ケニー・ロバーツ・シニア(Kenny Roberts senior)とは、アメリカ合衆国出身の元・MotoGPライダーである。
1951年12月31日生まれ。
1978年から1980年まで、MotoGP最大排気量クラスで3連覇を達成した。その輝かしい功績から「キング・ケニー(King Kenny)」と呼ばれている。
本名はケネス・ルロイ・ロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)で、選手としての登録名はケニー・ロバーツだった。
長男の名前もケネス・ルロイ・ロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)で、選手としての登録名はケニー・ロバーツだった。
父親と長男を明確に区別するため、父親をケニー・ロバーツ・シニア、長男をケニー・ロバーツ・ジュニアと呼ぶことが多い。
レーサーとしての経歴
農場で育つ
1951年12月31日、アメリカ合衆国カリフォルニア州モデストで生まれた。ここはサンフランシスコから東に128km、ロサンゼルスから北に473kmの位置にあり、内陸部の田舎である。
父親はメルトン(Melton)、母親はアリス(Alice)という。父親メルトンは、バスター(Buster)というあだ名が付いていた。バスターとは「退治する者」「撲滅する者」「やっつける者」といった意味で、crime-busterなら「犯罪撲滅野郎」という意味になる。
モデストの街の東西を132号線という道路が横切っている。その132号線沿いの農場でケニーは育った。どういう農場かというと、E&Jガロワイナリーという名高いワインメーカーと契約したブドウ畑だった。同社はアメリカ合衆国最大のワイン企業で、モデスト中心部のこの場所に本社がある。
モデストは人口約20万人のわりと大きい街なのだが、ロバーツ一家の住む場所は、そこから西に離れた田舎の農場近くだった。
モデストの気候データを見てみると、1月の平均最高気温が13.0度で鹿児島市とほぼ同じ。当然、雪なんてものは一切降らない。1年の平均降水量は335mmで、とても乾燥している。日本の東京がだいたい1,500mmなので、その5分の1しかない。つまりどういうことかというと、オートバイで走り回るにはぴったりの土地柄だと言える。
子供の頃のケニーは馬に乗ることに興味を持っていた。当時のケニーは小柄で体重も軽く、父親バスターは「ケニーを競馬の騎手にしたい」と思っていたほどだった。ところが、父親バスターの意に反して、ケニーは次第にオートバイを乗り回すようになった。12歳のとき友人にミニバイクを乗るよう勧められたのがオートバイとの初めての接触である。親父の芝刈り機のエンジンをバイクのフレームに乗せて、それで走らせたこともあったという。
ケニーにはリックという2歳年上の兄がいる。リックの通学手段として、リックにドリーム50(ホンダの4スト50ccバイク)を買ってあげた。するとケニーは、リック用のドリーム50をかっぱらって、乗り回して遊んでいた。家庭に平穏をもたらすため、仕方なく、ケニーにオートバイを買ってやることになった。
田舎の農場なので、他に娯楽がなかった。農場の中の、土でできた路面をオフロード車で朝から晩まで走り続ける日々が続いた。ケニーは農場の水路に転落したこともあったが、そのときも走り続けようとしていたという。
父親バスターによると、ケニーはみんなに好かれていたがとても強情な子で、何をやるにしても自分が主役じゃないと気が済まない性格だった。野球をやるなら投手をやろうとするし、アメフトをやるならクォーターバック(アメフトで最も花形のポジションとされる)をやろうとしたという。
そういう性格なので、ただオートバイを走らせるだけでなく、レースに出て勝利を得ようとするのは必然の流れだった。
モデストの中で、オートバイのダートトラックレース(平坦な土の路面を走る競技)が開催された。ケニーはそれに出場したいと言い、父親バスターは、トーハツのバイクを購入してあげた。トーハツのバイクは競争力が無かったので、ケニーはそれに対して不満をいうようになった。その頃のレーサーは皆ホダカに乗っていたからである。このためバスターはホダカのバイクを買ってあげた。そんな調子で、ケニーは競争力を高めようと常に努力する子だった。
ケニーは父親バスターからバイクに関する教育はほとんど受けなかった。バスターはオートバイのレーサーでも何でも無く、普通の田舎親父だったからである。自分1人でひたすら考えて、練習を重ねて、走りを向上させていった。
バド・オークランドに出会い、プロ・ライダーになる
ケニーが高校生になっている頃には、ダートトラックで勝ちまくるようになっていった。そのケニーの姿を見て、バド・オークランド(Bud Aksland)という人物が声を掛けてきた。バドは、ケニーの実家から近いマンティーカでスズキのオートバイを販売している業者で、ケニーに対して「スズキのマシンに乗って、レース活動しないか」と勧誘してきたのである。ケニーはこの誘いに応じ、通っていた高校を退学して、そのままレースの世界に飛び込むことにした。
バド・オークランドはもともとダートトラックのレーサーで、年を重ねてからレースを引退し、オートバイ販売店を経営していた。元・レーサーが才能あふれる若者をみつけて支援するという、いかにもありがちな物語が展開されていた。
1969年12月31日に、ケニーは18歳になった。それと同時にAMAのプロ・ライダーになった。当時のAMA(アメリカ合衆国のオートバイレース団体)は、18歳にならないとプロ・ライダーになれなかったのである。
初めてプロ・ライダーとして参加したのは、1970年1月1日にサンフランシスコ近郊のカウ・パレス(Cow Palace 「牛の宮殿」という意味)で行われたレースで、4位に入っている。
その後は連戦連勝を重ねたという。勝ちまくったので賞金ももらえたし、スポンサーもご機嫌だった。このため、10代のケニーはバイクレース以外の仕事をした経験が無い。
バド・オークランドはケニーに対してレースに関するあらゆることを教え込んだ。エンジンの構造など、難解なことも教えた。このため、ケニーにとって初期のメンター(mentor 信頼すべき指導者、という意味)とされる。また、後年のケニーがチーム・ロバーツを作ったとき、マンティーカの工場でエンジンの排気に関する部品を作って渡しており、その部品のおかげでチーム・ロバーツが好成績を収めたこともある。
※ここまでの資料・・・記事1、チーム・ロバーツ本94ページ
ヤマハ・USAに所属し、アメリカ合衆国のレースで勝ちまくる
バド・オークランドはケニーにジム・ドイル(Jim Doyle)という人物を紹介した。その人は飛行機のパイロットであり、アマチュアのオートバイレーサーだった。この人が、ケニーのマネージャーとなり、契約交渉の代理人となってケニーを支えることになった。
