ジョン・ウェイン・ゲイシー 単語

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ジョンウェインゲイシー

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注意

警        告

本項は実在した人物および事件を解説したものです。できるだけ燥な表現を用い、残酷な表現は省略する方向で作成していますが、その猟奇的な内容によって気分をする恐れがあります。それでもなお読みたいという方のみ、以下の記事をお読みください。

概要

ジョン・ウェイン・ゲイシーJohn Wayne Gacy)とは、アメリカ実在したシリアルキラーである。

猟奇殺人犯の中では、類を見ない奇行におよんだエド・ゲインに知名度で劣るものの、その残虐性と殺数においては折りと言える。
また政治活動に関わるほどの地元の名士だったという点で、周辺地域に与えた衝撃は大きかった。

事件の発覚

1978年12月11日シカゴ北西のノースウッドパーク
エリザベスピーストは息子ロバートアルバイトをしている薬局へ迎えに来ていた。しかしロバートはすぐに帰ろうとせず「建設請負業者の人が、自分と仕事の話をしたがっている」と言い残してその場を離れた。エリザベスはしばし息子を待ったが、いつまでたっても戻らないのを心配し、警察へと駆け込んだ。

線上に浮かびあがった建設請負業者というのが、ジョン・ウェイン・ゲイシーだった。
警察ゲイシーの自宅を訪ねた際に、同性愛ポルノ雑誌や性行為用のいかがわしいアイテムを発見し、全体を覆う異様な臭気にも気づいたが、有民主党員であることを利用されて追い払われてしまう。

ゲイシー過去を調べた警察は、10年前にアイオワ州で少年に性的虐待を行い、有罪判決を受けていることを突き止める。その後も内定を進めた末、麻薬の不法所持により逮捕。ようやく捜状を手に入れた警察は、ウェスト・サマディル通りにあるゲイシーの自宅を捜索した。

結果、ガレージからは若い男性の身分が入った多数の財布、また居間の床から落とし戸が発見される。
落とし戸の下には汚、汚泥があふれており、凄まじい異臭が漂っていた。
をある程度排出し、床下にあった棺桶サイズを掘りかえすと、出てきたのは屍蝋と人であった。

生い立ち

1942年3月17日ジョン・スタンリー・ゲイシーと妻マリオンの息子として生まれる。上には、下にはがいた。
ジョンウェインという名前西部劇スターから拝借したものだが、盤位出産で危うく死にかけたうえ、生まれつき心臓疾患のある虚弱体質とわかり、強い男子を望んでいたの失望は大きかったようだ(以下、区別するためのほうはスタンリーと呼ぶ)。

スタンリーはポーランド移民で、極貧の中育ったこともあり「人に負けない、弱みを見せない」という強い人生哲学を持って生きてきたが、情緒不安定で時おりしいかんしゃくを起こした(内に腫瘍があったといわれる)。
このためゲイシーが何か失敗するたび「愚図」「間抜け」と怒鳴ってを食らわした。「子供はどんなに鍛えても、鍛えすぎることはない」というのが持論であった。これが原因らしく、ゲイシーは心因性のてんかんが持病となってしまう。

息子の体質に責任を感じていたマリオンは、ゲイシーとスタンリーの間を取り持とうとしていたが、ママのかわい子ちゃん」「男オンナ」「いつかホモになる」と罵倒され、かえって裏となった。彼が三歳のころ、マリオンはスタンリーに半殺しにされるほど殴られ、近所に助けをめたこともある。は味方であってもだった。

幼少時、スタンリーにはしい男友達がおり、よくゲイシーと遊んでくれたが、必ずやろうと言ってくる「レスリングごっこ」は耐え難いものだった。ゲイシーの体をくすぐり、横倒しにしたあげく、股間を顔にうずめたまま、なかなか離そうとしなかったのである。立な性的虐待なのだが、オカマ野郎」と罵倒されるのが恐ろしく、に打ち明けることはできなかった。

