ケニー・ロバーツ・シニア単語

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ケニーロバーツシニア
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ケニー・ロバーツ・シニア(Kenny Roberts senior)exitとは、アメリカ合衆国出身の元・MotoGPライダーである。

1951年12月31日生まれ。

1978年から1980年まで、MotoGP最大排気量クラスで3連覇を達成した。そのかしい功績から「キングケニーKing Kenny」と呼ばれている。


本名はケネス・ルロイロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)で、選手としての登録名はケニーロバーツだった。

長男名前もケネス・ルロイロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)で、選手としての登録名はケニー・バーツだった。

父親長男を明確に区別するため、父親をケニー・ロバーツ・シニア、長男ケニー・ロバーツ・ジュニアと呼ぶことが多い
 

レーサーとしての経歴

農場で育つ

1951年12月31日アメリカ合衆国カリフォルニア州モデストexitで生まれた。ここはサンフランシスコから東に128km、ロサンゼルスから北に473kmの位置にあり、内陸部の田舎である。

父親メルトン(Melton)母親アリスAliceという。父親メルトは、バスターBuster)というあだ名が付いていた。バスターとは「退治する者」「撲滅する者」「やっつける者」といった意味で、crime-busterなら「犯罪撲滅野郎」という意味になる。

モデストの街の東西を132号線という道路が横切っているexit。その132号線沿いの農場でケニーは育った。どういう農場かというと、E&Jガロワイナリーexitという名高いワインメーカー契約したブドウだった。同社はアメリカ合衆国最大のワイン企業で、モデスト中心部のこの場所exitに本社がある。

デストは人口約20万人のわりと大きいなのだが、ロバーツ一家の住む場所は、そこから西に離れた田舎の農場近くだった。

モデストの気候データexitを見てみると、1月均最高気温が13.0度で鹿児島市とほぼ同じ。当然、なんてものは一切降らない。1年の均降量は335mmで、とても燥している。日本東京がだいたい1,500mmなので、その5分の1しかない。つまりどういうことかというと、オートバイで走り回るにはぴったりの土地柄だと言える。

子供の頃のケニーに乗ることに興味を持っていた。当時のケニーは小柄で体重も軽く、父親バスターは「ケニー競馬騎手にしたい」と思っていたほどだった。ところが、父親バスターの意に反して、ケニーは次第にオートバイを乗り回すようになった。12歳のとき友人ミニバイクを乗るよう勧められたのがオートバイとの初めての接触である。親父の芝刈り機のエンジンバイクフレームに乗せて、それで走らせたこともあったという。

ケニーにはリックという2歳年上のがいる。リック通学手段として、リックドリーム50exitホンダ4スト50ccバイク)を買ってあげた。するとケニーは、リック用のドリーム50をかっぱらって、乗り回して遊んでいた。庭に穏をもたらすため、仕方なく、ケニーオートバイを買ってやることになった。

田舎の農場なので、他に娯楽がなかった。農場の中の、土でできた路面をオフロードから晩まで走り続ける日々が続いた。ケニーは農場の路に転落したこともあったが、そのときも走り続けようとしていたという。

父親バスターによると、ケニーはみんなに好かれていたがとても強情な子で、何をやるにしても自分が役じゃないと気が済まない性格だった。野球をやるなら投手をやろうとするし、アメフトをやるならクォーターバックアメフトで最も形のポジションとされる)をやろうとしたという。

そういう性格なので、ただオートバイを走らせるだけでなく、レースに出て勝利を得ようとするのは必然の流れだった。

デストの中で、オートバイダートトラックレース坦な土の路面を走る競技)が開催された。ケニーはそれに出場したいと言い、父親バスターは、トーハツexitバイクを購入してあげた。トーハツのバイクは競争力がかったので、ケニーはそれに対して不満をいうようになった。その頃のレーサーは皆ホダカexitに乗っていたからである。このためバスターホダカバイクを買ってあげた。そんな調子で、ケニーは競争力を高めようと常に努力する子だった。

ケニー父親バスターからバイクに関する教育はほとんど受けなかった。バスターオートバイレーサーでも何でもく、普通田舎親父だったからである。自分1人でひたすら考えて、練習を重ねて、走りを向上させていった。
 

バド・オークランドに出会い、プロ・ライダーになる

ケニー高校生になっている頃には、ダートトラックで勝ちまくるようになっていった。そのケニーの姿を見て、バド・オークランド(Bud Aksland)exitという人物がを掛けてきた。バドは、ケニー実家から近いマンティーカexitスズキオートバイを販売している業者で、ケニーに対して「スズキマシンに乗って、レース活動しないか」と勧誘してきたのである。ケニーはこの誘いに応じ、通っていた高校退学して、そのままレース世界に飛び込むことにした。

バド・オークランドはもともとダートトラックレーサーで、年を重ねてからレース引退し、オートバイ販売店を経営していた。元・レーサーが才あふれる若者をみつけて支援するという、いかにもありがちな物語が展開されていた。


1969年12月31日に、ケニー18歳になった。それと同時にAMAのプロライダーになった。当時のAMAexitアメリカ合衆国オートバイレース団体)は、18歳にならないとプロライダーになれなかったのである。

初めてプロライダーとして参加したのは、1970年1月1日サンフランシスコ近郊のカウ・パレスexit(Cow Palace 「の宮殿」という意味)で行われたレースで、4位に入っている。

その後は連戦連勝を重ねたという。勝ちまくったので賞金ももらえたし、スポンサーもご機嫌だった。このため、10代のケニーバイクレース以外の仕事をした経験がい。

バド・オークランドはケニーに対してレースに関するあらゆることを教え込んだ。エンジンの構造など、難解なことも教えた。このため、ケニーにとって初期のメンター(mentor 信頼すべき導者、という意味)とされる。また、後年のケニーチームロバーツを作ったとき、マンティーカexit工場エンジンの排気に関する部品を作って渡しており、その部品のおかげでチームロバーツが好成績を収めたこともある。

※ここまでの資料・・・記事1exitチーム・ロバーツ本94ページexit_nicoichiba
 

ヤマハ・USAに所属し、アメリカ合衆国のレースで勝ちまくる

バド・オークランドはケニージム・ドイル(Jim Doyle)exitという人物を紹介した。その人は飛行機パイロットであり、アマチュアオートバイレーサーだった。この人が、ケニーマネージャーとなり、契約交渉の代理人となってケニーを支えることになった。

