エディ・ローソン(Eddie Lawson)とは、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊アップランド
出身の元・MotoGPライダーである。
1958年3月11日生まれ。
1981年と1982年にカワサキのバイクに乗ってAMAスーパーバイク選手権のチャンピオンになった。
1984年と1986年と1988年と1989年の合計4回、MotoGP最大排気量クラスでチャンピオンを獲得した。そのうち3回はヤマハ陣営所属、1回はホンダ陣営所属である。
現役時代は堅実な走りのためにステディ・エディ(Steady Eddie)と呼ばれた。
現在は、アメリカ合衆国アリゾナ州ハヴァス湖近くの高級住宅地で悠々自適の暮らしをしている。
経歴
カリフォルニア州出身 モハーヴェ砂漠で遊ぶ
エディ・ローソンは1958年3月11日にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス近郊アップランドで生まれた。
母方の祖父チャックはドイツ系、母親パトリシアはイタリア系、父親レイモンドはアメリカ先住民族系である。妹が1人いて、シェリーという。それにエディを加えた5人で一家そろってアップランドから北に40km離れた山向こうに広がっているモハーヴェ砂漠に行き、キャンプをして過ごすのが、休日の過ごし方の定番だった。
祖父や父親はバイクでモハーヴェ砂漠を駆け回るのが大好きな人だったので、エディにもそういう趣味を教え込みたいと思い、まずは自転車をエディに与えていた。
エディが7歳の頃、父親レイモンドがエディにヤマハの80ccオートバイを買い与えた。もちろん7歳のエディには免許などないので、公道を走ることができない。このため祖父と父は休日になったらエディをモハーヴェ砂漠に連れて行くようになった。モハーヴェ砂漠の空き地なら、免許がなくてもオートバイを走らせることができる。エディは喜んでオートバイに跨がり、モハーヴェ砂漠を駆け回っていた。
エディにとっては、オートバイを走らせることができるのは休日に砂漠へ行ったときだけだった。平日はオートバイに乗れないので不満を言い、祖父と父は困っていたという。
平日になるとエディも学校に行くのだが、その昼休みには教室に自転車を持ち込み、ウィリーして遊んでいた。
(以上の記述の資料・・・片山敬済「疾走する戦士たち」、レーサーズ外伝vol.01の9ページ周辺
)
カリフォルニア州は全体的に雨が少なくて晴れの日が多く、乾燥している。南部のロサンゼルスもその傾向があり、年間降水量は386mmで、東京の1,500mmに比べるととても少ない。
余談ながら、ロサンゼルス近郊のハリウッドで映画産業が発達したのは、晴れの日が多いからである。晴れている中で雨のシーンを撮影することは、シャワーを用意したりカーテンを掛けたりするなどの人工的な工夫を駆使して簡単に行うことができる。ところが雨の日に晴れの天気のシーンを撮影することは不可能である。このため映画産業は晴れの日が多い土地を好んでおり、晴れの日が多いロサンゼルスが選ばれた。
そして、カリフォルニア州には山が広がっている。カリフォルニア州の上空を偏西風が吹いており、山で上昇気流が起こって山の西側で雨を降らせるが、山の東側は乾燥した風だけが吹き込んで、砂漠が広がることになる。こういう現象を雨陰(ういん)というが、カリフォルニア州はその典型である。エディたちが住むアップランドのすぐ北は「山の東側」になっており
、モハーヴェ砂漠が広がっている。
モハーヴェ砂漠を画像検索すると、こうなっている。モハーヴェ砂漠のど真ん中にあるエドワーズ空軍基地を画像検索すると、こういう画像が目に入る
。こういう、西部劇の舞台になりそうな荒涼たる大地でエディは育った。
12歳でレースを始める
エディの住むアップランドの近くにオンタリオという区画があり、その中のこの場所にコースがある。10歳のエディは友達と一緒にオンタリオへ行き、レースに出場するオートバイを見て感激していた。
余談ながら、このコースは拡張工事を施され、1970年にオンタリオ・モーター・スピードウェイとして開業している。(1980年に閉鎖され、再開発されている
)
1970年、12歳になったエディはダートトラック(平坦な土の路面を走る競技)のレースに出場するようになった。乗るバイクは祖父チャックが与えてくれたカワサキ・F21Mだった。このバイクはアメリカで「グリーン・ストリーク(green streak 緑の稲妻)」という異名がつけられている。乗り方も祖父チャックが教えてくれた。
1971年になって13歳になるとロードレース(舗装した路面を走るレース)も始めた。祖父チャックがイタルジェット・ヴァンピロ50という50ccバイクを買い与えてくれたので、それに乗るようになった。さらには、ヤマハのRD350
やカワサキのKH400
というバイクに乗るようになった。
エディの実家はそれほど裕福でもなく、また大金持ちのスポンサーに最初から恵まれたわけでもなかった。市販車を実家のお金で買って、それをレースで走らせる日々が続いた。ロードレースとダートトラックの両方に挑戦する生活を何年も続けるとじわじわと腕前が上がっていき、周囲にも「エディは速い」と認知されるようになって、他のチームから声がかかるようになった。
