日本刀 単語

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ニホントウ

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この記事では日本類について記述しています。
その他の類に関しては、「」を参照してください。

日本刀にほんとうとは、長のうち日本原産の物をす言葉。カタナ。

広義には、日本類を総称する。「」とは身の片側にのみがある形態のし、身の両側にのある「剣」と呼称される。

単に「」とも呼ばれるが、平安時代末期~戦国時代までは「」といった場合、もっぱら短刀を示しており、当時はといえば太刀である。そのため例えば、で武功をあげた場合は一番「」・「」の功名とは言わず一番「太刀」・「太刀」打ちの功名と呼称した。

」が日本刀の通称になったのは安土桃山時代以降である。

概要

日本刀はが生み出した芸術であり、強力な兵器である。原は既に古墳時代から存在していたが、一般的にイメージされる日本刀の形となったのは平安時代後期からといわれている。

日本刀は武器の他、古くから武士だけでなくあらゆる身分階層の「成人男子徴」として機しており、14世紀前半に起きた鎌倉幕府滅亡以後は武士及びその従者、僧侶、そして農の地以外のの所持・帯者が急増したという。
これは社会情勢の不安定化が進んだためであり、慢性的な食糧難に陥っていた。また、当時の人々は現代人どころか、江戸時代中期の人々とべても、道徳観念が低く、何かしらの揉め事が発生した場合、拳や武器をもちいた暴力的な解決手段を取ることが多かった。そのため、日常的に殺し合いが頻発し治安が悪化していく。

この血生臭い習が横行した時代における日本刀は、戦場武器というよりも、携帯性の高さから強盗喧嘩器、いはそれらから身を守る為の護身用の武器であるという面も強かった。

(この問題を解決するために、豊臣政権や江戸幕府が様々な法案を出し、意識改革も行っていくのはまた別の話。)

特に戦国時代には民衆の間で成人に達した男性脇差打刀を帯する文化が生まれ、戦国時代の後半に来日したカトリック教師達に「身分・貧富問わずあらゆる階層の者が携帯している」と表されるほどとなる。

一方で織豊時代以降からは権力者を中心に美術作品としても高い評価を得ている。

平安時代後期鎌倉時代完成形とも言われており、その用いた材料や正確な製造方法はロストテクノロジーとして未だよくわかっていない。 江戸時代現代にかけて数多くの刀匠再現に挑戦しているものの、なかなかうまくはいかないらしい。

刀は武士の魂」というイメージが強いが、これは明治時代から昭和にかけて日本軍国主義へのを歩んでいく過程で一般化されたもので、戦国時代中期までは矢が武士徴であり、戦国時代末期狩りという身分統制を経て初めて「武士徴」に変化した。(戦国時代末期にこのような言葉があったわけではなく、後世の学者が便宜的にそう呼称しているだけである。あくまで「徴」であり「」としていないことに注意。)

大東亜戦争後は、GHQにより「日本国内に存在する全ての日本刀」を処分するよう通達がなされ、武器として収されたのち破棄・破壊されていったが、日本側の努力により、"登録制の美術品"という形にすることで、全て失われるという最悪の事態は避けられた。しかし、このドサクサに紛れて、連合兵士神社閣などから日本刀を勝手に収して本へ「戦利品」として持ち帰ってしまったため、数多くの名行方不明になっている。

現在インターネットで購入することも出来るが、高額な買い物になるので実物を見たほうがいいかもしれない。出来のよい無銘や、綺麗な銘入の古・業物のなどは数十万数千万の価格で取引されているという。「なまくら」や「束」「数打ち物」と呼ばれる室町時代以降に大量生産されたなどは、10万円台で購入することも可。なお所持については各都道府県教育委員会への登録が必須となっており、登録の日本刀を所持するのは銃刀法違反である。

現在宝・重要文化財級の日本刀は、博物館にて保管・展示されている事が多いため、興味がある人は行ってみてはどうか。(関連リンクを参照)

・・・と上で書いてあるものの、通常、宝や重要文化財は納まるところに納まっている(神社寺院博物館など)のが常だが、日本刀の場合は他の分類と較しても圧倒的に個人蔵が多い。理由は色々あるが、①報償として君から配下の武将に拝領する習があったこと、②GHQや進駐軍の狩りもどきがあったこと、③族(元大名)の落によりが多数売りに出されたこと(紀州徳とか徳とか平家とか)などが考えられる。日本刀は他の文化財と違って研いだりを差したり定期的に手入れをする必要があるから、たとえ手元に置きたくとも、大事にできない人の手から逃げていく。昔から「名は人を選ぶ」と言われる所以はそこにあると筆者は思っている。