ゲイシーは入院や治療で学校を4回変わったため、普通高校は落第したものの、職業訓練校に編入したあとは優秀な成績をおさめた。また教師お使い役をひきうけたり、新聞配達、ボランティア活動、自警団の組織、民主党補の応援などを積極的に行った。
これによって子関係は好転するかに見えたが、病歴から兵役不合格になると再び悪化した。また18歳のとき、女友達に性行為を迫ろうとして意識を失う。嘆くゲイシーにスタンリーはお前の中のオカマの仕業だよ」捨て台詞を吐いた。

1962年ゲイシーを借りようとしてしい口論となり家出。そのままラスベガスへ行くと、母親が探しに来るまでの三か間、葬儀社でアルバイトをしていた。その仕事を通じて少年遺体奮するようになり、時々の中へもぐりこんでは遺体添い寝した。アルバイトを辞めたのは母親が探しに来ただけではなく、この行為が発覚したせいでもあった。

その後ビジネス専門学校卒業し、大手靴会社に就職したゲイシーは精的に働くいっぽう、青年会議所にも参加して貯蓄債権の販売でも優秀な実績をあげた。二年後には州で三番の活動実績をあげて、第一部長へ昇進。1964年マリリン・マイヤーズと結婚し、実業の義から三軒のケンタッキー・フライド・チキンの経営を任された。
から深夜まで働いて、青年会議所のプロジェクトを40以上こなしたゲイシーはたちまち会頭補となる。「次は議会、その次は市長、さらに州上院議員をす」うそぶくほどだった。

だがその裏では、あるとき男友達と飲んだあと、勢いで性行為へ及んでいた。
さらに15歳になる知人の息子ドナルド・ヴァリューズと肉体関係を結び、いつしかゆすられる立場になってしまう。1968年、妻マリリン離婚したとはいえ、前に迫った会頭選挙は楽勝と思われたその時、ヴァリューズが性的虐待を訴えた。これがゲイシー凋落の始まりだった。

キラークラウン

この裁判には、ゲイリーの店でアルバイトをしていた16歳エドワードリンチも召喚された。リンチ1967年ゲイシーの自宅へ連れ込まれ、行為を迫られていた。
しい抵抗を見せるとゲイシーはのしかかって首を絞め、失神寸前まで追い込んだ。結局ゲイシー身低頭で詫びてリンチに送り届けたが、翌日には店から解雇した。

ゲイシー「会頭補である自分をハメようとする、さらに進んでウソ発見器にかかるとまで宣言すると、もともと人望があったため擁護する者も現れる。
だがその後、ゲイシーがヴァリューズの言を食い止めようと、人を雇って暴行させていたことが発覚。言い逃れできなくなったゲイシーには、アイオワ男子矯正院で10年間のという判決が言い渡された。

ところがゲイシーは持ち前の世渡りと勤勉さを発揮。高卒資格心理学資格を取ったり、院内の青年会議所でゴルフコース設置、パーティーの準備など模範囚の実績を積んで、わずか16かという異例の速さで出所した。

1971年ゲイシーは軽食堂のコックから建築業へ乗り出して成功。高校時代の知り合いだった女性と再婚し、その連れ子も受け入れた。
また休日には「道化師ポゴ」に扮して福施設を訪れるなど、再び尊敬される人物となっていく。これがのちに「キラークラウン殺人ピエロ」と言われるゆえんとなる。さらに地元民主党党員となり、パーティーで当時のシカゴ市長カーター大統領夫人といった名士とも交流した。

1972年同性愛者の餌場といわれるグレイハウンド・ステーション(長距離バスの乗合場)で好みの青年を拾ったゲイシーは翌が覚めると相手が包丁を手に近寄ってくるのを見てパニックを起こし、つかみかかってその包丁で刺し殺してしまう。
しかし台所には、スライスされていないベーコンと二人分の食器があり、青年朝食の準備中うっかり包丁を持ったまま起こしにきただけ、という事実に気がついた。これがきっかけとなったらしく、以後ゲイシーは性的虐待を伴う殺人を重ねていく。