1977年、エディが19歳の頃、デイトナで行われるノービスのライトウェイトクラスに出場して、ヤマハのTZ250を乗りこなして見事優勝した。プロトタイプ(レース専用車両)のマシンに乗ったのはこのときが初めてである。
1978年に、エディはAMAのエキスパートライセンスを取得した。
1978年のエディはダートトラックの本格派チーム「シェル・スエット・ヤマハ(Shell Thuett Yamaha)」に所属して、シェル・スエット(Shell Thuett)という名メカニックと一緒にレースをした。シェル・スエットはケニー・ロバーツ・シニアのマシンを作った人である。このときのチームメイトは2歳7ヶ月年下のウェイン・レイニーだった。この時代のダートトラックはハーレーダビッドソンのマシンが圧倒的に速かったのだが、しっかりしたメカニックとともにレースをするのは良い経験となった。
1978~1979年のエディはハント・レーシングという小さいチームに所属し、ロードレースをした。1979年のAMA 250GPというシリーズは年間3戦だけだったがそれに出場している。このとき、フレディ・スペンサーと対戦している。フレディがチャンピオン、エディがランキング2位だった。
1979年の終わりに、USカワサキ(カワサキのアメリカ合衆国支社)がウィロースプリングスで開催したトライアウトで、コースレコードを更新する速い走りを見せたので、USカワサキから認められてカワサキワークスのライダーになった。
実を言うと、カワサキワークスが先に目を付けていたのはフレディ・スペンサーだった。1979年シーズンの後半に、カワサキはフレディを起用していた。しかし、そのフレディにホンダが急接近し、フレディはホンダと1980年以降の契約をしてしまったので、仕方なくエディに声を掛けたのである。フレディとエディの因縁はここから始まっている。
(※この項の資料・・・レーサーズ外伝vol.1の9ページ周辺、この記事
、この記事
、レーサーズvol.38
)
カワサキのバイクに乗ってロードレースで大活躍 AMAスーパーバイク選手権2連覇
1980年以降はダートトラックのレースを辞めて、ロードレース一本に絞ることにした。
1980年のエディはAMA 250GPにおいてチャンピオンになった。
そしてAMAスーパーバイク選手権にも出場し、ウェス・クーリーやフレディ・スペンサーと戦っている。ウェスとのチャンピオン争いは最終戦までもつれ込み、さらには最終戦を1位で完走したウェスを優勝と扱うか失格と扱うかで揉め、ウェスのチャンピオン確定まで2ヶ月間もかかった。
カワサキワークスは、最終戦に優勝したスズキワークス所属のウェスに対して「規則に違反して車両改造をした」と訴え、運営もそれを肯定し、ウェスを失格にしていた。それに対してスズキワークスが運営に対して裁判を起こし、2ヶ月のすったもんだの後に運営が「やっぱりウェスは規則違反していません」と宣言し、ウェスが最終戦を優勝してチャンピオン獲得したという結果がやっと確定された。エディ・ローソンはランキング2位とされた。
スズキワークスの裁判の方法はこうだった。まず、1980年最終戦のカワサキワークスを失格処分にさせる。そして「失格したチームには規則違反を提訴する資格がない」と主張し、カワサキワークスの提訴自体を無効にさせる、というものだった。
1980年の最終戦でカワサキワークスのエディは自分のマシンが壊れており、チームメイトのマシンのゼッケンを貼りかえて使った。登録されていないマシンを走らせたことになり、規則違反である。それをスズキワークスに提訴され、失格となった。最終戦でエディは転倒リタイヤしているので、スズキワークスからの提訴がなくてもノーポイントだったことに変わりが無いが、「チームが失格」となったのが大きかったのである。
1980年最終戦に関する詳しい記述は、RACERSvol.38の46ページに記述されている。
また、1980年は鈴鹿8耐に出場し、グレッグ・ハンスフォードと組んでカワサキのマシンを走らせ、2位に入っている。初来日したエディは日本食に慣れることができなかったが、唯一何とか食べることができたのが焼きそばだった。そのため、チームが用意した焼きそばばかり食べていたという。
1980年にAMAスーパーバイク選手権で走らせたマシンはKZ1000MKⅡ(けーぜっとせん まーくつー)というが、このマシンに対してエディは「めちゃくちゃ重くて、乗れた代物ではなかった」と酷評している。
そのためUSカワサキはKZ1000Jという新規設計のマシンを用意した。さらには1981年10月にロブ・マジー(Rob Muzzy)という、カイゼル髭を生やした名物技術者を採用した。この判断がズバリと当たり、エディは好成績を収め続けることになる。
1981年のAMAスーパーバイク選手権はホンダ所属のフレディ・スペンサーとの戦いになり、エディがチャンピオン争いを制した。また、AMA 250GPにおいても2連覇を達成した。