ジム・ドイルは最初トライアンフアメリカ支社と交渉したが、「ケニー168cmで、々のバイクに乗るには身長が低すぎる」という理由で断られた。そのため、次はヤマハアメリカ支社であるヤマハUSAと交渉した。ヤマハとの交渉は上手くいき、ケニーは弱冠19歳でヤマハワークスライダーになった。これが1971年のことである。

このときケル・キャラザース(Kel Carruthers)exitというオーストラリアライダーと出会った。ケルとの付き合いは長く続き、1973年までは同僚のライダーとして色々教わり、1974年からはメカニックとして支えて貰うことになった。MotoGPに行くときもケルがメカニックとして付いてきてくれた。


1973年に、ケニーは弱冠21歳ながら、AMAグランドナショナル選手権でチャンピオンになっている。AMAグランドナショナル選手権とは、ロードレース(舗装路面のレース)やダートトラック(土の路面のレース)といった色んなカテゴリーレースに出場し、その合計ポイントチャンピオンを決める選手権である。

このチャンピオン獲得で自信が付いたのか、1974年3月デイトナ200マイルexit320kmぶっ続けで走る耐久レース)のとき、やってきたジャコモ・アゴスティーニ(31歳9ヶ)に対して

Agostini does not know the circuit and does not know the bike; I'll eat it raw

と言ったという。「アゴティーニはサーキットも知らないし、バイクも知らない(1973年までMVアグスタ所属だった。1974年からヤマハ所属)。アゴティーニを生で食ってやるよ」という意味である。

その時点で13回の世界チャンピオンを獲得していたジャコモに対して大胆不敵な発言をしたが、決勝はジャコモ渾身の走りに打ち負かされ、2位に終わった。

1974年4月イモラ200マイルexitではジャコモ・アゴスティーニと再戦したが、またしてもジャコモに負かされ、2位に終わった。

ジャコモには貫を示されたが、AMAグランドナショナル選手権では相変わらず絶好調で、1974年に連覇を達成している。



アメリカ合衆国AMAグランドナショナル選手権で、ケニーレースを続けていた。年間30戦ほどで、ロードレース(舗装した路面のレース)は7戦だけ、後の残りはダートトラック(土の路面のレース)だった。ダートトラックの方が戦場だったのである。

その戦場ダートトラックで、ヤマハマシンは段々と勝てなくなっていた。ハーレーダビッドソンマシンの方が優れていて、技術的に劣勢になっていたのである。1975年から1977年まで、ずっと劣勢が続いていた。

ハーレーダビッドソンからケニーの元に移籍の誘いが来ており、その気になれば移籍することができた。ところが、ケニーは19歳の時に初めて契約してくれたヤマハに対して恩義を感じており、ヤマハから出ていく選択肢は選びたくなかった。(RACERS vol.48 50ページexit_nicoichiba

ケニーを後援するヤマハUSAは、ケニーに「アメリカ合衆国じゃ勝てないから、ヨーロッパに行ってMotoGP最大排気量クラスに参戦しなさい。契約金を上げてあげる」と言った。ケニーは「嫌だ。ヨーロッパなんて行きたくない」と言ったが、ヤマハUSAが何度も行けと言ったので、仕方なくMotoGP最大排気量クラスに参戦することにした。
 

1978年のMotoGP最大排気量クラスルーキーイヤーでいきなりチャンピオン獲得

嫌々行くことになったヨーロッパだったが、ケニーMotoGP最大排気量クラスで3連覇を達成した。

開幕時の年齢 戦績 備考
1978年 26歳 10戦4勝 前年チャンプのバリー・シーンと大
1979年 27歳 11戦5勝 終戦までもつれるがケニーに余裕があった
1980年 28歳 9戦3勝 終戦までもつれるがケニーに余裕があった

当時のMotoGPライダーたちはサーキット近郊のホテルに泊まって、そこからサーキットに来てレースをしていた。一部のライダーが、テントってサーキットに泊まったり、キャンピングカーサーキットに留めてそこに泊まったりしている程度だった。

そんな中、ケニーモーターホームexitキャンピングカーよりもはるかにデカい。住宅のような暮らしができる)に乗ってサーキットにやってきた。この、モーターホームを駆使するアメリカ人的な手法をMotoGPに持ち込んだのはケニーである。

奥さん子供2人を引き連れて、ケニーモーターホームを運転してヨーロッパ各地を転戦する。移動の際には、飛行機など一切使わない。「MotoGPを参戦していた時期は、ずっと家族旅行をしていたようなものだ」とケニーが語っている。(2013年振り返りG+座談会で放送されたインタビューで発言 )


1978年は最大排気量クラスルーキーであると同時に、MotoGPルーキーだった。サーキットのことなどまるで分からない状態だった。このため、1978年250ccクラスにもエントリーして、サーキットを覚える努力をしている。

先述のように、1978年ヤマハUSA理矢理ヨーロッパへ送り込まれていた。このため1978年の当初はMotoGPの勝敗にあまり関心がかった。ところが、そんなケニーに対してバリー・シーン(197677年の2年連続最大排気量クラスチャンピオンイギリス人)が「ケニーとかいうは、恐れるほどの存在じゃないね」と舌戦を仕掛けてきた。これに対し、負けず嫌いのケニー一気にやる気を出し、チャンピオンロードを突っ走ることになった。バリー・シーンにとっては、まさしく藪(やぶへび)になってしまった。1978年はバリー・シーンとの接戦になり、最終戦でやっと勝負が決まっている。

1978年のケニー・ロバーツ・シニア対バリー・シーンの争いは名勝負なので詳しく振り返っておきたい。

このときのポイントシステムは次のようになっていて、今とべるとかなり1ポイントの重みが大きかった。

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1


シーズン通しての成績はこうなっている。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 合計ポイント
ケニー re 2 1 1 1 2 2 7 re 1 3 110
バリー 1 5 3 3 5 3 3 1 re 3 4 100 -10

開幕戦を転倒ノーポイントで終えたケニーは第2戦から復調し、第4戦フランスGPを終えた時点でくも首位に立った。その時点におけるケニーとバリーのポイント差は1ポイント

第7戦ベルギーGPを終えて、ケニーポイントが81、バリーのポイントが67で、14ポイントの差が付いていた。約1勝分の差なので、まずまず大きな差であろう。

ところが第8戦スウェーデンGPの250ccクラス練習走行で、ケニーしい転倒を喫してしまい、震盪になり、ついでにも負傷した。このケニー500cc決勝で7位に終わってしまい、バリーが優勝したので、ポイント差は3にまで縮まった。

