国際モーターサイクリズム連盟とは、オートバイによるモータースポーツを国際的に統括する機関である。
正式名称はFederation Internationale de Motocyclisme、略称はFIM。
本部はスイスのミーに置かれている。
概要
略史
1904年に国際レースを統括する機関としてFICMが創設された。
当時の加盟国はフランス、ドイツ、イギリス、オーストリア、デンマークの5ヶ国。
1906年にいったん解散したものの、1912年にFICMが再設立されることになった。
先述の5ヶ国にオランダ、ベルギー、スイス、イタリア、アメリカ合衆国を加えた10ヶ国で再結成。
1949年にFIMと改称し、1959年にスイスのジュネーヴへ本部を移転した。
1994年にスイスのミーへ本部を移転させ、現在に至っている。
国際レースの統括
オートバイの国際レースを統括し、競技規則を決めたりサーキットの安全基準を決めたりするのが、
FIMの主なお仕事となっている。
FIMが統括している主な国際オートバイ・モータースポーツは以下の通り。
ロード(舗装された路面)
- MotoGP(市販されないレース専用のマシンを使う)
- スーパーバイク世界選手権(市販車を改造したマシンを使う。4気筒1000ccエンジンが多い)
- スーパースポーツ世界選手権(市販車を改造したマシンを使う。4気筒600ccエンジンが多い)
- 世界耐久選手権(市販車を改造したマシンを使う長距離レース。鈴鹿8耐もこれに含まれる)
- サイドカー世界選手権(サイドカーのレース)
- MotoE World Cup(市販されないレース専用の電動マシンを使う)
オフロード(土の路面)
- モトクロス世界選手権(起伏のある土の路面を走る)
- エンデューロ世界選手権(起伏のある土の路面を走る。長距離の一本道を走破する)
- スピードウェイ・グランプリ(平坦な土の路面を走る)
- トライアル世界選手権(障害物の多いコースをできるだけ足を着けずに走りきる)
ライセンスを発行する
FIMが統括する国際レースに出場するには、FIMライセンスを申請して発行してもらわねばならない。
レースの中で不適切な行動をとると、FIMライセンスが剥奪され、国際レースに出場できなくなる。
2018年サンマリノGPでロマーノ・フェナティ選手がこのような不適切行為をした。
これに対してFIMは2018年12月31日までFIMライセンスを剥奪した。
近年のFIM会長
2006年から2018年までFIM会長を務めた。
MotoGPの表彰式でしょっちゅうトロフィーを渡していたので、MotoGPファンには馴染み深い。
MotoGPの顔として、各種式典に出席し公式コメントを盛んに出していた。
南米ベネズエラのカラカス出身で1952年2月3日生まれ。
本物かどうか分からないが本人のTwitterアカウントあり。
父親のアンドレア・イッポリト(Andrea Ippolito)という人は、ベネズエラでベネモト(Venemoto)という会社を経営していた。この会社はヤマハのバイクを輸入して販売していた。経営好調でお金が貯まったのでチームを作りレース活動をしていた。
1972年にアンドレアはジョニー・チェコットという16歳の若者と出会った。
アンドレアは「ベネモト・ヤマハ」というチームを作りジョニー・チェコットをMotoGPに参戦させた。
1975年がチェコットのルーキー・イヤーだが、このとき250ccと350ccにダブルエントリーし、
開幕戦で250ccと350ccのレースをそれぞれ優勝した。
ルーキーがMotoGP初出場のレースで優勝する、というのを2つ重ねたのである。
チェコットはその年の350ccチャンピオンに輝いた。
アンドレアはベネズエラのレース界の重鎮で、ベネズエラへのMotoGP誘致に熱心だった。
頑張った甲斐あって、1977年から1979年までの3年間、ベネズエラでMotoGPが開催された。
「ベネモト・ヤマハ」は名門チームとしてMotoGPを席巻していた。
もう1人のチャンピオンを輩出しており、その名はカルロス・ラバードという。
1983年と1986年の250ccクラスチャンピオンを獲得した。
カルロス・ラバード在籍時の「ベネモト・ヤマハ」を支えたのが、ヴィト・イッポリトである。
