ウェイン・レイニー(Wayne Rainey)とは、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元・MotoGPライダーである。
1960年10月23日生まれ。
1990年から1992年にかけて、MotoGP最大排気量クラスで3連覇を達成した。
現在は、モト・アメリカという市販車レースの経営に参加している。
レーサーとしての経歴
カリフォルニア州出身 ダートトラックで腕を磨く
1960年10月23日に、カリフォルニア州最大の都市ロサンゼルスのダウニーで生まれた。
カリフォルニア州は温暖で雨も少なく、バイクを走らせるには最適の土地である。カリフォルニア州出身のMotoGPライダーは多く、ケニー・ロバーツ・シニアがモデスト出身、ランディ・マモラ(最大排気量クラスでランキング2位を4回)がサンノゼ出身、エディ・ローソン(最大排気量クラスでチャンピオン4回)がアップランド出身である。
ウェインの父親はサンディ(Sandy)という。この人はレース好きの人で、ゴーカートやオートバイのレーサーだった。サンディは6歳のウェインに50ccのホンダ製ミニバイクを与えた。そのバイクはどうやら「ホンダ モンキーZ50」だったらしく、ウェインのTwitterに画像が出てくる。(画像1、画像2)
さらには、ヤマハの80ccマシンを与えられている。
レースを始めたのは9歳で、カリフォルニア州でダートトラック(平坦な土の路面を走る競技)のレースを重ねながら腕を磨いていった。
1974年(14歳)~1975年(15歳)の頃の画像もある。(画像1、画像2、画像3、画像4)
ウェインにとっての地元というと、アスコット・パークである。この画像には、アスコット・パークのレースで優勝してインタビューを受けるウェインの姿が映っている。アスコット・パークはロサンゼルス郊外のガーデナ近くにあり、大レースがしばしば開催されていた。1990年11月に閉鎖してしまったが、画像検索や動画検索でその姿を知ることができる。ウェインは、アスコット・パークにやってくるデヴィッド・アルダナというオートバイ選手のファンだった。
プロ選手になり、ダートトラックからロードレースに転向
1979年(18~19歳の年)に、AMAグランドナショナル選手権に初めて出場した。この選手権はダートトラックの部門が4つ、それにロードレース(舗装した路面を走る競技)が1部門付属している程度で、ダートトラックが主体の選手権だった。この年はまだ経験が不足していた。
1979年に乗っていたバイクはヤマハのマシンで、ゼッケンは「8E」だった。その頃のマシンは今も残っている。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5)
1980年には、AMAグランドナショナル選手権での成績が良くなった。この年から、カワサキの支援を受けてロードレース(舗装した路面を走る競技)を行うようになった。
1981年には、AMAグランドナショナル選手権でランキング15位にまで入るようになった。ロードレースの方はというと、カワサキの支援を受けてニューハンプシャー州のルードンにあるニューハンプシャー・モータースピードウェイまではるばる旅行して、そこでカワサキのKR250というマシンに乗り、1戦だけレースをした。そのレースでいい走りをして優勝したので、翌年にはカワサキとワークス契約を結ぶことができた。
1981年以前のウェインは、他のアメリカ人オートバイレーサーと同じように、オフシーズンにひたすらアルバイトをして貯金していた。ウェインがしていたアルバイトは、大工だったという。また、1981年以前は、契約金だとか賞金というものをもらったことがなかったらしい。(この本の55ページが出典)
カワサキのマシンでAMAスーパーバイク選手権のチャンピオンになる
1982年になるとカワサキとワークス契約して、「K」の字を元にしたカワサキのロゴが胸に入ったレーシングスーツを着るようになった(画像1、画像2、画像3)。
カワサキが参戦費用をすべて用意してくれるようになり、ウェインはシーズンオフのアルバイトをしなくて済むようになった。
1982年は、AMAスーパーバイク選手権(ロードレースの選手権。4ストローク1000ccの市販車を使う)に、カワサキワークスの一員として出場した。このときのチームメイトは、エディ・ローソンである。ウェインは最初の年から好走を繰り返しており、6月19日に初勝利を挙げている。最終的なランキングも3位だった。
