大瀬(給油艦)とは、元オランダのラ・コロナ石油会社所属のタンカーヘノタ(Genota)である。1935年4月10日竣工。開戦後の1942年5月9日にインド洋にて愛国丸に拿捕され、大日本帝國海軍に所属して大瀬に改名。給油艦として運用される。1944年3月31日、パラオ大空襲により沈没。
大瀬の前身は、オランダのラ・コロナ石油会社所属のタンカーヘノタ。船名はボルソニダエ科に属する巻貝から取られている。ラ・コロナ社の船舶は貝の名前から取るのが慣習のようだ。日本側の資料ではゼノタと呼称。拿捕した後の艦名である大瀬は、静岡県沼津市西浦江梨の大瀬崎に由来する。大瀬は「おおせ」とも「おせ」とも読む。
ベースとなったのは英アングロサクソン石油社のトリプルトゥエルブ級タンカー(ネームシップの名を取ってラパナ級とも)。2つの縦隔壁を中心に横隔壁を組み合わせ、21の貨物室に分割。2つのポンプ室にはそれぞれ大型貨物ポンプがあり、4つの異なる貨物を同時に荷下ろしする事が可能だった。船首貨物倉は主に梱包された石油製品を輸送するのに使用。濃い油を加熱するためのコイルも搭載されている。民間船ながら利便性に優れ、イギリス海軍はラパナ級の一部を改装してMAC船(商船空母)にしていたほど。
元々はラ・コロナ社所属の船舶で極東航路に就役していたが、オランダ本国降伏後はイギリス陸軍に徴用され、その後インド洋にて帝國海軍に拿捕されるという奇怪な艦歴を歩んでいる。
開戦前に帝國海軍が保有していた艦隊型低速給油船は9隻のみ、数の不足を補うべく急造された川崎型油槽船13隻はガソリン輸送に適さない欠点を抱えているなど非常に心細い中、大型かつ高い輸送能力を有していたヘノタは帝國海軍にとって思わぬ贈り物となり、すかさずガソリン輸送艦に改造している(無論石油の積載も可能)。また積載量1万2000トンは1TL型戦時標準船の1万5600トンと大差なく、性能や価値の高さもあってか拿捕した連合国商船の中で唯一特務艦に昇格。これに伴って海軍直轄となり対潜攻撃も可能な重武装が施された。高い防御力も持っていたようで、魚雷2本喰らっても沈まず、パラオ大空襲でも爆弾5発を受けるまで沈没しなかったタフネス。
ヘノタ時代の写真は幾つか残されている一方、大瀬の時は写真が1枚しか残っていない。また、一部資料では何故か大瀬丸と誤表記されていたり(大瀬丸という船は存在しない)、1944年2月29日に沈没となっていたりと度々間違われる。
要目は排水量7987トン、全長147.31m、全幅17.98m、出力6000馬力、最大速力12ノット、喫水8.5m、乗員101名、石油搭載量1万2000トン。兵装は45口径12cm単装高角砲2基、13mm連装機銃1基、同単装機銃2丁。最終時の兵装は45口径12cm単装高角砲G型2門、九三式13mm連装機銃二型1基、同単装機銃六型2基、75cm探照灯、1m半測距儀、防雷具4基、爆雷手動投下台2基であった。
1934年、オランダのラ・コロナ石油会社は8隻のシェルタンカー(ペルナ、ロトゥーラ、スネッタ、マリサ、マコマ、マレア、ガディラ、ヘノタ)を独フィンケンウェルダン社に発注。姉妹船7隻はキールのハウヴァルトツヴェルケ造船所が担当した一方、ヘノタのみハンブルク造船所が担当する事となった。
イギリスのアングロサクソン石油社が保有するトリプルトゥエルブ級タンカーを参考に156番船の仮称で起工、1934年12月15日にヘノタと命名されて進水し、1935年4月10日に竣工を果たす。船籍港をハーグに定め、ヘノタはオランダ本国と植民地東インド諸島を往復して資源を持ち帰る任務に就く。