ちなみに1981年、3戦だけMotoGP250ccクラスに参加している。カワサキのKR250で出場し、転倒1回にマシン破損で2度リタイヤ、と芳しくなかったが、貴重な経験を積んでいる。
1982年になるとフレディ・スペンサーはMotoGP最大排気量クラスに移っていったので、AMAスーパーバイク選手権におけるホンダのエースはマイク・ボールドウィンになった。マイクは1979年までカワサキワークスにいたので、カワサキとしては負けられない相手である。
1982年のカワサキは、前年のマシンを改良したKZ1000S1を投入している。
1982年のAMAスーパーバイク選手権で、エディはマイクを下して、2連覇を達成している。
1982年には2歳7ヶ月年下のウェイン・レイニーがカワサキワークスに入団しており、1年間チームメイトとして接することになった。
1983年にMotoGP最大排気量クラスにデビュー。初年度はイマイチの成績に終わる
1982年暮れに、実質的ヤマハワークスのチーム・アゴスティーニからグレーム・クロスビーというライダーが離脱することになった。
ケニー・ロバーツ・シニアだけのライダー1人体制では、チームとしての競争力が大きく落ちてしまう。ライダー2人体制だとお互いにセッティング情報を提供し合うことができてセッティングを向上させやすく有利である。そのため、ケニーのチームメイトを補充することになった。
ジャコモ・アゴスティーニ監督はバリー・シーン(英国人。1976~1977年最大排気量クラスチャンピオン)を獲得しようとしたが、ケニーが「エディ・ローソンというライダーがいい。エディとヤマハが契約しないのなら、自分もヤマハと契約しない」と強力に勧めてきて、そのため最終的にジャコモ・アゴスティーニ監督はエディ・ローソンを2年契約で採用することにした。ケニーとエディ・ローソンは同じカリフォルニア州出身で、顔見知りだったのである。また、ケニーとエディはマネジメント会社(チームとの契約交渉を代行する企業)も同じだった。
ケニーに憧れていて「MotoGP最大排気量クラスを走ってみたい」と思っていたエディにとって、ケニーが自分をチーム・アゴスティーニに引き入れてくれたことは渡りに船といったところだった。
喜び勇んで1983年の最大排気量クラスに参戦したが、この年は総じて苦戦してしまった。1982年までのマインは4ストロークエンジンのマシンで、1983年からのマシンは2ストロークエンジンのマシンである。4ストと2ストの違いは大きかった。
また、1982年までは市販車で、1983年からはプロトタイプ(レース専用車両)である。この違いもまた大きかった。市販車とプロトタイプは設計思想からして大きく異なり、乗り味が全く異なる。この記事で、青木宣篤さんがそのように解説している。
エディの成績は以下の通り。
シーズンの最後にやっと2スト500ccプロトタイプマシンを自分のものにできただろうか、といった感じで、この1年は学習の1年となった。「当時は結果が出ないとすぐにライダーをチームから放り出す雰囲気だった。2年契約にしてもらって本当に助かった」とこの本で語っている。
1984年にチャンピオン獲得
1984年にエディは26歳になった。この年からケニー・ロバーツ・シニアはいなくなったので、チームメイトにはヴァージニオ・フェラーリというライダーが加入した。1983年のエディとヴァージニオは2人ともあまり速くないライダーだったので、チーム・アゴスティーニはいったいどうなることかと思われた。
ところが大方の予想を覆し、エディ・ローソンは開幕戦から一気に覚醒し、見事にチャンピオンを獲得したのである。
このときのポイントシステムは次のようになっていて、今と比べるとかなり1ポイントの重みが大きかった。
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順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
第6戦までの成績はこうなっている。
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1 2 3 4 5 6 合計ポイント 差 エディ・ローソン 1 2 1 1 2 1 81 フレディ・スペンサー 欠 1 欠 2 1 1 57 -24 ランディ・マモラ 欠 欠 2 3 3 3 42 -39
エディが一切怪我もせずに皆勤したのに対し、フレディとランディはどちらも2戦欠場してしまっている。前半6戦のリードが非常に大きかったので、エディは後半6戦を無理せずにまとめ上げることができ、第11戦を終えた時点でチャンピオンに輝いた。
1985年はフレディ・スペンサーに競り負ける
1985年はタイトル防衛を賭けて臨んだが、3歳9ヶ月年下のフレディ・スペンサーに競り負けてしまった。
シーズン通しての成績はこうなっている。このときのポイントシステムは1984年と同じ。
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1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 合計ポイント 差 フレディ 2 1 2 1 1 2 re 1 1 1 1 欠 141 エディ 1 2 4 2 2 1 re 2 4 2 2 1 133 -8