第9戦フィンランドGPは両者そろって転倒して、そして第10戦イギリスGPを迎えた。このとき既に民的英雄として絶大な人気を得ていたバリーにとって、イギリスは地元であり大援が期待できた。人間しも援を浴びると気合いが入るので、このレースポイントが逆転すると思われた。

ところが、第10戦イギリスGPの決勝においてが降ってしまう。のためケニーもバリーもタイヤ交換する必要が発生して、両者ともにピットインした。バリーの方がタイヤ交換に手間取ってしまい、バリーは3位に終わってしまった。2位に入ったのは弱小チームスティーヴ・マンシップというライダーだったのだが、スティーヴタイヤ交換をせずに走り続けたライダーだった。バリーにとっては大援に背中を押されて一気に逆転するはずが、「の日の波乱」に引っかかってポイント差を8にまで広げられてしまった。

終戦は両者のポイント差が8なので、バリーが逆転するにはケニーが5位以下に落ちる必要があった。ところがケニーは3番手を維持してそのままゴールし、その時点でチャンピオン争いが決まったのである。
 

1979年 怪我を乗り越えて連覇達成

1979年は開幕前の日本におけるテストしい転倒を喫し、レーサー人生に関わるほどの大怪を負って開幕戦を欠場した。

この負傷は、背中の怪だった。4週間も入院することになったが、そのときヤマハ部長がやってきて「ケニー、来年の契約サインをしてくれ。みんなが君を待っているぞ」と言った。この励にケニー感動したという(記事exit)。


1979年の成績表は次の通り。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 合計
ケニー 1 2 1 1 1 8 4 6 1 3 113
ヴァージニオ 2 2 3 2 4 2 1 re 15 4 re 89 -24

 
ケニーは2戦から復帰して、第6戦まで好走を繰り返した。しかし、スズキマシンに乗るヴァージニオ・フェラーリexitがしぶとく食らいついていた。第6戦が終わった時点でケニー72ポイントヴァージニオ66ポイントで、わずか6ポイント差である。(※ポイント計算は1978年と同じ、1位15点、2位12点・・・という方式)

第7戦オランダGPでケニーが8位に終わり、ヴァージニオが優勝したので、ここでランキングが入れ替わった。ヴァージニオが81ポイントケニー75ポイントである。

第8戦ベルギーGPは路面状況の悪化によりボイコットされ、残ったのは4戦である。


かしここからケニーの強運というか底力が発揮された。第9戦スウェーデンGPと第10戦フィンランドGPでケニーが苦戦するも、ヴァージニオはそれよりもひどい成績に終わった。チャンピオン争いをする2人がシーズン終盤にって低迷するという、21世紀の現代でもよく見られる光景となった。

第11戦イギリスGPは、バリー・シーン歴史的な名勝負をして、0.030という稀に見る僅差で快勝した。

終戦フランスGPは、ケニーヴァージニオの差が14ポイント差で始まった。ヴァージニオが優勝して、ケニーが11位以下にならないと引っ繰り返らない。ヴァージニオは果敢に攻めてリードを奪ったが結局転倒し、ケニーの連覇が決まった。

この年のケニーヤマハに乗っていたが、ランキング2位から10位までが全員スズキであるexitスズキ包囲網を見事に突き破った。
 

1980年 3連覇達成

1980年MotoGP最大排気量クラスはわずか8戦での開催となり、レース数が少ないので1ポイントの重みが増した。

ケニーは開幕から3連勝を決め、これで大きく波に乗った。3戦を終えた時点で2番手のランディ・マモラexitに23点という大差が付いた(※ポイント計算は1978年と同じ、1位15点、2位12点・・・という方式)。


1980年の成績表は次の通り。

1 2 3 4 5 6 7 8 合計
ケニー 1 1 1 re 3 2 2 4 87
ランディ re 3 2 5 1 4 1 5 72 -15



終戦西ドイツGPは、ケニーランディの差が13ポイント差で始まった。ランディ優勝して、ケニーが9位以下にならないと引っ繰り返らない。ランディマシンにはトラブルが発生し、ペースを上げることができなくなったので、その時点でチャンピオン争いが終わった。

ランディ・マモラはスズキマシンに乗っていた。これで、ケニー1978年から3年連続でスズキライダーチャンピオン争いをしたことになる。しかも3年連続でチャンピオン争いが最終戦までもつれた。
 

1981年と1982年は歯車が噛み合わない

4連覇を賭けて臨んだ1981年シーズンは、ヤマハマシンの不備があるレースがあったり(開幕戦オーストリアGP、第6戦オランダGP)、食中毒になったり(第8戦サンマリノGP)、と不運が続き、ランキング3位に終わってしまった。この年にワンツーを決めたのはスズキワークスの2人で、イタリアマルコ・ルッキネリがチャンピオンアメリカ合衆国ランディ・マモラが2位になった。

1982年は、1978年デビューの時からずっと履いてきたグッドイヤー(アメリカ合衆国タイヤメーカー)のタイヤから、ダンロップのタイヤに移ることになった。グッドイヤーがMotoGPから撤退するので、そのを受けたのである。今も昔も最大排気量クラスマシンタイヤは太く、走行に与えるが非常に大きい。タイヤの切り替えでケニーはすこし苦労した。また、シーズン中にヤマハマシンが大幅に変更されたりして、またもちょっと苦労する。そしてシーズン後半のイギリスGPで転倒して膝とを負傷し、最終戦までずっと欠場することになってしまった。この年のランキングは4位に終わった。チャンピオンになったのは、スズキマシンに乗るイタリアフランコ・ウンチーニだった。
 

1983年 チャンピオンを惜しくも逃す

1983年からは、この年から実質的なヤマハワークスとなったチームアゴティーニから参戦した。この年はMotoGP歴史に残る大接戦を繰り広げた。
 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
南アフリカ フランス イタリア ドイツ スペイン オーストリア ユーゴスラビア オランダ ベルギー イギリス スウェーデン サンマリノ
2 4 re 1 2 1 4 1 1 1 2 1


 
12戦で6勝も挙げたのにチャンピオンを獲れず、ケニーにとって残念念のシーズンとなった。3戦ノーポイントが悔やまれる。

この年はフレディ・スペンサーチャンピオンを獲得した。ケニーと同じ12戦6勝で、2ポイントだけ上回ってギリギリの勝利だった。フレディは21歳8ヶで最大排気量クラスチャンピオンとなったのだが、これは当時の最年少記録である。しかも、ホンダにとって最大排気量クラスチャンピオン獲得は初めてだった。