ジム・ドイルは最初トライアンフのアメリカ支社と交渉したが、「ケニーは168cmで、我々のバイクに乗るには身長が低すぎる」という理由で断られた。そのため、次はヤマハのアメリカ支社であるヤマハ・USAと交渉した。ヤマハとの交渉は上手くいき、ケニーは弱冠19歳でヤマハのワークスライダーになった。これが1971年のことである。
このときケル・キャラザース(Kel Carruthers)というオーストラリア人ライダーと出会った。ケルとの付き合いは長く続き、1973年までは同僚のライダーとして色々教わり、1974年からはメカニックとして支えて貰うことになった。MotoGPに行くときもケルがメカニックとして付いてきてくれた。
1973年に、ケニーは弱冠21歳ながら、AMAグランドナショナル選手権でチャンピオンになっている。AMAグランドナショナル選手権とは、ロードレース(舗装路面のレース)やダートトラック(土の路面のレース)といった色んなカテゴリーのレースに出場し、その合計ポイントでチャンピオンを決める選手権である。
このチャンピオン獲得で自信が付いたのか、1974年3月のデイトナ200マイル(320kmぶっ続けで走る耐久レース)のとき、やってきたジャコモ・アゴスティーニ(31歳9ヶ月)に対して
「Agostini does not know the circuit and does not know the bike; I'll eat it raw. 」
と言ったという。「アゴスティーニはサーキットも知らないし、バイクも知らない(1973年までMVアグスタ所属だった。1974年からヤマハ所属)。俺がアゴスティーニを生で食ってやるよ」という意味である。
その時点で13回の世界チャンピオンを獲得していたジャコモに対して大胆不敵な発言をしたが、決勝はジャコモ渾身の走りに打ち負かされ、2位に終わった。
1974年4月のイモラ200マイルではジャコモ・アゴスティーニと再戦したが、またしてもジャコモに負かされ、2位に終わった。
ジャコモには貫禄を示されたが、AMAグランドナショナル選手権では相変わらず絶好調で、1974年に連覇を達成している。
アメリカ合衆国のAMAグランドナショナル選手権で、ケニーはレースを続けていた。年間30戦ほどで、ロードレース(舗装した路面のレース)は7戦だけ、後の残りはダートトラック(土の路面のレース)だった。ダートトラックの方が主戦場だったのである。
その主戦場のダートトラックで、ヤマハのマシンは段々と勝てなくなっていた。ハーレーダビッドソンのマシンの方が優れていて、技術的に劣勢になっていたのである。1975年から1977年まで、ずっと劣勢が続いていた。
ハーレーダビッドソンからケニーの元に移籍の誘いが来ており、その気になれば移籍することができた。ところが、ケニーは19歳の時に初めて契約してくれたヤマハに対して恩義を感じており、ヤマハから出ていく選択肢は選びたくなかった。(RACERS vol.48 50ページ)
ケニーを後援するヤマハ・USAは、ケニーに「アメリカ合衆国じゃ勝てないから、ヨーロッパに行ってMotoGP最大排気量クラスに参戦しなさい。契約金を上げてあげる」と言った。ケニーは「嫌だ。ヨーロッパなんて行きたくない」と言ったが、ヤマハ・USAが何度も行けと言ったので、仕方なくMotoGP最大排気量クラスに参戦することにした。
1978年のMotoGP最大排気量クラスルーキーイヤーでいきなりチャンピオン獲得
嫌々行くことになったヨーロッパだったが、ケニーはMotoGP最大排気量クラスで3連覇を達成した。
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開幕時の年齢 戦績 備考 1978年 26歳 10戦4勝 前年チャンプのバリー・シーンと大激戦 1979年 27歳 11戦5勝 最終戦までもつれるがケニーに余裕があった 1980年 28歳 9戦3勝 最終戦までもつれるがケニーに余裕があった
当時のMotoGPのライダーたちはサーキット近郊のホテルに泊まって、そこからサーキットに来てレースをしていた。一部のライダーが、テントを張ってサーキットに泊まったり、キャンピングカーをサーキットに留めてそこに泊まったりしている程度だった。
そんな中、ケニーはモーターホーム(キャンピングカーよりもはるかにデカい。住宅のような暮らしができる)に乗ってサーキットにやってきた。この、モーターホームを駆使するアメリカ人的な手法をMotoGPに持ち込んだのはケニーである。
奥さんと子供2人を引き連れて、ケニーがモーターホームを運転してヨーロッパ各地を転戦する。移動の際には、飛行機など一切使わない。「MotoGPを参戦していた時期は、ずっと家族旅行をしていたようなものだ」とケニーが語っている。(2013年振り返りG+座談会で放送されたインタビューで発言 )
1978年は最大排気量クラスルーキーであると同時に、MotoGPルーキーだった。サーキットのことなどまるで分からない状態だった。このため、1978年は250ccクラスにもエントリーして、サーキットを覚える努力をしている。
先述のように、1978年はヤマハ・USAに無理矢理ヨーロッパへ送り込まれていた。このため1978年の当初はMotoGPの勝敗にあまり関心が無かった。ところが、そんなケニーに対してバリー・シーン(1976~77年の2年連続最大排気量クラスチャンピオン。イギリス人)が「ケニーとかいう奴は、恐れるほどの存在じゃないね」と舌戦を仕掛けてきた。これに対し、負けず嫌いのケニーは一気にやる気を出し、チャンピオン・ロードを突っ走ることになった。バリー・シーンにとっては、まさしく藪蛇(やぶへび)になってしまった。1978年はバリー・シーンとの接戦になり、最終戦でやっと勝負が決まっている。
1978年のケニー・ロバーツ・シニア対バリー・シーンの争いは名勝負なので詳しく振り返っておきたい。
このときのポイントシステムは次のようになっていて、今と比べるとかなり1ポイントの重みが大きかった。
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順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
シーズン通しての成績はこうなっている。
開幕戦を転倒ノーポイントで終えたケニーは第2戦から復調し、第4戦フランスGPを終えた時点で早くも首位に立った。その時点におけるケニーとバリーのポイント差は1ポイント。
第7戦ベルギーGPを終えて、ケニーのポイントが81、バリーのポイントが67で、14ポイントの差が付いていた。約1勝分の差なので、まずまず大きな差であろう。
ところが第8戦スウェーデンGPの250ccクラス練習走行で、ケニーは激しい転倒を喫してしまい、脳震盪になり、ついでに親指も負傷した。この影響でケニーは500cc決勝で7位に終わってしまい、バリーが優勝したので、ポイント差は3にまで縮まった。