第6戦ユーゴスラビアGPを終えた時点でフレディ81ポイント、エディ74ポイントで、その差は7ポイント。まだ接戦だった。
しかし第7戦オランダGPでエディは千載一遇のチャンスを逃してしまう。このときフレディがクリスチャン・サロンとの転倒に巻き込まれて転倒しており、そのことをエディはピットサインで知っていた。であるにもかかわらず、首位走行のランディ・マモラを果敢に追ってしまい、転倒してしまった。2位で完走していれば、ランキングが逆転していたのに、もったいないことをしてしまった。
そして第8戦からフレディが4連勝を決め、エディは押し切られてしまった。
この年のフレディは23歳から24歳になる年で、体力があった。このため250ccクラスにも出場したのだが、なんとそちらでもチャンピオンを獲得している。最大排気量クラスと他のどれかのクラスを掛け持ちして両方ともタイトルを獲得したのは、1985年のフレディ・スペンサーが最後となっている。
ちなみにフレディとはアメリカ時代からしばしば対戦していたが、彼について「挨拶はするが、会話はしなかった。それどころか、彼をパドックで見かけること自体が少なかった。フレディと親しい人というのを見たことがない。フレディは変わった人だよ」とこの本の41ページで評している。
1986年は終始圧倒。1987年はエンジンパワーが劣り、終始劣勢。1988年は終始圧倒
1986年の開幕戦のスペインGPでポールポジションを獲得したフレディ・スペンサー。そのまま決勝レースでも首位を独走していたが、14周目に右手首の関節を痛めてしまい、ピットインしてリタイヤした。フレディはその右手首の故障が長引いて成績も低迷し、MotoGPで2度と勝てなかった。
「骨を折った程度ならすぐ治るが、関節とか腱を痛めると長引いてしまう」とヴァレンティーノ・ロッシは2010年に語っているが、まさしくその通りのことがフレディに発生してしまったのである。
フレディが故障で選手生命を大きく縮めたのに対し、エディは現役を振り返っても大きな怪我をほとんどしていない。無事これ名馬を体現していて、ステディ・エディのあだ名通りの競走生活を送ることになった。
1986年のエディはまさに絶好調で、全12戦のうち11戦で表彰台を確保し、うち7勝を挙げた。2位ワイン・ガードナーとポイント差は22で、ポイントシステムは1984年の時と同じ「優勝15ポイント~」であるから、まさしく完勝でチャンピオン獲得となった。
1987年は全く逆となり、ヤマハのマシンのエンジンパワーがホンダのマシンよりも明らかに劣ってしまった。ホンダのマシンを操るワイン・ガードナーが全15戦で(この年から一気に3戦増えた)7勝を稼ぎ、きっちりポイント差を付けてチャンピオンを獲得した。
1988年の前半戦はワイン・ガードナーがすこし調子を崩した。やはり、初めてチャンピオンを獲得した次の年は、モチベーションもすこし減退しやすく、成績が落ちやすいのである。その隙を突いて、エディは前半戦を好調に過ごした。
1988年からのポイントシステムは次の通り。
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順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 20 17 15 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
全15戦中、第7戦までの成績はこうなっている。
この時点で40ポイントの大差が付いた。
第8戦以降、ワイン・ガードナーが覚醒して3連勝を遂げるなどするが、エディは堅実に走りきり、またしてもきっちり差を付けて、3度目の最大排気量クラスチャンピオンに輝いた。
ジャコモ・アゴスティーニ監督とお金で揉めて、ヤマハ陣営を飛び出す
5年で3回の最大排気量クラスチャンピオンを獲得するという、完璧な成績を収めたエディ。
ところがエディは、チームからの報酬が上がらずに不満を抱いていた。ジャコモ・アゴスティーニ監督からは「スポンサーのマルボロに、スポンサー料を減らすと言われた。だから君に対しても年棒を減らす」と言われていた。チャンピオンを獲ったのに減俸とはおかしい、と不審に思ったエディは、スイスにあるマルボロの本部に行って担当者に尋ねたところ「君がチャンピオンを獲ったから、スポンサー料は前年の倍額にしたんですよ」と言うではないか。ジャコモ・アゴスティーニ監督に騙されていたことを知ったエディはカンカンになって怒り(無理もない)、実質的ヤマハワークスのチーム・アゴスティーニから離れてライバルメーカーのホンダに移ることにした。
この面白い話は、この本の43ページや、この本
の92ページに書いてある。
ジャコモ・アゴスティーニ監督は、1988年のルーキーイヤーで目覚ましい活躍をしたケヴィン・シュワンツ(スズキ所属)を引き抜きたくなったらしい。そのためエディに対して何とか誤魔化して給料を抑え、余ったお金でケヴィン引き抜きをしようと思ったようである。ところがケヴィン引き抜きも成功せず、エディにも逃げられてしまった。二兎を追う者は一兎をも得ず、を体現してしまった。
