エド・ゲイン 単語


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エドゲイン

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注意

警        告

本項は実在した人物および事件を解説したものです。できるだけ燥な表現を用い、残酷な表現は省略する方向で作成していますが、その猟奇的な内容によって気分をする恐れがあります。それでもなお読みたいという方のみ、以下の記事をお読みください。

概要

エド・ゲイン(Ed Gein, 名字の本来の発音はギーン)とはアメリカ北部のウィスコンシン州実在した殺人犯である。本名はエドワード・シオドア・ギーン(Edward Theodore Gein)。大量猟奇殺人鬼の代名詞のように扱われることが多いが、そのイメージは彼を題材にした二次作品のである。彼が犯した殺人は確認できた限りで二件に過ぎず、その特異な性癖のショッキングさを除けば、殺人鬼と呼ばれる多くの人物よりはるかにおとなしかった。

事件の発覚

1957年11月16日ウィスコンシン州中部・ウォーシェラプレイフィールド(Plainfield, Waushara, Wisconsin)は鹿狩り解禁の初日だった。金物店を経営するフランク・ワーデン(Frank Worden)もこれに参加したあと、夕方に帰宅すると店のが閉まっているのにバーニス(Bernice Worden)の姿がない。近所の人物に聞くと配達用ワゴンに出て行ったと答えたが、その日配達の予定はなかった。店を見渡すと金庫がいつもの場所になく、床には血だまりがある。ワーデンはすぐさま保安官のアート・シュリーArt Schley)に連絡した。

保安官が調した結果、店に並んだの中で一丁ライフルだけ逆さに置かれ、発射後間もないということが分かった。犯人の心当たりを尋ねられたワーデンは、前日にゲインがを遊びに誘ったがつれなく断られ、その後自分に明日の予定を聞いてきたことを思い出す。

シュリー奮するワーデンをなだめ、相棒ロイド・シュースフィースター(Lloyd Schoesphoester)警部とともに農場を経営するゲインの自宅を捜索。そこでさながら狩られた鹿のごとく解体中の死体と、人体パーツで作ったと思しき具、太鼓、財布、バッグほか乳房のついたチョッキを発見。ほかにもさまざまな女性の部位が見つかる。ショックのあまりソファに倒れ込んだシュリーは、クッションのおかしさに気づいた。その下から出てきたのはバーニスのものを含む5、6個の生首だった。

一方でシュリーは二人の警官を別の場所へ派遣していた。ゲインが自宅にいない場合、たいてい幼馴染アイリーンヒルIrene Hill)のところにいるからだ。予想通りゲインを見つけた警官がアリバイを尋ねると、聞いてもいないのに「ワーデンの奥さんが死んだんだろう?」と答えてきた。不信感を抱いた警官はゲインを署へ連行した。ちなみにヒル息子ロバート(Robert Hill)は当日、ゲインのを訪ねた際、彼の両手が血にまみれていたのを撃している。

農場を調する間、ゲインは都のウォートマ(Wautoma)刑務所に収容されて12時間もの尋問を受けたが一切口を割らなかった。しかし11月18日、シュリーの暴行混じりの尋問によってゲインはついに「バーニスを射殺後、配達用ワゴンから自分のに乗せ換えて自宅へ移送し、るしてさばいた」と自供した。

生い立ち

エド・ゲインは1906年8月27日ウィスコンシン州中西部のラ・クロス(La Crosse)に、ジョージGeorge Philip Gein)とオーガスタ(Augusta Alvina Wilhelmina Lahrke Gein)の間に生まれた二人兄弟オーガスタは熱心なルター思想を持つプロイセン移民の出身で、その子供にも与えた。夫ジョージが重度のアルコール中毒で職を転々としていたこともあって、この思想は病的に悪化し、ついに '14年に所有していた雑貨屋を売り払った金でプレイフィールドに農地を買い、そこに引き籠るようになった。