ちなみにケニー・ロバーツ・シニアと出会ったのも1982年である。この年からケニー・ランチ(ケニーの作ったトレーニングコース)に出入りして、ケニーとともにトレーニングするようになった。
1983年になるとエディ・ローソンはMotoGP最大排気量クラスのチーム・アゴスティーニ(実質的なヤマハワークス)に入団したので、ウェインがカワサキワークスのエースになった。ウェインは引き続きAMAスーパーバイク選手権に出場した。この年から4スト750ccのマシンで争われることになったが、排気量の変化など全くお構いなしに好走を重ね、チャンピオンを獲得している。
ところがなんと1983年の暮れに、カワサキがAMAスーパーバイク選手権から撤退することを発表した。北米大陸でのバイク売り上げが減少したからである。ウェインも解雇されてしまった。
MotoGP250ccでの1年を経て、ホンダ陣営でAMAスーパーバイク選手権を勝つ
路頭に迷っていたウェインに、ケニー・ロバーツ・シニアが声を掛けた。1984年は結成されたばかりのチーム・ロバーツに入団し、MotoGP250ccクラスに参戦した。初体験のサーキットばかりでありながら、表彰台1回を含むシングルフィニッシュ4回を獲得し、ランキング8位になっている。
1985年はアメリカ合衆国に戻り、ホンダ系のマクリーン・レーシング(MacLean Racing)に所属して、「AMAフォーミュラ1」と「AMA250グランプリ」という2つの選手権に出場した。このチームは、ボブ・マクリーンというレース好きの富豪が作ったチームである。負傷と病気を抱えたシーズンだったが、AMAフォーミュラ1ではランキング8位、AMA250グランプリではランキング3位になっている。
1986年はホンダのワークスライダーになった。AMAスーパーバイク選手権に出場して9戦6勝(5連勝を含む)を挙げながら、チャンピオンはチームメイトのフレッド・メルケルに奪われてしまった。最終戦にウェインは転倒してしまい、それが響いた。ちなみにフレッドは、1988年と1989年のスーパーバイク世界選手権でチャンピオンになった人物である。
1987年もホンダワークスに籍を置き、AMAスーパーバイク選手権で通算2度目のチャンピオンに輝いた。このとき、ケヴィン・シュワンツというスズキ所属のライダーと激しい争いを演じている。これが、シュワンツとのライバル関係の始まりとなった。
ここまでの資料・・・記事1、記事2、RACERS vol.23の55~56ページ
MotoGP最大排気量クラスで初年度から活躍
1988年(28歳になる年)になって、ついにMotoGP最大排気量クラスに転向することになった。所属先はチーム・ロバーツで、ヤマハ陣営の中で2番手待遇を受けるチームである。
初年度から、15戦中14戦でシングルフィニッシュし、1勝を挙げ、2位を2回、3位を4回獲得するという、申し分の無い成績を残した。ランキングも堂々の3位である。
ちなみに、ウェインのライバルであるケヴィン・シュワンツも同時にMotoGP最大排気量クラスへ転向し、スズキワークスのマシンに乗って2勝を挙げている。そのうち1勝は開幕戦の鈴鹿で挙げており、2人揃って鮮烈なデビューとなった。
ウェインとケヴィンが1987年まで乗ってきた4ストローク750ccの市販車と、1988年から乗ることになった2ストローク500ccのプロトタイプ(レース専用車両)は、乗り心地が全く違う。普通なら苦戦するのだが、この2人は卓越した操縦技術を持っており、壁をあっさり乗り越えてしまった。
1988年には鈴鹿8耐にも出場した。MotoGP最大排気量クラスに参戦するチーム・ロバーツが、そのチームごと、鈴鹿8耐に参戦したのである。この年のチーム・ロバーツはヤマハ陣営2番手待遇のチームで、部品開発の仕事も比較的に少なく、鈴鹿8耐に出る余裕があった。最大排気量クラスに参戦するウェイン・レイニーとケヴィン・マギーがペアを組み、見事に優勝を果たした。
最大排気量クラス2年目で、早くもチャンピオン争い
1989年は最大排気量クラス2年目ながら早くもチャンピオン争いをした。1988年までチーム・アゴスティーニ(実質的ヤマハワークス)に所属しながら、オーナーのジャコモ・アゴスティーニに給料支払いを渋られて怒りのあまりホンダ陣営に移籍したエディ・ローソンと激闘を繰り広げたのである。
