ハクタイユー 単語

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ハクタイユー

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ハクタイユーHaku Taiyu)とは、日本競走馬種牡馬(1979 - 2003)である。
日本産初の白毛サラブレッドであり、このの登録に際して日本競走馬の毛色登録区分に「白毛」が追加された。

概要

ロングエースホマレブル*ダブルマーク

ロングエースは「花の47年組」と評された優駿いの1972年クラシック世代の一クラシック戦線ではランドプリンスタイテエムと共に「三強」とされ、な勝は同年の東京優駿弥生賞インフルエンザ流行ので開催が7月9日までずれ込んだ(「七夕ダービー」と称された)、現在まで最も遅い開催の日本ダービーの勝ちである。種牡馬としては、1980年宝塚記念テルテンリュウや、日経新春杯神戸新聞杯セントウルSを勝ったスピードヒーローなどを輩出した。

ホマレブルは未出走で繁殖入り。ダブルマーク1951年生まれのオーストラリア。現役中はブゼントシユキの名で走り、1956年の第1回大井記念に勝利。中央でも1954年阪神大賞典2着、1955年日本経済新春杯3着などの戦績を残した。

生涯

白馬くん誕生

さて1979年5月28日浦河町河野牧場にてロングエース黒鹿毛)、ホマレブル栗毛)のが誕生したのだが……生まれたばかりのは、たてがみから背中、腿にかけて栗毛ブチ模様はあるものの、それ以外の全身がほとんど真っ白という姿をしていた。

芦毛ではない。そもそも両ともに芦毛ではないので芦毛が産まれるはずはなく、万が一何かの手違いで芦毛でも当歳の頃は鹿毛栗毛青毛など他の毛色で、齢とともにくなっていくはずである。アルビノでもなさそうだ。アルビノならば部分的に栗毛ブチがあるのは不自然だし、の色素なども通常のと変わりはない。どちらかといえばその姿は、の顔によく見られる斑(流星・大作)や、靴下を履いたように脚先が(はく)が広がってほぼ全身に回ったような、そんな情だった。

しかも、両の名を合わせて幼名「ホマレエース」と名付けられたこのブチは成長するにつれて薄くなり、全身真っ白に近づいていったのである。

「白毛」登録認められる

この時、アメリカ競馬界にはすでに「White」の毛色区分があった。そのきっかけとなったのは1963年生まれのホワイトビューティーWhite Beauty)で、やはり突然変異で生まれた時から真っ白だった。このの血統登録に際してアメリカジョッキークラブでの議論やらDNAやらの末に新毛色として「White」が認められたのである。(ホワイトビューティー引退となって白毛の血を残し、その血統は日本に輸入されたのち繁殖牝馬となったサトノジャスミンなど、21世紀に入っても存続している。)

そこで日本でも海外の先例にならい、ホマレエースの登録に際して日本種馬登録協会にて会議が開かれ、新たな8番の毛色として「白毛」を創設、そしてホマレエース日本白毛サラブレッド1号として登録されたのである。

日本種馬登録協会の後身である益財団法人ジャパン・スタッドブックインターナショナルJAIRS)では、白毛定義を次のように紹介している。

被毛は大半が白色であり、有色の斑紋及び長毛を有するものもある。眼が青色のものもある。皮膚はピンクで、一部に色素を有するものがある。芦毛との著しい違いは生時に既に大半が白色を呈していることである。[1]

後年、白毛の全身にブチ模様が散ったブチコらが誕生した際、あれは白毛でいいのか、駁毛とか駁鹿毛とするべきではないのか…といった疑問も聞かれたが、白毛で間違いないわけである。なぜなら白毛一号ホマレエースブチがあり、「有色の斑紋及び長毛を有するものもある」と定義されているのだから。

デビュー前から大人気

公式日本初の白毛と認められたホマレエース。彼を購入し馬主となったのは、取町のオーナーブリーダー・北島牧場であった。同牧場オーナー医師免許を持っており白毛の発生と遺伝に興味を抱いたのと、同じ取町内の義経神社神職を兼職していたため生まれた時からとして大変縁起が良い、と考えたのだそうだ。
マスコミ二の白毛の誕生をアイドル的に報じ、北島牧場には観光客が押しかけ、普段は沙流沿いの静かな社である義経神社にも参拝客が殺到した。作詞奥山侊伸・作曲小林亜星編曲あかのたちお、歌:柴田一幸によるテーマ曲『くん』まで作られた21世紀のブチコブームなどを見るにつけ、歴史は繰り返すのだろうか。
そして、デビューを控えたホマレエースには、かの源義経・大夫(たゆうぐろ)にあやかって、い大夫、ハクタイユー競走馬名が付けられたのである。