日本刀の変遷

この項では、日本刀の種別を時代ごとの変遷に合わせて大雑把に述べる。

大昔に製鉄技術が伝わって以来、長く日本では反りの製作されていた。これをと言う。詳細については多くは述べないが、発想としては直(刺突体)を切断用にしたものと思えばいい。
手刀
日本古代より使われた直の一種。柄の部分に反りがある特徴的な形態をしている。この反りが、日本における彎の誕生の原点となったと考えられている。
反りのあるの総称。平安時代中期に誕生し、以来日本スタンダードとなった。毛抜形太刀(けぬきがたたち)、鋒両造(きっさきもろはづくり)などを経て、現在一般的に日本刀と呼ばれる形態、太刀完成する。
太刀百
反りの三要素を持ち、なおかつを下にして佩用するのこと。現代まで続く日本刀の基本形はここで完成される。平安時代後期に誕生し、飛び道具や長柄武器の欠点を埋める二次的な武器であった(しかし、巷で言われるような儀礼用ではなく、例えるならば右利きの人にとっての左手の役割に近い。)が時代に合わせてマイナーチェンジを繰り返しつつ日本戦場を駆け回ったことや17世紀以前の文献から「太刀打」や「一番太刀打ち」など太刀の使用を示俊する言葉が散見されることからそれなりの立場にある武器だった事がうかがえる。ただし、江戸時代以降、打刀一色になってからは本当に純な儀礼用になった。
五月人形の横に飾ってあるアレである。由来は「断ち」から。
打刀百
形状は太刀と大差ないが、を上にして帯するものをしやや短めのものが多い。室町時代以降はこの打刀流となっていく。
時代によって形状が変遷し、元々は刺とよばれる短刀だったが南北朝時代における武器の長大化に乗っかって大化したのが始まり。後に戦乱期に大量生産されたり今では信じられない値段で安売りされたり幕末の頃には切っ先が長く反りが薄いものが多くなったりした。
由来は「打つ(斬る)刀」から
一般的にイメージされる「おさんがに差す日本刀」はこれである。
脇差百
武士武器(本差)の予備として持ち歩いた小振りので、するものをす。いわゆる「小太刀術」とは、この脇差のなかでも大きな物(長55~59cm)を用いた剣術のことである。
短い方のアレである。また前述の打刀の予備・補助であり、特に小さいものは取っ組み合いや、合戦場で敵の首をり落とすために使われた。
大太刀百
あるいは野太刀ともよばれる。定義はやや曖昧だが渡り85cm以上の大の日本刀をし、背負うように携帯することも多かったため背負い太刀とも呼ばれる。性質としてはというより長柄武器に近い。重量の割に柄が短いため扱いづらく、高価であったため、使い手には技術と財力が要された。
少なくとも鎌倉時代初頭からその存在が確認され、南北朝時代にもっともよく使わたといわれている。
その後戦術の変化により下火になりつつも、江戸期に入るまで戦場で使われたほか、
威圧感があるため味方の戦意高揚や寺社への奉納的で作られることが少なくく、時代の要により
短く刷り上げられることも多かった。
長巻の太刀百
大太刀で柄の長い太刀であり、長巻と略される。南北朝時代の後半に出現し、大太刀をより扱いやすくするため身の根元から中間にかけて革や布を巻きつけ持ちやすくしたことが起と言われている。薙刀と混同されがちでは明確ではない。
(なお、漫やアニメな響か、サブカルチャー上において大太刀などの剣とともに斬馬刀と通称されることがある。)
分類上は長柄武器であるが、日本刀に含まれることがある。断面菱形または三角形の両っ直ぐな身を持ち、柄に差し込まれる茎(なかご)は身の数倍あり、かなり長い。南北朝の乱の後半に現れたが、古代に用いられた矛とは異なる武器であるとされている。
出現当初は2mほどの柄に短刀を付けた、いわば薙刀の代用と言えるものであり、あま目立たなかった。しかし応仁の乱以降は、戦闘動員数激増し、これまでの散兵戦術から密集戦主体に変化していったため、柄の長さも3m超えるようになり、戦国時代の後半から江戸初期にかけて重視されるようになった。特に長槍は長槍とも呼ばれ、これを扱う兵士に数列の横隊を組ませそ槍を突き出すよう構えたモノ衾と呼んだ。
このような形は古今東西洋を問わず、正面突撃には非常に強かったが、山岳等起のある土地では使えず騎兵兵の補助が必要であった。なお、太刀打刀とは製法が異なる。

