ジャコモ・アゴスティーニ(Giacomo Agostini)とは、イタリア出身の元・MotoGPライダーである。
1942年6月16日生まれ。
15回の世界チャンピオンを獲得し、通算勝利数は122回を数える。この2つの記録は、いまだに破られていない。
愛称はアーゴ(Ago)といい、イタリア語で針という意味である。また、ミーノ(Mino)と呼ばれることもある。
オートバイレーサーとしての経歴
景色が良いところで育つ
1942年6月16日にイタリア北部ロンバルディア州のブレシアの病院で生まれた。生まれた後はブレシアから北に32km離れた山の中にあるコスタ・ヴォルピーノで育った。コスタ・ヴォルピーノはイゼーオ湖の畔にあり、とても景色が良い。また、ヴァル・カモニカという綺麗な渓谷がある。
父親はアウレリオ・アゴスチーニ(Aurelio Agostini)、母親はマリア・ヴィットーリア(Maria Vittoria)。
父親アウレリオの勤務先はコスタ・ヴォルピーノの市役所で、そこで書記官として働いていた。また、父親アウレリオは小さいながら運送会社を経営しており、イゼーオ湖に艀(はしけ)を浮かべて荷物を運ぶ業務をしていた。
コスタ・ヴォルピーノで数年を過ごしてから、その隣町のロヴェーレに一家そろって引っ越した。
ちなみにジャコモは4人兄弟の長男で、ジャコモの後にガブリエーレ(Gabriele)、マウロ(Mauro)、フェリーチェ(Felice)と男ばかり生まれている。
オートバイに興味を持つ
子供の頃からエンジンに興味を持っており、9歳のころ初めてオートバイに触れた。父親が所有するモト・グッチ社のガレットというスクーターに興味を持ち、そのスクーターをかっぱらって走り回ろうと思った。
スクーターに乗って街の広場までやってきたが、スクーターにブレーキを掛けて止めたときに転倒してしまった。そのときのジャコモはまだ身長が低く、足が短いので、スクーターに乗ったときに足が地面に付かなかったからである。
それからもジャコモはオートバイに興味を持ち続け、レースをしたがっていたが、父親はレースをすることに反対していた。「安全ではないし、レーサーは人生が不安定だ」という理由である。このため、子供同士でこっそりとレースをしていた。土の路面や、イゼーオ湖のそばにある曲がりくねった舗装路面で走っていた。あるいは、ジムカーナ(広い駐車場にパイロンを置いて、それを避けつつ速く走る競技)で遊んでいた。
家族が所有するアクイロットというオートバイを乗り回していた。アクイロットとはイタリア語で「鷲」という意味で、この名前のバイクをビアンキ社が製造していた。ビアンキ社は老舗の自転車メーカーとして有名だが、かつてはオートバイも作っていたのである。
成長すると、父親におねだりして、パリラというイタリアメーカーのオフロード・バイクを手に入れた。
1961年になって父親公認でレースを始める
ジャコモは18歳になって、当時のイタリアでレースができる最低年齢に到達した。この年齢になると、父親の許可さえあればレースに参加できるのである。ジャコモは父親にしつこくレース参加許可を求めるようになった。
ジャコモの度重なる要求に困った父親アウレリオは、公証人の仕事をしている親戚の人に相談することにした。「レースは危ないし、勉強の邪魔になる」というのが父親アウレリオの考えだった。その公証人の親戚はちょっと耳が悪かったらしく、「オートバイ」と言われたのに「自転車」のことだと思い込み、「ジャコモ君が自転車をやりたがっているんだって?それは大変結構なことだ。スポーツは若者にはとても良い。アウレリオ君、さっさと許可してあげなさい」と言ったので、父親アウレリオは仕方なくジャコモにレースを許可した。この笑い話のような出来事が起こったのが、1961年でジャコモ18~19歳の頃である。
ジャコモが最初に購入したレース車両は、モト・モリーニ社のセッテベッロというマシンだった。セッテベッロとは、スコパというイタリアのカードゲームで切り札となっているカードである。こういうデザインのカード。