戦歴

こうしてホマレエースめハクタイユーは、美吉野勇厩舎から1982年2月28日大塚三郎の騎乗で新馬戦の日を迎えた(中山競馬場1600m)。……が、7番人気9着。いくら場外でブームになっても、馬券人気は割とシビアなのは時代の差と言えようか。その後も9、15、14着。4戦して掲示板に載ることもかなわず、ハクタイユーはデビューからわずか2かで中央での戦いを終えた。その後道営競馬伊藤靖則厩舎に移籍したものの、出走しないまま引退
通算4戦0勝、獲得賞0円。日本白毛の競走史は、この苦いデビューから始まったのである。

種牡馬時代

ハクタイユーの白毛は遺伝するのか?

競走馬としては芽の出なかったハクタイユーだが、きちんと引退後まで視野に入れた人物が馬主であったことは幸福だったと言えよう。ハクタイユーは当初の予定通り、普段は北島牧場で過ごしつつ白毛重なデータを得る意味もあって種牡馬に供され、その傍ら義経神社として事に奉仕する役に就いた。

最初の産駒1984年生まれのハマカダイオー(栗毛、不出走)。そしてかなりいて1991年生まれの2頭が最初の白毛産駒ミサワパール)。中央でデビューを果たすも1戦0勝、その後は誘導になった。このミサワパールであるウインドアポロッサ(アングロアラブ種)は、登録されたハクタイユー産駒8頭中の4頭を産んだ、彼の正妻的な存在である。

白毛×白毛!

ところでハクタイユーの誕生から4年後の1983年、門別町にてまったく別の血統から白毛が生まれていた。カブラヤオー黒鹿毛)、レナイオーザ(栗毛)、ゴールデンプルーム(栃栗毛)。やはり血統表に全く白毛要素のない、突然変異によって生まれた白毛。この知らせに飛びついたのがハクタイユーのオーナーたる北島牧場である。これで日本初の白毛×白毛の配合が可となるのだ。
カミノホワイトと名付けられたこのは、1戦0勝の競走成績もそこそこにハクタイユーとの種付けが行われたが、何年も不受胎が続く。1993年、ようやく生まれた日本初の両とも白毛産駒ミサワボタン白毛)である。競走成績?不出走ですが何か…

白毛勝利の時来たり

1994年、4頭産駒としてウインドアポロッサのハクホウクン白毛)が生まれた。大井競馬にてデビューした同は、キャリア8戦1997年12月30日の4歳戦(ダート1500m)で、的場文男騎手を背に白毛勝利を挙げた。1999年には大井芦毛白毛のみが出走可絶対ハクホウクンがいるから作っただろというホワイトエンジェル賞」も創設(~2002年)。残念ながら同賞をハクホウクンが勝つことはできなかったが、その後も通算32戦3勝の戦績を挙げ(3勝は全て的場文男騎手)、大井の盛り上げにひと役買って引退した。

またハクホウクンの2歳下の全ホワイトワンダーも、上山競馬場で2勝を挙げた(残念ながら兄妹白毛対決の機会はなし)。以上の地方競馬計5勝が、ハクタイユー産駒の全勝である。(中央における白毛の初勝利は、2007年4月1日シラユキヒメ牝系から出たホワイトベッセルによる達成を待つことになる。)

死去

ハクタイユーは最終的に8頭の産駒白毛は5頭)を残し、20歳を過ぎた2002年頃には高齢のためとしての奉仕からも引退。翌2003年死亡、24歳(新齢)。JAIRSの血統書サービスには、2003年4月7日付で死亡による供給停止の記載がある[2]。元祖白毛アイドルとしてブームを起こし、その生涯と繁殖生活を以て白毛に関する重なデータを残し、何より日本競馬界に8番の毛色「白毛」を創出させたパイオニアである。ハクタイユーは、間違いなく日本競馬史・産史に大切な蹄跡を残した「大夫」であったと言えよう。