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。イギリス政府は植民地からの補給線を維持するため、沈没したら新造船を提供するという条件でオランダ商船をロイヤルダッチシェル社の指揮下に入れ、輸送任務に就かせた。当初ヘノタは徴用されていなかったが、1940年5月15日にドイツ軍の侵攻でオランダ本国が降伏したのを機にイギリス陸軍運輸省が接収。運航をロイヤルダッチシェル社に委ねた。武装に関しては不明。ただ同じラ・コロナ社のタンカーオンディナが、連合国船舶の標準装備である10.5cm船尾砲を装備していたためヘノタにも装備されていた可能性はある。
1941年1月2日に西オーストラリア州フリーマントルで停泊中の写真が残されている。11月以降はスラバヤ、パレンバン、シドニー、アバダン等を寄港先にしていた。その僅か1ヶ月後の12月8日に大日本帝國が枢軸国として参戦した上、12月10日にオランダへ宣戦布告。欧州戦線から遠く離れていた太平洋方面も安全な場所とは言えなくなった。
1942年3月19日、オランダ船舶には60歳以下のオランダ人船員のみ乗せる事を義務付ける航行要件が発布。しかし何故かヘノタの船員には中国人も含まれたままだった。
4月30日、ヘノタは西オーストラリア州の港湾都市ジェラルトンを出港し、連合軍占領下イランのアバダンに向かう。セイロン沖海戦の敗北で英東洋艦隊が後退した後だったためインド洋は日本軍の勢力圏に収まっていたが、無事イギリス軍の勢力圏内へ入って一安心…と思いきや、彼らはとことん運に見放されていた。ドイツから要請を受けた帝國海軍が第8潜水戦隊(伊10、伊16、伊18、伊20、伊30)とその支援艦愛国丸と報国丸をマダガスカル方面に派遣し、活発な通商破壊を行っていたのである。普段日本艦がいないはずの場所で日本艦と出くわす事になってしまった。
5月9日午前5時30分、インド洋マダガスカル島沖南南東480海里にて特設巡洋艦愛国丸と報国丸に発見され、停船と無線送信の停止を命じられる。ヘノタは反対方向へ逃げようとするも2隻から警告射撃を受けて戦意を喪失。相手は商船だが軽巡洋艦並みの武装を持った特設巡洋艦であり、単なるタンカーに過ぎないヘノタに勝ち目は無かった。こうして遭難信号すら送信出来ずに停船させられ、乗り込んで来た甲板士官2名、機関士官2名、海軍陸戦隊30名によって拿捕。ヤン・イント・フェルト船長以下乗組員は全員拘束された。一方で回航班は彼らを適切に扱ったという。ヘノタは最寄りの日本軍拠点であるマラヤ半島ペナン基地に連行され、5月17日に入港。その特異な見た目から敵と間違われて在泊艦艇から砲を向けられた。
間もなく燃料を積んで徳山に向かうよう命令が下り、5月30日から翌31日にかけてボルネオ島タラカンの燃料桟橋で石油5800トンを積載。内地へと向かう。回航班の大半が下痢になったり、大島に座礁しかけるトラブルが起きたものの、6月10日に徳山へ寄港して積み荷の燃料を揚陸。串本と館山市船形を経由しながら6月17日に横浜の日本石油横浜精油所桟橋に横付けし、原油を揚陸した。
1909年に制定されたロンドン宣言に従い、ヘノタが国際法に則って正しい手続きを踏んで拿捕されたかを確認するべく6月19日に横浜捕獲審判所へ書類を提出し、翌20日に第7岸壁へと係留替えされるとともに船体を横浜捕獲審判所に引き渡す。ヘノタのオランダ人乗組員11名は手厚いもてなしを受けていたが、7月11日、高雄の捕虜収容所へ移送するため準備を行うよう命じられた。
