第45号海防艦とは、大日本帝國海軍が建造・運用した丙型海防艦の1隻である。1944年12月23日竣工。伊勢湾方面で船団護衛任務に従事した。1945年7月28日の尾鷲空襲で擱座し、そのままの状態で終戦を迎えた。戦果は敵機3機撃墜、1機撃破。
丙型海防艦(第一号型海防艦)とは、戦争中期から末期にかけて、帝國海軍が緊急増産した戦時急造型海防艦の一種。とにかく数を揃えるため、簡略化が進められた日振型や鵜来型を更に簡略化し、小型化・単純化を推し進めてブロック工法を導入するなど生産性を重点的に底上げしている。艦型は船首楼型で、上甲板レベルより上の船首楼舷側に直線状のフレアを設置。
ちなみに次級の丁型海防艦とは設計が殆ど同じであり、奇数番号が丙型に、偶数番号が丁型に割り振られているなど実質姉妹艦のようなもの。ただし機関のみ異なり、丙型は低出力だが燃費に優れる艦本式23号乙型ディーゼルを、丁型は逆に燃費は悪いが出力に勝る蒸気タービンを搭載。
丙型海防艦には前期型と後期型の2種類があり第45号は後期型。前部マスト中段フラットに22号電探を、前部マスト直後の探照灯台に75cm探照灯を、艦橋頂部の防空指揮所に2cm高角測距儀を装備した他、前期型より爆雷投射機が2基増やされ(14→16基)、主砲に防楯が追加されている。機関は量産に向いた艦本式23号乙型ディーゼル2基を搭載しているが合計出力が1900馬力に満たなくなって鵜来型より速力が低下、これでは16ノットも出せないと考えられて一時は過給器を付けて速力を補助する計画もあったが、幸い過給器無しでも16.5ノットを発揮する事が出来た。小型化に伴って居住性の悪化も招いてしまっているが、涙ぐましい努力により工数は2万8000と御蔵型の半分にまで抑えられた。極限にまで絞った丙型海防艦はあらゆる面で性能低下を甘受しなければならず「半年使えれば良い」という声まで聞こえてきたという。丙型は133隻の建造が予定され、このうち53隻が実際に就役、そして半分近い26隻が戦没している。
就役した第45号海防艦は東京湾・紀伊水道間の海上交通路を防衛する第3海上護衛隊伊勢湾防備部隊に編入。伊勢湾は東京湾に次いで重要視されていたが、伊勢湾防備部隊には海防艦が第45号しかおらず、非常に希少な戦力だった(もっとも近隣の紀州部隊に第50号海防艦が所属し、間もなく第4号海防艦が応援に送られているが)。1945年7月28日の尾鷲空襲で大破擱座。しかし喪失判定は出ず終戦まで生き残った事になっている。
要目は排水量745トン、全長67.5m、全幅8.4m、喫水2.9m、出力1900馬力、最大速力16.5ノット、重油搭載量106トン。兵装は12cm単装高角砲E型、九六式25mm三連装機銃2基、三式単装迫撃砲1基、三式爆雷投射機16基、爆雷投下軌条2条、爆雷120個。
マル戦計画により第2423号丙型海防艦として建造が決定。1944年5月25日、日本海船渠工業(富山県富山市)で起工、8月25日に第45号海防艦と命名され、10月5日に進水、11月20日に第28号駆潜艇から転出してきた荒牧照大尉が艤装員長に着任し、11月25日に日本船渠株式会社内に艤装員事務所を設置。冬が深まった12月23日に無事竣工を果たした。初代艦長には艤装員長の荒牧大尉が着任、戦時編制により横須賀鎮守府警備海防艦兼呉防備戦隊へ編入される。
慣熟訓練を終えた第45号海防艦は1945年2月1日午前9時42分に伊勢湾部隊への編入が決定。2月5日発令の大海幕機密第608号ノ193により横須賀鎮守府部隊へと転属し正式に伊勢湾部隊に編入、翌6日に二代目艦長として、インドシナ沖で撃沈された第35号海防艦の艤装員長、及び初代艦長であった岩田末治少佐が着任した。現在伊勢湾部隊には海防艦が1隻もおらず、一刻も早い鳥羽回航を望んでいたのか横須賀鎮守府より再三行動予定の報告を促され、2月9日15時35分になってようやく第45号海防艦から行動予定の報告が出された。同日呉海軍工廠で22号改電波探知器、13号対空電探、3号改一電波探信儀、一式空3号無線機の搭載工事、機銃防弾装置の新設、電磁ラッパの拡大、聴音機の絶縁不良の修理を行う。
2月23日に呉を出発して鳥羽に回航、第3海上護衛隊指揮下の伊勢湾部隊機動隊(第45号海防艦、第27号掃海艇)に配備され、伊勢湾を往来する輸送船団の護衛任務に就く。伊勢湾部隊は去る2月16日に敷設艇成生を潮岬沖で失い、商船改造の小型特設艦艇しかいなくなってしまっていたが、第45号海防艦の加入により減じた兵力を補填する事が出来た。