1989年以降のチーム・アゴスティーニは良いライダーを確保できず、成績が急落した。そして1990年以降はヤマハ陣営最高待遇チームの地位をチーム・ロバーツに明け渡すことになった。エディ・ローソンとともに黄金時代を築いたチーム・アゴスティーニは、エディが去ると同時に凋落してしまったのである。
カネモトホンダで移籍して即チャンピオンになる
1989年はアーヴ・カネモトという日系人の名物監督率いるカネモト・ホンダに入団した。先述の通りエディはカンカンになって怒っており、「給料は少なくても良いから、そっちで走らせてくれ!」と言いつつ交渉し、わりと安めの給料の1年契約を結んだ。
この当時のホンダワークスにはワイン・ガードナーと、将来有望な新人のミック・ドゥーハンがいた。そのため、エディはホンダワークス入りできず、準ワークスといった感じのチームであるカネモト・ホンダに入った。
ホンダ陣営のエースは、1986年から1988年まで3年連続でチャンピオン争いをしたワイン・ガードナーが務めることになっていた。エディは開発に関して発言力が小さめになると予想されており、1989年開幕前の評価は高くなかった。しかもエディは開幕前の鈴鹿テストで右手首にひびが入っており、アクセルやブレーキに難がある状態で開幕を迎えることになって、マスコミの評価はさらに下がった。
ところが、第3戦アメリカGPでワイン・ガードナーが転倒してしまい、右足骨折の重傷を負って、チャンピオン争いから早々に脱落してしまう。そして、ワインのチームメイトのミック・ドゥーハンは最大排気量クラス1年目でまだマシンの理解力が足りていなかった。このため、エディのもとに開発の主導権が転がり込んできた。
ホンダの開発力は非常に高く、エディを驚嘆させた。「ギアボックスに文句を言ったら、本田技術研究所(ホンダグループの研究開発部門を分社化させた企業。英語表記はHonda R&D)の四輪部門が完璧なものを即座に作ってくれた」「シーズン中に数多くの種類のシャーシを供給され、シャーシテストを繰り返した」などとこの本
の43ページで語っている。この記事
では、シーズン中に試したシャーシの種類は15種類にも上ったと記されている。
そうしたホンダの技術者の頑張りに後押しされ、エディの成績はシーズン中盤から上向いていった。この年に先行していたのはウェイン・レイニーだったが、じわじわと差を詰めていったのである。
全15戦中、第9戦までの成績はこうなっている。ポイント制度は1988年と同じ。
第10戦から第15戦までの成績は次のようになっている。(ベルギーGPがハーフポイントレース)
ホンダの開発力の追い風を受け、エディ・ローソンが見事に逆転チャンピオンを獲得した。エディにとっては「シーズン最初からポイントのリードを築き、シーズン終盤は無理せずまとめる」というシーズンが1984年と1986年と1988年の3回で繰り返されたが、この1989年はそれらとはひと味違うシーズンとなった。
最大排気量クラスで、メーカーを移籍しつつ2年連続チャンピオン獲得を成し遂げたのは、史上初の快挙だった。
カネモト・ホンダと年棒交渉で揉めてヤマハ陣営に戻るが大怪我をする。鈴鹿8耐優勝
1989年のシーズンを高い集中力で乗り切り、ホンダに対して多大なる貢献をしたエディ。わくわくしながら契約交渉してみると、ホンダは「レース予算を減らすので、年棒は上げられない」と言ってきた。
カネモト・ホンダとの1989年の年棒は安いものだったので、エディはガッカリした。2年連続で最大排気量クラスチャンピオンを獲得したのに、2年連続で安い年棒を提示される、こんなことがあっていいのだろうか。
そうしていると、チーム・ロバーツ(チーム・アゴスティーニに替わって実質的ヤマハワークスになったチーム)のスポンサーであるマルボロが声を掛けてきた。「カネモト・ホンダの2倍のお給料を出します」というものだった。そこで、エディはホンダを離れて、再びヤマハ陣営に戻り、チーム・ロバーツに所属することになったのである。
このホンダ離脱についてエディは「ホンダのエンジニアを心から尊敬していた。ホンダとの仕事を続けたかった。僕のレース人生の中で唯一の後悔とも言える」とこの本の43ページで語っている。
チーム・ロバーツでのチームメイトは、前年にチャンピオン争いしたウェイン・レイニーだった。となると、1990年シーズンはエディとウェインのチームメイト同士でのチャンピオン争いが見られるだろう・・・という予想が広がった。
ところが、エディは開幕戦日本GP決勝でミック・ドゥーハンに突っ込まれて左のかかとを骨折し、第2戦のアメリカGP予選でブレーキの故障で転倒して右のかかとを骨折するという、最低な出だしとなった。その時点でチャンピオン争いから脱落し、長期休養となった。その休養の間にウェイン・レイニーが勝利を重ねたので、エディは引退を考えるようになる。
7月になるとかかとが治りかかってきたので、エディは鈴鹿8耐に出場することにした。現役引退の前に、もう1つ勲章を重ねておこうと思った。鈴鹿8耐に出るのは1980年以来10年振りであった。