五箇伝

における五大流のこと。江戸時代鑑定の規準とするために分類された。日本刀には古来要な五つの生産地があり、その土地の名前を取って○○伝と称する。

大和
大和地方刀工集団による鍛法。古来日本の中心地であった大和地方日本刀工発祥の地とされており、奈良時代無銘は彼らの手によるものと考えられる。
千手院、手搔、保大和を擁す。
地方刀工集団による鍛法。発祥について当時の史料は残っていないが、山城国平安京遷都によって日本の中心地となった際、刀工集団も移住、発生したはずとされている。
刀工としては、宝「三日月宗近」の三条鍛冶宗近、「鬼丸」の綱などがいる。来行、来俊ら来一も山伝の刀工である。
備前伝
備前地方刀工集団による鍛法。中国山地は古代より良質のの産地であり、現代の刀工が使う玉鋼も、島根県のタタラ製鉄所で製造されているほどである。また、その他製作に必要な条件にも恵まれており、備前地方は長く類の巨大生産地であり続けた。特に中心地であった長は名高く、「備前長」は現代でもビッグネームである。また、鍛冶の為に木を切りすぎて洪水で壊滅したことでも有名である。
定、則などが有名。佐々木小次郎の「物干竿」は備前長船長の作とも伝わっている。
相州伝
五箇伝の中では最も新しい、相模地方刀工集団による鍛法。相模鎌倉鎌倉幕府の中心地であり、鎌倉中期に各地の刀工たちが移住してきた記録が残っている。鎌倉末期には正宗五郎正宗とも)を輩出し、彼の作は、後の相州伝の基本となった。ゆえに正宗が相州伝の完成者とされている。
正宗と、その子と伝えられる正宗十哲が有名。
美濃
美濃地方刀工集団による鍛法。鎌倉中期(長年間)に良質の焼土をめて九州から移住した元重に始まるとされている。特に美濃国関には多数の刀工り、現在でも関市物の産地として世界的に有名である。
「関の孫六」こと兼元、「之定」こと兼定が特に有名である。

製造方法

日本刀の定義および製造は、幕末刀工である心子正秀の残す書物によって定義され、玉鋼(たまはがね・和鋼とも)を材料として古式に則った作法でもって作られることが現行の法律によって決まっている。よって、新しく日本刀を製作しても、玉鋼(和鋼)を用いた伝統的な製法によるもの以外はすべて、日本刀としては扱われない

まずは玉鋼の精錬。
を原料として伝統的な製鉄方法「たたら吹き」で精錬される(現在の玉鋼の精錬は日立金属が取り扱っている)。

炭素量の少ない「柔らかい鋼」を背に「硬い鋼」をとして組み合わせる。だから切れ味は鋭いのに、折れにくい。

次に鍛造。
槌で打って鋼を圧着し、形を整え、鍛造効果で硬度は増す。でも背側の鋼は柔らかいから、砕けにくく、しなやか。
しかも脱効果もあって鋼の純度は上がる。

そして熱処理。
焼入れをするのだが、焼き入れ速度(鋼を冷ます速度)が速ければ速いほど、鋼は硬く・もろくなる。
だから身に泥を塗り、だけを露出させて焼き入れをする。(紋はこれで出来る)
当然先は硬くなるが、身は冷却速度が遅いのでしなやかさを保つ。

これらの製造過程を経て鍛え上げられた日本刀を切断した後に電子顕微で観察したところ、鋼に匹敵する,極めて小さな針状の結晶が絡み合い強度を高める微細な組織が観察された。

工学とか知らない人にとっては意味不明だろうが、この技術は成立年代的に考えて、オーバーテクノロジーもいいとこである(ただし一部を除けば日本独自の物ではない)。全な経験の積み重ねのみで到達したというのだからなお恐ろしい。