第9戦オランダGPが終わった時点でウェインの方が優勢であり、ポイント差は以下のようだった。
この年のポイント制度は1位20点、2位17点、3位15点、4位13点、5位11点である。16点差は、なかなか大きい差だった。残っているのはあと6戦。
ところが、そこからエディ・ローソンの逆襲が始まった。この年にエディ・ローソンが所属したチーム・カネモトにホンダが恐るべき勢いで新パーツを送り込み、マシンの力をどんどん向上させてきた。第10戦から第12戦までウェイン・レイニーが3戦連続3位に終わったのに対し、エディ・ローソンが1位・1位・2位と猛烈に追い上げてくる。
第12戦イギリスGPが終わった時点のポイント差は次のようになった。(第10戦ベルギーGPは雨が降ってハーフ・ポイントのレースとなった)
3戦で9.5点も差を縮められてしまった。残るは3戦なので、このままだと逆転されてしまう。そんな風に焦りが出てしまったのか、第13戦スウェーデンGPで、なんとウェインは痛恨の転倒を喫してしまう。アンデルストープサーキットの6コーナーで、長いバックストレートの前に十分な加速をするべくアクセルを開けていったのだが、そこでリアタイヤが滑ってしまい、ハイサイド転倒をしてしまった。ウェインが転倒してしばらく気を失っている間にエディは優勝したので、これで順位が入れ替わった。
第13戦スウェーデンGPを終えて2戦残った時点でのポイント差は次の通り。
残る2戦はエディ・ローソンが集中力を発揮し、2戦連続で2位を確保した。ウェイン・レイニーは2戦連続で3位に終わり、ポイント差が17.5に広がって争いが決着した。
エディとウェインがこのような戦いをしている間、ケヴィン・シュワンツはというと、最多の6勝を挙げていてエディの4勝やウェインの3勝を上回っておきながら、転倒も多く、ランキング4位に終わっている。
ちなみに1989年も鈴鹿8耐に出場していて、前年と同じくチーム・ロバーツごとの参戦だった。ライダーはウェインとケヴィン・マギーで、前年と同じ。しかしながら、レース中盤での転倒を喫してしまい、そのままリタイヤとなった。
1990年から1992年まで3連覇
1989年のチャンピオン争いで、ウェイン・レイニーの評価は上がったが、それだけでなく所属チームの評価も上昇していた。ウェインの所属するチーム・ロバーツが1990年からヤマハ最高待遇のチームになったのである。スポンサーも、1989年までラッキーストライク(ブリティッシュアメリカンタバコ社のブランド)だったが、1990年からからマルボロ(フィリップモリス社のブランド)に代わった。
1990年のチーム・ロバーツにはなんとエディ・ローソンが加入してきた。チーム・ロバーツのスポンサーのマルボロが「エディ君、今度はジャコモ・アゴスティーニも邪魔していないし、君に高額のお給料を払ってあげるよ」と誘いかけ、めでたく、ヤマハ陣営に復帰したのである。
ヤマハのマシンを操って1984・1986・1988年と1年おきに最大排気量クラスチャンピオンを獲得してきた強豪のエディ・ローソンがチームメイトになったので、さしものウェインも苦戦するかと思われたが、この年のエディは不運がつきまとい、開幕戦日本GPでミック・ドゥーハンに突っ込まれて左のかかとを骨折し、第2戦のアメリカGPではブレーキの故障で転倒して右のかかとを骨折するという、最低の出だしだった。エディは長期間欠場してしまう。
ウェイン・レイニーは順調にレースを続け、1位や2位を手堅く勝ち取っていた。それに対してケヴィン・シュワンツも火の噴くような勢いで襲いかかり、この年はまさしくウェインとケヴィンの一騎打ちとなった。
1990年の、開幕戦から第11戦までの成績表はこの通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 合計ポイント | 差 | |
ウェイン | 1 | 1 | 2 | 1 | 2 | 2 | 1 | 2 | 1 | 3 | 2 | 200 | |
ケヴィン | 3 | re | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 7 | 1 | 1 | 173 | -27 |
