よど号ハイジャック事件 単語

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ヨドゴウハイジャックジケン

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よど号ハイジャック事件とは、1970年に発生したハイジャック事件である。

概要

日本史上初のハイジャック事件。

左翼集団「赤軍」のメンバー9人(通称:よど号グループ)が旅客機ハイジャックし、北朝鮮へと亡命した事件である。2022年時点ではメンバーのうち5人が死亡し、4人が現在でも北朝鮮生活している。事件から既に50年以上が経過しているが、メンバーたちの現状はホームページ「よど号日本人村」exitで見ることが出来る。

赤軍派

日本共産党暴力革命路線を放棄したのに反発し、暴力革命による共産化をした者たちを「新左翼」と呼ぶ。だが、1970年代になると分裂や内ゲバなどで勢力は衰えていった。そんな中、共産主義者同盟赤軍(以下、赤軍は全世界同時革命を掲げて過行動を起こし、警察を襲撃するなどの行為を行っていた。

だが、1969年の大菩薩事件で53人ものメンバー逮捕され、弱体化を余儀なくされてしまった[1]。そうした中で、外にも拠点を設置して活動するという計画が立てられた。ところがその計画を練っていたところで赤軍リーダー塩見孝也が逮捕されてしまう。後に「よど号グループ」と呼ばれることになる残されたメンバー9人は、塩見示通りハイジャックを行う事を決意した。

そして標は北朝鮮への亡命となった。だが赤軍は反スターリン義なのに対し、北朝鮮スターリン擁護の思想を唱えているなど思想が明らかに異なる。標が北朝鮮になったのは、単に日本から一番近い敵対だからという至極単純なものであった。そして根拠地とした北朝鮮そのものを最終的には赤軍の思想に染めようという、どう考えても不可能としか思えない的をもっていたのだった(更にそこから朝鮮半島の統一、中国赤軍化、ベトナム赤軍化…といった標ももっていたという。どう考えても無理ゲーである)。

よど号

よど号の機種はボーイング727日本国航空が購入し、日本航空JAL)がリースしていた機体だった。事件が起こった便は羽田空港発、板付空港現在福岡空港)着の予定で、乗員7人乗客122人が搭乗していた。
余談だが舛添要一もこの便のチケットを持っていたが、前を飲みすぎて寝坊し間に合わず、難を逃れている。

ハイジャック

1970年3月31日
よど号が羽田を離陸して間もなく、よど号グループ日本刀拳銃などの器(のちに偽物と判明)を取り出してハイジャックを行った。しかし日本初のハイジャック事件だったため「ハイジャック」という言葉が世間に浸透しておらず、乗客から言葉の意味を聞かれた犯人たちも上手く説明できなかったため、巻き込まれた乗客のひとりであった路加(せいルカ病院医師日野原重明が説明したというエピソードもある。

航空機関士を追い出したメンバーは機長と副操縦士に平壌へ向かうよう要したが、副操縦士が「付までの燃料しか搭載していないから一旦降りないと平壌へ行けない」と言ったため、よど号は一旦板付空港に着陸した。なお実際には燃料は少し多めに搭載されており、一応平壌までたどり着けるくらいの量はあった(ただしどう飛べば平壌まっすぐ到着出来るのか分からないので、それを考慮すると燃料切れを起こす可性は高い)。他にも機長と犯人の会話から、機長は犯人たちがどうやって旅客機を飛んで運用されているのか全く分かっていない事を感じ取っていた。

福岡県警はなんとしても離陸させたくないと考えており、付では給油を遅らせたり、自衛隊戦闘機がよど号の進路上で故障したふりをしたりと露な時間稼ぎが行われたが、これが犯人たちの怒りを買ってしまう。機長の説得もあり、女子供、高齢者、病人など23人を降ろして出発することになった。

朝鮮半島へ

板付空港を離陸したよど号であったが、犯人の持ち出した地図中学校で使うような地図帳のコピーで、平壌丸が付けられているだけであり、どういうルートで飛べば平壌に辿り着けるのか全く分からない状態であった。

また、日本政府北朝鮮が誤って撃墜したりしないように安全を要請する必要が生じたが、北朝鮮の反応はなかった。

38度線を越えた後、所属不明の戦闘機が現われ(韓国北朝鮮は38度線とは異なるので、38度線を越えていたがそこは韓国であった)着陸を促す示を出した。更に「平壌からの航空管制」からの通信が入る。これらは全て韓国側による行動で、管制官の喋る英語や使っている線周波数などから機長たちはこれが韓国工作だと気づきつつ降下に入った。一方の犯人朝鮮語英語も分からなかったため、何を言っているのか分からないままだった(航空管制とのやり取りは英語で行われる)。