第9戦フィンランドGPは両者そろって転倒して、そして第10戦イギリスGPを迎えた。このとき既に国民的英雄として絶大な人気を得ていたバリーにとって、イギリスは地元であり大声援が期待できた。人間誰しも声援を浴びると気合いが入るので、このレースでポイントが逆転すると思われた。
ところが、第10戦イギリスGPの決勝において雨が降ってしまう。雨のためケニーもバリーもタイヤ交換する必要が発生して、両者ともにピットインした。バリーの方がタイヤ交換に手間取ってしまい、バリーは3位に終わってしまった。2位に入ったのは弱小チームのスティーヴ・マンシップというライダーだったのだが、スティーヴはタイヤ交換をせずに走り続けたライダーだった。バリーにとっては大声援に背中を押されて一気に逆転するはずが、「雨の日の波乱」に引っかかってポイント差を8にまで広げられてしまった。
最終戦は両者のポイント差が8なので、バリーが逆転するにはケニーが5位以下に落ちる必要があった。ところがケニーは3番手を維持してそのままゴールし、その時点でチャンピオン争いが決まったのである。
1979年 怪我を乗り越えて連覇達成
1979年は開幕前の日本におけるテストで激しい転倒を喫し、レーサー人生に関わるほどの大怪我を負って開幕戦を欠場した。
この負傷は、背中の怪我だった。4週間も入院することになったが、そのときヤマハの部長がやってきて「ケニー、来年の契約のサインをしてくれ。みんなが君を待っているぞ」と言った。この激励にケニーは感動したという(記事)。
1979年の成績表は次の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 合計 | 差 | |
ケニー | 欠 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | 8 | 止 | 4 | 6 | 1 | 3 | 113 | |
ヴァージニオ | 2 | 2 | 3 | 2 | 4 | 2 | 1 | 止 | re | 15 | 4 | re | 89 | -24 |
ケニーは2戦目から復帰して、第6戦まで好走を繰り返した。しかし、スズキのマシンに乗るヴァージニオ・フェラーリがしぶとく食らいついていた。第6戦が終わった時点でケニー72ポイント、ヴァージニオ66ポイントで、わずか6ポイント差である。(※ポイント計算は1978年と同じ、1位15点、2位12点・・・という方式)
第7戦オランダGPでケニーが8位に終わり、ヴァージニオが優勝したので、ここでランキングが入れ替わった。ヴァージニオが81ポイント、ケニー75ポイントである。
第8戦ベルギーGPは路面状況の悪化によりボイコットされ、残ったのは4戦である。
しかしここからケニーの強運というか底力が発揮された。第9戦スウェーデンGPと第10戦フィンランドGPでケニーが苦戦するも、ヴァージニオはそれよりもひどい成績に終わった。チャンピオン争いをする2人がシーズン終盤に揃って低迷するという、21世紀の現代でもよく見られる光景となった。
第11戦イギリスGPは、バリー・シーンと歴史的な名勝負をして、0.030秒という稀に見る僅差で快勝した。
最終戦フランスGPは、ケニーとヴァージニオの差が14ポイント差で始まった。ヴァージニオが優勝して、ケニーが11位以下にならないと引っ繰り返らない。ヴァージニオは果敢に攻めてリードを奪ったが結局転倒し、ケニーの連覇が決まった。
この年のケニーはヤマハに乗っていたが、ランキング2位から10位までが全員スズキである。スズキ包囲網を見事に突き破った。
1980年 3連覇達成
1980年のMotoGP最大排気量クラスはわずか8戦での開催となり、レース数が少ないので1ポイントの重みが増した。
ケニーは開幕から3連勝を決め、これで大きく波に乗った。3戦を終えた時点で2番手のランディ・マモラに23点という大差が付いた(※ポイント計算は1978年と同じ、1位15点、2位12点・・・という方式)。
1980年の成績表は次の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 合計 | 差 | |
ケニー | 1 | 1 | 1 | re | 3 | 2 | 2 | 4 | 87 | |
ランディ | re | 3 | 2 | 5 | 1 | 4 | 1 | 5 | 72 | -15 |
最終戦西ドイツGPは、ケニーとランディの差が13ポイント差で始まった。ランディが優勝して、ケニーが9位以下にならないと引っ繰り返らない。ランディのマシンにはトラブルが発生し、ペースを上げることができなくなったので、その時点でチャンピオン争いが終わった。
ランディ・マモラはスズキのマシンに乗っていた。これで、ケニーは1978年から3年連続でスズキのライダーとチャンピオン争いをしたことになる。しかも3年連続でチャンピオン争いが最終戦までもつれた。
1981年と1982年は歯車が噛み合わない
4連覇を賭けて臨んだ1981年シーズンは、ヤマハのマシンの不備があるレースがあったり(開幕戦オーストリアGP、第6戦オランダGP)、食中毒になったり(第8戦サンマリノGP)、と不運が続き、ランキング3位に終わってしまった。この年にワンツーを決めたのはスズキワークスの2人で、イタリアのマルコ・ルッキネリがチャンピオン、アメリカ合衆国のランディ・マモラが2位になった。
1982年は、1978年デビューの時からずっと履いてきたグッドイヤー(アメリカ合衆国のタイヤメーカー)のタイヤから、ダンロップのタイヤに移ることになった。グッドイヤーがMotoGPから撤退するので、その影響を受けたのである。今も昔も最大排気量クラスのマシンのタイヤは太く、走行に与える影響が非常に大きい。タイヤの切り替えでケニーはすこし苦労した。また、シーズン中にヤマハのマシンが大幅に変更されたりして、またもちょっと苦労する。そしてシーズン後半のイギリスGPで転倒して膝と指を負傷し、最終戦までずっと欠場することになってしまった。この年のランキングは4位に終わった。チャンピオンになったのは、スズキのマシンに乗るイタリアのフランコ・ウンチーニだった。
1983年 チャンピオンを惜しくも逃す
1983年からは、この年から実質的なヤマハワークスとなったチーム・アゴスティーニから参戦した。この年はMotoGPの歴史に残る大接戦を繰り広げた。
12戦で6勝も挙げたのにチャンピオンを獲れず、ケニーにとって残念無念のシーズンとなった。3戦目のノーポイントが悔やまれる。
この年はフレディ・スペンサーがチャンピオンを獲得した。ケニーと同じ12戦6勝で、2ポイントだけ上回ってギリギリの勝利だった。フレディは21歳8ヶ月で最大排気量クラスチャンピオンとなったのだが、これは当時の最年少記録である。しかも、ホンダにとって最大排気量クラスチャンピオン獲得は初めてだった。
この激闘に関してエディ・ローソンは「1983年はフレディのホンダ3気筒がずば抜けて速かった。ケニーがホンダ3気筒に乗ってれば圧勝してただろう。ライダーの実力ではケニーがフレディを大きく上回っていたよ」とこの本の41ページで語っている。まぁ、エディはケニーと同じチーム・アゴスティーニ(実質的ヤマハワークス)所属のライダーなので多少は贔屓目があるかもしれない。