この闘に関してエディ・ローソンは「1983年フレディホンダ3気筒がずば抜けて速かった。ケニーホンダ3気筒に乗ってれば圧勝してただろう。ライダーの実力ではケニーフレディを大きく上回っていたよ」とこの本の41ページexit_nicoichibaで語っている。まぁ、エディケニーと同じチームアゴティーニ(実質的ヤマハワークス)所属のライダーなので多少は贔屓があるかもしれない。

1983年のケニー・ロバーツ・シニア対フレディ・スペンサーの争いは名勝負なので詳しく振り返っておきたい。

このときのポイントシステムは次のようになっていて、今とべるとかなり1ポイントの重みが大きかった。

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1



シーズン通しての成績はこうなっている。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 合計ポイント
フレディ 1 1 1 4 1 re 1 3 2 2 1 2 144
ケニー 2 4 re 1 2 1 4 1 1 1 2 1 142 -2

フレディが開幕3連勝を飾ったのに対し、ケニーの成績はいまいちで、第3戦イタリアGPを終えた時点での両者のポイント差は25の大差が付いていた。

第4戦からケニーの巻き返しが始まったのに対し、フレディは第6戦オーストリアGPでマシントラブルノーポイントに終わり、ポイント差が縮まった。第6戦オーストリアGPが終わった時点のポイント差は6になった。

第7戦ユーゴスラビアGPでケニースタートを失敗してしまい、思いっきり出遅れた。40ほどたってからやっとスタートできたので、ケニーは怒濤の勢いで追い上げていき、4番手にまで浮上した。その時点で先頭はフレディ、3番手はチームメイトエディ・ローソンだった。

チームアゴティーニはエディ・ローソンに対して「後ろにケニーが来ているぞ!ケニーに3番手の位置を譲れ!」と必死示を出すが、エディはそのチームオーダーを無視して3位でゴールした。レース後のエディケニーが問いかけたところ、「表台に上りたかったんだ・・・」と言ったという。(この本exit_nicoichibaの78ページ

エディ・ローソンは「当時のGPパドックは、『結果が出なければすぐにクビ』という時代だった」と語っている(この本exit_nicoichibaの41ページ)。そういう雰囲気の中で1983年エディは開幕戦から上手く走れておらず、どうしても表台という結果が欲しい状況だった。エディチームオーダーを無視したのも理はない。


いずれにせよ、第7戦ユーゴスラビアGPでケニーは4位に終わり、ポイント差が13に広がった。


第8戦オランダGPから第10戦イギリスGPまでフレディ必死に表台を確保するが、ケニーが3連勝を遂げており、じりっじりっと差が縮まっていく。第10戦イギリスGPを終えた時点でのポイント差は2となり、あと一回「ケニー優勝フレディ2位」というレースになれば逆転となる。

そして迎えた第11戦スウェーデンGPでもケニーは好走し、最終ラップの6コーナーでは首位を走っていた。その背後に迫るのはフレディ

アンデルストープのコース図はこうなっておりexitバックスレートがかなり長い。バックスレートでの速を伸ばすため、ケニーは6コーナーを力強く加速しようとしてアクセルを開けたのだが、フロントタイヤが浮き上がってウィリーしてしまった。ウィリーしては加速が鈍るので、仕方なく、すこしだけアクセルを戻したケニーだが、そこにフレディが襲いかかってくる。

バックスレートフレディスリップストリームを使って速を伸ばし、90度に曲がる7コーナー一気にケニーインに入った。そのしい競り合いのため、両者共にブレーキングミスってしまい、2人ともコース外のグラベル)に入ってしまった。フレディの方が一くグラベル)から這い出ることに成功し、僅かなリードで先頭を走る。そして0.16差でフィニッシュラインえて、フレディが決定的に重要な勝利をものにした。

ケニーは最終ラップフレディアタックを「愚かで危険な行為だ」としく非難しており、表式でも怒っていて、しい言葉をフレディにぶつけていた。この動画exitでは、フィニッシュラインえた後のケニーマシン)が、フレディ(ゼッケン3番)に対して抗議と非難を意味するジェスチャーをしている姿が映っている。

第11戦スウェーデンGPを終えて、ポイント差は5に広がった。最終戦サンマリノGPでケニーが勝ってフレディが3位以下になると、ケニーフレディが同ポイントで並び、優勝回数でも並び、2位の回数でケニーフレディを上回るのでケニーの逆転チャンピオンとなる。ケニーフレディの間にか1人ライダーが入ればいい。それに最適だろうと思われたのが、ケニーチームメイトであるエディ・ローソンだった。

ところが、決勝レースエディマルコ・ルッキネリとの3位争いにハマってしまい、それから抜け出るのに手間を掛けてしまった。マルコを置き去りにした後は必死フレディを追いかけたが、フレディよりも7遅れの3位に入るのが精一杯だった。レース後のエディチームからもを掛けてもらえず、凄く辛かったと語っている。(この本exit_nicoichibaの41ページ

こうして、大戦の1983年シーズンが終わった。

第7戦ユーゴスラビアGPでエディが3位を譲っていればケニーフレディが獲得ポイント優勝回数・2位回数・3位回数・4位回数といった要素でぴったり並んでいた、第11戦スウェーデンGPでフレディな突っ込みをしなければケニーチャンピオンだった、という2つの「タラレバ」がついてまわるシーズンとなった。
 

1983年をもって現役引退

1983年をもって現役引退した。チャンピオン争いをした直後なのに引退したのは、離婚問題を抱えていたからだった。離婚して、4人の子供を元・妻に奪われそうになったので、仕方なく引退することにした。


ただ、子供だけが引退の理由ではなかった。


1983年シーズン開幕当初に「1983年限りで引退する」と宣言したものの、1983年ケニーは鮮やかな活躍をしていた。このため、1983年1112月頃に、ヤマハ社長から「契約金を1983年よりも上げるから、残ってくれ」と引き留めのがかかっていた。

そこで実質的ヤマハワークスを率いるジャコモ・アゴスティーニ監督と交渉したら、契約金の額がヤマハ社長から言われたような金額よりもずっと少ない。何度交渉してもジャコモは「お金い」の一点りだった。頭にきたケニーは、MotoGP残留の意思を全に捨てて、引退することを決めた。

「あのときジャコモ・アゴスティーニ監督が高い契約金を提示していたら、1984年MotoGPを走っていただろう」とケニーこの本exit_nicoichibaの7ページで語っている。