当時30代の前半だったが、チーム経営をちゃんとこなしていた。
1990年代はベネズエラにモトクロス世界選手権を誘致することに成功。
2006年のFIM会長選挙に勝利し、FIM会長に就任した。
ヨーロッパ以外の出身の人がFIM会長に就任したのは史上初のことであった。
2018年12月のFIM会長選挙で選出された。
ポルトガルの南端のファロ出身。1957年頃生まれ。
1974年にモトクロスのレースを始める。
そのあとロードレース(舗装路面レース)に転向し、MotoGPの250ccクラスに出場した。
そのとき乗っていたのはヤマハのTZ250だった。
ベネズエラで行われたMotoGPのことも憶えていて、「40度ぐらいですごく暑かった。
ヴィト・イッポリトの父のアンドレア・イッポリトとも会った。
レース期間中は、ベネズエラのポルトガル移民の農民の家に滞在した」などと語っている。
1978年に、オートバイ版のル・マン24時間耐久レースが初開催された。そのレースにも参戦している。
レースをしたのは1974~1980年の間である。
レースを引退した後は、ポルトガルでジャーナリストの仕事をしつつ、大学で経済学を学んだ。
国際関係の経済学の修士号を取得している。
1990年からはポルトガルのレース界の仕事を始めた。エストリルサーキットの支配人にも就任した。
1995年にはFIMの役職を得る。2006年からはヴィト・イッポリトFIM会長の腹心として働いた。
2014年5月にヴィト・イッポリトFIM会長から「次の選挙に出る」と言われ、
長いこと話し合ったが、結局ヴィト・イッポリトの対抗馬として選挙に出ることになった。
2014年11月の選挙の結果はヴィト・イッポリト63票、ホルヘ・ヴィエガス41票。善戦したが敗れた。
2018年12月の選挙では、選挙の3週間前に対抗馬の候補が撤退したので、悠々と当選した。
MotoGPにおけるFIMの役割
レースディレクションにメンバーを送り込む
MotoGPにおいて、レースを円滑に進行させるため、レースディレクションというものが組織される。
レースディレクションは雨が降ったときの白旗を降るかどうかを決めるし、雨脚が強くなって豪雨になったとき赤旗中断するかどうかを決める。他にも様々な決めごとを即時に決断する。
レースディレクションの構成員は通例3人。1人はFIM代表、1人はドルナ代表、1人はIRTA代表。
3人が合議して物事を決める。万が一3人の意見が合わなかったら、IRTA代表の意見が通る。
IRTA代表はレースディレクターと呼ばれ、レースディレクションの代表格となっている。
レースディレクションのメンバーは変遷している。表にしてまとめるとこうなる。
FIM代表 | ドルナ代表 | IRTA代表(レースディレクター) | |
2010年頃 | クロード・ダニス | ハヴィエル・アロンソ | ポール・バトラー |
2018年頃 | フランコ・ウンチーニ | ロリス・カピロッシ | マイク・ウェッブ |
せっかくなので、クロード・ダニスとフランコ・ウンチーニについて、簡単に紹介しておきたい。
1999年から2013年までMotoGPのレースディレクションにおいてFIM側の代表者だった。
サーキットを改修したり新設したりするとき、必ずサーキットを訪れ、安全性の確認をしていた。
名前で検索すると記事がいくつかヒットする。記事1、記事2、記事3
2013年2月にフランコ・ウンチーニにその職を譲って退任した。
1955年3月9日にイタリア・マルケ州レナカーティで生まれる。
高速道路でミサノサーキットやイモラサーキットへすぐ行ける場所で、2輪レースの経験を積んでいった。
1982年にスズキワークスのマシンを駆ってMotoGP最大排気量クラスチャンピオンに輝く。
日本にもその名がとどろいたが、日本人にとって彼の名前は聞くとドキッとするものであった。
気を遣ったバイク雑誌が「ウンティーニ」と書いたが、正しい読み方は「ウンチーニ」である。
日本語Wikipediaの記述を引用すると、「現役時代から頭脳派として知られ、選手としての実力が高いだけではなく、知性や人間性の面での評価も高かった」となる。
そして結構なイケメンで、スズキのマシンの広告に出る姿も格好いい。