1983年のケニー・ロバーツ・シニア対フレディ・スペンサーの争いは名勝負なので詳しく振り返っておきたい。
このときのポイントシステムは次のようになっていて、今と比べるとかなり1ポイントの重みが大きかった。
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順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
シーズン通しての成績はこうなっている。
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1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 合計ポイント 差 フレディ 1 1 1 4 1 re 1 3 2 2 1 2 144 ケニー 2 4 re 1 2 1 4 1 1 1 2 1 142 -2
フレディが開幕3連勝を飾ったのに対し、ケニーの成績はいまいちで、第3戦イタリアGPを終えた時点での両者のポイント差は25の大差が付いていた。
第4戦からケニーの巻き返しが始まったのに対し、フレディは第6戦オーストリアGPでマシントラブルでノーポイントに終わり、ポイント差が縮まった。第6戦オーストリアGPが終わった時点のポイント差は6になった。
第7戦ユーゴスラビアGPでケニーがスタートを失敗してしまい、思いっきり出遅れた。40秒ほどたってからやっとスタートできたので、ケニーは怒濤の勢いで追い上げていき、4番手にまで浮上した。その時点で先頭はフレディ、3番手はチームメイトのエディ・ローソンだった。
チーム・アゴスティーニはエディ・ローソンに対して「真後ろにケニーが来ているぞ!ケニーに3番手の位置を譲れ!」と必死に指示を出すが、エディはそのチームオーダーを無視して3位でゴールした。レース後のエディにケニーが問いかけたところ、「表彰台に上りたかったんだ・・・」と言ったという。(この本の78ページ)
エディ・ローソンは「当時のGPパドックは、『結果が出なければすぐにクビ』という時代だった」と語っている(この本の41ページ)。そういう雰囲気の中で1983年のエディは開幕戦から上手く走れておらず、どうしても表彰台という結果が欲しい状況だった。エディがチームオーダーを無視したのも無理はない。
いずれにせよ、第7戦ユーゴスラビアGPでケニーは4位に終わり、ポイント差が13に広がった。
第8戦オランダGPから第10戦イギリスGPまでフレディは必死に表彰台を確保するが、ケニーが3連勝を遂げており、じりっじりっと差が縮まっていく。第10戦イギリスGPを終えた時点でのポイント差は2となり、あと一回「ケニー優勝・フレディ2位」というレースになれば逆転となる。
そして迎えた第11戦スウェーデンGPでもケニーは好走し、最終ラップの6コーナーでは首位を走っていた。その背後に迫るのはフレディ。
アンデルストープのコース図はこうなっており、バックストレートがかなり長い。バックストレートでの車速を伸ばすため、ケニーは6コーナーを力強く加速しようとしてアクセルを開けたのだが、フロントタイヤが浮き上がってウィリーしてしまった。ウィリーしては加速が鈍るので、仕方なく、すこしだけアクセルを戻したケニーだが、そこにフレディが襲いかかってくる。
バックストレートでフレディはスリップストリームを使って車速を伸ばし、90度に曲がる7コーナーで一気にケニーのインに入った。その激しい競り合いのため、両者共にブレーキングをミスってしまい、2人ともコース外のグラベル(砂)に入ってしまった。フレディの方が一瞬早くグラベル(砂)から這い出ることに成功し、僅かなリードで先頭を走る。そして0.16秒差でフィニッシュラインを超えて、フレディが決定的に重要な勝利をものにした。
ケニーは最終ラップのフレディのアタックを「愚かで危険な行為だ」と激しく非難しており、表彰式でも怒っていて、激しい言葉をフレディにぶつけていた。この動画では、フィニッシュラインを超えた後のケニー(赤いマシン)が、フレディ(ゼッケン3番)に対して抗議と非難を意味するジェスチャーをしている姿が映っている。
第11戦スウェーデンGPを終えて、ポイント差は5に広がった。最終戦サンマリノGPでケニーが勝ってフレディが3位以下になると、ケニーとフレディが同ポイントで並び、優勝回数でも並び、2位の回数でケニーがフレディを上回るのでケニーの逆転チャンピオンとなる。ケニーとフレディの間に誰か1人ライダーが入ればいい。それに最適だろうと思われたのが、ケニーのチームメイトであるエディ・ローソンだった。
ところが、決勝レースのエディはマルコ・ルッキネリとの3位争いにハマってしまい、それから抜け出るのに手間を掛けてしまった。マルコを置き去りにした後は必死にフレディを追いかけたが、フレディよりも7秒遅れの3位に入るのが精一杯だった。レース後のエディはチームの誰からも声を掛けてもらえず、凄く辛かったと語っている。(この本の41ページ)
こうして、大激戦の1983年シーズンが終わった。
第7戦ユーゴスラビアGPでエディが3位を譲っていればケニーとフレディが獲得ポイント・優勝回数・2位回数・3位回数・4位回数といった要素でぴったり並んでいた、第11戦スウェーデンGPでフレディが無茶な突っ込みをしなければケニーがチャンピオンだった、という2つの「タラレバ」がついてまわるシーズンとなった。
1983年をもって現役引退
1983年をもって現役引退した。チャンピオン争いをした直後なのに引退したのは、離婚問題を抱えていたからだった。離婚して、4人の子供を元・妻に奪われそうになったので、仕方なく引退することにした。
ただ、子供だけが引退の理由ではなかった。
1983年のシーズン開幕当初に「1983年限りで引退する」と宣言したものの、1983年のケニーは鮮やかな活躍をしていた。このため、1983年11~12月頃に、ヤマハの社長から「契約金を1983年よりも上げるから、残ってくれ」と引き留めの声がかかっていた。
そこで実質的ヤマハワークスを率いるジャコモ・アゴスティーニ監督と交渉したら、契約金の額がヤマハの社長から言われたような金額よりもずっと少ない。何度交渉してもジャコモは「お金が無い」の一点張りだった。頭にきたケニーは、MotoGP残留の意思を完全に捨てて、引退することを決めた。
「あのときジャコモ・アゴスティーニ監督が高い契約金を提示していたら、1984年もMotoGPを走っていただろう」とケニーはこの本の7ページで語っている。
鈴鹿8耐など耐久レースに出場
子供のため、不本意ながらMotoGPを引退したケニー。1983年12月31日の時点で32歳になったばかりであり、肉体の方はまだまだ十分に動く年頃だった。
