セイロン沖海戦 単語

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セイロンオキカイセン

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セイロン沖海戦とは、大東亜戦争中の1942年4月5日から9日にかけてインド洋で生起した日本海軍機動部隊vsイギリス東洋艦隊の戦闘で、日本側が勝利した。

概要

背景

開戦と同時に行われた南方作戦は、日本側の予想を上回る速度で順調に推移。あまりにも快進撃が続いたので、まだ考えていなかった次期作戦案を策定する必要が出てきた。軍中央が検討した結果、1942年1月末にフィジーサモア攻略が内定。しかし連合艦隊としては次期作戦案が貧弱なのと、フィジー及びサモア攻略に反対だったため独自にセイロン奇襲攻撃を提案。セイロンとは、インド洋に浮かぶイギリス東洋艦隊の拠点である。香港シンガポールを失ったイギリス海軍はこのセイロンまで後退していた。セイロンの港湾施設とイギリス東洋艦隊を撃滅し、アンダマン諸及びビルマ攻略を円滑にする狙いがあった訳である。アメリカ軍真珠湾攻撃でしばらく反攻に転じる事はいだろうと判断され、世界最強南雲機動部隊インド洋へ転戦する事となった。

2月5日上京する藤井参謀に連合艦隊案を伝え、海軍部にセイロン攻撃の承認をめた。連合艦隊海軍部が協議し、2月14日認可された。しかし南方作戦は未だ継続中であり、陸海軍部ともに時期尚と考えていた。このため実行は3月下旬頃と定められた。まだ次期作戦案が固まっていなかったので、セイロン攻撃は策定するまでの時間稼ぎという側面も持っていた。

1942年3月9日オランダ軍の中枢だったジャワ島攻略し、アメリカ軍が力闘するフィリピンを除いて東南アジア一帯の資地帯は全て日本の手中に収まった。連合軍を大方一掃した事により、同日中山本五十六長官が機密連合艦隊作第86号を発し、南方部隊近藤竹中将に作戦を下。攻撃予定日は4月1日とした。切り札である南雲機動部隊の攻撃に先立って、まず第5潜戦隊がペナン拠点にしてインド洋へ進出。通商破壊を実施し、8隻の輸送を撃沈した。スターリング湾には赤城飛龍蒼龍が集結。そこに内地から出発した翔鶴瑞鶴が合流する予定だったが、ウェーク島周辺にアメリカ機動部隊が出現(誤報)したとの情報が入り、そちらの迎撃に回された事で予定が遅延4月1日の予定日を5日にずらさなければならなくなった。これが思わぬ幸運を招く事になる。

3月26日午前8時南雲機動部隊が誇る正規空母5隻(加賀欠)がスターリング湾を出港。315機の稼動機と第3、第7戦隊、第1戦隊、第17、第18、第4駆逐隊を護衛につけてインド洋へと向かった。4月1日、先に進出していた巡洋艦熊野鈴谷由良ベンガル湾で通商破壊を実施。露払いを行った。4月4日18時55分、戦艦比叡が触接しようとする英空軍205中隊所属のカタリナ飛行艇を発見し通報赤城蒼龍翔鶴瑞鶴から戦闘機3機が、飛龍から6機が出撃。19時20分頃に撃墜したが、敵が文で位置情報通報している様子が傍受された。それでも攻撃予定日に変更はく、艦攻隊の一部を雷装させて敵艦隊の出現に備えた。

イギリス軍の戦備

東南アジア一帯を日本軍に占領された結果、セイロン日本軍の眼前にされる事になった。マレーシンガポールビルマを失ったイギリス軍にとってセイロン上輸送路を結ぶ重要拠点であり、中東及び方面のシーレーンを死守するためにもセイロンは絶対死守しなければならなかった。急遽インドから増援を送り、空母インドミタブルを使って必死航空機と必要資材を運搬した。オーストラリア政府北アフリカ戦線から引き上げ中の二個旅団を派遣し、イギリス軍の本隊が到着するまで代わりに戦うと約束した。