3月3日20時、横浜から呉に向かう海軍配当船さばん丸の回航援護命令が横須賀鎮守府より下る。今となっては希少な1万トン級の油槽船だけに失う訳にはいかなかった。3月5日、伊勢湾における最初の任務は出発前に前路の対潜掃討を行う事だった。伊勢湾での主な敵は航空機であったが潜水艦への警戒も怠ってはならない。翌6日、第27号掃海艇、特設機雷敷設艦高千穂丸、大井派遣隊とともに伊良湖へ向けて出発。現地で仮泊していたさばん丸と合流し、無事に尾鷲まで送り届けて特別護衛を完遂させた。その後、バトンパスのように各部隊が協力して特別護衛を行い、さばん丸の呉回航を成功に導いている。
3月7日、第45号海防艦は尾鷲を出発、第27号掃海艇や第183号駆潜艇を指揮して静岡県沖で対潜哨戒を行う。15時に味方の哨戒機が三木崎3海里沖で敵潜水艦を探知して発煙筒を投下、続いて第45号海防艦と第27号掃海艇を誘導して2隻協同による対潜制圧を実施した。燃料不足のため尾鷲に帰投。
3月18日午前10時40分、敵機動部隊来襲の危険性から航行中の船舶は最寄りの港への退避命令が下される。これに伴って宝山丸を護衛する予定だった第45号海防艦の出港も取り止めとなり的矢港で警泊。一時伊勢湾を往来する船が途絶えた。翌19日午前8時20分、伊勢湾部隊司令部より的矢湾口に不時着水したとされる味方四発機の調査を命じられて出港、どうやら戦場から離脱する際に敵艦載機に襲われて墜落してしまったのだという。負傷者はいたものの全員命に別状は無く、陸軍輸送船有明丸に生存者を移乗させた。
3月20日、桑栄丸が御前崎沖を西航する敵機動部隊を発見して伊勢湾部隊司令部から警報が出され、護衛艦艇は湾内を航行中の船舶を最寄りの港へ避泊させるよう命じられる。第45号海防艦には志摩市磯部町的矢在泊の船舶9隻を港内各所へ分散すべしとの命が下った。翌21日15時46分に避泊命令が解除されて各々目的地への航行を再開。3月23日13時10分、伊勢湾部隊司令部から「土佐沖で撃墜された敵艦攻から作戦資料を取得するため漂流物を極力拾い上げるべし」との命令が下る。3月30日午前2時、陸軍徴用船呉竹丸を護衛して出発し、14時10分に帰投した。
4月に入ると新たに第4号海防艦が機動隊に加入して戦力が拡充された。
4月3日、第27号掃海艇の修理が完了次第、横須賀工廠で第45号海防艦に一式3号無線電話機と三型改一電波探知器の搭載、並びに現用発電機に防震装置の取り付け工事を実施する事に。4月15日、度重なるB-29による機雷敷設と航空攻撃の激化により本州南岸航路は実質封鎖に追いやられ、比較的安全な日本海を通る北方迂回路が使われるようになった事から護衛する船舶がいなくなり、第3海上護衛隊は解隊。所属艦艇はそのまま第4特攻戦隊に転属となって第45号海防艦、第50号海防艦、第182号特設駆潜艇、第21号特設掃海艇等で紀州部隊を編成、串本派遣隊の指揮下に入る。
4月20日午前5時、護衛対象の南光丸とともに伊良湖を出港、18時に串本港へ到着して任務を完遂させた。4月22日13時55分、串本から鳥羽に向かう第4特攻戦隊司令部が第45号海防艦に便乗。一時的ながら将旗を掲げて戦隊旗艦を務めた。翌23日17時2分、鳥羽へ到着して司令部が退艦、伊勢防備隊に将旗を掲げた。4月24日に鳥羽へ回航されてきた第4号海防艦と初の顔合わせをする。4月28日午前6時、冨士玉丸を護衛しつつ鳥羽を出港。航行中の午前8時32分に伊勢湾部隊への異動が決まり、また初島沖で敵潜の雷撃を受けたとの報により予定を変更して熊野灘部隊、第903航空隊、串本派遣隊、第44号駆潜艇とともに第一掃討配備を形成し、敵潜の掃討作戦を展開。翌29日14時17分に掃討を中止して尾鷲に向かうよう命じられた。
5月3日午前8時10分、第四特攻戦隊司令部より熊野灘部隊の指揮下に入るよう命じられ、以降は尾鷲を拠点に活動する事に。横須賀工廠での工事を終えて5月22日午前11時に横須賀を出港、18時下田へ仮泊して一晩明かし翌23日午前5時に出発、15時に鳥羽へと到着した。
7月21日、敵機動部隊が関東の東海域を遊弋中である事を鑑み、第四特攻戦隊司令部は指揮下の艦艇に警戒配置を下令。来襲の危険が高まる7月26日午前4時30分より警戒を厳重にするとともに、被害を最小限に食い止められるよう港内に分散停泊した上、陸地の一部に見せかけるべく偽装工作を推奨。また対空射撃の命中率を底上げするため25mm機銃の場合は1500m以内、13mm機銃の場合は1000m以内まで敵機を引き付けてから発砲し、弾薬の空費を避ける必要性から無用な追撃を控える事も推奨された。