その閉鎖環境息子たちに毎日聖書終末的な部分を読み聞かせたり、外部の人間は悪を与えると言って学校友達を作ろうものなら罰を与えるほどであった。さらに若い女はすべて穢れており、姦淫は何より罪であるよう教え込んだともいう(逆に男性はすべて罪人であり、男性を嫌悪するよう教えたという説もある)。また常々「のようにはなるな」「ジョージなど死んでしまえばいい」と口にしていた。ゲインの学校クラスメイト教師は、彼が内気な性格である一方、いきなり一人で笑い出すなど情緒が不安定であったことを明かしている。

1940年ジョージ心不全により66歳で死亡し、ゲインはヘンリーHenry George Gein)と共に子守や雑用をして生活を支えなくてはならなくなったが、兄弟仲はとても良いと評判であった。しかし、1944年ゲイ所有の湿原を野焼している際に2人とも炎に巻かれ、行方不明となった消火後に遺体となって発見された。遺体には焼損も外傷もほとんどく、検視の結果、直接の死因は窒息による心不全であるとされた。が、の頭部にはいくつかの打撲の跡があり、伝記作家の中にはの犯行を疑う者も少なくない。

オーガスタはヘンリーの死から間もくして脳卒中を発症して3年後に世を去り、エドは孤独となる。以後は子守や雑用、他の農場の収穫や道路工事の手伝いといった日雇いの仕事や、農場経営による助成金で糊口をぎ、それでも足りなくなるとから受け継いだ農場を少しずつ切り売りして生計を立てていた。275エーカーあった農場は、逮捕時には160エーカーにまで減っていた。

オーガスタの偏った教育とその死によって、すでに精神を病んでいたエドは、強すぎるマザーコンプレックスマゾスティックなまでの女性変身願望を備えていた。自らの性器を切り取ろうと考えたこともあったという。しかし結局実行できず、代わりにその願望を満たす方法として考え出したのが、墓からあばいた女性死体を解体、縫製し、女の姿になることだった。

犯行とその動機

ゲインの犯行は杜撰で衝動的な面が見られ、事の最中の記憶が曖昧になっている。取り調べに対し「数人殺したかもしれない」と自供しているが、判明しているのはバーニスと、それ以前に行方不明になっていたメアリー・ホーガン(Mary Hogan)のみである。

プレイフィールド居酒屋旅館とする資料もある)を経営していたメアリーは、闇組織と関係があるとも、シカゴ売春宿を経営しているとも噂されていた。彼女が消えたのは1954年12月8日である。店に立ち寄った農夫が大で呼んでも返事はなく、調べるとカウンター裏まで大きな血だまりが続いていた。彼女が失踪する前日、もっとも遅くまで店にいたのがゲインだった。状況はバーニス殺と非常に酷似しており、マディソン州立中央犯罪研究所においてポリグラフ尋問を受けた結果「殺したかもしれない」と自供している。

メアリーバーニスも太った体格、威圧的な性格で、ゲインのオーガスタに近く、これが彼の情動をそそったものと見られる。単なるマザーコンプレックスの発露か、厳格で温かいを示さなかったへの憎悪か、あるいはその両方か、それはゲイン自身にも定かならなかったようだ。犯行動機としては「女性の仕組みが知りたかった」と語っており、ワーデンの店から金庫を奪ったのも「金庫の仕組みが知りたかった」と同様の理由だった。

ゲインの自宅からは数のホラー関係書、ヌード写真集ポルノ小説実話雑誌などが発見されたが、これが犯行を加速させた、と考えるのは計である。彼の犯行要因は母親の偏向教育にあることは明らかで、むしろこれらの雑誌んだ欲望のはけ口になっていた可性もある。また解剖学書も発見されており、こちらは人を解体する際の参考にしたようである。

ゲインはその特殊な嗜好において、異様なまでに情熱を働かせる傾向があり、独自の手法をあみだして具から食器、衣類マスクまで人体を材料に作った。やがて死体がいくらあっても足りなくなると、新聞死亡記事にくまなくを通し、近所の葬式へまめに出席したという。人間の部品で作った具の精巧さに関して、シュリー保安官は「実に丁寧な仕事」と皮交じりに語っている(ゴワゴワして粗雑だった、という説もある)。