当初のジャコモは、モトビ社のカトリア175というオートバイを買うつもりだったが、注文したのにいくら待ってもオートバイが送られてこない。このままではレースのシーズンが始まってシーズン初頭のレースに出られなくなってしまうと危惧したジャコモは、自宅のあるロヴェーレ近くのベルガモのオートバイ販売店に行き、モト・モリーニ社のセッテベッロを購入した。お金もあまり持っていないので、30ヶ月の分割払いにした。
ジャコモが出場したのはイタリア選手権の175ccクラスだった。このクラスで優勝して、賞金をローンの返済にあてていた。
一番最初に出場したレースは1961年7月18日のトレント・ボンドーネという山道公道を走るレースであった。トレントという麓の街から、モンテ・ボンドーネという山を登っていく。かなり急激な上り道を駆け上がっていく競技で、こういうのをヒルクライムという。現在でもトレント・ボンドーネというレースは行われていて、動画がいくつか上がっている(動画1、動画2)。この初戦でジャコモは2位に入った。1位はアッティリオ・ダマイアーニ(Attilio Damiani)というライダーで、「山に住むリス」というあだ名を付けられるほどヒルクライムを得意としていた人であった。
1962年5月27日に勝利を挙げ、チャンピオンシップのランキングで総合1位になった。そのとき、モト・モリーニ社社長のアルフォンソ・モリーニ(Alfonso Morini)に声を掛けられ、モト・モリーニ社のワークスチームに入ることになった。このときまだジャコモは19歳だったので、ワークス入り契約するにも親の同意が必要だったという。
モト・モリーニのワークスチームで善戦する
モト・モリーニ社のワークスチームに入ると、自分専用のメカニックも付き、レースをしやすくなった。
1963年はヒルクライム(山登り)のレースと、平地のレースの両方に参加して、どちらでも勝利を得た。ちょうどそのとき、モト・モリーニ社のワークスチームのエースだったタルクィニオ・プロヴィーニがベネリに移籍したので、ジャコモはエースライダーに昇格した。
モト・モリーニ社のビアルベロというマシンを供給されイタリア選手権の250ccクラスに参加するようになり、また1963年9月15日にモンツァサーキットで行われたMotoGPにもスポット参戦している。(結果はマシントラブルでリタイヤ)
1964年7月19日の西ドイツGPにも出場し、250ccクラスで4位。1964年9月13日のモンツァサーキットのMotoGPでも250ccクラスで4位に入った。
1964年はイタリア選手権350ccクラスでチャンピオンになっており、モト・モリーニ社ですることがなくなったジャコモは、MVアグスタに移籍することにした。モト・モリーニ社は予算がそんなに大きい訳ではなかったので、これ以上の出世を望むなら、MVアグスタに移籍する必要があった。
MVアグスタのワークスチームで栄華を極める
MVアグスタという企業の前身は、1923年にジョヴァンニ・アグスタ伯爵が起こした航空機メーカーである。第二次世界大戦に敗北したイタリアは連合国の命によって航空機の生産を禁止された。このためいったん廃業し、1945年にMVアグスタがオートバイ製造企業として設立された。
ジョヴァンニ・アグスタ伯爵は1927年に亡くなっていたので、その長男であるドメニコ・アグスタ伯爵がMVアグスタの社長となった。1948年にはレース部門を設立し、イタリアの同業他社から人材を引き抜いて開発を進め、1952年にはMotoGP125ccクラスでチャンピオンを獲得した。1958年から1960年まで、500ccクラスと350ccクラスと250ccクラスと125ccクラスの4クラスすべてをMVアグスタ使用ライダーが制覇している。
1961年からホンダ・スズキ・ヤマハが350ccクラスや250ccクラスや125ccクラスを席巻するようになったが、最大排気量クラスの500ccクラスは相変わらずMVアグスタの天下であった。