 

鈴鹿8耐など耐久レースに出場

子供のため、不本意ながらMotoGP引退したケニー1983年12月31日の時点で32歳になったばかりであり、体の方はまだまだ十分に動く年頃だった。

レースのことを思うと内でアドレナリンしく分泌され、体がうずいてしょうがない。このため、ケニー耐久レースにいくつか出場している。耐久レースならサーキット出張する時間が(MotoGPフル参戦にべて)少ないので、子供を確保したままレース活動できる。

1984年3月にはデイトナ200マイルexitに出場。MotoGP開幕前の練習としてやってきたフレディ・スペンサー対決し、見事に勝利を収めている。

1984年4月にはイモラ200マイルexitに出場し、優勝している。

1984年7月にはラグナセカ200マイルに出場。このときはランディ・マモラ(MotoGP最大排気量クラスに参戦中の身だがやってきた)と競り合い、ランディ2位に終わっている。


1985年7月ケニーは33歳7ヶで、鈴鹿8耐に出場することにした。

ペアを組んだのは平忠彦という日本アイドルライダーで、乗ったのはヤマハマシンチーム名前資生堂TECH21で、そのときの淡い紫色カラーリングは有名であるexit

ケニーは快走し、独走状態のまま首位を走っていたが、レース終了まであと30分というところでマシントラブル発生。念のリタイヤとなった。

1986年鈴鹿8耐に出場した。この年はマイク・ボールドウィンexitと組んだ。マイクケニーと同じカリフォルニア州出身で、この年はケニー運営する「チームロバーツ」からMotoGP最大排気量クラスに参戦していた。チーム監督と選手が、そろって鈴鹿8耐に出てくるという面光景になった。マイク1981年1984年鈴鹿8耐を優勝しており、周囲の期待は高まったのだが、1986年のこの鈴鹿8耐においてマイクケニー組は転倒してヤマハマシンを壊してしまい、レースを終えることになってしまった。
 

ちなみに、MotoGP最大排気量クラスに参戦していた19781983年の間も、シーズン開幕前にデイトナ200マイルやイモラ200マイルを走ることが恒例だった。ケニーはもともと耐久レースが好きだったのである。
 

ライディングスタイル、ライダーとしての仕事っぷり

ケニーと同時代を生きたエディ・ローソンから、ケニーは「本当に神がかった走り」「持って生まれた才しか思えない、鳥肌が立つような美しい走り」などの評価を受けている。(この本exit_nicoichibaの41ページ


1978年のころのMotoGP最大排気量クラスは、どこのメーカーエンジンパワー重視義で、そのためどのライダーも「ブレーキングを遅めにして、もの凄い速度コーナーに突っ込んでいく」というライディンスタイルだった。ところがケニーはそれと正反対の手法をとり、「ブレーキングめにして、理せずにコーナーに進入し、立ち上がりでできるだけアクセルを開けていく」というライディンスタイルだった。この動画exitオレンジ色が他のライダーたちで、マシンケニーだった。

マシンが傾いた不安定な状態でめにアクセルを開けていくので、当然、リアタイヤが滑ってマシンが暴れそうになる。それを制御する技術がとても優れていた。ケニーダートトラック出身のライダーなので、マシンの滑りを制御する技術がとても高かった。

ケニーの出現以降、「ダートトラックを経験したアメリカ合衆国オーストラリアライダー」がMotoGP最大排気量クラスを席巻することになる。ケニーの出現で、MotoGP最大排気量クラスの潮流が変わったのである。


ハングオフexitという走行スタイルを流行させた人物とされる。ハンオフとは、フロントタイヤの作り出す直線よりも頭や体を内側に入れる走法のこと。ケニーの前にもそういう走法をする人物がいたが、ケニーが最大排気量クラス3連覇を成し遂げてから、一気に流行が拡大したとされる。


現役時代のケニーヤマハ技術者に対して不満や文句しか言ってこず、「マシンが良い」とは絶対に言ってこなかった。ワークスライダーマシンの欠点を摘するのが仕事なので当然なのだが、ケニーの言い方はキツかったらしく、ヤマハ技術者は内心で「クソッタレ」と罵っていたという。(この本exit_nicoichibaの81ページ
 

レースの安全性向上やライダーの地位向上に貢献する

ケニーレーサー人生の中で何度かFIM(当時のMotoGP運営者)に対して要を突きつけており、その要運営む形で、MotoGPの安全性やライダーの地位が少しずつ増していくことになった。

1979年ベルギーGPは、参戦ライダーのほとんどがレースをボイコットした。レース決勝数日前にアスファルト舗装したので、路面の分が抜けきっておらず(アスファルト石油からできているので、舗装した直後はべっとりである)極めて危険だった。このボイコットを導したのは、チャンピオン争いで首位に立っていたケニーである。

1982年フランスGPでも同じようにライダーたちがそろってボイコット。

また、1979年スペインGPは、レース前に出場金を催者に支払わねばならなかった。「々はプロなのだから、金を運営に払うのはおかしい。むしろ、運営から賞金や手当金を受け取るべき立場でないか」とケニーは発言し、決勝でのトロフィーの受け取りを拒絶している。

さらには1979年の最中のケニーは「MotoGPに代わる新しい大会を作り上げるぞ」と示唆した。

ケニーFIMに対して終始一貫して戦闘的に接しており、それにFIMが屈する形で、ライダーに対する賞金引き上げや、安全性向上のルール策定などを進めることになった。
 

チーム経営者としての経歴

ケニー・ロバーツ・シニアは1984年から2007年まで、チームロバーツというチームを率いていた。

チームロバーツの特色としては、独自のチューニング(整備)を好む点が挙げられる。同時代のライバルであるチームアゴティーニはメーカー本社から送られてくるパーツデータを基に整備するだけだったが、チームロバーツはパーツメーカーと直接交渉して好みのパーツを作り上げていく傾向があった。メーカーから飛びだして、独自のマシン作りを好む気があった。(参考資料 RACERS vol.23 72ページexit_nicoichiba
  

チーム・ロバーツの発足

1983年子供の確保を理由として現役引退を宣言したケニー1983年1112月ヤマハ社長から引き留めのがかかったが、実質的ヤマハワークスを率いるジャコモ・アゴスティーニ監督契約金を渋ったため、ケニーはやっぱり引退することを確定させた。