「ウェイン・レイニーは手堅くて安定、ケヴィン・シュワンツは優勝か転倒かという感じで不安定」としばしば評価されるが、その評価通りの成績となっている。ウェインはまさに超エリート優等生という感じの成績なのに対し、ケヴィンの方は第2戦と第9戦の失敗が何とも惜しい。
残りの4戦でもケヴィンは差を詰めることができず、1990年はウェインが初めてチャンピオン獲得することになった。
1991年はポイント制度がすこし変更され、「全15戦の中で、最も低いポイントの2レースを計算しない」という方式になった。全15戦の中で2回転倒しても、その転倒したレースは計算されないということになる。なんだか、転倒の多いケヴィン・シュワンツを救済するかのような、そんな方式となった。
ところがこの年から成績を上げてきたのは、MotoGPに入って3年目となるミック・ドゥーハンだった。
第9戦フランスGPを終えた時点の成績は次の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 合計ポイント | 差 | |
ミック | 2 | 2 | 2 | 1 | 1 | 3 | 1 | 2 | re | 128 | |
ウェイン | 3 | 1 | 1 | 3 | 9 | 2 | 2 | 1 | 2 | 126 | -2 |
ミック・ドゥーハンがかなり実力を付けてきており、ウェインを上回ってランキング首位を走っていた。
ところが第10戦フランスGPでウェイン1着・ミック2着になりポイントランキングが逆転した。第11戦~第13戦もウェインが連続でミックに先着し、じりじりと差を広げていった。第14戦ル・マンGPを終えた時点で1戦残してウェインが2年連続のチャンピオンを決めた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 合計ポイント | 差 | |
ウェイン | 3 | 1 | 1 | 3 | 9 | 2 | 2 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1 | 1 | 3 | 欠 | 233 | |
ミック | 2 | 2 | 2 | 1 | 1 | 3 | 1 | 2 | re | 2 | 3 | 3 | 2 | 2 | 3 | 224 | -9 |
ウェイン6勝ミック3勝であるのに対し、ケヴィン・シュワンツは5勝を挙げたが、取りこぼしのレースも多く、ランキング3位に終わっている。
1992年はミック・ドゥーハンとホンダのマシンが究極の形にまで進化してしまい、開幕から怒濤の勢いで快進撃を続けた。
一方のウェイン・レイニーは1991年最終戦直前にシャーアラムサーキットで行われたテストで右足大腿骨を骨折しており、4ヶ月もサーキットを離れていた。怪我の影響で上手くトレーニングもできず、筋力が落ちていた。右足は大腿骨だけでなく膝の関節も痛めており、膝を曲げると痛みが走る。しかも開幕前のカタルーニャサーキットでのテストで転倒して左手小指を負傷した。最悪の状態でシーズンに入ることになった。
1992年の第7戦までの成績は次の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 合計ポイント | 差 | |
ミック | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 1 | 130 | |
ウェイン | re | 2 | 2 | 2 | re | 1 | re | 65 | -65 |
この年は1位20ポイント・2位15ポイント・3位12ポイントという制度だった。65ポイント差は、もう絶望的な差と言える。
第7戦ドイツGP予選でウェインは転倒して左手をさらに負傷してしまい、決勝は痛みに耐えかねてピットインしてリタイヤ。第8戦オランダGPも左手の痛みが激しく欠場することになった。「もうチャンピオン争いは決まったな・・・」と誰もが思ったとき、なんと第8戦オランダGPでミック・ドゥーハンがとんでもない大転倒を喫してしまい、右足に深刻な怪我を負ってしまう。これでミックは第9戦から第11戦まで欠場することになってしまった。
ウェインは第9戦から第11戦まで5位・1位・2位と追い上げて、ポイント差を縮める。残り2戦となった段階で、ポイント差は22点差まで縮まった。
第12戦になって、ミック・ドゥーハンがど根性を発揮してレースに出てきた。ところが無理だったのか12位で、ノーポイントになった。ウェインは優勝したので、ポイント差がついに2となった。