レースのことを思うと脳内でアドレナリンが激しく分泌され、体がうずいてしょうがない。このため、ケニーは耐久レースにいくつか出場している。耐久レースならサーキットに出張する時間が(MotoGPフル参戦に比べて)少ないので、子供を確保したままレース活動できる。
1984年3月にはデイトナ200マイルに出場。MotoGP開幕前の練習としてやってきたフレディ・スペンサーと対決し、見事に勝利を収めている。
1984年4月にはイモラ200マイルに出場し、優勝している。
1984年7月にはラグナセカ200マイルに出場。このときはランディ・マモラ(MotoGP最大排気量クラスに参戦中の身だがやってきた)と競り合い、ランディの2位に終わっている。
1985年7月のケニーは33歳7ヶ月で、鈴鹿8耐に出場することにした。
ペアを組んだのは平忠彦という日本のアイドルライダーで、乗ったのはヤマハのマシン、チームの名前は資生堂TECH21で、そのときの淡い紫色カラーリングは有名である。
ケニーと平は快走し、独走状態のまま首位を走っていたが、レース終了まであと30分というところでマシントラブル発生。無念のリタイヤとなった。
1986年も鈴鹿8耐に出場した。この年はマイク・ボールドウィンと組んだ。マイクはケニーと同じカリフォルニア州出身で、この年はケニーの運営する「チーム・ロバーツ」からMotoGP最大排気量クラスに参戦していた。チームの監督と選手が、そろって鈴鹿8耐に出てくるという面白い光景になった。マイクは1981年と1984年に鈴鹿8耐を優勝しており、周囲の期待は高まったのだが、1986年のこの鈴鹿8耐においてマイク・ケニー組は転倒してヤマハのマシンを壊してしまい、レースを終えることになってしまった。
ちなみに、MotoGP最大排気量クラスに参戦していた1978~1983年の間も、シーズン開幕前にデイトナ200マイルやイモラ200マイルを走ることが恒例だった。ケニーはもともと耐久レースが好きだったのである。
ライディングスタイル、ライダーとしての仕事っぷり
ケニーと同時代を生きたエディ・ローソンから、ケニーは「本当に神がかった走り」「持って生まれた才能しか思えない、鳥肌が立つような美しい走り」などの評価を受けている。(この本の41ページ)
1978年のころのMotoGP最大排気量クラスは、どこのメーカーもエンジンパワー重視主義で、そのためどのライダーも「ブレーキングを遅めにして、もの凄い速度でコーナーに突っ込んでいく」というライディングスタイルだった。ところがケニーはそれと正反対の手法をとり、「ブレーキングを早めにして、無理せずにコーナーに進入し、立ち上がりでできるだけ早くアクセルを開けていく」というライディングスタイルだった。この動画のオレンジ色が他のライダーたちで、青いマシンがケニーだった。
マシンが傾いた不安定な状態で早めにアクセルを開けていくので、当然、リアタイヤが滑ってマシンが暴れそうになる。それを制御する技術がとても優れていた。ケニーはダートトラック出身のライダーなので、マシンの滑りを制御する技術がとても高かった。
ケニーの出現以降、「ダートトラックを経験したアメリカ合衆国・オーストラリアのライダー」がMotoGP最大排気量クラスを席巻することになる。ケニーの出現で、MotoGP最大排気量クラスの潮流が変わったのである。
ハングオフという走行スタイルを流行させた人物とされる。ハングオフとは、フロントタイヤの作り出す直線よりも頭や体を内側に入れる走法のこと。ケニーの前にもそういう走法をする人物がいたが、ケニーが最大排気量クラス3連覇を成し遂げてから、一気に流行が拡大したとされる。
現役時代のケニーはヤマハの技術者に対して不満や文句しか言ってこず、「マシンが良い」とは絶対に言ってこなかった。ワークスライダーはマシンの欠点を指摘するのが仕事なので当然なのだが、ケニーの言い方はキツかったらしく、ヤマハの技術者は内心で「クソッタレ」と罵っていたという。(この本の81ページ)
レースの安全性向上やライダーの地位向上に貢献する
ケニーはレーサー人生の中で何度かFIM(当時のMotoGP運営者)に対して要求を突きつけており、その要求を運営が呑む形で、MotoGPの安全性やライダーの地位が少しずつ増していくことになった。
1979年のベルギーGPは、参戦ライダーのほとんどがレースをボイコットした。レース決勝数日前にアスファルト舗装したので、路面の油分が抜けきっておらず(アスファルトは石油からできているので、舗装した直後は油べっとりである)極めて危険だった。このボイコットを主導したのは、チャンピオン争いで首位に立っていたケニーである。
1982年のフランスGPでも同じように主要ライダーたちがそろってボイコット。
また、1979年スペインGPは、レース前に出場金を主催者に支払わねばならなかった。「我々はプロなのだから、金を運営に払うのはおかしい。むしろ、運営から賞金や手当金を受け取るべき立場でないか」とケニーは発言し、決勝でのトロフィーの受け取りを拒絶している。
さらには1979年の最中のケニーは「MotoGPに代わる新しい大会を作り上げるぞ」と示唆した。
ケニーはFIMに対して終始一貫して戦闘的に接しており、それにFIMが屈する形で、ライダーに対する賞金引き上げや、安全性向上のルール策定などを進めることになった。
チーム経営者としての経歴
ケニー・ロバーツ・シニアは1984年から2007年まで、チーム・ロバーツというチームを率いていた。
チーム・ロバーツの特色としては、独自のチューニング(整備)を好む点が挙げられる。同時代のライバルであるチーム・アゴスティーニはメーカー本社から送られてくるパーツやデータを基に整備するだけだったが、チーム・ロバーツはパーツメーカーと直接交渉して好みのパーツを作り上げていく傾向があった。メーカーの枠から飛びだして、独自のマシン作りを好む気風があった。(参考資料 RACERS vol.23 72ページ)
チーム・ロバーツの発足
1983年に子供の確保を理由として現役引退を宣言したケニー。1983年11~12月にヤマハの社長から引き留めの声がかかったが、実質的ヤマハワークスを率いるジャコモ・アゴスティーニ監督が契約金を渋ったため、ケニーはやっぱり引退することを確定させた。
そうしていると、舎弟のウェイン・レイニーが無職になっていた。所属するカワサキがレース活動を縮小させることになり、ウェインの所属するチームが解散していたのである。
ケニーとウェインは2人で「来年はどうしようか・・・」と喋っていた。
そこに声を掛けてきたのがポール・バトラーという人物だった。この人はイギリス・バーミンガム出身で、大学で経営学を学んでダンロップに就職し、ダンロップの4輪・2輪モータースポーツ活動に関わっていた人だった。1972年のオイルショックでダンロップのモータースポーツ活動が縮小したので、1974年にヤマハ・ヨーロッパへ転職した。ヤマハでは営業の仕事をしていたが、1979年からHY戦争が始まり、ヤマハ・ヨーロッパのポール・バトラーのところにも「もっと売れ!販売目標を5%上げろ!」と無茶な要求がやってきて、そこでポール・バトラーは1983年にヤマハ・ヨーロッパを退職していたのである。
