公安を包囲したためついに士仁は涙を流して降伏する。虞翻は続いて南郡を守っていた糜芳をも降伏させた(元々糜芳は孫権と内通していたため士仁の姿を見ただけで降伏したと『呂蒙伝』にはある)。
また虞翻は孫権に関羽の命運を占うよう言われ「二日以内に関羽の首が断たれるでしょう」と言って的中させた。
このように大功を立てた虞翻だが、関羽の捕虜となっていた于禁を辱めたり(後述)、酒の上での失敗も多く、孫権からは煙たがられていた。呉王になった孫権が宴会で臣下に自ら酒を次いで回ると、虞翻は酔い潰れた真似をして床に倒れ、孫権が通り過ぎるとまた平然と起き上がった。頭に血が上った孫権が剣を取って虞翻を斬りつけようとすると劉基(揚州牧だった劉繇の子)が孫権を抱き止めてこれを防いだ。孫権が「曹操は孔融を殺したのになぜ俺が虞翻を殺してはならんのだ」と言ったが劉基は曹操は孔融を殺して天下の非難を浴びたからそんな事をしないよう懸命に説得、やがて正気に戻った孫権は配下に「自分に酒が入った時は、殺すと言っても決して殺さぬように」と命令している。
孫権が張昭と神仙の話題をしていた時、虞翻が張昭を指さして「死人達が神仙について語っております、(不死の)神仙など居ないでしょうに」と発言したことを孫権は問題視し、虞翻を交州に強制移住させた。
虞翻が交州に向かう時豫章郡の小役人だった聶友という人物が見送りに来た。虞翻は豫章太守に手紙を送り聶友を登用するよう勧めた。後に聶友は丹陽太守まで出世した(『諸葛恪伝』に彼の記載がある)。
虞翻は交州で数百人の門下生を相手に学問を教えていた。孫権は遼東の公孫淵討伐に失敗して多大な損害を被った時、虞翻のことを思い出し交州に消息を問わせた所、既に虞翻は逝去していたためその子らを呼び戻した。亡くなった時は七十歳だったという。
陳寿は虞翻の評として「虞翻は古の『狂直』(どこまでも正しいことを貫こうとする)とも言うべき人物だったため、このような末世の時代に禍を避ける事ができなかった。彼を受け入れられなかった孫権の度量の大きさもに欠ける所があったともいえよう」と記している。
家族
虞翻には十一人子があり、そのうち四人が名を知られている。
- 虞歆 - 父。日南太守
- 虞汜 - 四子。孫綝が帝位を簒奪するのを防ぎ、一時晋に占領された交州を奪回するのに功があった
- 虞忠 - 五子。晋が呉を滅ぼした時、陸抗の子である陸晏・陸景兄弟らと共に戦死した
- 虞聳 - 六子。晋に仕えて河間国の相になった
- 虞昺 - 八子。晋に仕えて済陰太守になった
- 虞譚 - 孫(虞忠の子)。晋に仕えて衛将軍になった
- 虞喜 - 末裔(虞聳の族子の子と伝わる)。東晋の学者。三国志にも裴松之の注として使われている『志林』の著者。天文学での業績として、中国では初めて歳差(地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしている現象)を発見した。また天は球体ではなく虚空であるという宣夜説を唱えた
逸話
- ネットではドSとして虞翻の所業が広く知られている。
江陵を接収した孫権は、関羽に囚われていた魏将の于禁を丁重に処遇し一緒に馬を揃えることを許可したが虞翻は「降伏者のお前がなぜ我が君と馬首を並べるのか」と于禁を鞭で打とうとし孫権はこれを止めさせた、あるいは孫権が楼船で宴会を催した時、音楽を聴いて涙を流した于禁を「お前はこんなことまでして許してもらおうとするのか」と言い、孫権は不機嫌になった。魏との講和が成立し于禁が帰還することになっても虞翻は于禁を斬るよう進言している。なお于禁は魏に帰った後虞翻のことを賞賛し、魏君の曹丕も虞翻のために常に席を空けていた。 - また虞翻はかつて自分が降した(あるいは自発的に降った)糜芳を憎み、船に乗っている時糜芳の船とすれ違って先方から将軍の船を避けろと言われ虞翻が「忠と信が守れないのに何によって主君に仕えるのか、預かった城を二つも失って将軍と名乗って良いのか」と叫ぶと糜芳は返答できず急いで虞翻の船を避けた。また虞翻が糜芳の軍営の門を通ろうとして門が閉ざされているのを見て「閉める時に門を開けて降伏するのに開ける時に門を閉ざしたりする。道理が分かっているのか」と虞翻が言うのを聞いた糜芳は大いに恥じたという。
- 虞翻は家伝である易学を研究し、特に今文易と呼ばれる前漢時代の易学についてまとめ上げた。その著書は散逸したが断片が残っており、清代の今文学研究のテキストの一つとなった。
各メディアにおける虞翻
三国志演義
初登場は、孫策軍が攻め寄せてきた時の会稽。
大まかな動向は正史と同じだが、王朗の逃亡に協力した描写はなく、王朗が敗れた後はすぐ孫策に仕えている。
また華佗と知り合いという設定が追加され、彼を孫策に紹介するのが最初の仕事であった。
その後は孔明と舌戦(やられ役)したり、傅士仁を説き伏せたりするのが主な出番。(他に出番はあったかな?)
性格が悪いとか、交州送りになったとかそこら辺の描写はされていない。(たぶん)
なお、虞翻が王朗に、「あなたも次の時代に用のないお方だ」と言うのは吉川英治氏の創作である。(演義ではため息をついて去るだけ)
しかも王朗は後半魏国で再登場し、ちょいちょい出番もある(正史でも演義でも吉川三国志でも)。むしろ虞翻の方が出番少ないような気もするのだが…
張郃(張コウ)が3度死ぬ現象と同じで、後で出るとは知らずに退場シーンをオーバーに脚色しようとした結果、このセリフが創られたのだろうか?
結果的に虞翻の黒歴史みたいな台詞になってしまっているが…
コーエー三國志
初期のシナリオで王朗に仕えているが、大抵君主が先に逝って跡を継いだりしている。
正史のように君主に忠実であると信じたいが…
横山三国志
ニコニコ動画における虞翻
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関連項目
- 三国志の登場人物の一覧
- 王朗
- 孫策 / 孫権
- 孔融
- 呉(三国志)
- 虞汜
- 孔明の大論陣吹き替えシリーズ
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