1985年に現役引退。何度か重大事故に遭遇した過去がある彼は、レースの安全向上に力を注いだ。
2013年2月にクロード・ダニスの後を継いでレースディレクションFIM代表に着任した。
2016年にMotoGPレジェンドに選ばれた。
2017年5月7日、ヘレスサーキットで行われたスペインGPのmoto2クラス決勝において、
レース直前のウォームアップラップで5コーナーを高速走行中にコントロールを失い、コースアウト。
セーフティーカーを大破させるという、あまり笑えない事故をやらかしている。
これが画像。マシントラブル説もささやかれていたが原因は不明。
ヘレスサーキットの5コーナーは起伏があって難しいのだが、その難しさを身をもって示してしまった。
スチュワードパネルを組織し、選手を懲戒する
かつては、レース中に不適切行為をしたライダーに対する懲戒も、レースディレクションが行っていた。
ところが2015年10月25日のマレーシアGPで、マルク・マルケスとヴァレンティーノ・ロッシが接触事故を起こしてしまう。その接触事故が大騒動に発展してしまった。
このため、レースディレクションとは別に、スチュワードパネル(steward panel)という組織を作り、そのスチュワードパネルに選手への懲戒を担当させることにした。
スチュワードとは審査員という意味、パネルとは委員会という意味。
スチュワードパネルを邦訳すると「審査員団」となる。
レースディレクションはレースの進行をどうするかで多忙を極めており、懲戒についてじっくり考えるのが難しい。懲戒を専門とするスチュワードパネルを設立し、懲戒の正確性を高める狙いがあった。
2016年2月に、FIM会長がスチュワードパネルに懲戒を担当させるようにすると宣言した。
2017年シーズンから、スチュワードパネルが懲戒担当、レースディレクションが運営担当となった。
スチュワードパネル議長が1人、そのほかの構成員が2人、合計3人でスチュワードパネルが構成される。
2019年からはスチュワードパネル議長にフレディ・スペンサーが就任すると発表された。
2017年と2018年はレースディレクションの代表であるマイク・ウェッブが、スチュワードパネル議長を兼任していた。「レースディレクションとの掛け持ちは大変だ」と悲鳴が上がっていた。
2019年からは、レースディレクションとスチュワードパネルが完全分離することになる。
せっかくなので、フレディ・スペンサーについて簡単に紹介しておきたい。
1961年12月20日、アメリカ合衆国南部のルイジアナ州で生まれる。
アメリカのライダーらしく、ダートトラックで腕を磨いた。
1983年にMotoGP最大排気量クラスチャンピオンを獲得。21歳8ヶ月での最大排気量クラスチャンピオン獲得は、当時の最年少記録である。2013年にマルク・マルケスに破られるまで更新されなかった。
1985年には最大排気量クラスと250ccクラスにダブル参戦し、同時に年間チャンピオンに輝いている。
同じ年に異なるクラスでチャンピオンを獲得したのはこれが最後の記録となっている。
1986年以降は負傷に苦しみ、チャンピオン獲得までには至らなかった。このため「早熟の天才」といった印象が強い。
伝説的天才ライダーなので名前に重みがある。フレディ・スペンサーがスチュワードパネル議長になることで、ライダーたちが納得しやすくなることが期待されている。
その他の雑記
FIMの組織内の第一公用語はフランス語。そのため、組織の正式名称がフランス語になっている。
FIMの中で出世するには流暢に英語を喋る必要がある。
毎年11月に、FIMが主催してMotoGPの年間表彰式を行う。これを『FIM MotoGP AWARDS』と言う。
2014年、2015年、2016年、2017年とスペイン・バレンシアで開催されるのが恒例。
毎年12月に、FIMが主催して、全てのオートバイレースの年間表彰式を行う。
この表彰式を『FIM AWARDS』と言い、通称を『GALA』という。
このときついでにFIMの年次総会も行われ、4年に一度会長選挙も行われる。
2016年はドイツ・ベルリン、2017年、2018年はアンドラ公国で開催された。2019年と2020年はモナコで開催される。
関連リンク
関連項目
- 0
- 0pt