韓国ではハイジャック発覚から北朝鮮に入れさせない為、ソウルの金キンポ)空港平壌に偽装させ、西側諸国飛行機は全て飛ばし、北朝鮮国旗を掲げ、韓国軍人に朝鮮人民軍制服を着せるなどの工作が行われていた。韓国としては、この前の年、1969年12月大韓航空の機体がハイジャックされて乗客のうち11人が未帰還になる(拉致)という事件が発生していた為、その二の舞にならないよう、韓国内で事件を終わらせようと努めていた。

に着陸したよど号の前にはチマチョゴリ姿の女性花束を持って出迎え、犯人たちは平壌に着いたと思い込んでよど号から降りようとした。が、犯人グループの一人が外にシェル石油看板があるのを見つけて、ここが平壌ではない事に気がついてしまう。そこで犯人たちは北朝鮮であれば必ず掲揚されているであろう金日成の大きな写真を持って来いと言い、当然韓国側では用意できなかったため全にバレてしまった。

交渉

偽装がバレた韓国政府犯人グループとの交渉を始めた。韓国飛行機エンジンを再始動するための「スターター」の提供を拒否したことで、よど号は離陸できなくなった。

日付が変わって4月1日になると日本政府関係者も韓国入りして交渉に入る。更に北朝鮮政府とも交渉を行い、北朝鮮はもしよど号が飛来したら人質の乗員乗客は全て送り返す、と表明した。

そして4月3日、3日間の缶詰状態が続いていたが、衆議院議員山村新治郎運輸政務次官が人質の代わりになることで犯人グループとの同意を得た。ここで乗客と客室乗務員が全員降ろされ、機長・副操縦士・航空機関士・山村の4人と犯人グループ9人が乗ったよど号は金から離陸した。

北朝鮮へ

18時に離陸したよど号だったが、北朝鮮側からのアプローチはなく、相変わらずまともな地図もないため、19時21分にに入った小さな滑走路に着陸した。ここは美ミリム)飛行場という名前で、平壌から25kmほどの距離であった。北朝鮮側は武装解除をめてきた為、偽の器類は全て機内に残し、13人は北朝鮮の地へと降りた。

その後北朝鮮日本がこちらに問題を押し付けてきたと非難しつつも、4月4日には人的観点から機体と乗員、人質の返還および亡命者の受け入れを表明し、4月5日、機長ら4人は日本へと事帰還した。この様子はテレビ中継され、視聴率40記録している。

その後

この事件がきっかけで、その年の5月にいわゆるハイジャック防止法が定められた。

よど号グループは当初は同志として手厚い歓迎を受けたが、北朝鮮赤軍化するという荒唐稽な的は達成できるはずもなく、逆に北朝鮮体(チュチェ)思想を洗脳されたと考えられている。またほぼ全員北朝鮮日本人女性結婚し、子供が生まれている。メンバー2022年現在で9人のうち、3人が死亡、2人が逮捕、4人が北朝鮮に残っている。残存メンバーよど号日本人村exitというホームページを立ち上げて、日々の他ない日記や、事件(例えば安倍晋三射殺事件など)に対する彼らの思想などを発信している。北朝鮮においてインターネット、特に外に向けたものはかなり制限されていると言われており、ホームページから伺える生活の様子から見ても、彼らは北朝鮮において今でもかなり厚遇された生活を送っている。

日本への帰については北朝鮮政府犯人たちも肯定的で、日本ハイジャックの裁判を受ける準備もあるとしているが、一部のメンバーおよび日本人妻が北朝鮮による日本人拉致に関与したとして指名手配されており、拉致については冤罪だという理由で北朝鮮に留まっているとしている。なお海外逃亡中は時効が進まない為、メンバー4人は全員今でも指名手配中である。

よど号事件の翌1972年には赤軍重信房子のグループが同様に海外拠点を作るためパレスチナへと渡り、日本赤軍を名乗って世界各地で数々のテロ行為を行うことになる。

日本に残った赤軍メンバーは後に「革命」と呼ばれる別の新左翼と合流し、連合赤軍と名乗って山岳ベース事件、あさま山荘事件という大惨劇を引き起こして市民や知識人からの支持を全に失い、落する。

山村新治郎は生きて戻れるかも分からない状況で人質となり帰還したことで一躍時の人となった。のちに農産大臣や運輸大臣も歴任したが、1992年4月12日精神疾患を患っていた次女によって自宅で刺殺された。享年58歳。次女は精神を病んでいたため起訴されなかったが4年後に自殺している。