1962年から1965年まで、イギリスのマイク・ヘイルウッドがMVアグスタに乗って最大排気量クラスの500ccクラスを4連覇している。
以上の内容はこのページでも確認できる。
そんな中、ドメニコ・アグスタ伯爵に声を掛けられMVアグスタに入団したジャコモは、弱冠22歳9ヶ月で1965年の開幕戦にデビューした。500ccクラスではヘイルウッドに次ぐランキング2位に入った。350ccクラスでもジム・レッドマンに次ぐランキング2位を確保している。
500ccクラスではチームメイトのマイク・ヘイルウッドに大きく差を付けられたが、それでもシーズン終盤には走りが上達し、ヘイルウッドとの差が近づいていた。一方、350ccクラスではジム・レッドマンと大接戦を演じ、最終戦のマシントラブルがなければチャンピオンになっていてもおかしくなかった。この最終戦のマシントラブルは些細なミスから発生したものだった。
1965年350ccクラス最終戦のマシントラブルの苦い経験をしたので、ジャコモはマシン整備に対して非常に繊細なライダーになった。細かいところまでしっかり自分で確認し、何度も再確認し、メカニックに対して神経質に注文を付ける。この癖は現役引退するまで続いたという。
1965年のシーズン末に、マイク・ヘイルウッドはドメニコ・アグスタ伯爵と仲を悪くしてMVアグスタを去り、ホンダへ移籍していった。そのためジャコモがMVアグスタのエースライダーになり、ここからジャコモの快進撃が始まったのである。
1965年から1973年まで、MVアグスタに所属していた時代の成績は以下の通り。
-
開幕時年齢 500ccクラス 350ccクラス 1965年 22歳 2位 2位 1966年 23歳 1位 2位 1967年 24歳 1位 2位 1968年 25歳 1位 1位 1969年 26歳 1位 1位 1970年 27歳 1位 1位 1971年 28歳 1位 1位 1972年 29歳 1位 1位 1973年 30歳 3位 1位
このページを見ても、ジャコモの華麗なる戦歴を確認できる。黄色い1がずらっと並んでいて、とても眺めが良い。彼はほとんど転倒しないライダーで、そのためこのような圧倒的戦果を挙げることができた。
当時のレーシングスーツは現在のものとは比べものにならないほど貧弱であり、「転倒=病院送り」という時代だった。また当時を知るものは「レース開催のたびに死者が出ていた」と恐るべき記述をすることが多い。そういう危険な時代にこういう成果を残したのである。
1965年にチームメイト同士だったマイク・ヘイルウッドとの関係は良好で、「お互いに敬意を払い合っていた」とジャコモが述懐している。
1966年と1967年はMVアグスタのジャコモとホンダのマイク・ヘイルウッドが竜虎の戦いを演じ、どちらの年も500ccクラスでジャコモ1位ヘイルウッド2位、350ccクラスでヘイルウッド1位ジャコモ2位という結果に終わっている。
特に1967年の500ccクラスは大接戦で、僅差でジャコモがチャンピオンになった。ジャコモもヘイルウッドも5勝し、ジャコモが2位2回、ヘイルウッドが2位1回になっている。シーズン当初は「上位入賞した6戦分のポイントが有効」というルールなので、それに従えば同ポイントになる。そこで特例として、2位の数でチャンピオンを決めることになり、ジャコモがチャンピオンとなった。
1967年限りでマイク・ヘイルウッドはMotoGPから引退していったので、1967年が最後の対決となった。なぜヘイルウッドが引退したかというと、所属するホンダが1967年をもってワークス活動から撤退すると発表したからである。
MVアグスタ最終年の1973年は、チームメイトのフィル・リード(イギリス人)が500ccクラスのチャンピオンを獲得していた。2019年のインタビューでジャコモは「フィル・リードは私に敬意を払うことなく、本物のろくでなしでした。今では問題はありませんが(2019年現在のフィル・リードは穏当に接してくれますが)、当時は挑発者でした」と語っている。