そうしていると、舎ウェイン・レイニー無職になっていた。所属するカワサキレース活動を縮小させることになり、ウェインの所属するチームが解散していたのである。

ケニーウェインは2人で「来年はどうしようか・・・」と喋っていた。

そこにを掛けてきたのがポール・バトラーexitという人物だった。この人はイギリスバーミンガム出身で、大学で経営学を学んでダンロップに就職し、ダンロップの4輪・2輪モータースポーツ活動に関わっていた人だった。1972年オイルショックダンロップのモータースポーツ活動が縮小したので、1974年ヤマハヨーロッパ転職した。ヤマハでは営業の仕事をしていたが、1979年からHY戦争exitが始まり、ヤマハヨーロッパポールバトラーのところにも「もっと売れ!販売標を5上げろ!」とな要がやってきて、そこでポールバトラー1983年ヤマハヨーロッパを退職していたのである。

ポールバトラーは人脈があったので、ケニーとともにスポンサーをかき集めることが上手かった。こうして「チームロバーツ」が発足した。

チームロバーツができたので、ケニーウェインに「これで来年も仕事ができるな」と言ったという。

余談ながら、ポールバトラーについて紹介しておきたい。1992年までチームロバーツの監督を務め続けた。1986年から1992年までチームロバーツの監督業と行してIRTA仕事をしており、1993年からはチームロバーツを離れてIRTAに専念することになった。1993年から2011年までMotoGPレースディレクターを務めた。

※資料…チーム・ロバーツ本42~47ページ&80~85ページexit_nicoichiba

ヤマハ時代

1984年に「チームロバーツ」を作り、ウェイン・レイニーアラン・カーターexitを採用して、MotoGP250ccクラスに参戦してヤマハマシンを走らせた。

ヤマハには、「ヤマハに在籍していたスーパースターチームを作ってもらい、そのスーパースターの知名度や導力を頼りにしよう」という会社方針がある。ケニーに対しても色々と支援をしてくれた。

とはいっても、1984年チームロバーツはまだまだ素人経営で、色々と上手くいかないことも多く、成績も今ひとつだった。そのためケニーは落ち込んだという。

ケニーは考えを巡らし、「やっぱり最大排気量クラスに挑戦すべきだ」と思った。最大排気量クラスに挑戦するにはスポンサーメカニックなど色々な準備が必要である。このため1985年は活動を休止して、最大排気量クラス挑戦の準備期間にした。

1986年から500ccクラスで活動再開している。1986年からはラッキーストライクメインスポンサーとなった。1984年マルボロスポンサーだったが、マルボロの予算の大部分は実質的ヤマハワークスチームアゴティーニに注ぎ込まれている。もしかしたら、ジャコモ・アゴスティーニ監督が横やりを入れてきて、チームロバーツへの予算を削ってくるかもしれない。このためマルボロとの関係を絶ち、ラッキーストライクと関係を持つことにした。

1986年からの提携先は、もちろんヤマハである。ヤマハとの関係は1996年まで続いた。特に19901996年の間はヤマハチームの中で最高待遇を受けており、実質的ヤマハワークスとされた。

2019年MotoGP最大排気量クラスにおいて、グレッシーニレーシングアプリリア支援を受け、実質的なアプリリアワークスとなっている。それと同じような関係が、チームロバーツとヤマハに見られた。

19901996年ヤマハ営1番手時代のスポンサーは、マルボロになった。マルボロラッキーストライクよりもずっと大きい予算規模を持っていたので、チームロバーツの運営もさらにやりやすくなった。


1996年を限りに、チームロバーツはヤマハ営を去ることにした。1997年からはウェイン・レイニーが作った「チームレイニー」がヤマハ最高待遇の座に入ることになった。

1984年1996年チームロバーツの成績は以下の通り。
 

500ccクラス 250ccクラス
1984年 ウェイン・レイニーが8位
1985年
1986年 ランディ・マモラが3位
1987年 ランディ・マモラが2位
1988年 ウェイン・レイニーが3位 ジョン・コシンスキーが19位(スポット参戦2回)
1989年 ウェイン・レイニー2位
1990年 ウェイン・レイニー1位 ジョン・コシンスキー1位
1991年 ウェイン・レイニー1位
1992年 ウェイン・レイニー1位
1993年 ウェイン・レイニー2位 ケニー・ロバーツ・ジュニアが27位(スポット参戦1回)
1994年 ルカ・カダローラ2位
1995年 ルカ・カダローラが3位
1996年 阿部典史が5位

 

モデナス時代

1996年シーズン末にいきなりヤマハ営を離れて、世間を驚かせた。この記事exitでは「ヤマハの中の数名とは、お互いに嫌い合っていた」「ヤマハマシンガラクタと感じており、うんざりしていた。新しいことを始めようと思った」という趣旨の発言をしている。

イギリスバンベリーexitに会社を設立し、マレーシアオートバイ企業モデナスexit支援を受けつつ、F1関連企業の技術的協力を得て、2ストローク3気筒500ccエンジン開発した。

このときのエンジンはロータス製だったexit。また、トム・ウォーキンショーexitという四輪レースチームの技術提供も受けた。

マレーシアオートバイ企業モデナス会社は、同じくマレーシア企業であるプロトンexitである。この当時、プロトンは業績好調で羽振りがよく、英国スポーツカー企業ロータスexitを買収していたのである。

マレーシアというはかつてイギリス植民地だったのだが、独立した後もイギリスとの関係が非常に良い。マレーシア企業にとって、イギリス拠点を置くチームロバーツと協力するのは、自然な流れだったものと思われる。
 

500ccクラス
1997年 ケニー・ロバーツ・ジュニアランキング16位
1998年 ケニー・ロバーツ・ジュニアランキング13位
1999年 ホセ・ダヴィド・デ・ヘアがランキング23位
2000年 ホセ・ダヴィド・デ・ヘアがランキング17位

  

1999~2000年 チーム・ロバーツの一部がスズキワークス入りし、チャンピオン獲得

1998年シーズンオフに、ケニー・ロバーツ・ジュニアが、チームロバーツを離れてスズキワークスに移籍し、1999年から2000年まで大活躍した。

このスズキワークス大躍進の原動力は、チームロバーツにあった。


ウォーレン・ウィリングexitというウェイン・レイニーメカニックを務めていた名物メカニックが、チームロバーツからスズキワークスへ移籍している。

この記事exitでは、「実質的ヤマハワークスであるチームロバーツに長年在籍してヤマハの機密を知り尽くしたウォーレン・ウィリングが、スズキに技術を移転させた」と書かれている。