焦燥する現地軍とは対照的に、本防委員会は「セイロンには東洋艦隊が健在している上、いつか反攻に転じるであろうアメリカ太平洋艦隊に備える必要があるので、日本軍が同方面に襲来するとは考えにくい」と判断。現地軍もその判断を参考にし、インド洋の制権維持に務める方針を固めた。3月24日空母フォーダブルによってサマヴィル提督がセイロンに上陸した。彼の揮下には旧式戦艦ウォースパイトリベンジ戦艦4隻、ハーミーズを始めとする軽空母3隻、オランダ海軍巡洋艦7隻、駆逐艦16隻が収まっていた。戦闘機は約60機に達し、ダルビアック空軍少将に率いられて訓練を続けていた。

3月28日情報機関日本側の暗号解読し、日本の有力な機動部隊4月1日にセイロンを攻撃するという情報をキャッチ。サマヴィル提督にも情報が届き、待ちせを図った。彼はコロン南方に艦隊を集結させ、カタリナ飛行艇6機を偵察に投入。レーダー搭載のソードフィッシュ間雷撃を企図した。セイロン総司令官レイトン提督は全部隊戦闘態勢を取らせ、港内の商に脱出や分散配置を命じた。コロンボ港内で修理を受けていたドーセットシャーの工事は中止され、南方にいる力と合流するためにコーンウォールと出港した。

サマヴィル提督の艦隊はコロン南方日本機動部隊を待ち受けていたが、予定日の4月1日になっても全く姿を現さない。翌2日まで待ってみたが、リベンジ級のが不足してきたため補給しなければならなくなった。提督は気が進まなかったが、ドーセットシャーとコーンウォールコロンボに、マダガスカル攻略を見越してハーミーズ駆逐艦1隻をトリンコマリに出し、残りはアッヅ環礁に向けて南下を始めた。不運にも連合軍の情報機関は、攻撃日が遅れた情報を掴めなかったのだ。

4月4日、艦隊がアッヅ環礁に到着する直前にカタリナ飛行艇から緊急電が入った。「敵の大軍襲来!」
同日、サマヴィル提督戦艦ウォースパイト空母インドミタブルフォーダブル巡洋艦2隻、駆逐艦6隻を率いて緊急出撃。リベンジ級には補給が済み次第追従するよう命じた。ドーセットシャーとコーンウォールコロンボを出港し、南方の本隊と合流すべく移動を開始した。

海戦開始

4月5日

1942年4月5日午前9時コロン南方200里の空母から淵田中佐率いる攻撃隊129機が発進。セイロンの港町コロンボへ向かった。セイロン南端で、英海軍航空隊第788中隊のソードフィッシュ雷撃機8機と赤城の艦戦が遭遇。ソードフィッシュ全滅した。午前10時45分、攻撃隊がコロンボ上陸に到達。仮装巡洋艦クター駆逐艦テネドスを撃沈し、潜水母ルチアを中破、商ベンレデを大破させた。あらかじめ商が分散配置されていたため、商への被害は少なかった。間もなくハリケーン戦闘機36機とフルマー戦闘機10機が迎撃に上がってきて、戦となる。イギリス軍機は対空砲が届く地に誘導しようとしてきたが、錬度の高い日本軍機には通用せず、ハリケーン14機とフルマー4機が撃墜された。対する日本側の損瑞鶴の艦爆5機と翔鶴の艦爆1機を喪失した程度だった。午前10時46分、南雲機動部隊に触接を試みた飛行艇飛龍隊が撃墜している。13時25分、攻撃隊が帰投した。