7月20日発令の達第207号によりヘノタは大瀬に改名。特務艦(運送艦)に類別するとともに舞鶴鎮守府へ編入され、三坂直廉大佐が艦長に就任する。8月15日、捕獲審判所はヘノタを「捕獲」と判定。これにより所有権が日本に移ったため、同日中に横須賀海軍工廠に回航・入渠し、ガソリン輸送艦への改装工事に着手する。それと並行して船体を灰色の軍艦色に塗装、自衛用の兵装として12cm単装高角砲2基、13mm対空連装機銃1基、同単装機銃2基を装備する。
9月28日改装工事完了。特務艦に昇格した事で正規の軍人が運用する船となる。10月6日、新たな生を受けた大瀬は最初の任務に従事するべく横須賀を出港、10月18日にパレンバンへ寄港して1万3500トンの重油を積載し、11月7日に上海へと送り届けた。帰投後、横須賀工廠にて特型運貨船搭載装置の新設工事を行う。
ソロモン戦線の形成と東南アジアの資源地帯が戦火から復旧した事が重なり、物資・人員を輸送する船舶の需要は高止まり状態が続いており、その中で就役した大瀬は渡りに船だった。
1943年1月11日13時30分、沖八番浮標に係留されていた商船改装空母雲鷹の係留索が風圧潮流で切断され、横須賀工廠に入渠中だった大瀬の艦首に突っ込んで接触事故を起こす。幸い両艦とも軽傷で済んだ。
2月21日22時50分、大東島沖を航行していた大瀬を狙って米潜ソーフィッシュが二度に渡って魚雷3本を発射。被雷するも不発だったため軽微な損傷だけで済んだ。23時5分に大瀬は「我、潜水艦の雷撃を受く、雷数2、損害無し」と報告。ソーフィッシュは大瀬を撃沈したと判断して去っていった。翌22日、報告を受けた佐伯防備隊は第39号駆潜艇と怒和島、那沙美を派遣して対潜掃討を実施。小破で済んだものの大瀬は引き返した。
3月中に修理を受けた際、武装の強化も並行して行われたようで、12cm単装高角砲G型2門、13mm連装機銃二型1基、同単装機銃六型2基、75cm探照灯1基、1m半測距儀1基、防雷具4基、爆雷手動投下台2基を装備。5月31日までに搭載工事を済ませる。
6月22日、水雷艇隼が護衛する第169船団の一員として門司港を出発。翌日に第38号哨戒艇、一般徴用船那須山丸、龍王丸、特設運送船北安丸が船団に加わり、船団の加入船舶を6隻に増やして高雄へと向かう。
しかし6月24日午前11時20分、晴天の奄美大島西方120海里沖を航行中、左舷4000mの距離から米潜水艦スヌークが放った魚雷数本が白線を引きながら第169船団に迫って来た。このうち2本が大瀬の左舷艦前部に直撃し、機械室前方の船体が殆ど切断される重傷を負うとともに、船体前後に10度の傾斜が生じる。直ちに誠心丸が8cm砲による反撃を行い、「第38号哨戒艇の護衛を伴って奄美大島へ向かえ」と大瀬に命令。戦闘海域からの離脱を始める。スヌークは潜望鏡に映る手負いの大瀬にトドメを刺すため追跡するも第38号哨戒艇が爆雷6発を投下してこれを妨害。更に鉱石運搬船金嶺丸の潜望鏡に対する銃撃や対潜哨戒機の制圧、午前11時49分に再度第38号哨戒艇から6回に渡って攻撃を受けた事で、遂に雷撃の機会を逸した。15時、第38号哨戒艇は対潜制圧を終えて第169船団の護衛に復帰。
6月25日に辛くも瀬相へ緊急避難。戦死者は下士官2名、兵3名、行方不明者3名、重傷者8名に及び、前部兵員室とその上下甲板、倉庫、弾薬庫、艦底が全壊、揚錨機使用不能、繋留用諸索具亡失、1番砲塔使用不能、6番タンク破壊、速力通信機使用不能、全力運転不能、傾斜によりクランク空軸貫通部から漏油と大破状態であった。現地では修理不能と判定され佐世保での修理が決まった。大瀬の護衛には水雷艇鴎(かもめ)が付いた。7月4日、生死を彷徨うほどの満身創痍状態で瀬相を出港、7月6日に辛くも佐世保へ到着して早速工廠で本格的な修理を受ける。