その記事の英語版本文はこの記事である。そこでは、「私(ジャコモ)が『MVアグスタの4気筒エンジンがイマイチだ』と言ったら、フィル・リードはわざとそれと反対のことを言い、私のメカニックを奪おうとしました」との発言が載っている。フィル・リードは「MVアグスタの4気筒エンジンは素晴らしいよ」と言って会社の歓心を買い、それによって政治力を得て、ジャコモのメカニックを引き抜こうとした・・・ということらしい。
また、その記事の原文はこの記事である。そこでは「フィル・リードは札束を持ってきて私に見せびらかし、『これを見ろよ!アグスタ伯爵から貰ったんだ』と言ってきた。そのとき私(ジャコモ)は、MVアグスタから冷遇されていると思って非常に怒ってしまった。後に、あの札束は偽物だと知ることになった」との発言が載っている。
こういう、ロクデナシ(イタリア語の原文ではbastardo。英語のbastardに相当する。「庶子」「母親が誰かは分かっているが、父親が誰かは分かっていない子」「得体の知れない出自の人」という意味で、イタリアにおいて放送禁止用語となっている)と一緒のチームにいるのが嫌になり、ジャコモはヤマハへの移籍を決断したのである。
ヤマハ時代
1973年の冬にヤマハと契約したジャコモは、MVアグスタ時代の監督であるアルトゥーロ・マグニやメカニックを連れていきたいと思ったが、アルトゥーロ・マグニやメカニックたちに断られてしまった。
単身ヤマハに移籍することになったジャコモは、契約に従って日本へ行き、シャーシの開発などの協力をしている。
MVアグスタはずっと4ストロークエンジンのマシンを供給していた。ところがヤマハは2ストロークエンジンのマシンだったので、乗り換えができるのかどうか不安視する声も多かった。
2ストロークエンジンのマシンに慣れるには、走り込まねばならない。そう考えたヤマハとジャコモは、アメリカの長距離レースであるデイトナ200マイルに参戦することにした。200マイル(320km)をぶっ続けで走るレースであり、サーキットを52周程度する。1974年3月10日のレースに登場することになった。
このときアメリカ合衆国の記者の中にはジャコモを罵るものもいた。「ジャコモは速く走って地元のライダーが遅いことを満天下に示すつもりだ」と思って、不快な気分になっていたらしい。人種差別が好きな記者は「ダゴ(dago。英語圏でイタリア系やスペイン系に向けて使われる)」と呼んでいた。
また、ジャコモは女たらしのプレイボーイで有名だったので「ヒナギク」と呼ばれていた。ヒナギクはイタリアの国花であるので、イタリア人のジャコモをそのように名付けたのである。また、この時代のアメリカ合衆国において、ヒナギクはかなりイメージの悪い花だった。1964年のアメリカ合衆国大統領選挙において、「ベトナムでは核兵器の使用をためらってはならない」と公言している共和党のバリー・ゴールドウォーターが立候補していたので、民主党のリンドン・ジョンソン大統領は「ヒナギクの少女(Daisy Girl)」というCMを流した。そのCMの内容はこの記事やこの記事に書かれており、そのCMはこの動画である。このCMが話題となって、ジョンソン候補は486、ゴールドウォーター52と歴史的な大差が付いた。この時代のアメリカ合衆国において、ヒナギクは「不吉」とか「歴史的大敗」を意味する隠語だったのである。
また、このとき若いケニー・ロバーツ・シニア(22歳)も参戦していた。ケニーは「ジャコモ・アゴスティーニはサーキットも知らないしマシンもまだ分かっていない。俺がヤツを生のまま食べてやるよ」と言い放っていた。ジャコモはそういう挑発に動じなかった。
レース期間中のジャコモは、朝に短パンでサンダルをはいて道をウロウロしていて、無害な観光客にしか見えなかったらしい。そんな格好でありながらコースをしっかり研究していた。また午後には、革でできたレーシングスーツを着込んで直射日光を浴びるようにして、暑さに慣れるようにしていた。ヤマハのメカニックにはボルト1本の締め付けも緩ませないように神経質に要求し、日本人のメカニックもそれに応えていた。予選では5番手止まりだったが、決勝になると一転してハイペースで飛ばし、52周を走りきって快勝した。当時のジャコモは31歳9ヶ月のベテランだったので、レース後はクタクタに疲れたらしく、サーキットの記者室のソファで横になっていて、ちょうど帯同していたクリニカ・モビレのクラウディオ・コスタ医師に手当てして貰っていた。このため表彰式がすこし遅れて開催された。