組んだ相手は平忠彦だった。エディのかかとは治りかかっていて十分にバイクを操縦できたが、走ることは痛くて難しかった。ゆえに、スタートを務めることが難しい(鈴鹿8耐のスタートは、走ってマシンに駆け寄らねばならない)そのため、スタートを平にまかせて、エディは2番手を走ることにした。
この当時の鈴鹿8耐は2人組だったので、平が1時間走り、エディが1時間走り、平が1時間走り・・・という順で交互に乗り、最後をエディが乗ってゴールラインを駆け抜けることになる。2番手ライダーは、最終ライダーを務めることになる。
鈴鹿8耐の最終1時間は午後6時~午後7時になり、辺りが暗くなって夜間走行になる。非常に見えづらく、さしものベテランライダーも恐怖を感じる。鈴鹿8耐を何度も経験したライダーですら「夜間走行だけは嫌だ」と拒絶反応を示す人が多いという。
2番手ライダーになったエディは、夜間走行をすることになった。しかしエディは上手く夜間走行をこなし、見事に鈴鹿8耐を優勝した。
カジバに移籍。懸命に開発を続ける
1990年の鈴鹿8耐を勝ち、なにもかもやり遂げたという満足感を得たエディだったが、そこにカジバというイタリアのメーカーからもの凄い金額の契約金を提示された。
一時は引退を決意していたエディだったが、期待されていることを感じてやる気になり、「1991年と1992年の2年やったら引退する。その間に、必ずカジバを優勝させる」と宣言して移籍することになった。
1991年のエディは「カジバのマシンはヤマハのマシンによく似ている」などと感想を喋りながら、懸命にマシン開発の仕事をしていた。
そうしているとなんと、1992年からチーム・アゴスティーニが実質的カジバワークスになると発表された。1992年のエディは、忌まわしいことにジャコモ・アゴスティーニと再会する羽目になってしまった。
1991~1992年のカジバ時代の成績はというと、1991年に3位を2回獲得し、1992年ハンガリーGPでハーフウェットの難しいコンディションでタイヤギャンブルに成功して優勝している。他のライダーがレインタイヤを履いたのに対し、エディはカットスリックを履いて、乾いていく路面を誰よりも速く走った。
エディは1992年をもってMotoGPを引退している。
1993年と1994年の鈴鹿8耐に出場
MotoGPを引退したが、1993年のエディは35歳で、バイクから離れると体がうずく年頃だった。
このため、1993年はカネモト・ホンダから鈴鹿8耐に出場している。組んだ相手は、日テレG+の解説でおなじみの辻本聡だった。このときは惜しくも2位に終わった。
1993年のカネモト・ホンダはam/pmというコンビニがスポンサーだった。そのため監督が「エディ・ローソンのことは、ローソンと呼ばず、エディと呼んで欲しい」と発言した・・・と、エディ・ローソンの日本語版Wikipediaに記述されている。
1994年のエディはヤマハ系チームから声がかかり、永井康友とペアを組んで参戦した。この年は4位に終わっている。
また、アメリカ版鈴鹿8耐とも言えるデイトナ200マイルにも、1993年と1994年の2回出場している。1993年に優勝し、1994年に3位となっている。
余談ながら、デイトナ200マイルやイモラ200マイルは、最大排気量クラスの年間レースが12回と少なかった1986年以前においてシーズン前の練習走行として最適だった。1985年のイモラ200マイルや、1986年のデイトナ200マイルに、エディは優勝している。
ライディングスタイル
セッティングに細かい注文を付ける
ワイン・ガードナーやケヴィン・シュワンツあたりとは違って、マシンセッティングには細かく注文を付けるタイプだった。
エディはセッティングを細かく決めたがるタイプなので、セッティングを煮詰める開発ライダーの存在がいてくれると大助かりだった。ヤマハ陣営にはそういう優秀な開発ライダーがおり、平忠彦と河崎裕之の2人が揃っていた。とくに河崎裕之とはセッティングの好みが似通っており、大いに信頼していた。
河崎裕之はみんなに「シャケさん」と呼ばれているのだが、エディもそのように呼んでいる。
余談ながら、中野真矢が1997年に所属したチームの監督がこの河崎裕之であり、「シャケさんにはライディングの細かいことやプロライダーとしての立ち居振る舞いなど教わりました」とライディングスポーツ2018年5月号で語っている。
せっかくなので「シャケさん」の由来を紹介したい。河崎裕之の高校時代の友人がモトクロスで転倒して前歯を失ってしまい、「カワサキ」と喋れなくなり、「カワシャケ」と喋るようになった。それから「シャケ」「シャケさん」と呼ばれるようになっていったという。また、極めて親しい技術者からは「シャケやん」と呼ばれる(RACERS vol.7 89ページ、RACERS外伝vol.1 68ページ
)
ブレーキはそんなにハードではなく、立ち上がりを重視する
ワイン・ガードナーやケヴィン・シュワンツは凄まじいハードブレーキングが身上だったが、エディは彼らに比べてブレーキは控えめだった。
ライダーを「突っ込み重視派」と「立ち上がり重視派」で分けることが多いが、エディは後者であり、立ち上がりで差を付けるタイプだった。