この記事exitでは「19992000年スズキRGV500Γというマシンは、本質的に、チームロバーツのバイクだった。マシン体はチームロバーツの本拠地のイギリス・バンベリーで設計された。また、バド・オークランドexit(この記事の一番最初に名前が出てくる。ケニーの一番最初の恩人)がエンジン要部品を製造していた」と書かれており、「2000年の最大排気量クラスチャンピオン獲得は、スズキのおかげではない」というウォーレン・ウィリングの言葉が紹介されている。
 

2001~2004年 プロトン時代

2001年から、チームロバーツはプロトンexitと組んでマシンを製造するようになった。先述のように、モデナスプロトンは資本関係があるので、単に名前が変わっただけと言える。


3気筒の2スト500ccエンジンを作り続け、2002年オーストラリアGPの予選では、ジェレミー・マクウィリアムスポールポジション獲得、青木宣篤が3番手に入っている。

2003年からは、V5気筒エンジンを独自に開発してレースに投入するようになった。(記事1exit記事2exit

ところがチームロバーツ独自のV5エンジンは、大メーカーの作るエンジン太刀打ちできなかった。2004年をもって、独自V5エンジン製作を止めることにした。

ちなみに、3気筒のエンジンexitも、5気筒のエンジンexitも、ちょっと設計が難しいとされている。「3気筒で行く」「5気筒のエンジンを作る」とケニーが言うたびにもが「無茶しやがって・・・」と感じた。

2001年から2004年チームロバーツの成績は次の通り。
 

最大排気量クラス
2001年 ユルゲン・ファン・デン・グールベルグがランキング13位
2002年 青木宣篤がランキング12位
2003年 ジェレミー・マクウィリアムズランキング18位
2004年 青木宣篤がランキング21位

 

KTM~ホンダ

2005年KTMエンジンを借りて、チームロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。ところが第10戦チェコGP直前になって、KTMからの支援が打ち切られてしまい、それ以降のレースができなくなった。

2006年ホンダエンジンを借りて、チームロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。さすがにホンダエンジンは動きがよく、この年に加入してきたケニー・ロバーツ・ジュニアがしばしば表台を2回獲得している。特に、第16戦のポルトガルGPでは最後まで首位争いし、0.176差の3位に入っている。

ケニー・ロバーツ・ジュニア2000年スズキワークスチャンピオン獲得したが、その後スズキワークスマシン開発の遅れに付き合わされて、長い間低迷していた。それなのに、2006年になってチームロバーツでホンダエンジンを手に入れるやいなや、いきなりランキング6位にまで上がった。「やっぱりジュニアって速いんだな」と皆が思った。

2007年は、引き続きホンダエンジンを借りて、チームロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。

2007年になって最大排気量クラスの排気量が4スト990ccから4スト800ccに縮減され、これのホンダが不振に陥った。チームロバーツに供給されるホンダエンジンイマイチの出来で、しかも開発レプソルホンダよりもずっと後回しになった。

2007年をもって、ケニーチームロバーツを解散させた。

最大排気量クラス
2005年 シェーン・バーンランキング24位
2006年 ケニー・ロバーツ・ジュニアランキング6位
2007年 カーティス・ロバーツがランキング19位

 

ケニー・ランチ

ケニーレーサーとして成功したあとの1982年頃、生まれ故郷モデストから東に離れたヒックマンexit広大な農場を購入して、トレーニングコースを作った。

そのトレーニングコースケニーランチKenny ranch)という。ranchは農場という意味。

ヴァレンティーノ・ロッシは、自宅のあるタヴーリア近くのこの場所exitヴァレ・ランチ(Vale ranch)というトレーニングコースを建設した。わざわざ英語ranchという言葉を使ったのは、ケニー・ロバーツ・シニアの真似をしたからである。

この動画exitは、ケニーランチの様子が映っている。丸太小屋の姿が見える。

この動画exitも、ケニーランチの様子が映っている。丸太小屋の中には、ヤマハチャンピオンマシンも飾られているようである。

この動画exitは、ドローンを飛ばして上から撮している。

この動画exitは、実際にコースを走っている様子が映っている。コースの起は少なめ。


このケニーランチに、さまざまなライダーを招待して、ケニー直々に導していた。




ケニーはどういう導者だったのか?


それはもう、典的な教官だったと伝えられている。

この記事exitに、ケニーランチのことがすこし書いてある。「ケニーランチ男性フェロモンに満ちあふれている。洗練された女性らしさとか、そんなものとは隔絶している。小屋の中にはがいっぱいあり、聞いたところによると不測の事態に備えてキャノン砲exitも置いてあるらしい。ケニーランチの外には、はぐれゴルフボールゴロゴロ転がっている。ケニー導は『転んでも走れ!転んでも起き上がって走れ!』というものだ。転んで痛い思いをしているところに、ケニーの怒鳴りき渡る。ハンマーでしばくかのような調子で、ケニーは人をバイクに乗せて走らせる。それとは対照的に、ケニー親父バスターは、優しいで『君は上手くやってるよ。誰だってここで転倒している。ケニーにだってあんなに怒鳴り散らすんだ。そのままやればいい。君のやり方で良いんだ』と励ましてくる」


これを読んだ人なら、でも次のように思うだろう。

いやぁ、ケニー息子に生まれなくて良かったなあ・・・ ケニー息子は大変だろう


2012年振り返りのG+座談会で、中上貴晶ケニーランチを訪れた時のことを語っていた。「2012年12月25日にケニー・ランチへ行き、1週間の合宿をしたexit。1週間とは言っても途中でが降り、実際には34日だった。9時から暗くなる17時まで、みっちり走り込んだのでクタクタに疲れた。ケニーは常にバイクに乗れ、時間があればバイクに乗れという人だった」と言している。



2017年9月には、「ケニーランチが売却された」との報道が流れた。(記事1exit記事2exit) この記事exitでもケニーが「現在は、カリフォルニア州の隣のアリゾナ州exitに住んでいる」と語っていて、ケニーランチを離れたことが分かる。
 

ケニーの息子 ジュニアとカーティス

ケニー長男1973年7月25日生まれで、ケニーが21歳7ヶの頃の子供である。

2000年スズキマシンを駆って最大排気量クラスチャンピオンいた。


この記事exitでは、引退後の生活が書かれている。2007年から2013年までは飛行機に乗らず、カリフォルニア州で過ごしていた。タホー湖exitの近くの別荘へ行き、毎日スキーをしているexitバイクでの運動は全くしない。