日本刀の威力

その威力は様々な諸説があるのだが、最低拳銃で発射したガバメントの弾丸、ウォータージェット程度ではびくともしない事はトリビアの泉で判明している。最適な度であれば割れる。

基本的に、漫画にあるような「人体を一両断」というのはなかなか難しい。プロ介錯人でさえ、人の首をはね損ねる場合もある。それだけ人間というのは硬いのだ。が・・・

日本刀の中にはとんでもなく恐ろしいれ味を持つ名が多数存在する。 有名な物の一つに「童子切」と呼ばれる日本刀がある。源頼光であり、天下五剣の一振りで現在宝に定されている。
江戸時代に試し切りの達人が、罪人6人の死体を重ねて童子切を振り下ろしたところ、死体6体がバッサリと切断され、なおも勢いが止まらずに土台までが食い込んでしまったという。 
源頼光酒呑童子の首を切り落としたと言われているこの名は、東京国立博物館に保存されている。
 

現在の技術で作られた硬合金製ならドアすら切れるということもつい最近になって判明し、試し切りを行った藤岡弘、は「リアル斬鉄剣」と発言した[1]全盛期の切れ味は、ティッシュを乗せたらスパンとれてしまうくらいだったらしい。

有名な逸話としては「日本刀で首を刎ねられた者は死ぬまでられたことに気づかない」であろうか。日本刀の出来とる者の腕次第でそういうこともあるかも知れないが、基本的に一でも冷たい感触があるため気づかない事はないと思われる

海外での日本刀の評価

室町時代から戦国時代にかけて日本倭寇(海賊)が現在朝鮮半島および中国でかなりの猛威を振るったせいもあってか、中国などにおいても日本刀の存在が知られることになった。

11世紀代の大文学者、欧陽脩は『日本刀歌』なるを書いており(一説に「日本刀」という語の初出とも言われる)、「玉石を泥のように切る伝説があるけど、最近、日本ってで同じぐらい凄いができたらしいよ。めっちゃ高いけど、拵えもすげー美しいし、しかも持ってるだけで悪霊を払ってくれるんだって!」などと、かなり大げさに褒め称えている。サムライソードLOVEガイジンの元祖といえる。

もっとも、欧陽脩は古文代とそれ以前の文章)復運動の中心的人物であったため、『日本刀歌』全体の趣旨は「ま、中華文明の精髄である古文>>>日本刀なんだけどね。日本人さんは教養も高くてって話だから、こっちでは散逸した古文も大量に保存しているらしいけど、法律が厳しくて逆輸入が難しいらしい。なんとかして手に入らないかなー(チラッ)」というものであるが。

大陸でののように大きいか、あるいは片の直だったようで、特に明王朝時代の大陸では倭寇(海賊)が跋扈していたが、両手持ちですばやく扱うことが出来るし、自産より頑丈で鋭利かつ長大な日本刀の使い手にはかなり難渋していた模様。次第に「倭」という名前で受け入れられることになっていった。(先代の王である元もそうであるが、当時の彼らにとっては日本刀は長く鋭利なモノである認識だったようだ。)

倭寇秀吉朝鮮出兵(文・慶長の役)により、日本種子島、それを使った軍編成が知られると、中国でも一部この編成を取り入れることになった。
時代を経て、明、清の時代には、「苗」という形で一部形を変えつつも作られていくことになる一方、日本剣術が形を変えて大陸でも劈掛拳の一部に残っているとも言われている。

また戦国時代倭寇だけでなく少なくない浪人海外傭兵として進出したこともあり、日本刀も多分にもれずあちこちへと広がっていった。もっとも、江戸時代になり鎖国になったこともあったせいか、日本人傭兵は次第に数はへっていき、日本刀も神秘的な武器と考えられてしまった一因のひとつともいえる。

こういったこともあり現代において、海外ではなぜか最強武器扱いされることがあり、特にRPGではその威力が絶賛されるほど。日本人よりを見ているのは気のせいだろうか。

ただ注意してほしいのは、こうしたを見ている理由である。

海外の日本刀の取り扱いは日本に住む々が考えるような、"古来製法に基づき作られた"という形ではなく、もっと広範囲で"日本刀のような形状をした"すべてをす。

なので、ここらへんがややこしいのだが、海外でも「日本刀に模した」や「日本刀鍛冶の製法を一部取り入れた」など色々入り乱れており、それら全部ひっくるめて「日本刀」扱いなのである。
なので、その中には単純に鋼を磨いただけの代物から、前述にもあるように、現代の製鉄技術や加工技術もあるとかなりの切れ味をもつまである。勢い、逆まで作った人までいるみたいですね。