最終戦の第13戦は1985年以来7年ぶりに南アフリカ共和国のキャラミ・サーキットで行われた。久々の開催で、ウェイン・レイニーもミック・ドゥーハンもケヴィン・シュワンツも、ここを走ったことがない。誰もが不慣れな環境の中レースが始まり、ミック・ドゥーハンが右足の痛みに耐えながら6位でゴールして6点を加算するも、ウェイン・レイニーは3位でゴールして12点を加算し、とうとう大逆転に成功したのである。
65ポイント差、3勝以上の差をひっくり返した歴史的なシーズンとなった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 合計ポイント | 差 | |
ウェイン | re | 2 | 2 | 2 | re | 1 | re | 欠 | 5 | 1 | 2 | 1 | 3 | 140 | |
ミック | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 1 | 欠 | 欠 | 欠 | 欠 | 12 | 6 | 136 | -4 |
4連覇を目指しケヴィン・シュワンツを追撃、残り3戦で首位に立つ
1993年になってもミック・ドゥーハンの右足には痛みと後遺症が残っており、ミックはなかなか勢いを取り戻せておらず、チャンピオン争いから早々に脱落した。
ミック・ドゥーハンに代わってウェインとチャンピオン争いを繰り広げたのは、若いときからの因縁があるケヴィン・シュワンツだった。1992年までは転倒が多かったケヴィンだが、1993年になってついに転倒しなくなり、シーズン序盤から好走を続け、第9戦が終わった時点でウェインをリードしていたのである。
第9戦が終わった時点の状況は、以下の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 合計ポイント | 差 | |
ケヴィン | 1 | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 3 | 2 | 192 | |
ウェイン | 2 | 1 | 1 | 2 | 3 | 5 | 5 | 1 | 3 | 169 | -23 |
あのケヴィンが一切転倒していない。一方でウェインは第6戦と第7戦の2戦連続で5位に終わり、取りこぼしをしている。1990~1991年とは立場が逆になった。
この年から「1位25ポイント、2位20ポイント、3位16ポイント、4位13ポイント・・・」という計算方法になった。これは2019年現在まで続いている。23ポイント差というのは安心できないが、それなりに大きいリードだった。
ところが8月1日にドニントンパークで開催された第10戦イギリスGPが転機となった。
予選においてケヴィンがポールポジション、ウェインは大転倒を喫して手の指の爪が剥がれて背骨にヒビが入り脳震盪に襲われるなど散々で、8番手グリッドだった。もともとケヴィンはドニントンパークを得意としており、「ケヴィンの優勝間違いなし」という雰囲気が濃厚に漂っていた。
そんな中で決勝が始まったが、なんと1周目のEssesシケインでミック・ドゥーハンがブレーキングを失敗してアレックス・バロスに追突し、跳ね返ってきたミックに引っかかる形でケヴィンが転倒してしまったのである。ケヴィンはあまりスタートが上手なライダーではなく、ポールポジションなのに先頭を走れず順位を落として3番手を走行していた。それでこういう事故に巻き込まれてしまった。一方でウェインは好スタートを決めて、1周目から先頭を走っていた。
レースは、ウェインのチームメイトのルカ・カダローラが見事に最大排気量クラス初優勝を収め、チーム・ロバーツのケニー・ロバーツ・シニア監督から「ルカ・カダローラが勝ったのは凄く嬉しいけど、チームのことを考えると、ウェインに勝って欲しかったなあ」とコメントされる始末だった。
第10戦イギリスGPを終えて、ケヴィンとウェインのポイント差は僅か3に急接近した。
ケヴィンはマシンを放り出されて一回転してアスファルト路面に叩き付けられる転倒で、肩の筋肉と、左手の舟状骨を痛めてしまっていた。そのまま8月22日のチェコGPに臨んだが、やはりライディングするにあたって最も重要となる肩を痛めた影響は大きく、5位フィニッシュが精一杯だった。その一方でウェインは2位に7秒差を付けて快勝し、これでとうとうランキングが入れ替わった。