1975年、不和になった妻と離婚の量が増えて、同時に殺人の数も増えた。
近所の人々は、ときどき深夜の眠りをさまたげる悲鳴を聞いたが、それが拷問される少年であるなど考えもつかなかった。
すでに5人を殺していたゲイシーは、床下に隠した死体の腐敗が進むよう石灰をまいたり、匂いを防ぐためにセメント加工もしたが、それでも悪臭はおさまらなかった。

4人のジャック

そして事件発覚後──墓場と化していたゲイシーの自宅床下は、死体の腐敗によってメタンガスが充満し、爆発する危険性を帯びていた。
このため床を取り外した鑑識チームだったが、さらに物質から身を守るため厚手の防護ガスマスクを着用した。加えて大量に残る汚をくみ上げようにも、屍蝋で排ポンプがすぐに詰まってしまうため、バケツリレーを行わねばならなかった。
大捜索の結果、床下からは性的虐待跡がある27体、またガレージや近所のからも6体、計33体もの死体が見つかった。

鑑定のため、シカゴセルマック精神病院の犯罪科病棟に移されたゲイシーは「自分の中に4人の『ジャック』がいる。殺したのは4人の『ジャック』だ」と訴えた。
当時、欧ではビリーミリガン事件で「多重人格障害」が一躍有名となっており、ゲイシーは自分もそうだとしたのである。

1人ジャック麻薬びたりで、グレイハウンド・ステーションに少年あさりに行ってはに連れ込んで行為に及ぶ。
2人ジャック少年を裸で外に放置して帰り、サディスティックな楽しみを味わう
3人ジャック切な警官で、2人ジャックの犠牲者を助けて自宅へ送り届ける。
4人ジャックは3人の分裂(反動)人格で、犠牲者を遠いところへ連れ去ってしまうのだという。

ゲイシーは4人ジャックを呼び出して、残な犯行状況を弁護側に再現して見せた。それはに迫った内容であったが、裁判では認められなかった。「短期間に33回もの精神障害が起きるわけがない」というのが理由である。

余談ながら多重人格の存在に関しては、精科医によって意見が割れるが「あると思われる」が大勢を占める。ただしビリーミリガン事件の場合「書籍化したダニエル・キイスが(お人よしすぎて)はめられた」とする専門が多い。

死刑

1980年5月12日ゲイシー21回の終身刑と12回の死刑を宣告される。しかしこの期に及んでもゲイシーは自身の容疑を否定し、20回もの再審請を行い、陰謀論を執拗にした。
だが決定打となったのは、中で34人の犠牲者を出しかけた事である。

当時18歳少年ジェイソンモス中のゲイシーと文通をしていた。彼は殺人犯の心理について興味を持っており、彼のような「リズン・グルーピー」は、犯罪者を有名人扱いして繋がりを持とうとする傾向にあった。
文通によって電話番号を入手、電話でのやり取りを経てゲイシージェイソン刑務所に招待、面会する。模範囚の立場を利用して看守抜きでの面会(規則違反)を取りつけ、2人きりの面会がったのを良い事に、ゲイシーは本性を露わにした。監視カメラの死で彼はジェイソンに襲い掛かったが、看守が通りかかって間一少年は助かった。これにより再審請は取り下げられる事となったのである。

12年後の1994年5月10日、イリノイ州ジュリエット刑務所でついに刑が執行された。麻酔のパヴノール、心停止を起こすカリウムによる注射刑である。
通常なら7分で静かに絶命するところを、理由は不明ながら効が乱れ、ゲイシーは20分にわたって苦しんだのち死亡した。これについてコメントめられた担当検事は、こう述べている。

被害者たちが受けた苦痛にべれば、あいつの苦痛など大したことはない。

補遺

後世への影響

ゲイシーの事件は「子供を喜ばせる道化師でありながら、子供を狙った」という点において後世へのが大きい。いわゆる「キラークラウン」ものの嚆矢である。

その下にあるもっとも有名な作品は、ホラー小説大家スティーヴン・キングの「IT(イット)」だろう。これは子供たちを狙って殺すピエロ(の姿をした正体不明の存在)が登場する物語で、計4時間近くにおよぶ映像化も果たされた。

最近ではハンバーガーショップイメージキャラクターとしても有名である。

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