なので最近はこういう「日本刀」を使った犯罪、事件もわりと多くにするようになってきている。

このように日本における日本刀製造が美術品という分野で細々と作られている一方で、海外では現代技術を存分に盛り込んだものが「日本刀」扱いされて、どんどん作られているのもまた現実だったりする。なので、海外での日本刀評価や時々起こる事件を知るときはそこらへんを踏まえてみる必要もあるだろう。

日本刀の噂のあれこれ

日本刀(太刀・打刀・大太刀・長巻)は突くのが正しいのか

何が正しいかはともかく、江戸時代以前の場合は切ることの方が多かったと思われる。根拠としてまず形状から、ある程度長い部を有し片で突きを阻する反りが備えていること。
次に同時代性があり、当時の風俗・文化を知る史料としては、較的信頼性の高い「平家物語」「太平記」「信長公記」などの軍記物や「雑兵物語」のような兵法書からは「突く」「刺す」より、「切る」「打つ(く)」という使用方法が多く散見されること、
またそれらの史料の中の「太刀打ち」「鎬を削る」「火を散らす」など切ることがな使用方法であることを示俊する表現方法が使われていることなどが挙げられる。
(16世紀に来日したスペインポルトガル人宣教師らの報告書では、スペインポルトガル較して、日本刀を体の武器であるとみなしている。)

日本刀は引いて切るもの?刃で受けないもの?

日本刀は意識して引いて切るのが正しいだので受けてはいけないだの、そうでいだのと言われているが、実際にはによって異なるため正しいとも誤りともいえない。(同じ動作でもそれを行う理由が流ごとに異なる場合もある。)また流を宣伝するときは「というやり方が正しくというやり方は間違い」と断言している場合も多く、これが誤解の原因となっている場合が多い。また、流の教えがどうであれ、(可不可能かはともかく)剣術で推奨される動きと実際のの使い方は必ずしも=とはならない。
(ちなみに、柳生心眼流や浅山一伝流などでは多少の破損忍んで敢え刃で受けることで、相手の行動を制限したり、足払いなど別の技につなげる技はある。また「引いて切る」に関しては否定的[2]導者も多い)

日本刀(主に打刀や太刀)の実用性について

賛否両論だが、尾ひれがついて極端な意見になることが多い。

例えば、「日本刀は首狩り用で戦闘では役に立たず儀礼用である。」、「最新の研究では飛び道具による死者がほとんどであり、太刀による死者はほとんどいない。」「は切れぬので有効ではない。」等の否定意見がある。これに対する反論として「首を獲るのは小脇差や短刀の役首獲りの方法も横になった敵兵の上に乗りになり押さえつけて首を切り落とす」というもので、太刀打刀のように長のある物ではこのような行為は不便であり、長を長くする必要がないのだが、これらの中程度のが発達した説明がつかない。(打刀に関しては、戦国時代末期~江戸初期にお貸しという粗悪ながお貸し等とともに下級兵士向けに貸し与えられている。)

また、儀礼用であるのならば反りや先を付け殺傷力を強化したりわざわざ硬軟の鋼材を組み合わせの上で焼き入れを行うという蛮用を考慮したりする等の明かに戦闘を考慮した構造は不自然であること。そして、飛び道具死因が高いというのは研究鈴木哉氏の戦国時代の軍忠状や注文の統計が原と思われる。

型としたのは上述と鈴木氏張が食い違う場合があるからである。例えば、太や打刀で首を確保したのだとよ張されるが、鈴木氏は首を確保するのはあくまでも短馬手差しの目であるとしている。)

しかし、この軍忠状からわかるのは概ね死因ではなく戦場から生還できた者たちによる自己申告(=負傷原因)であり死因はほとんど不明である

(軍忠状などに傷とその原因を記録するのかというと、たとえ戦闘で首を確保したり、先を切ったりするような、戦闘の勝敗に関わる手柄を挙げることができなくても、負傷はしっかりと戦闘に参加したという(誉傷)として、一種の手柄として評価されるからである。傷の理由を併記するのも傷の原因によって貰える恩賞が変わるためである。また、戦死に関しては特別扱いで死因は問われることがない。)