血統表

ロングエース
1969 黒鹿毛
*ハードドン
1955 黒鹿毛
Hard Sauce Ardan
Saucy Bella
Toute Belle Admiral Drake
Chatelaine
ウインジェスト
1963 黒鹿毛
*ティエポロ Blue Peter
Trevisana
*ノルマニア Norman
Sainte Mesme
ホマレブル
1964 栗毛
FNo.1-k
*ダブルマーク
1951 栗毛
Footmark Defoe
Bachelor's Picture
Prattle Double Prittle Prattle
My Court
ツカ
1960 鹿毛
*ロイヤルウツド Underwood
Royal Glory
ルリワカ アヅマホマレ
競走馬の4代血統表

クロス:5代内アウトブリード

ハードドン1958年2000ギニー・英ダービー勝ちで、日本調教産駒にはロングエースの他に1977年オークスリニアインなど。3代ハードソースHard Sauce)の産駒には1957年に史上初となる敗でのクラシック2冠を達成したミスオンワードがいる。

子孫

以下の表は全て白毛である。他に白毛以外の毛色の子孫もいるが割愛する。

ハクタイユー
ミサワパール 1991 :1戦0勝(JRA)、引退後は誘導のち北海道で乗2012年
ミサワボタン 1993 :不出走、カミノホワイト白毛日本初の両とも白毛
ハクホウクン 1994 :32戦3勝(地方)、1997年大井競馬にて白毛勝利2022年
||ハクバノデンセツ 2004 :2戦0勝(地方)、引退後は千葉県で乗
||ハクバノイデンシ 2005 :4戦0勝(地方)、繁殖牝馬を退いた後は乗
|||ミスハクホウ 2012 :65戦3勝(地方)、アドマイヤジャパン
|||(競走馬名なし) 2014 アドマイヤジャパンハクノスケの名で千葉県で乗
||ハクウリリー 2008 :2戦0勝(地方)
|||ダイヤビジュー 2013 :7戦0勝(地方)、ディープスカイ
ホワイトワンダー 1996 :31戦2勝(地方)
ハクタイヨー 2001 :不出走、種牡馬登録されるも種付け例はなく、2020年

ハクタイユーの白毛を受け継ぐ子孫は、ひ孫世代まで10頭以上が登録されている。最初の白毛産駒ミサワパール中山競馬場で誘導を務めたのち、北海道千歳市で乗として過ごした。白毛勝利を果たしたハクホウクンの馬主(株)ヤナギスポーツオーナーも熱心な白毛ファンで、プライベート種牡馬となり4頭の産駒(うち3頭が白毛)を残した。ハクホウクンとその産駒たちは、千葉県成田市インターアクションホースマンスクールにて乗として繋養された。

白毛という新しい毛色の実験的な意味合いや人気も相まってハクタイユー系は子孫を繋いだが、思わぬ副次効果ももたらした。ハクタイユーのロングエース系存続である。1969年生まれ・1972年日本ダービーロングエース種牡馬としても宝塚記念テルテンリュウを輩出するなど健闘したが、いくら内種牡馬が1・2代サイアーラインを伸ばしても、やがては圧倒的な輸入種牡馬の波に押し流されてしまうのが当たり前の時代である。ロングエース系も例外ではなかったが、一ハクタイユーを通じて細々と21世紀まで生き残ってきた。

2020年種牡馬登録されていたハクタイユー最後の産駒ハクタイヨー(そのロッチウインドマチカネタンホイザの半というなかなかの系)が産駒を残さないまま死去し、その時点で子ハクホウクン・孫ハクバノデンセツは乗としてセン馬になっていたので、ハクタイユー及びロングエースサイアーライン断絶が確定した。しかし、1969年生まれの内種牡馬の直系が形式的にとはいえ2020年まで存続したのだから大健闘、これも白毛の血がもたらしたひとつの効果と言えるだろう。

関連動画

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *馬の毛色と特徴−毛色 - 公益財団法人ジャパン・スタッドブック・インターナショナル(JAIRS)exit
  2. *ハクタイユー(JPN) - studbook.jpexit
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