ポール・バトラーは人脈があったので、ケニーとともにスポンサーをかき集めることが上手かった。こうして「チーム・ロバーツ」が発足した。
チーム・ロバーツができたので、ケニーはウェインに「これで来年も仕事ができるな」と言ったという。
余談ながら、ポール・バトラーについて紹介しておきたい。1992年までチーム・ロバーツの監督を務め続けた。1986年から1992年までチーム・ロバーツの監督業と平行してIRTAの仕事をしており、1993年からはチーム・ロバーツを離れてIRTAに専念することになった。1993年から2011年までMotoGPのレースディレクターを務めた。
※資料…チーム・ロバーツ本42~47ページ&80~85ページ
ヤマハ時代
1984年に「チーム・ロバーツ」を作り、ウェイン・レイニーとアラン・カーターを採用して、MotoGP250ccクラスに参戦してヤマハのマシンを走らせた。
ヤマハには、「ヤマハに在籍していたスーパースターにチームを作ってもらい、そのスーパースターの知名度や指導力を頼りにしよう」という会社方針がある。ケニーに対しても色々と支援をしてくれた。
とはいっても、1984年のチーム・ロバーツはまだまだ素人経営で、色々と上手くいかないことも多く、成績も今ひとつだった。そのためケニーは落ち込んだという。
ケニーは考えを巡らし、「やっぱり最大排気量クラスに挑戦すべきだ」と思った。最大排気量クラスに挑戦するにはスポンサーやメカニックなど色々な準備が必要である。このため1985年は活動を休止して、最大排気量クラス挑戦の準備期間にした。
1986年から500ccクラスで活動再開している。1986年からはラッキーストライクがメインスポンサーとなった。1984年はマルボロがスポンサーだったが、マルボロの予算の大部分は実質的ヤマハワークスのチーム・アゴスティーニに注ぎ込まれている。もしかしたら、ジャコモ・アゴスティーニ監督が横やりを入れてきて、チーム・ロバーツへの予算を削ってくるかもしれない。このためマルボロとの関係を絶ち、ラッキーストライクと関係を持つことにした。
1986年からの提携先は、もちろんヤマハである。ヤマハとの関係は1996年まで続いた。特に1990~1996年の間はヤマハ系チームの中で最高待遇を受けており、実質的ヤマハワークスとされた。
2019年のMotoGP最大排気量クラスにおいて、グレッシーニレーシングがアプリリアの支援を受け、実質的なアプリリアワークスとなっている。それと同じような関係が、チーム・ロバーツとヤマハに見られた。
1990~1996年のヤマハ陣営1番手時代のスポンサーは、マルボロになった。マルボロはラッキーストライクよりもずっと大きい予算規模を持っていたので、チーム・ロバーツの運営もさらにやりやすくなった。
1996年を限りに、チーム・ロバーツはヤマハ陣営を去ることにした。1997年からはウェイン・レイニーが作った「チーム・レイニー」がヤマハ最高待遇の座に入ることになった。
1984年~1996年のチーム・ロバーツの成績は以下の通り。
500ccクラス | 250ccクラス | |
1984年 | ウェイン・レイニーが8位 | |
1985年 | ||
1986年 | ランディ・マモラが3位 | |
1987年 | ランディ・マモラが2位 | |
1988年 | ウェイン・レイニーが3位 | ジョン・コシンスキーが19位(スポット参戦2回) |
1989年 | ウェイン・レイニーが2位 | |
1990年 | ウェイン・レイニーが1位 | ジョン・コシンスキーが1位 |
1991年 | ウェイン・レイニーが1位 | |
1992年 | ウェイン・レイニーが1位 | |
1993年 | ウェイン・レイニーが2位 | ケニー・ロバーツ・ジュニアが27位(スポット参戦1回) |
1994年 | ルカ・カダローラが2位 | |
1995年 | ルカ・カダローラが3位 | |
1996年 | 阿部典史が5位 |
モデナス時代
1996年シーズン末にいきなりヤマハ陣営を離れて、世間を驚かせた。この記事では「ヤマハの中の数名とは、お互いに嫌い合っていた」「ヤマハのマシンはガラクタと感じており、うんざりしていた。新しいことを始めようと思った」という趣旨の発言をしている。
イギリスのバンベリーに会社を設立し、マレーシアのオートバイ企業モデナスの支援を受けつつ、F1関連企業の技術的協力を得て、2ストローク3気筒500ccエンジンを開発した。
このときのエンジンはロータス製だった。また、トム・ウォーキンショーという四輪レースチームの技術提供も受けた。
マレーシアのオートバイ企業モデナスの親会社は、同じくマレーシアの企業であるプロトンである。この当時、プロトンは業績好調で羽振りがよく、英国のスポーツカー企業ロータスを買収していたのである。
マレーシアという国はかつてイギリスの植民地だったのだが、独立した後もイギリスとの関係が非常に良い。マレーシア企業にとって、イギリスに拠点を置くチーム・ロバーツと協力するのは、自然な流れだったものと思われる。
500ccクラス | |
1997年 | ケニー・ロバーツ・ジュニアがランキング16位 |
1998年 | ケニー・ロバーツ・ジュニアがランキング13位 |
1999年 | ホセ・ダヴィド・デ・ヘアがランキング23位 |
2000年 | ホセ・ダヴィド・デ・ヘアがランキング17位 |
1999~2000年 チーム・ロバーツの一部がスズキワークス入りし、チャンピオン獲得
1998年シーズンオフに、ケニー・ロバーツ・ジュニアが、チーム・ロバーツを離れてスズキワークスに移籍し、1999年から2000年まで大活躍した。
このスズキワークスの大躍進の原動力は、チーム・ロバーツにあった。
ウォーレン・ウィリングというウェイン・レイニーのメカニックを務めていた名物メカニックが、チーム・ロバーツからスズキワークスへ移籍している。
この記事では、「実質的ヤマハワークスであるチーム・ロバーツに長年在籍してヤマハの機密を知り尽くしたウォーレン・ウィリングが、スズキに技術を移転させた」と書かれている。
この記事では「1999~2000年のスズキRGV500Γというマシンは、本質的に、チーム・ロバーツのバイクだった。マシンの車体はチーム・ロバーツの本拠地のイギリス・バンベリーで設計された。また、バド・オークランド(この記事の一番最初に名前が出てくる。ケニーの一番最初の恩人)がエンジンの主要部品を製造していた」と書かれており、「2000年の最大排気量クラスチャンピオン獲得は、スズキのおかげではない」というウォーレン・ウィリングの言葉が紹介されている。
2001~2004年 プロトン時代
2001年から、チーム・ロバーツはプロトンと組んでマシンを製造するようになった。先述のように、モデナスとプロトンは資本関係があるので、単に名前が変わっただけと言える。