4週間後の1974年4月7日、今度はイタリア・イモラサーキットで行われるイモラ200マイルに出場し、ここでも優勝している。デイトナ200とイモラ200で跨がったマシンはTZ750という2ストロークエンジンのマシンで、これで2ストロークエンジンへの対応もバッチリとなった。
1974年のMotoGPは350ccでチャンピオンを獲得し、まずまずの立ち上がりとなった。ところが500ccではマシントラブルもあって苦戦し、またスウェーデンGPで彼にしては非常に珍しく転倒を喫して、鎖骨を骨折し、これが響いてランキング4位に終わっている。このときの転倒は、先に転倒したバリー・シーンを避けきれなかったもので、不可抗力の転倒だった。
1975年は350ccクラスで敗れたが、500ccクラスで栄冠に輝くことになった。前半の4戦で3勝。また、ヤマハのセカンドライダーである金谷秀夫も4戦して1勝を挙げており、ヤマハ勢が開幕4連勝となっていた。
4戦が終わった時点でジャコモと金谷がポイントで並んでいた。ところが金谷はそこで日本に帰国し、マシン開発の仕事に専念することになってしまう。ジャコモは後半の5戦で2回マシントラブルに見舞われ(この当時の2ストロークエンジンは故障しやすかった)、マシントラブルの少ない4ストロークエンジンのMVアグスタに乗るフィル・リードに猛追されたが、なんとか差を守り切ってチャンピオンを獲得した。
この1975年の500ccクラスチャンピオンは、ジャコモにとって最後のチャンピオン獲得となった。また、2ストロークエンジンのマシンが史上初めて最大排気量クラスでチャンピオンを獲得した記念すべき年でもある。さらには、日本の金谷秀夫が才能を見せつけながら会社命令で参戦を止めて帰国するという、日本人にとっては惜しいとしか言いようのない年でもあった。この記事で、1975年シーズンの様子を確認できる。
引退まで
1976年はヤマハとMVアグスタがともにワークス活動を休止してしまった。1973年の第1次オイルショックで両社共に経営が悪化しており、金がかかるワークス活動を止めることにした。
ジャコモはプライベートチームを作って、RG500というスズキのマシン(2ストロークエンジン)を購入して走らせたり、MVアグスタのマシン(4ストロークエンジン)を購入して走らせたりしていた。そんな中、スズキだけがワークス活動を続けたので、エースのバリー・シーンがチャンピオンを獲得することになった。
ちなみに1976年のドイツGPで、ジャコモは現役最後の勝利を挙げている。それはMVアグスタの4ストロークエンジンで達成していて、その勝利以降のMotoGP最大排気量クラスは25年連続で2ストロークエンジンのマシンが優勝し続けることになった。
ジャコモの作ったプライベートチームには、MVアグスタのワークスチームの残党が流れ込んできた。このため、ジャコモは旧友たちと再びレースすることができた。また、ジャコモはチーム経営者としての才能を発揮し、タバコ企業のフィリップモリスの支援を受け、マルボロのロゴをマシンに付けて走っていた。
1977年はヤマハがワークス活動を再開したので、ジャコモも参加したのだが、500ccクラスでも350ccクラスでも勝利できなかった。35歳になって体力の衰えを感じたジャコモは引退を発表した。
ちなみに1977年の500ccクラスチャンピオンは前年に引き続きバリー・シーン、350ccクラスは日本の片山敬済であった。
チーム経営者としての経歴
1978年からジャコモは四輪レースに参加していたが、さすがに30代後半になって動体視力も衰えており、好成績を残すことができなかった。このため、1980年(38歳)をもってすべてのレース活動から引退している。