よど号メンバー

田宮高麿(たみや・たかまろ)

1943年生まれで事件当時は26歳。最年長でリーダーを務める。1995年11月30日心臓麻痺の為死亡したとされている。享年52歳。しかし前日の29日には赤軍リーダー塩見平壌で会っており、その際は特に健康に問題は見受けられず、突然の死であった。よど号グループと度々面会していたジャーナリストの高沢皓はこの死を疑っており、北朝鮮当局から何らかの力がかかって殺されたのではないかという疑念も根強い。

小西隆裕(こにし・たかひろ)

1944年生まれで事件当時は25歳日本にいた頃は警察署に火炎瓶を投げ込むなどの行為を行っていた。メンバーの中では一、元々仲だった女性結婚している。田宮に次ぐサブリーダーで、彼が死去してからはリーダー格を務める。現在北朝鮮にて生存している人物のひとり

岡本武(おかもと・たけし)

1945年生まれで事件当時は24歳。1972年日本赤軍(当時の名称はアラブ赤軍)が起こしたテルアビブ空港乱射事件の実行犯のひとり岡本三は実の北朝鮮在住の日本人女性・福留美子結婚するが、岡本も福留も北朝鮮体思想に対して否定的だった。1980年代になると田宮と対立するようになり、幾度となく「招待所」で体思想の再教育が行われ、やがて日本人に戻ってくることもなくなった。1988年土砂崩れあるいは落盤事故によって妻共々死亡したとされているが、前述のジャーナリスト高沢氏によれば実際はその頃に漁で脱北をはかるも当局に捕らえられ、強制収容所送りとなって死亡したという情報もある。享年43歳か。

日本政府岡本の死は確認できていないとして、現在でも指名手配している。

田中義三(たなか・よしみ)

1948年生まれで事件当時は21歳。小西同様、火炎瓶を投げ込むなどの行為に加担していた。

1996年ベトナムへ向かう途中、カンボジアで身柄を確保される。タイに移されて偽ドル札を製作していた容疑で起訴されるが、これは無罪となる。その後2000年日本に身柄を移され、裁判にかけられて懲役12年が確定。中で肝臓がんを患い、2007年1月1日死亡した。享年58歳。

安部公博(あべ・きみひろ)

1948年生まれで事件当時は22歳。北朝鮮亡命後、日本人女性結婚して姓を沼に改めている。よど号グループ9人の中で一有本恵子さんの拉致への関与が疑われており、その罪でも指名手配されている。現在北朝鮮生存している人物のひとり

若林盛亮(わかばやし・もりあき)

1947年生まれで事件当時は23歳。現在北朝鮮生存している人物のひとり1999年芸人江頭2:50北朝鮮を訪れた際には安部と2人で対談に応じている。

赤木志郎(あかぎ・しろう)

1947年生まれで事件当時は22歳。現在北朝鮮生存している人物のひとり

吉田金太郎(よしだ・きんたろう)

1950年生まれで事件当時は20歳。1985年9月4日に急性肝萎縮症で死亡したとされており、メンバーの中では最もく、また未婚のまま死亡した人物。享年35歳か。だが死亡についてはいくつかの疑念が持たれており、死後にメンバー吉田の事を一切語っていない。裕福な庭で育ったこともあり、強制収容所に送られて死亡したのではないかとの推測もなされている。

柴田泰弘(しばた・やすひろ)

1953年生まれで事件当時は16歳高校生1985年リーダー田宮の命で日本に密入して人材や金銭の確保を行っていたが、1988年逮捕された。その後懲役5年が確定。出所後は徐々に活動から身を引き、2011年6月23日、自宅アパートひとり病死しているのが発見された。享年58歳。

妻・子供

メンバー1977年頃に北朝鮮在住の日本人女性と次々結婚している。元々仲だった小西と、結婚しなかった吉田以外の7人は縁もゆかりもない女性たちと結婚した。このうち、若林の妻・若林佐喜子と、田宮の妻・順子日本人拉致に関わったとされ指名手配されている。

その後、日本人妻は死亡した1人(岡本の妻)と指名手配されている2人以外は帰している。また、北朝鮮で生まれたメンバー子供達も2000年代全員日本へと移住している。

関連項目

脚注

  1. *逮捕されたメンバーを奪還するため警察を襲撃する」という計画の下に山梨県の大菩薩で大規模武装訓練を行おうとしたが、警察はおろか新聞社にまで事前情報ダダ洩れするという有様であった
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