くわえて片方の軍勢による内訳であり、申告が士分(正規の武士)のみに絞られがちであること、敗走した側は軍忠状を作成することが少ないこと[3]、攻撃側の状況が不明であること、さらに戦の形態には平野での会戦・攻戦・上戦・奇襲など、特性が異なるにもかかわらずこの統計ではそれらすべてを一緒くたにしてしまってあるため、戦闘の全容ををあきらかにするのは不十分でありみにしてはいけないことが挙げられる。他にも鈴木氏が信頼性が高いと評した宣教師の報告や雑兵物語などにも太刀戦場での活躍が描写されているが、氏はこのことに関しては一切触れていない。
(16世紀後半に日本を訪れたキリスト教カトリッ司祭であるパードレ・ガスパル・ビレラは、日本人の合戦の仕方に対し、「(市民は遠くで戦闘を見物している。)まず互い弓を撃ちあい、さらに接近槍を使い、最後に剣を交えて戦う」としている)

なお、時代はずれるが南北朝時代の軍忠状の統計を行った歴史学トーマス・コンラン氏の調によると全体的に箭による負傷率が高いことからこの箭こそが南北朝時代戦闘においてもっとも重要な兵器であるとしていながらも、殺効率は太刀薙刀も含めていることに注意)に大きく劣るとしている。

に対しが有効でないことに関しては事実である。しかし、中世多くの兵士は軽装高位の兵士でも特に、膝周りは脆弱気味であった。(今川義元で突きかかった服部一忠は、太刀で膝を切られたため首級を逃し、織田信長臣である三左衛門は、千石又一と上にて切り合ったが膝を切られたため退いている。)
なかには裸同然の者もいたようで、戦国時代末期には羽織のみの兵士足軽のみ?)も現れた。
安末期から鎌倉時代の高位の兵士が着込んだ鎧は、右手や膝や太も無防備である。その補助に当たった郎党も頭部はガ空きの場合が少なくなかった。戦国時主力になった雑・足鎧は胴の防御が優先される場合が多く、手足無防備になりがちであり、下級兵士向けの兵法書である「雑兵物語」には手足を狙って切ることが勧められている。)なお、古い時代の太刀の使い方に、敵の頭部をごと殴るというものがあるが。あくまでも相手の動きを一時的に鈍らせたり、を脱落させるためのもので負傷させるための用法ではない。

日本刀は2~3人しか斬れない?

この話の元ネタ山本著の「私の中の日本軍」が初出だとされており、著者の経験から来たものだという。
ただし、この経験というのも本文中から読み取れるのは「戦友の死体を軍で切断した際、軍に不具合を感じた。」という物のみであり単に死体を切ったときの感想である可性が高い。
また、日中戦争刀鍛冶師として従軍した成瀬関次の著書や時代は異なるが16世紀の日本を訪れた宣教師の報告など4人以上切った記録もあるが誇の可性もあり断定はできない。結局相は闇の中である。
また、この逸話を引き合いに出して日本刀は役に立たなかったとする意見もある。しかし結局は「近代以前の兵戦において一人の兵士が一つの兵器を使用した際の殺傷数の均値」がどの程度であるか把握していない限り意味な意見である。

日本刀の一覧

基本的にどのも「刀工名前」で呼ばれる。
三日月」や「童子切」など刀工名とは別に名前つくものや、「小烏丸」のように刀工名が冠されないもある。

実在の日本刀
架空の日本刀

日本刀に関係のある人物・キャラクター

記事量が大幅に増える可性があるため、こちらについては基本的に「ニコニコ大百科」に記事があるもののみ記載とする。

実在の人物

※「剣豪」の記事も参照されたい。

架空の人物・キャラクター

関連動画

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関連リンク

関連項目

脚注

  1. *2004年フジテレビ番組『たけしマチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP』にて。ただし、こちらは日本刀の定義である玉鋼を材料としていないため、日本刀としては扱えない。
  2. *場面によっては使うこともあるが常用する技法ではなかったらしい
  3. *言い換えれば軍忠状の負傷や戦死の記録は、敗走した方、落した方からの反撃による受傷ともいえる。
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