3気筒の2スト500ccエンジンを作り続け、2002年オーストラリアGPの予選では、ジェレミー・マクウィリアムスがポールポジション獲得、青木宣篤が3番手に入っている。
2003年からは、V型5気筒エンジンを独自に開発してレースに投入するようになった。(記事1、記事2)
ところがチーム・ロバーツ独自のV5エンジンは、大メーカーの作るエンジンに太刀打ちできなかった。2004年をもって、独自V5エンジンの製作を止めることにした。
ちなみに、3気筒のエンジンも、5気筒のエンジンも、ちょっと設計が難しいとされている。「3気筒で行く」「5気筒のエンジンを作る」とケニーが言うたびに誰もが「無茶しやがって・・・」と感じた。
2001年から2004年のチーム・ロバーツの成績は次の通り。
最大排気量クラス | |
2001年 | ユルゲン・ファン・デン・グールベルグがランキング13位 |
2002年 | 青木宣篤がランキング12位 |
2003年 | ジェレミー・マクウィリアムズがランキング18位 |
2004年 | 青木宣篤がランキング21位 |
KTM~ホンダ
2005年はKTMのエンジンを借りて、チーム・ロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。ところが第10戦チェコGP直前になって、KTMからの支援が打ち切られてしまい、それ以降のレースができなくなった。
2006年はホンダのエンジンを借りて、チーム・ロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。さすがにホンダのエンジンは動きがよく、この年に加入してきたケニー・ロバーツ・ジュニアがしばしば表彰台を2回獲得している。特に、第16戦のポルトガルGPでは最後まで首位争いし、0.176秒差の3位に入っている。
ケニー・ロバーツ・ジュニアは2000年にスズキワークスでチャンピオン獲得したが、その後スズキワークスのマシン開発の遅れに付き合わされて、長い間低迷していた。それなのに、2006年になってチーム・ロバーツでホンダのエンジンを手に入れるやいなや、いきなりランキング6位にまで上がった。「やっぱりジュニアって速いんだな」と皆が思った。
2007年は、引き続きホンダのエンジンを借りて、チーム・ロバーツのシャーシにそれを載せて、レースした。
2007年になって最大排気量クラスの排気量が4スト990ccから4スト800ccに縮減され、これの影響でホンダが不振に陥った。チーム・ロバーツに供給されるホンダエンジンもイマイチの出来で、しかも開発がレプソルホンダよりもずっと後回しになった。
2007年をもって、ケニーはチーム・ロバーツを解散させた。
最大排気量クラス | |
2005年 | シェーン・バーンがランキング24位 |
2006年 | ケニー・ロバーツ・ジュニアがランキング6位 |
2007年 | カーティス・ロバーツがランキング19位 |
ケニー・ランチ
ケニーはレーサーとして成功したあとの1982年頃、生まれ故郷モデストから東に離れたヒックマンに広大な農場を購入して、トレーニングコースを作った。
そのトレーニングコースをケニー・ランチ(Kenny ranch)という。ranchは農場という意味。
ヴァレンティーノ・ロッシは、自宅のあるタヴーリア近くのこの場所にヴァレ・ランチ(Vale ranch)というトレーニングコースを建設した。わざわざ英語のranchという言葉を使ったのは、ケニー・ロバーツ・シニアの真似をしたからである。
この動画は、ケニー・ランチの様子が映っている。丸太小屋の姿が見える。
この動画も、ケニー・ランチの様子が映っている。丸太小屋の中には、ヤマハのチャンピオンマシンも飾られているようである。
この動画は、ドローンを飛ばして上空から撮影している。
この動画は、実際にコースを走っている様子が映っている。コースの起伏は少なめ。
このケニー・ランチに、さまざまなライダーを招待して、ケニー直々に指導していた。
ケニーはどういう指導者だったのか?
それはもう、典型的な鬼教官だったと伝えられている。
この記事に、ケニー・ランチのことがすこし書いてある。「ケニー・ランチは男性フェロモンに満ちあふれている。洗練された女性らしさとか、そんなものとは隔絶している。小屋の中には銃がいっぱいあり、聞いたところによると不測の事態に備えてキャノン砲も置いてあるらしい。ケニー・ランチの外には、はぐれたゴルフボールがゴロゴロ転がっている。ケニーの指導は『転んでも走れ!転んでも起き上がって走れ!』というものだ。転んで痛い思いをしているところに、ケニーの怒鳴り声が響き渡る。ハンマーでしばくかのような調子で、ケニーは人をバイクに乗せて走らせる。それとは対照的に、ケニーの親父のバスターは、優しい声で『君は上手くやってるよ。誰だってここで転倒している。ケニーは誰にだってあんな風に怒鳴り散らすんだ。そのままやればいい。君のやり方で良いんだ』と励ましてくる」
これを読んだ人なら、誰でも次のように思うだろう。
「いや~ぁ、ケニーの息子に生まれなくて良かったなあ・・・ ケニーの息子は大変だろう」
2012年振り返りのG+座談会で、中上貴晶がケニー・ランチを訪れた時のことを語っていた。「2012年12月25日にケニー・ランチへ行き、1週間の合宿をした。1週間とは言っても途中で雨が降り、実際には3~4日だった。朝9時から暗くなる17時まで、みっちり走り込んだのでクタクタに疲れた。ケニーは常にバイクに乗れ、時間があればバイクに乗れという人だった」と証言している。
2017年9月には、「ケニー・ランチが売却された」との報道が流れた。(記事1、記事2) この記事でもケニーが「現在は、カリフォルニア州の隣のアリゾナ州に住んでいる」と語っていて、ケニー・ランチを離れたことが分かる。
ケニーの息子 ジュニアとカーティス
ケニーの長男。1973年7月25日生まれで、ケニーが21歳7ヶ月の頃の子供である。
2000年にスズキのマシンを駆って最大排気量クラスチャンピオンに輝いた。
この記事では、引退後の生活が書かれている。2007年から2013年までは飛行機に乗らず、カリフォルニア州で過ごしていた。冬はタホー湖の近くの別荘へ行き、毎日スキーをしている。バイクでの運動は全くしない。
奥さんはロシェル(Rochelle )、娘はアシュリー(Ashley)、息子はローガン(Logan)。この記事に一家勢揃いの写真がある。子どもたちは、ジュニアがMotoGPライダーだったことを知らない。
自分はバイクを使っての運動を全く行わないし、子どもたちにバイクを教えることもしない。やはり、ケニーの鬼指導のせいでバイク嫌いになったのであろうか・・・
日本語版Wikipedia、英語版Wikipediaあり。
父親や兄貴に比べて競走成績は今ひとつに終わってしまった。とはいえ、MotoGP最大排気量クラスの化け物バイクを乗りこなしてレースに参加し、ポイント獲得して戻ってくるのは尋常ではない。