1981年は活動を休止していたが、その1年を使って、マルボロやヤマハの協力を得て、ジャコモは「チーム・アゴスティーニ」というプライベートチームを作っていた。
1982年シーズンからヤマハのマシンを供給されるサテライトチームとして、MotoGP最大排気量クラスに参戦することになった。ライダーは、グレーム・クロスビーただ1人である。
1983年から、チーム・アゴスティーニはヤマハの技術者を受け入れることになり、実質的なヤマハワークスとなった。ライダーはケニー・ロバーツ・シニアとエディ・ローソンの2人になった。
チーム・アゴスティーニは、1989年までヤマハ系チームの中で最高待遇を受け続けており、実質的なヤマハワークスとして位置づけられていた。
2019年のMotoGP最大排気量クラスにおいて、グレッシーニレーシングがアプリリアの支援を受け、実質的なアプリリアワークスとなっている。それと同じような関係が、チーム・アゴスティーニとヤマハに見られた。
1982年をもってヤマハは本社直営のワークスチームを解散させている。なぜかというと、1979年から始まったHY戦争でヤマハが経営難に陥っており、お金のかかるワークスチームを処分せざるを得なくなっていたからである。
1990~1991年はケニー・ロバーツ・シニアが作った「チーム・ロバーツ」にヤマハ最高待遇の座を奪われてしまった。最大排気量クラスに出走させることもできず、250ccクラスのヤマハ系チームとして存続していた。
1992年~1994年はイタリアのメーカー・カジバと協力し、実質的なカジバワークスとなった。
1995年は250ccクラス専業になってホンダのマシンを走らせたが成績不振であり、この年をもってジャコモはチームを解散させている。
チーム・アゴスティーニの成績は以下の通り。
500ccクラス | 250ccクラス | 提携先 | |
1982年 | グレーム・クロスビーが2位 | ヤマハ | |
1983年 | ケニー・ロバーツ・シニアが2位 | ||
1984年 | エディ・ローソンが1位 | ||
1985年 | エディ・ローソンが2位 | ||
1986年 | エディ・ローソンが1位 | マーチン・ウィマーが6位 | |
1987年 | エディ・ローソンが3位 | ルカ・カダローラが7位 | |
1988年 | エディ・ローソンが1位 | ルカ・カダローラが6位 | |
1989年 | ニール・マッケンジーが7位 | ルカ・カダローラが5位 | |
1990年 | ルカ・カダローラが3位 | ||
1991年 | パオロ・カゾーリが10位 | ||
1992年 | エディ・ローソンが9位 | カジバ | |
1993年 | ダグ・チャンドラーが10位 | ||
1994年 | ジョン・コシンスキーが3位 | ||
1995年 | ドリアーノ・ロンボニが9位 | ホンダ |
チーム・アゴスティーニに栄光をもたらしたライダーというと、エディ・ローソンである。彼の手によって3回の最大排気量クラスチャンピオンがチームにもたらされた。
お金の問題で揉めてエディ・ローソンに出て行かれたら、その途端に凋落し、ヤマハ陣営最高待遇チームの座を失ってしまったのである。
また、チーム・アゴスティーニのライダーとして印象深いのがルカ・カダローラである。ルカはジャコモと同じイタリア出身なので、1987年から1990年までの4年間起用され続けた。1991年になってルカはチーム・アゴスティーニを離れて250ccクラスにおけるホンダワークスといって良い存在のチーム・カネモトに移籍したのだが、その途端に250ccクラスチャンピオンに輝いている。翌1991年もチーム・カネモトでホンダの250ccマシンを駆って2年連続250ccクラスチャンピオンに輝いた。ルカは「自分を育ててくれたチーム」として、チーム・アゴスティーニに謝辞を述べている。
サーキットの外でも人気者