奥さんシェル(Rochelle )、娘シュリー(Ashley)、息子はーガン(Logan)この記事exit一家いの写真がある。子どもたちは、ジュニアMotoGPライダーだったことを知らない。


自分はバイクを使っての運動を全く行わないし、子どもたちにバイクを教えることもしない。やはり、ケニー導のせいでバイク嫌いになったのであろうか・・・
 

日本語版Wikipediaexit英語版Wikipediaexitあり。

父親兄貴べて競走成績は今ひとつに終わってしまった。とはいえ、MotoGP最大排気量クラス化け物バイクを乗りこなしてレースに参加し、ポイント獲得して戻ってくるのは尋常ではない。


近年は、父親とのしい対立がメディアの記事になっている。(記事1exit記事2exit記事3exit記事4exit記事5exit) ケニーケニーランチを売却したのは、カーティスとの対立があったからである。

やはり、ケニー導のせいで性格がんだのであろうか・・・
 

ケニーの父親 バスター

ケニー父親の正式な名前メルトン(Melton)と言い、あだ名バスターBuster)という。


バスターの両ミズーリ州exit生まれで、それからカリフォルニア州exitフレズノexitに引っ越してきた。バスターが生まれたのは1920年頃である。

バスターアリスAlice)という人と結婚した。アリスもフレズノ生まれ。アリスには連れ子(前の夫との間にできた子供)が2人いたので、バスターは2人とも養子にした。そのうち1人はリックRick)と言い、ケニーの2歳年上のである。

アリスとの間に、ケニーが生まれた。ケニー以外にが1人生まれたが、7歳の時に逝してしまった。

このため、バスターは3人の子供を持っていることになる。



バスターの職はすこし変遷している。ケニーが生まれた1951年12月31日の頃は、トラック運転手をしていた。ケニーが成長したら、モデス局に就職した。どうも、農家ではなかったらしい。農家のそばに住んでいただけのようである。


ケニーレースに出たがっていたので、できるかぎり、ケニーレース場に連れて行くことにした。ケニーリックは全くレース興味を持っておらず、バイクに乗るのは通勤通学のみ、に帰ってきたらテレビを見る、という人だったので、金のかかるレースをするのはケニー1人だけだった。このため、お金も何とかなったようである。

バスターは全くレースをしたことがない。このため、ケニー導も受けずに成長していった。バスターバイク操縦の技術の面で何か忠告するということは全くしなかったが、大変に面倒見の良い性格なので、ケニーレース活動を物流の面から支えていた。キャンピングカーというかモーターホームというか、クルマを運転して資材を運び、ケニーに飯を作ってあげる。また、マシンを壊したら修理してあげる。

ケニーが出場するレース場にはすべて顔を出したので、カリフォルニア州バイクレース界では有名人になった。たいていの人がバスターのことを知っていたという。その中には、サンディレイニーという人物もいた。サンディウェイン・レイニー父親である。

また、サンノゼ周辺でレースをしていたランディ・マモラや、エディ・ローソンとも若い頃から知り合いだった。

ケニーランチができたとき、ケニーバスターに「ケニーランチに住みなよ」と誘ったが、バスターは広いに住むことを好まず、相変わらずモーターホームに住むことを好んだ。ケニーランチの丘の上の駐車場モーターホームを留めて、そこで暮らしていたらしい。

かなり訛りの強い発音をする人で有名だった。Motorcycleモーターサイクル)を「モータースィクル」と発音するのである。そういうしゃべり方をする人は非常にしく、いかにもといった田舎親父だったという。

ケニーランチ』の項でも触れたように、ケニーとは正反対の性格で、想が良くて気遣いのできる人だった。この記事の画像exitを見ても、バスターの人柄がうかがえる。
 

ケニーの奥さん

ケニーには奥さんがいて、ブログexitTwitterexitを持っている。

2005年結婚したという。この本exit_nicoichibaの8485ページに、知り合ったきっかけがちょっと書かれている。


熊本出身の人で、そのためケニー熊本にしばしば遊びにくる。南阿でしばしばツーリングしているので、南阿蘇の道路に「ケニー・ロード」という名が付けられたexit

熊本から近い岡山国際サーキットにも出現することがあるexit
 

その他の雑記

2017年ケニーランチを売却し、アリゾナレイクハヴァス・シティexitの、エディ・ローソン邸近くに引っ越した。エディから歩いて3分ぐらいのところにケニーがある。この本exit_nicoichibaの9297ページに、エディとともに遊ぶ様子が紹介されている。

モンタナ州というド田舎の州exitにも別荘がある。のそばに鹿カモアヒルがやってくるので、それを猟銃で仕留めてそれをケニー自ら料理する。この本exit_nicoichibaの8485ページにその様子が載っている。

「常に動いてなくちゃダメ、待つことができない、急に気が変わって予定をコロコロ変更する」という性格の持ちである。(RACERS vol.2 84ページexit_nicoichiba

ラブラドール・レトリバーexitREX真っ白ジャックラッセルexitTETSUこの画像exitに映っている。


MotoGPに顔を出すときは、ヤマハワークスピットを訪れることが多い。画像1exit

2016年頃に心臓を悪くして、手術をしている。

2019年現在MotoGPMoto2クラスジョー・ロバーツexitという選手が参戦している。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身でロバーツという姓なのだが、ケニーとは血縁関係がない。

阿部典史は、ケニー率いるチームロバーツから、MotoGPフル参戦を開始した。チームに入団した当時は長髪だったexit日本語版Wikipedia記事exitによると、日本人関係者に「転倒時の危機管理意識が低い」と批判されたという。そのため阿部を短く切ったのだが、それを観たケニーは「お前は長が個性なんだから、また伸ばせ」と言ったという。(Racers vol.35 18ページexit_nicoichiba
 

インタビュー動画集

ケニーが喋る動画Youtubeに数多くアップロードされている。

関連動画

関連商品

ケニの19781982年シーズンを取り上げている。

1978~1980年のインターカー(ヤマハインターナショル・コーポレーションという企業の色がと黒で、その企業色を受け継いだ)のマンの解説が多い。
MotoGP史上有数の戦となった1983年シーズンを振り返っている。

フレディ・スペンサーの気まぐれ性格(地元に帰りたがる、恥ずかしがり屋で人と会おうとしない、周りの皆が気を遣っていた)がチラチラ書かれてい面白い。
チームロバーツの1984年から1989年までを特集している。

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