1945年7月28日早朝、尾鷲湾の北東にある古里海岸に艦首を向け、防波堤に左舷側を向けて停泊していた第45号海防艦。瀬木山防空監視哨より「所属不明のコルセア12機が佐波留島と桃頭島の間の上空から尾鷲湾に向かって飛行中」との報告が司令部の尾鷲小学校へ届き、直ちに在泊艦艇が迎撃体勢を取る。敵編隊は八鬼山から引本港方面に飛来し、橡山上空で左旋回したのち尾鷲の市街地方面から攻撃を開始、市内に防空警報のサイレンが鳴り響いた。戦闘の始まりである。
午前6時4分、英空母フォーミダブル所属のF4UコルセアMk.Ⅱ2機が出現。岩田艦長の「撃ち方始め」の号令で高角砲と機銃が一斉に火を噴く。尾鷲湾内には熊野灘部隊の旗艦駒橋、第14号駆潜艇、港外には第2京仁丸と第18播州丸、須賀利湾には第1京仁丸と第10昭和丸が停泊していたが、その中で最も重武装だったのが第45号海防艦であった。
午前6時5分、弾幕を低空で掻い潜ったハロルド・K・キルダー少尉機が左舷目掛けて投弾してきたが、狙いが逸れて至近弾を示す水柱が築かれる。次にイアン・スターリング少尉機が突撃し、対空砲火を掻い潜りながら左舷側に命中するようスキップ・ボミングを仕掛けて左舷艦橋下に直撃。艦橋が大破した影響で戦死者30名と重傷者を大量に出し、また岩田艦長が重傷を負ってしまったため航海長が臨時に指揮を執る。被弾した箇所から火災が発生してモクモクと黒煙を噴き出し、前部の12cm単装高角砲はたちまち故障して作動しなくなり、25mm三連装機銃は爆発の衝撃で艦外に吹き飛ばされて砲手は即死。電探室、水測室、電信室、電話室、揚錨機、通信伝達装置、操舵装置を破壊されて半身不随と化す。
だが第45号海防艦も黙ってやられた訳ではなかった。熾烈な対空砲火が攻撃してきたスターリング少尉のコルセアを捉え、湾内へ墜落させたのである。スターリング少尉がゴムボートで脱出するのを見届けるため上空を旋回していたキルダー少尉機も第45号海防艦にプロペラを撃ち抜かれて墜落。2人はゴムボートを漕いで湾内から脱出し、湾口を哨戒していた米潜水艦スキャバードフィッシュ(SS-397)に救助された。
満身創痍の第45号海防艦に向けて今度は米空母ベニントン所属のコルセア7機とヘルキャット3機が出現し、24発のロケット弾と8発の爆弾を放ってきた。死に体ながらも対空射撃によりヘルキャット1機に軽度の損傷を与え、フィッシャー中尉機のコルセアを撃墜、フィッシャー中尉は先の両名と比べて運が無かったようで戦死してしまっている。湾内の在泊艦艇が奮闘して注意を引き付けたからか米軍機は市街地に爆弾やロケット弾を撃ち込む事は無かったという。浸水被害によって徐々に艦が沈下しつつあったため沈没を避けるため古里海岸に乗り上げて擱座。目撃者の証言によると13時半頃にはもう擱座していた。攻撃は18時頃まで続き、熊野灘部隊で有力な艦艇だった駒橋、第45号海防艦、第14号駆潜艇の擱座により実質戦闘能力を喪失。尾鷲市内の全病院に負傷者の治療を依頼し、足りない病床分は熊野灘部隊の司令部があった小学校を間借りして臨時の野戦病院とし、地元の国防婦人会に看護を代行してもらった。
7月29日に戦死者を荼毘に付して遺骨を一時的に金剛寺へ納骨。生き残った乗組員は金剛寺と尾鷲神社を借用して仮の住まいとする。7月30日からは重傷者を除く兵科、機関科要員全員で第45号海防艦から使用可能な武器と弾薬の回収作業を実施し、最寄りの平地に25mm三連装機銃や砲座を備え付け、湾口に向けた事で即席の防御陣地を構築。侵攻してくるであろう敵への迎撃体勢を整える。同日中に熊野灘部隊司令部から高角砲機の残弾数を知らせるよう命令が下った。擱座したままの艦体は放置すれば強風にあおられて横転する危険性があったため乗組員総出で固定作業を行う。
大本営から「広島へ新型爆弾が投下されて多大な被害が出た」との電文を受け取ったのはその作業中の事だった(おそらく8月7日)。そして敵の攻撃を受ける事無く8月15日の終戦を迎える。大破擱座状態だったが一応生存判定を受けていたようで行動不能艦に分類され、海軍省が解体された11月30日に除籍となった。復員で引き揚げる際、乗組員は感謝の気持ちも込めて残っていた食糧全てを尾鷲市に寄贈している。
市内の白石墓地には駒橋、第45号海防艦、第14号駆潜艇、熊野灘部隊147名の戦死者を弔う慰霊碑が建立されている。
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