第11戦チェコGPを終えた時点の状況は、次の通り。
残るのは僅か3戦であり、相手のケヴィンは肩の筋肉と左手舟状骨を痛めている。ウェインは、目の前が大きく開けてきた感じがした。
そして、ミサノサーキットで行われるイタリアGPを迎えた。このときのミサノサーキットのコース形状はこの図の通りである。2019年現在とは違って、反時計回りで周回していた。
9月4日の予選では地元のルカ・カダローラがポールポジションを獲得し、0.021秒差の僅差でウェインが2番手。チーム・ロバーツの2人ともセッティングが完璧に出ており、絶好調だった。
そして9月5日の決勝を迎えた。
1周目、ルカ・カダローラが好スタートを切って先頭を走り、ウェインが2番手を追走。3番手にジョン・コシンスキーで、4番手にケヴィン・シュワンツだった。
2周目、ケヴィンがジョンを抜いて3番手に上がる。
3周目、ウェインがルカを抜いて首位に浮上する。
6周目、ウェインがすこしペースを上げて、ウェイン・ルカ・ケヴィンの順で等間隔になった。
そして11周目にさしかかった瞬間、1コーナーで首位を走るウェインがマシンのコントロールを失い、バタンと路面に叩き付けられた。このオンボード画像を見ると、先にリアタイヤが滑って、その次にリアタイヤのグリップが回復し、ウェインがマシンから放り出されたらしいことが分かる。いわゆる、ハイサイド転倒である。
路面に放り出されたウェインは、高速でコースの外へ滑っていった。
1コーナーのアスファルト路面の外には緑色の芝生が広がっており、その外にグラベル(砂)が敷かれてあった。滑っていったウェインは緑色の芝生に引っかかって回転し始めた。そのまま、グラベル(砂)に突入した。
転倒直後のウェインには意識があり、手を動かして意思表示しているが、自力で立ち上がることができない。担架で運ばれ、救急車がやってきて、そしてドクターヘリでサーキットの外の病院へ空輸されていった。
ウェインはグラベル(砂)に転がりながら突っ込んでいったが、そのとき頭からグラベル(砂)に落ちてしまっていた。第六頚椎を損傷し、神経を痛め、下半身不随となり、そのままライダーを引退することになった。
緑色の芝生が無く、アスファルト路面からそのままグラベル(砂)につながっている状態なら、ウェインは転がらずに横滑りのままグラベル(砂)に突入し、第六頚椎を損傷せずに済んだだろう。
ちなみに17年後の2010年9月5日にもミサノサーキットでMotoGPが行われており、大事故が発生している。ミサノサーキットの9月5日は、呪われた日付とされる。
チーム経営者としての経歴
1993年9月5日を境に、すこしばかり生活環境が変わってしまったウェイン。
そのウェインに対して、ヤマハが「我々が支援するから、チームを作って経営しないか」という話を持ちかけてきた。ヤマハには、「ヤマハに在籍していたスーパースターにチームを作ってもらい、そのスーパースターの知名度や指導力を頼りにしよう」という会社方針があるし、なによりウェインに生きる目標を与えようという思惑もあったようである。
そのため「チーム・レイニー」というチームが結成され、1994年シーズンからMotoGP250ccクラスで活動し始めることになった。このチームには、原田哲也や阿部典史が所属していたから、日本人ファンにもなじみが深い。
1996年には250ccクラスに加えて500ccクラスにも参戦することになった。ただし、500ccクラスにおけるヤマハ陣営最高待遇チームはチーム・ロバーツで、チーム・レイニーは2番手待遇だった。
1996年の暮れにケニー・ロバーツ・シニアが「ヤマハのマシンはガラクタだ」と言い残し、チーム・ロバーツがヤマハ陣営を離脱した。それと同時に、チーム・レイニーは500ccクラスにおけるヤマハ陣営最高待遇チームに昇格した。
1997年と1998年の2年間、チーム・レイニーは500ccクラスにおける実質的なヤマハワークスとして活動したが、このときはレプソルホンダを始めとしてホンダ系チームが席巻していて、好成績を残せなかった。そして、チームオーナーとして世界中を飛び回る生活に疲れを感じたので、ウェインはチーム・レイニーを解散させることにした。
1999年からのヤマハは、「ヤマハに在籍していたスーパースターにチームを作ってもらい、そのスーパースターの知名度や指導力を頼りにしよう」という会社方針を捨て、本社直営のワークスチームを作ることになった。