攻撃隊が帰投する少し前の13時5分、索敵中の利根艦載機が機動部隊西方に「ケント級らしきもの2隻発見」と報告してきた。南雲中将は第二次攻撃隊の発進を命じ、14時49分より赤城飛龍蒼龍から順次攻撃隊が発進した。標に向かって飛行する攻撃隊を英空母フォーダブルレーダーで捕捉していたが、自身への攻撃ではないとして素通りさせてしまった。15時54分、英巡洋艦コーンウォールドーセットシャーを発見。この2隻はコロンボを出港し、東洋艦隊力と合流するためアッヅ環礁へ向けて南下中だった。16時29分より突撃が行われ、太陽を背に一斉に襲い掛かった。この時、日本の搭乗員は恐るべき錬度を発揮。赤城は94%蒼龍は78%飛龍は94%均して88%という驚異の命中率を叩き出した。当時の均命中率は25%程度であり、開戦劈頭の日本海軍世界最高の錬度と言われる所以である。正確爆撃にさらされ、2隻の重巡洋艦く間に撃沈された。生存者は人食いサメがうようよしている域を漂ったが、翌日の夕刻に巡洋艦エンタープライズ駆逐艦2隻に救助された。攻撃隊は17時45分までに全機帰投。あまりにもあっさり敵が全滅したので、出撃待機中だった翔鶴瑞鶴の攻撃隊は出番を失った。

こうして4月5日戦闘は終了した。しかしソードフィッシュが出現した事から、付近に英空母が潜んでいると南雲中将は判断。警を厳重にしながら一度セイロンの警圏から脱し、北上してトリンコマリ方面に向かった。一方、サマヴィル提督日本の強大な戦力と、その指揮官真珠湾攻撃揮した南雲中将だと知る。生存者を収容した東洋艦隊は夜戦を挑むべく北上を開始。航空兵力が脆弱なため、アルバコアを使って間雷撃を行うつもりだったが、既に南雲機動部隊が北へ逃げた後だった。索敵中のアルバコアが、撃沈された2隻の残骸を発見している。

4月6日、第一南遣艦隊がベンガル湾で通商破壊を実施。前日の襲で、慌ててカルカッタから逃げ出してきた商が軒並み狩られ、21隻が撃沈された。南雲機動部隊は英空母攻撃のため、6日のから索敵を行ったが発見は出来ず攻撃を断念。トリンコマリ攻撃に向かった。

4月9日

4月9日、触接してきたカタリナ飛行艇を直掩の零戦が撃墜。午前9時、5隻の空母から艦攻91機と零戦41機が出撃。午前10時30分からトリンコマリ攻撃が開始され、停泊中の船舶や港湾施設に甚大な被害を与えた。飛行場に駐機していた戦闘機13機も片端から破壊している。トリンコマリのレーダーが接近する攻撃隊を探知していたため、イギリス軍機の迎撃は速だった。ハリケーン16機とフルマー6機が出現し、零戦3機と艦攻2機を撃墜。反撃でハリケーン8機とフルマー1機が撃墜された。軽爆撃機も迎撃に投入されたが、優勢な日本軍戦闘機隊によって半数が未帰還となっている。トリンコマ襲の報はハーミーズにも届き、北上して味方の制権内に逃げ込もうと考えた。だがこの判断が自身の首を絞めてしまった。

午前10時55分、戦艦榛名の索敵機が軽空母ハーミーズ駆逐艦3隻(駆逐艦1隻の間違い)を発見。ハーミーズは前日トリンコマリから脱出し、退避していたところだった。午前11時43分、待機中の第二次攻撃隊(艦爆85機、零戦6機)が出撃。13時30分にハーミーズ隊を捕捉し、一気呵成に襲い掛かった。ハーミーズは24ノットの速力で逃げようとしたが、格納庫には故障したソードフィッシュ1機があるのみで丸腰だった。ここでも日本航空隊は驚異的な命中率を叩き出し、45発中37発を直撃させて僅か数分で撃沈。ハーミーズとともに駆逐艦ヴァンパイア1隻、2隻も撃沈した。たまたま近くに病院がいたため、日本軍機の誘導で現場に導かれ、生存者600名が救助された。ハーミーズ隊を壊滅させ、攻撃隊は帰路についた。しかし帰り道コロンボのラットマラナ基地から出撃した8機のフルマーに襲撃され、九九式艦爆4機が撃墜。2機のフルマーが撃墜されている。