8月4日に水中聴音機整備の訓令が下る。9月15日に特設巡洋艦清澄丸から転出してきた木岡蟻志松大佐が艦長に着任、9月17日に光学兵器整備の訓令が下った。大瀬が修理中で動けないからか、10月27日から11月1日の短期間だけ木岡艦長が軽質油運搬艦塩屋の艤装員長を兼任していた。11月20日修理完了。11月30日に佐世保を出港して門司に移動する。
12月5日午前11時30分、大瀬、建川丸、厳島丸、睦栄丸からなるヒ23船団第2分団に加わって門司を出港。第2分団に属しているタンカーはいずれも比較的高速であり、先発した第1分団は逆に低速タンカーで占められていた。翌6日、佐世保から出発してきた軽質油運搬艦洲崎が船団に合流し、快足を以って米潜水艦が潜んでいると思われる危険海域を強行突破、高雄にて第1分団と合流する。現地で駆逐艦波風と海防艦干珠を護衛が加入。12月7日正午にヒ23船団は高雄を出発。陣容は大瀬、洲崎、高崎、油槽船御室山丸、一宇丸、厳島丸、建川丸、隆栄丸、睦栄丸、貨物船五洋丸、一洋丸、能代丸、安芸丸の13隻で、護衛艦艇は駆逐艦波風と海防艦干珠の2隻のみだった。
12月10日にインドシナのサンジャックへ寄港した時に船団は解散。ここからは各個に目的地へ向かう事となり、大瀬は12月14日14時にシンガポールへの入港を果たした。シンガポールではパレンバンの油田から集められた石油の積載作業に従事。12月17日に二號色と呼ばれる迷彩の塗装訓令が下る。
12月30日、日榮丸、日輪丸、辰春丸などからなるT船団に加わってシンガポールを出港。大瀬は再び船団の護衛を担当する。
1944年1月2日21時16分、南シナ海を航行中、米潜水艦キングフィッシュに捕捉され、追跡を受ける。翌3日午前2時10分、キングフィッシュはT船団の中で最も大型で先頭を走っている大瀬に艦首を向けて魚雷3本を発射。大瀬の後方に2本の雷跡がすり抜け、1本が早爆した事でT船団に雷撃を悟らせ、分散しながら各々無秩序に爆雷攻撃を開始。唯一日輪丸(辰春丸とも)だけは浮上中のキングフィッシュを正確に発見する。
日輪丸が背後から接近している事に気付いたキングフィッシュ艦長ハーバード・L・ジュークス中佐は、艦橋を空けるよう部下に命令するも、その命令を急速潜航と誤認し、ジュークス艦長がまだ甲板上にいるのに潜航を始めた。幸いジュークス艦長は艦内へ滑り込めたが直後に頭上で日輪丸が投じた爆雷5発が炸裂。命令が正しく伝わらなかった混乱も手伝って、キングフィッシュはT船団を無傷で取り逃がした。1月8日に無事高雄へ入港。
1月10日午前10時にT船団は高雄を出港、門司まで後少しの所まで迫った1月15日18時5分、再び日輪丸が敵潜を発見して爆雷1個を威嚇投射。幸運にも雷撃は無く同日中に何とか門司まで帰り着いた。翌16日、徳山に寄港して燃料補給。1月21日にも徳山燃料廠で給油を受けている。
2月11日16時、大瀬は萬栄丸や清洋丸など1TL戦時標準タンカー5隻からなるヒ43船団に加わり、海防艦対馬の護衛を伴って門司を出港。2月12日から翌13日まで五島列島福江島にて仮泊し、2月16日午前11時に基隆へと寄港する。ここで貨客船桜緑丸を切り離し、2月18日午前10時に船団は基隆出発、2月23日17時30分にカムラン湾へ寄港して第41号駆潜艇が一時的に加入する。その間に対馬と第21号駆潜艇が対潜掃討を行った。
先のトラック大空襲で徴用船舶に甚大な被害が及んだ事を鑑み、2月25日に大瀬は連合艦隊直轄となる。