死体と性行為を行った」という説もあるが、そのおぞましい内容がまことしやかに書籍に記される一方で、ゲイン自身は「匂いが不快」と行為を否定している。

またゲインは、収集した死体の一部を後々食べるために血抜きし、燻製にしていた。彼は「鹿狩りは一度も行っていない」「鹿の解体は不快だ」と語っていながらも、近所に鹿を配ったことがある。このが実際に何のだったのかは不明である。

裁判とその後

1958年11月11日ゲインはバーニスとメアリーの殺により告訴された。しかし弁護士は精神障碍精神病犯罪者用州立中央病院へ移送され、再度のポリグラフを行った結果、医師団は彼が統合失調症であり出廷する力なしと診断。治療の為にマディソンのメンドータ州立病院Mendota State Hospital)に移送された。

それからほぼ10年後の1968年ゲインの主治医が彼の回復を確認して11月14日に裁判が開始された。ここでロバート・ゴルマー(Robert H. Gollmar)判事はバーニス殺に対する第1級殺人罪と、ゲインの精神病認定し、州立病院への期入院を決定した。

事件の初動捜を行い、取調室の煉瓦に顔面を叩き付けるなどの強引な尋問により自を引き出したシュリー保安官は1968年ゲインの措置が決定する直前に心不全により43歳の若さで急逝する。一連の事件捜撃したものが彼の深いトラウマとなっていて、更にゲインに暴行を加えてしまったという汚点を法廷で自ら言せねばならない事を気に病んでいた、と彼の知人たちは口をえて言。ある者は「彼もゲインに殺されたようなものだ」と断言している。

ゲインの資産は競売にかけられ、その収益をゲインのものとすることが決まると、入院判決に納得していなかったプレイフィールドの住人は怒り狂った。その後ゲインのの失火により焼失したが、住人の心情に考慮したのか、事件性の追及は行われなかった。また、犯行に使われたバニー・ギボンズBunny Gibbons)というに買い取られて「エド・ゲインの人食い」(Ed Gein's Ghoul Car)という触れ込みで見世物にされたが、行く先々で各所からの抗議警察からの中止命が出され、、ギボンズの故郷であるイリノイ州を最後に消息が途絶えた。

メンドータ州立病院('74年に精神衛生研究所(Mendota Mental Health Institute, MMHI)に再編)でのゲインは、さながらの呪縛から解き放たれたかのように温厚な模範囚となり、職員や患者らとすぐに打ち解けた。リトルエディLittle Eddy)と呼ばれ、気に日向ぼっこやお喋りする姿は、とてもあのおぞましい行為に及んだ人物とは思えなかったという。

1984年7月4日ゲインはメンドータ精神衛生研究所の老人病棟で、からの呼吸不全により死去した。享年77歳だった。プレイフィールド共同墓地に建てられた墓石は年々何者かによって壊され、破片が持ち去られていった。現在は墓石を新調され、ウォーシェラ保安局(Waushara County Sherriff's Department)内で管理されている。

ゲインの影響を受けた作品

ゲインの事件は、その衝撃的な内容からいくらかのクリエイター創作意欲を刺した。結果、後世に多大なを与える作品が誕生している。

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  • 58 ななしのよっしん

    2021/09/02(木) 07:50:37 ID: 8VcyO3X3CE

    やったことは猟奇的、生い立ちは気の毒
    でも死んだ母親に似た女をめてその部位で包まれたかった(スーツを作った)ってのを考えるとなんとなく寂しさも感じる
    友達作らせなかったり外部と断絶させたので極端な依存になっちゃったのかもだけど

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  • 59 ななしのよっしん

    2022/10/20(木) 09:04:19 ID: Opo6EBijTS

    向こうは環境要因ちゃんと認めるから子供に対しての罰則が厳しくなったし、虐待の徴があればすぐ保護するようになった

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  • 60 ななしのよっしん

    2023/07/29(土) 08:55:10 ID: 1OH9pk69bc

    フォロワーがゲインみたいな将来をしてるので、創作物になるだけあってやっぱりされる人も多いよなあと。

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