飯塚幸三とは、日本の工学者である。
…が、世間的には、池袋高齢者ドライバー暴走事故を起こした加害者としての悪名が圧倒的に高い。
概要
1931年、東京都中野区で出生。
1939年に第二次世界大戦が勃発した際、飯塚自身は疎開や工場動員こそ免れたものの自宅が焼失している。1945年の終戦後、理科好きの少年であった飯塚は勉学に励み続け後に東京大学理科一類に合格。在学中は工学部応用物理学科(計測工学専修)を選択。卒業研究では日置隆一教授の下で位相差顕微鏡のカラー化に関連するテーマに取り組む。
1953年、東京大学を卒業し通産省(現在の経済産業省)に入省。同省が主管する工学技術院中央計量検定所(現在の産業技術総合研究所計測標準総合センター)に入所。以降は国内の機械産業や鉄鋼業で用いられる「硬さ標準」の研究に邁進。1986年、工業技術院院長に就任。
後に日本計量振興協会会長、株式会社クボタ常務取締役などを歴任し、2015年には瑞宝章(瑞宝重光章)を叙勲している。
若いときから約15年余り、研究三昧の研究所生活が過ごせたのは誠に幸運な人生だったと考えている。共同研究者として一緒に苦労してくれた上記今井氏と先年早逝した後藤充夫氏にも感謝に耐えない。
精密工学会誌Vol.73,No.10,2007『私の歩んできた道 第1回 硬さ標準の研究三昧の時代』より引用
顧みれば研究者・研究管理者・行政官・会社役員を歴任して,いずれにも徹底せず中途半端な人生ともいえるが、それぞれ全力投球で楽しく過ごせたことは幸せであった。この機会にここまで非才の筆者を育て、ご指導いただいた諸先輩,ご支援・ご協力いただいた仲間の皆様に厚く感謝を申し上げたい。
精密工学会誌Vol.73,No.12,2007『私の歩んできた道 第3回 研究管理・技術行政と国際委員会の時代』より引用
と振り返っている。
趣味はゴルフの他に、合唱を学生時代から嗜んできた一面を持ち、工業技術院院長時代には院長室にステレオセットが置かれていた。
飯塚は愛妻家でもあり、飯塚夫人も同じく音楽好きで合唱を嗜んでいた。
最寄り駅から奥さんと相合傘で肩を抱いて歩いていたので、本当に愛妻家なんだと思いました。二~三年前、奥さんが夫婦お揃いの音符のマークの入ったユニフォームを持って来て「これ、(年末の)第九のコーラスの時に来たのよ」と言っていましたね。
と語っている。
池袋高齢者ドライバー暴走事故
当時飯塚は87歳の老齢かつ無職であったが、彼の運転する乗用車(トヨタ・プリウス)が突如暴走。池袋の都道を時速100km近いスピードで走行し歩行者を次々と撥ねてしまう。結果、飯塚本人と同乗の妻を含む10人が怪我、母子2人が死亡する大事故となった。[1]
アクセルが戻らなくて、人をいっぱいひいちゃった。
警察の調査では、現場にブレーキ痕がなくエアバッグ含め乗用車に不具合が確認されていないことから、飯塚が誤ってアクセルを踏み続けた運転操作ミスの可能性を指摘されている。
その後の調査により乗用車が90km/h台後半まで加速していたことが明らかになっており、アクセルとブレーキの踏み間違いの疑いが濃厚となっている。
飯塚は2017年に運転免許を更新し認知機能検査で異常なしと判断されていた。しかし、足が不自由であったこともあり、飯塚と同じ集合住宅の住人は
奥さんと2人暮らしで、ここ何年かで歩くのは結構きつそうになっていた。つえを持って歩いていた。
車庫入れがちゃんとできないのを見て危ないと思った。
と証言している。
また、日本計量史学会副会長の黒須茂は、事故1か月前の飯塚の足の状態について
会議後、先生に「ちょっと肩押さえてくれ。押さえてくれないとまずいんだ」と言われ、肩を支えて車まで行ったんです。前に「先生、よくこんな細い路地のところを運転できますね」と聞いた時には、「段差のある所は転ぶから嫌で。車を運転した方が楽なんです」と言っていたんだけどね……
事故後一貫として、車の不具合が原因と主張してきたが、事故後の調査にブレーキ等の欠陥等は認められず、アクセルとブレーキの踏み間違えが原因という見通しが強まった。
その事故経過を得て、
「おごりがあったのかなと思い、反省しております。自分の体力にその当時は自信があったんですけど。おわびの気持ちをずっと持ち続けていることをお伝えいただきたいと思います」
「安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転できるような、外出できるような世の中になってほしいと願っています。いつも申しあげているように、本当に被害者の方に申し訳なく思っております。」
と取材について答えている。またこの報道の時点で翌12日に書類送検される報道が発表された。
2019年11月12日、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)容疑で、書類送検された。
2020年2月6日在宅起訴がされていると報道がされた、これにより一部報道より飯塚『被告』と呼称するようになった。
2020年10月8日に事故の初公判が決定され、マスメディアに報道された。
第1回目の公判では被害者に謝罪を述べる一方、事故については車の不具合として無罪を主張した。
2021年9月2日、東京地裁にて、『禁固5年』の実刑判決が下された。
高齢者であることや、世間での厳しい風当たりや過度の社会制裁は認められたが、それを踏まえた上で
「アクセルとブレーキの踏み間違い」を認定し、これまでの公判などで見せた言動により、飯塚に対して峻烈な処罰感情を有し、事故に真摯に向き合い、深い反省の念を有しているとは言えないとした。
判決が終わり際に裁判長は、飯塚に対し「あなたの過失は明白。まずは遺族の方々に真摯に謝っていただきたい」と言い渡された。
同年の9月15日に飯塚は控訴しないことを支援団体を通じて伝え、実刑判決が確定する見通しとなった。
飯塚は「遺族に申し訳ない。控訴せず、罪を償いたい。」と理由を述べた。また検察側もこれに伴い控訴を見送る形となった。(引用元)
同月の17日、上記の通り実刑を受ける事を受けて、勲章褫奪令に基づき瑞宝重光章を褫奪された。
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関連項目
脚注
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