高速コーナーでタイムを稼ぐことを重視しており、そのためリアタイヤのスライドを少なめにして、マシンを安定させる事を好んでいた。(RACERS外伝vol.1 44ページ)
フロントブレーキは2本指と1本指を使い分ける
フロントブレーキは2本指かまたは1本指でかける。ハードブレーキングの箇所は2本指(人差し指と中指)で、あまりハードなブレーキングをしないコーナーは1本指(人差し指)。
1本指ブレーキングの長所は、中指・薬指・小指の指3本をハンドルに巻き付けることができて、スロットルを丁寧に扱うことができる点である、とRACERS外伝vol.1の40ページでエディ自身が述べている。
フロントブレーキは遊びを付けず、握ったらすぐに効く、というのが好みだった。
リアブレーキを全く使わない
MotoGPのマシンを操縦するに当たってリアブレーキを一切使わなかったことで有名である。RACERS vol.7の46ページや、RACERS外伝vol.1
の42ページで、エディ本人がキッパリそう語っている。
ただし、トレーニングでモトクロス・バイクを走らせるときは、リアブレーキを使いまくる。
トレーニングをガッチリ行い、体力に自信がある
現役時代は相当にトレーニングを重ねており、体力に自信があった。気温の高いレースでそうしたトレーニングの効果が出て、自分だけファステストラップを連発できていた、と語っている(RACERS vol.7 41ページ)
その他
エディ自身は「自分のライディングスタイルは格好悪い」「自分のライディングスタイルを見るのはイヤだ」と語っている。なぜか、コンプレックスを持っている(片山敬済「疾走する戦士たち」)
ローソンレプリカ
1980年から1982年までのエディ・ローソンはUSカワサキに雇われてカワサキワークスの一員になり、4スト1000ccの市販車を走らせて、AMAスーパーバイク選手権で好成績を残していた。
1980年のマシンはKZ1000MKⅡ(けーぜっとせん まーくつー)で、このマシンはイマイチで、エディの成績もランキング2位だった。
1981年のマシンは新規設計されたKZ1000Jで、1982年のマシンはKZ1000Jを改良したKZ1000S1だった。これらのマシンは非常に出来が良く、エディも2連覇を達成した。
それに合わせて、カワサキは「ローソンレプリカ」と称し、ローソンが乗っていたマシンとよく似たマシンを売り出すようになった。その型式名は北米においてKZ1000Rであり、日本においてZ1000Rであった。愛称は「ローレプ」だった。
カワサキがローソンレプリカを製造販売したのは1982年と1983年の2年だけだったが、製品自体の出来も良く、エディ・ローソンがMotoGP最大排気量クラスで活躍していたこともあって人気が出た。
このため1980年代中盤以降の日本において、中古バイク雑誌には盛んに「ローソンレプリカ」の文字が躍り、人々の口からは「カワサキのローソンレプリカってかっこいい」という言葉が出るようになった。
1984年からエディ・ローソンはヤマハの赤いマシンで快進撃を続けていたのだが、日本では「エディ・ローソン=緑色のカワサキ」というイメージが定着していった。ローソンといえば誰もが緑色のバイクを連想するようになってしまった。ヤマハにとっては、所属ライダーをカワサキに奪われたような気がすることだろう。
家族
エディをモータースポーツの世界へ誘ったのは、母方の祖父と父である。
母方の祖父はチャック・ロング(Chuck Long)という。ドイツ系。バイク大好きで、いつもバイクに乗っていた。プロのレーサーではなかったが趣味としてダートトラックのレースに出ていた。また、バイクレースの観戦も大好きで、色んなレースを見に行った。チャックが初めて孫のエディをレース場に連れて行ったのは、エディが6歳の頃である。エディは、サドルバックでロジャー・デコスタ(モトクロスライダー。ベルギー人)
を見たり、オンタリオ・モーター・スピードウェイ
でイヴォン・デュアメル
(ゼッケン17番で有名だったカワサキ所属ライダー。エルヴェ・ポンシャラルの記事にも出てくる)を見たりした。
父親はレイモンド・ローソン(Raymond Lawson)という。アメリカ先住民族系。水道局勤務で、ダイバーをしていた。ダム湖などに酸素ボンベを背負って潜り、パイプの修理をしていた。もともとレイモンドは四輪のドラッグレース(直線コース上で停止状態から発進し、ゴールまでの時間を競うモータースポーツ)を楽しんでいたが、嫁の父親であるチャック・ロングの影響でレイモンドもバイク好きになった。
チャックとレイモンドは気が合って仲が良く、いつもどこかへ行って2人して走り回っていた。自宅近くのモハーヴェ砂漠へ行ったり、あるいはサーキットへ行ってレースをしていた。
母親はパトリシア・ローソン(Patricia Lawson)という。
妹はシェリー・ローソン(Shelley Lawson)といい、教師になった。
長年独身だったが、2017年に結婚した。お相手はジュリー(Julie)さん。
(※この項の資料・・・レーサーズ外伝vol.1の2ページ、9~13ページ、94ページ、この記事
)