近年は、父親との激しい対立がメディアの記事になっている。(記事1、記事2、記事3、記事4、記事5) ケニーがケニー・ランチを売却したのは、カーティスとの対立があったからである。
やはり、ケニーの鬼指導のせいで性格が歪んだのであろうか・・・
ケニーの父親 バスター
ケニーの父親の正式な名前はメルトン(Melton)と言い、あだ名をバスター(Buster)という。
バスターの両親はミズーリ州生まれで、それからカリフォルニア州のフレズノに引っ越してきた。バスターが生まれたのは1920年頃である。
バスターはアリス(Alice)という人と結婚した。アリスもフレズノ生まれ。アリスには連れ子(前の夫との間にできた子供)が2人いたので、バスターは2人とも養子にした。そのうち1人はリック(Rick)と言い、ケニーの2歳年上の兄である。
アリスとの間に、ケニーが生まれた。ケニー以外に娘が1人生まれたが、7歳の時に夭逝してしまった。
このため、バスターは3人の子供を持っていることになる。
バスターの職はすこし変遷している。ケニーが生まれた1951年12月31日の頃は、トラック運転手をしていた。ケニーが成長したら、モデスト市の水道局に就職した。どうも、農家ではなかったらしい。農家の家のそばに住んでいただけのようである。
ケニーはレースに出たがっていたので、できるかぎり、ケニーをレース場に連れて行くことにした。ケニーの兄のリックは全くレースに興味を持っておらず、バイクに乗るのは通勤・通学のみ、家に帰ってきたらテレビを見る、という人だったので、金のかかるレースをするのはケニー1人だけだった。このため、お金も何とかなったようである。
バスターは全くレースをしたことがない。このため、ケニーは誰の指導も受けずに成長していった。バスターはバイク操縦の技術の面で何か忠告するということは全くしなかったが、大変に面倒見の良い性格なので、ケニーのレース活動を物流の面から支えていた。キャンピングカーというかモーターホームというか、クルマを運転して資材を運び、ケニーに飯を作ってあげる。また、マシンを壊したら修理してあげる。
ケニーが出場するレース場にはすべて顔を出したので、カリフォルニア州のバイクレース界では有名人になった。たいていの人がバスターのことを知っていたという。その中には、サンディ・レイニーという人物もいた。サンディはウェイン・レイニーの父親である。
また、サンノゼ周辺でレースをしていたランディ・マモラや、エディ・ローソンとも若い頃から知り合いだった。
ケニー・ランチができたとき、ケニーはバスターに「ケニー・ランチに住みなよ」と誘ったが、バスターは広い家に住むことを好まず、相変わらずモーターホームに住むことを好んだ。ケニー・ランチの丘の上の駐車場にモーターホームを留めて、そこで暮らしていたらしい。
かなり訛りの強い発音をする人で有名だった。Motorcycle(モーターサイクル)を「モータースィクル」と発音するのである。そういうしゃべり方をする人は非常に珍しく、いかにもといった田舎の親父だったという。
『ケニー・ランチ』の項でも触れたように、ケニーとは正反対の性格で、愛想が良くて気遣いのできる人だった。この記事の画像を見ても、バスターの人柄がうかがえる。
ケニーの奥さん
ケニーには奥さんがいて、ブログ、Twitterを持っている。
2005年に結婚したという。この本の84~85ページに、知り合ったきっかけがちょっと書かれている。
熊本出身の人で、そのためケニーは熊本にしばしば遊びにくる。南阿蘇でしばしばツーリングしているので、南阿蘇の道路に「ケニー・ロード」という名が付けられた。
熊本から近い岡山国際サーキットにも出現することがある。
その他の雑記
2017年にケニー・ランチを売却し、アリゾナ州レイクハヴァス・シティの、エディ・ローソン邸近くに引っ越した。エディの家から歩いて3分ぐらいのところにケニーの家がある。この本の92~97ページに、エディとともに遊ぶ様子が紹介されている。
モンタナ州というド田舎の州にも別荘がある。家のそばに鹿やカモやアヒルがやってくるので、それを猟銃で仕留めてそれをケニー自ら料理する。この本の84~85ページにその様子が載っている。
「常に動いてなくちゃダメ、待つことができない、急に気が変わって予定をコロコロ変更する」という性格の持ち主である。(RACERS vol.2 84ページ)
愛犬は真っ黒なラブラドール・レトリバーのREX、真っ白なジャックラッセルのTETSU。この画像に映っている。
MotoGPに顔を出すときは、ヤマハワークスのピットを訪れることが多い。画像1
2016年頃に心臓を悪くして、手術をしている。
2019年現在、MotoGPのMoto2クラスにジョー・ロバーツという選手が参戦している。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身でロバーツという姓なのだが、ケニーとは血縁関係がない。
阿部典史は、ケニー率いるチーム・ロバーツから、MotoGPフル参戦を開始した。チームに入団した当時は長髪だった。日本語版Wikipedia記事によると、日本人関係者に「転倒時の危機管理意識が低い」と批判されたという。そのため阿部は髪を短く切ったのだが、それを観たケニーは「お前は長髪が個性なんだから、また伸ばせ」と言ったという。(Racers vol.35 18ページ)
インタビュー動画集
ケニーが喋る動画はYoutubeに数多くアップロードされている。
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ケニの1978~1982年シーズンを取り上げている。 1978~1980年のインターカラー(ヤマハインターナショナル・コーポレーションという企業の色が黄色と黒で、その企業色を受け継いだ)のマシンの解説が多い。 |
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MotoGP史上有数の激戦となった1983年シーズンを振り返っている。 フレディ・スペンサーの気まぐれ性格(地元に帰りたがる、恥ずかしがり屋で人と会おうとしない、周りの皆が気を遣っていた)がチラチラ書かれていて面白い。 |
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チーム・ロバーツの1984年から1989年までを特集している。 |
関連項目
- ケニー・ロバーツ・ジュニア(息子。2000年に最大排気量クラスチャンピオンに輝いた)
- ウェイン・レイニー(8歳10ヶ月年下の後輩。チーム・ロバーツに6年所属)
- エディ・ローソン(2歳7ヶ月年下の後輩。チーム・ロバーツに1年所属)
- ジャコモ・アゴスティーニ(9歳6ヶ月年上の先輩。ヤマハ陣営最高待遇の座を争った)
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