ジャコモは国民的英雄だったので、女性にも人気があった。次第に、レーサー以外としてのイメージが彼につきまとうことになった。
1960年代の雑誌にゴシップ記事の主役としてたびたび登場し、女優、モデル、演劇スター、といった女性たちとの浮名を流しまくっていた。
また、スポンサーの名前が付いたレーシングスーツを着て、宣伝広告にたびたび登場していた。当時のことだから、テレビ広告よりも映画のような作品を作って発表する手法が採用されていた。
ピエトロ・ジェルミという有名な映画監督から「主演として映画出演しないか」と1971年に誘われていた。提示された報酬も相当な額だったという。最終的にジャコモは「スポーツ選手としての長い人生を考えると、映画出演することが悪影響を及ぼしかねない」との理由で、断っていた。
奥様はスペイン人
ジャコモの奥様はマリア・アユソ(Maria Ayuso)という人である。スペインのエル・プエルト・デ・サンタ・マリア出身で、もともとマルボロのグリッド・ガールを務めていた。ジャコモの運営するチームはマルボロの支援を受けていたので、両者はチーム・オーナーとチームの傘持ち女子という間柄だった。1988年6月18日に結婚した。このときのジャコモは46歳になったばかりであった。
結婚した後は2人の子ができた。ヴィットーリア(Vittoria)とジャコミーノ(Giacomino)という。ヴィットーリアはおそらく娘さんだと思われる。ちなみに、ジャコモの母親の姓がヴィットーリアである。ジャコミーノは息子で、「オートバイに興味を持たずサッカーに興味を持ってるんだ」とジャコモが話している。
奥様がスペイン人なので、ジャコモは「スペインは第二の故郷だ」というほどになっている。
また、奥様がスペイン人なので、ジャコモはスペイン人ライダーに優しい。イタリアのテレビ番組で出演者がそろってスペイン人ライダーを罵る状況でも、ジャコモは控えめな発言をする。そして、他の出演者に「ジャコモ、君は奥さんがスペイン人だからそんな態度なんだろう」と言われてしまう。
ヴァレンティーノ・ロッシに対して冷たい態度をとる
ジャコモ・アゴスティーニは大記録を打ち立ててきたが、ヴァレンティーノ・ロッシがそれに迫る勢いで勝ち星を重ね続けている。両者の成績を比べた表は以下のようになる。
ジャコモ・アゴスティーニ | ヴァレンティーノ・ロッシ | |
全クラス通算勝利数 | 122 | 115 |
全クラス通算チャンピオン獲得数 | 15 | 9 |
最大排気量クラス勝利数 | 68 | 89 |
最大排気量クラスチャンピオン獲得数 | 8 | 7 |
ジャコモの持つ主要記録のうち、1つはヴァレンティーノに抜かれてしまい、2つは肉薄されている。ジャコモにとって、自分の大事な記録を更新しかねないヴァレンティーノはあまり好きになれない相手である。
このためジャコモはヴァレンティーノに対していつも冷たい態度をとっており、ヴァレンティーノが誰かとイザコザを起こしたらジャコモがヴァレンティーノにキツ~い一言を浴びせかける姿がたびたび見られる。ジャコモとヴァレンティーノは、ともに「ヤマハと関係が深いイタリア人」だが、それなのにジャコモはヴァレンティーノの味方をしない。
ジャコモは常々ヴァレンティーノに対して「ヴァレンティーノ、応援しているからな。ただし(人間という者は「ただし」の後に本音が出るものである)、勝つのは121回までにしてくれよ。最高でも122回だ」と言っている。「私の言うことに対してヴァレンティーノは『OK』と言っているんだが、私はそうは思わないね」と、この記事で語っている。
2015年10月22日の木曜記者会見において、ヴァレンティーノはマルク・マルケスに対して侮辱的言動をした。このため10月25日のマレーシアGP決勝においてもマルク・マルケスは逆上しており、ヴァレンティーノに対してレース序盤から潰しにかかる走りをした。それに対してヴァレンティーノは14コーナーでマルク・マルケスに幅寄せして、マルク・マルケスを転倒させた。これが、「セパン・クラッシュ」である。この後もしばらくヴァレンティーノは「マルク・マルケスは八百長をした、ホルヘ・ロレンソの手助けをした」と激しい攻撃を続けることになる。これに対してジャコモは「マルク・マルケスは八百長をしていない」とキッパリ発言して、ヴァレンティーノの主張を否定している。