引退後の生活
アメリカ合衆国カリフォルニア州とアリゾナ州の境目にあるハヴァス湖近くのレイクハヴァス・シティ
に住んでいる。ここには高額所得者向けの高級住宅が並んでいるのだが、そのなかにエディの家がある。
アメリカらしくデカい家で、プールもあるし、小さなゴルフコースもある。家の中はだだっ広く、ベッドルームもバスルームも広い。
エディは酒をあまり飲まないが、来客のため、家の中にバー・カウンターを作っていて、お酒がいっぱい用意されている。
地下にはトレーニングルームがあり、エディも使っている。デカいスクリーンがあり、そこに何か動画を映しながらトレーニングをする。
地下には駐車場があり、格好いい車が留まっており、さらにはパワーボート(スポーツ用のボート)も格納されている。
ハヴァス湖周辺に別荘を持ち始めたのは1988年頃。1994年限りでバイクのレースを辞めて、1995年と1996年は四輪のレースをやっていたがそれも1996年限りで辞めた。レースを辞めて、本格的に住むようになったのが1998年頃。
ハヴァス湖はコロラド川をダムでせき止めてできたダム湖である。そのハヴァス湖にボートを浮かべてそれに乗るのが趣味である。たまに、こんな感じに来客を乗せる。
レイクハヴァス・シティの気候はこうなっており、夏は45度程度まで上がるものの乾燥しているため苦痛ではない。年間通して雨が全く降らず、降水量は107mmで、東京の15分の1である。一番寒い月の平均最高気温は17度で、沖縄県並み。
ケニー・ロバーツ・シニアも、2017年頃にレイクハヴァス・シティに引っ越してきた。それも、エディの家から3分ぐらいのところで、完全なるご近所さんである。
ケニーとエディの2人でバイクに乗ってラスベガスまで遊びに行くこともあるという。ラスベガスというと、レイクハヴァス・シティから北北西に194kmも離れている。
その他の雑記
ステディ・エディ(Steady Eddie)というニックネームについては「韻を踏んでいるから、皆がそう呼んだんだろう」と素っ気なく語っている。気に入っているわけでもなければ、嫌がっているわけでもない・・・といった感じ。
現役時代はアメリカ合衆国カリフォルニア州に拠点を置いていた。レースのたび飛行機に乗り、サーキットへ向かうので、1年で50回程度は海を越えていただろうと語っている。長時間の移動に関して苦痛を感じていたという。
日本食好きで、カレーや寿司が好き。特にカレーうどんを食べる。米も好きで、朝食はご飯派であり、卵掛けご飯(ご飯に生卵をかけて醤油を垂らす)が好みだという。
ジャコモ・アゴスティーニ監督率いるチーム・アゴスティーニには妙にケチなところがあり、「ライダーはいくらでもミネラルウォーターを飲んでいいがメカニックは1日1リットルまで」だとか「ライダーに出す肉は高級なもので、メカニックに出す肉は安いもの」という決まりがあった。エディはその決まりについて不満を感じており、ジャコモにしょっちゅう抗議していた。また、ジャコモに内緒でスタッフへ賞金を配ったり、スタッフを食事に誘ったりしていた。(レーサーズ外伝vol.1の37ページ、48ページ)
現役時代はゼッケン21番を好んでいた。1980~1982年のカワサキワークス時代にゼッケン21番の写真が多い。(画像1、画像2
、画像3
)
子供の頃から今に至るまで、野球やバスケットボールなどのメジャースポーツにまるで関心が無い。ウェイン・レイニーは夫婦で野球観戦に行ったりしているが、それとは対照的。
2010年代の現在も楽しんでいるスポーツは、モトクロス、カート、4輪で砂漠をかっ飛ばす、ジェットスキー、ボートなど。見事にモータースポーツばかり。
テレビもモータースポーツの番組と、あとはコメディ番組を見る程度。
音楽は70~80年代のソフトロックやカントリー系を聞き流す程度。ハードロックやラップなどは聴かない。
現在も食事に気を遣い、運動もしっかり行っており、すらりとした体型を維持している。
ヤマハワークス特有の小芝居ビデオに付き合っている。画像1、画像2
関連商品
エディの1983~1992年を振り返る。39ページから47ページまでのエディに対するインタビューは非常に読み応えがある。 | |
レーサーズ外伝vol.1 特集:YZRとエディ・ローソン![]() |
1958~1979年の、カワサキ入りまでの歴史がエディの口から語られる。 エディがライディングテクニックを語るコーナーもある。 ケニー・ロバーツ・シニアやエディの時代に活躍したヤマハの重鎮技術者たちが3人ほど集まって喋りたい放題喋っており、極めて面白い。 |
1980~1982年のカワサキ時代を振り返っている。また、その当時のカワサキのマシンや、名物技術者ロブ・マジー![]() |
関連動画
関連リンク
関連項目
- ウェイン・レイニー(2歳7ヶ月年下の後輩。3回ほどチームメイトになった)
- ケニー・ロバーツ・シニア(6年4ヶ月年上の先輩。エディにとって憧れの存在で、MotoGP移籍の恩人)
- ジャコモ・アゴスティーニ(因縁の相手。上司である期間が長かった)
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