その頃、零戦が上を警する中、機動部隊ではトリンコマリ攻撃から帰還した艦攻隊が英艦隊攻撃を行うために準備が進められていた。空母が一番脆弱になる状況……これを狙いすましたかのように、セイロンから飛来した10機のブレニム爆撃機赤城より奇襲を仕掛けてきた。もし被弾すれば引火爆発を招く大変危険な状態だったが、幸い爆弾は命中せず、ブレニムも4、5機が零戦に撃墜された。ともすれば空母を喪失しかねない致命的な危機だったにも関わらず、楽観ムードが漂っていた上層部はさほど問題視しなかった。上層部の天気っぷりに現場の将兵は「いっそのこと爆弾に当たった方が良かったのでは?」とさえ思ったという。

圧倒的な強さを誇る南雲機動部隊に、セイロンイギリス軍は恐怖で震え上がった。サマヴィル提督リベンジ戦艦を守らなければならないと判断し軍部長に掛け合ったところ、英海軍省から3000km西方南アフリカへ撤退する権限が与えられた。せめてインドペルシア湾の航路だけは守らなければ、という本の判断だった。こうして東洋艦隊力はキリンディニ基地まで後退していった。開戦から連戦続きだった南雲機動部隊を休ませるべく本土への帰還が言い渡され、日本側も撤退。セイロン沖海戦は幕を下ろした。

結果

セイロン沖海戦は日本側の勝利に終わった。日本軍を東洋の黄色サルと見くびっていたイギリス軍はその対価を大きく払わされ、優位が確立された戦争末期(1945年2月)まで攻勢に出られない事態に陥った。インド洋の制権は日本のものとなり、のちにドイツ海軍Uボートイタリア海軍潜水艦が来訪している。戦闘艦艇はいなくなったが商は沢山いたため、潜水艦の良い狩り場として終戦までに271隻(150トン)を撃沈した。また本戦は、日英が大規模に戦った最初で最後の戦だった。

チャーチル首相にとってこの敗報は衝撃的だったようで、戦後回顧録に「2隻の大切な巡洋艦が、急降下爆撃という全く新しい襲のやり方で沈められた。ドイツイタリア空軍を相手にした地中海艦隊の戦闘では、こんな事はただの一度も起こっていない」とっている。

戦後4月15日チャーチル首相ルーズベルト大統領に窮状を訴えた。この戦で、イギリス空母艦載機が時代遅れのものだと露呈したため、アメリカ軍ヘルキャットやコルセアアベンジャーを送って艦載機の刷新を図った。イギリス日本軍の攻勢を警し、インド洋に戦力が集められた。5月にはイラストリアスが、6月にはバリアントインド洋に到着した。それでも足りないチャーチル首相は、対独戦で活躍している将と航空機を東洋に回すよう要したが、これは拒否されている。マダガスカルを奪取してからはアフリカロイヤル・ソヴァレン級を進駐させ、虎視々とインド洋に捲土重来する機会をった。しかし役に立つ事はなかった。

インド洋から東洋艦隊を一掃した南雲機動部隊は、日本本土に凱旋帰を果たした。今や東南アジアの安泰は約束されたも同然だった。しかし飛行甲航空機を満載した状態で奇襲を受けるという、のちのミッドウェー海戦に繋がるような大きな問題点が浮上した。飛龍戦闘詳報では対用電探の装備などの戦訓が出されたが、日本軍は特に対策を講じなかったとされる。約2ヵ後にそのしっぺ返しを受ける羽になる。

1942年6月北アフリカ戦線ドイツアフリカ軍団エジプトに侵攻したとの報を受け、陸軍はセイロン攻略作戦を立案。ドイツ軍西アジアに到達したには、セイロン攻略して中東もしくは西アジアロンメルと握手しようと考えた。6月20日大陸1196号でセイロン攻略第11号作戦準備を発し、それに連動して帝國海軍インド洋で通商破壊を行うB作戦を発動。メルギーに重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦18隻を集結させた。しかしミッドウェー海戦で正規空母4隻を失って制権の奪取が困難なのと、8月7日アメリカ軍ガダルカナル島に来襲した作戦中止。集結していた艦は逐次ソロモン方面に送られ、ドイツアフリカ軍団エル・アラメインの戦いで敗北して後退を開始。ロンメルと握手するは露と消えた。

参加艦艇

帝國海軍

イギリス東洋艦隊(豪海軍、蘭海軍を含む)

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