2018年4月8日のアルゼンチンGP決勝で、ホンダ通算750勝を勝ち取りたいのにライドスルー・ペナルティを課せられて焦りに焦ったマルク・マルケスは、13コーナーでヴァレンティーノを強引に抜こうとして接触してしまい、ヴァレンティーノを転倒させてしまった。この動画で、マルケスの荒っぽい走りが映っている。このレースの後、ヴァレンティーノはマルク・マルケスを非難する意味合いで「マルク・マルケスと一緒に走るのは怖い。彼は他ライダーに対して敬意を払っていない」とコメントした。これに対してジャコモはマルク・マルケスを擁護するような立場に立っており「マルク・マルケスは出場停止にすべきではない」と発言している。さらには「ヴァレンティーノが『怖い』って言ったのは理解できません。時速300kmで走るのが怖いのなら、レーサーなんて辞めて、銀行で働けばいいんですよ。ヴァレンティーノは誇張しています」とキツ~い一言を浴びせている。
その他の雑記
現在の彼がMotoGPにやってくるときは、ヤマハワークスのピットへ姿を現すことが恒例である。動画1
現役時代は、細かく日記を付けていた。走りについて正確に記録しようと努めていた。
自分以外で最も偉大なライダーはマイク・ヘイルウッドだと答えている。
現役時代は育ちの故郷ロヴェーレに近いベルガモに住んでいた。現在もベルガモに住んでいる。このため、「ベルガモのライダー」と紹介されることが多い。
MotoGPに参戦する前は、ヒルクライム(山登り)のレースによく出ていた。MotoGPに参戦するようになって世界チャンピオンになった後も、ベルガモ近くの山道(このあたりにあるヴァル・カモニカという有名な山の道。このあたりの山には古代人が描いた岩絵が多く、世界遺産になっている)でトレーニングを積むことが多かった。イタリアメーカーのバイクは非力だったので、ノートンやトライアンフといった英国メーカーのバイクを使っていた。
広告で被るヘルメットはジェットタイプやフルフェイスタイプばかりだったが、ジャコモ自身はクロムウェルタイプ(お椀型)が大好きだった。フルフェイスタイプを初めてレースで使用したのが1971年ベルギーGPである。これ以降はフルフェイスタイプを使い続けることになった。
ジャコモの全クラス通算勝利数を122とする資料と123とする資料がある。MotoGP公式サイトは122回優勝と扱っている。なぜ123と数える資料があるかというと、一時は「Formula750」というレースシリーズをMotoGPの1つとして扱った時期があったからである。Formula750でジャコモは優勝しており、これを加えると優勝回数123回となる。
1966~1967年にはフェラーリの社長エンツォ・フェラーリに誘われて四輪のテスト走行をしている。そのとき非常に良いタイムを出したので、社長から正式にオファーを貰った。四輪転向も考えたが、MotoGPのMVアグスタに残留することを選んだ。
女たらしのプレイボーイとして有名な彼だが、現役時代のレース前の数日間は、お酒を一切飲まず女性とも全く会わなかった。また、ホテルにこもりっきりになっていた。この当時のMotoGPは、パドック全体がお祭りのような喧噪に包まれていたが、そういう喧噪から離れた場所にいた。そういう修行僧のような行動は、MotoGPに参戦し始めた若い頃から現役晩年までずっと続けられた。1962年5月1日のテンポラーダ・ロマーニャ(エミリア・ロマーニャ州を横断する公道レース)に19歳11ヶ月のジャコモは出場したのだが、このときレース期間中に夜遊びしてしまい、それで体力を失い、集中力を失ってマシンを壊してひどい成績になってしまった。このときの苦い経験のため、修行僧スタイルをずっと続けることになった。
関連リンク
関連項目
- 1
- 0pt