2月29日午前9時に第41号駆潜艇と別れてカムラン湾を出発。大陸に沿って南下を続ける。3月1日未明、サンジャック近海で北上する味方の輸送船団とすれ違うが、その際に陸軍輸送船徳島丸と対馬が衝突事故を起こし、搭載爆雷の起爆により艦尾8mを失った対馬は徳島丸に曳航されてサンジャックへと後退。事故に見舞われながらも3月3日17時にシンガポールに辿り着いた。ここで大瀬は西カロリン諸島の防備強化――つまりパラオへの増援及び物資輸送に従事する。早速リンガ泊地から来た第17駆逐隊と合流し、護衛されながらパラオに向かった。
3月9日、第5戦隊の重巡羽黒と妙高、駆逐艦白露に護衛されてパラオを出港。3月11日にタラカンから出発してきた給油艦石廊が合流したのちシンガポールへ回航。3月15日正午、大瀬、雄鳳丸、あさしお丸、あまつ丸で大瀬船団を編成してシンガポール海峡東口を出発。これを第17駆逐隊の浦風、谷風、磯風、浜風の4隻が護衛する。原速力10.5ノットでボルネオ南岸接岸航路を使い、バリクパパン沖、ミンダナオ島南方を通過して3月27日15時に大瀬船団はパラオへ入港した。
3月28日、西松2号船団の護衛でパラオに来た第36号哨戒艇に対して燃料補給を行う。そして3月31日に出港する予定だったが…。
先立つこと2月17日にトラック大空襲が行われて以降、敵機動部隊の跳梁は激しさを増す一方だった。3月16日にニューギニアのウェワクが空襲を受け、3月19日にはマーシャル諸島ミレも艦砲射撃を受けた。そして3月27日にパラオの連合艦隊司令部は通信状況から西カロリン諸島とニューギニアの中間に有力な敵艦隊が活動していると推察、警報を発した。翌朝にはメレヨンを発進した偵察機が空母2隻を基幹とした敵艦隊を発見するなどパラオにも不穏な空気が漂い始める。
3月30日朝、連合艦隊はパラオの空襲は必至だと判断したが、既に敵空母からは艦載機が放たれていた。
1944年3月30日午前5時50分、ペリリュー方面から敵機456機が出現してパラオ大空襲が始まる。午後12時15分、敵空母ヨークタウンⅡ艦載機から8発の投弾を受け、このうち2発が命中して炎上。17時30分、今度はエンタープライズ艦載機から1000ポンド爆弾を喰らう。
最期の意地か、3発の命中弾を受けてもなお浮き続けていた大瀬であったが、3月31日正午に再度襲来したヨークタウンⅡ艦載機に2発の500ポンド爆弾を受け、遂に右舷へ傾斜しながら沈没。
この大空襲で日本側は航空機146機、支援艦9隻、徴用船舶など21隻、基地要員120名が犠牲になり、パラオは基地機能を喪失。特に大瀬を含む給油艦6隻の喪失は連合艦隊の給油能力や行動範囲に厳しい制限を課した。パラオは輸送船の集結地になっていた事、またトラック大空襲から逃れてきた船舶も多く混じっていた事が被害の拡大を招いている。
4月25日に舞鶴鎮守府艦船部隊残務班が大瀬の残務整理を行い、本日付で木岡大佐が艦長の任を解かれた。5月10日除籍。
戦後、藤田サルベージが残骸を撤去。1953年3月、対日平和条約第17条に基づきオランダからヘノタの鹵獲が国際法上合法であったかの再審査要求があり、運輸局の外局に捕獲審検再審査委員会を設置して再調査。当時日本とオランダは戦争状態にあり、国際法に則った正当な行為であるとの判断を下して外務省はオランダ大使館に通知した。
1975年、二代目ヘノタが就役。1986年にブルネイシェル社へ売却された後はブブクに改名し、日本とブルネイを往来する定期輸送船となった。パラオで沈没した縁からか、パラオで発行されている切手の絵に大瀬が採用されている(ただ「OSE MARU」と誤記されている)。
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最終更新:2025/12/14(日) 21:00
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