チーム・レイニーの成績は以下の通り。
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500ccクラス 250ccクラス 1994年 ケニー・ロバーツ・ジュニアが18位 1995年 原田哲也が2位 1996年 ロリス・カピロッシが10位 原田哲也が7位 1997年 阿部典史が7位 1998年 阿部典史が6位
1994年~1996年はマルボロがスポンサーに付いていた。1997年と1998年のマルボロは、ヤマハ陣営から離れて独自のマシンを作って参戦しているチーム・ロバーツのスポンサーを続けたので、チーム・レイニーはメインスポンサー無しの状態だった。画像検索すると、1997年も1998年も、「YAMAHA」と書いてあるだけのマシンの画像が見つかる。
2015年からモト・アメリカの経営にたずさわる
1998年にチーム経営から引退したウェインは、悠々自適の生活を送っていた。ヤマハのワークスライダーだった期間が長く、十分に給料をもらっていたからである。
腕のみで操縦できる自動車に乗り込み、それでレースをして遊んでいた。
2015年からはレースの世界に戻り、モト・アメリカ(MotoAmerica)の経営をすることになった。モト・アメリカとは、アメリカ合衆国の各サーキットを転戦して行われる市販車改造のレースである。2014年までのAMAスーパーバイク選手権を引き継いで、2015年から始まった。
モト・アメリカは商業的になかなか好調であるらしく、この記事では「モト・アメリカのトップライダーの給料が良い」と書かれている。
2019年 バイクに再び跨がる
青木拓磨がバイクに跨がる
2019年7月9日、鈴鹿8耐に向けた合同テストの初日において、青木拓磨がバイクに跨がり、鈴鹿サーキットを周回した(動画)。ホンダのCBR1000RRを改造し、下半身が麻痺している青木拓磨が手だけで操縦できるようにしてあった。青木拓磨は上手に乗り、最高速は240kmにまで達したという。
このテスト走行が成功に終わったので、2019年7月28日に開催された鈴鹿8耐のオープニングセレモニーで、再び青木拓磨がバイクに跨がってデモランを敢行した(動画)。
また、2019年10月17日(木)、ツインリンクもてぎにおいて日本GPが行われる前に、青木拓磨がデモランを行った。跨がったマシンはRC213V-Sで、RC213VというMotoGPマシンを市販できるようにすこし仕様変更しただけの超強力なマシンだったが、青木拓磨は見事に乗りこなした(動画)。テスト走行が上手くいったので、10月19日(土)にもデモランを行っている(動画)。
バイクにどういう改造を施したかというと、これらの記事が詳しい(記事1、記事2)。
青木拓磨のような障がい者をバイクで走らせようという団体が設立された。その名を一般社団法人SSP(サイドスタンドプロジェクト)という。Youtubeでもその活動が紹介されている(動画1、動画2、動画3)
ウェイン・レイニーもバイクに跨がる
そのSSPに、ウェイン・レイニーから問い合わせが来たという。青木拓磨は「それなら一緒に走りましょう!」と返事した。青木拓磨側から足が不自由でもバイクを操作できるシステムをアメリカ合衆国に送付して、ウェインが走れるかどうかを確かめてもらった。アメリカ合衆国のウィロースプリングスサーキットでの試走は上手くいったので(動画)、2019年11月16日~17日に鈴鹿サーキットで行われる「SUZUKA Sound of ENGINE 2019」で、ウェインのデモランが実現することになった。
青木拓磨や、エディ・ローソン、ケニー・ロバーツ・シニアのエスコートを受けながら、ヤマハのYZF-R1に跨がったウェインは、ゆっくりと鈴鹿サーキットを周回していた(動画1 3時間00分頃、動画2、動画3、動画4、記事1、記事2)
家族
ウェインの父親。1941年生まれで、若い頃のウェインのレースに帯同し、マシンを整備してあげていた。
1971年頃のウェイン(11歳)が乗るダートトラック用オートバイも、サンディが組み立てていた。
サンディ自身もゴーカートやオートバイでレースを楽しむ人だった。独学でマシンの整備を学んでおり、かなりの腕前があった。
この記事によると、ウェインがMotoGP最大排気量クラスに参戦している間に、250ccクラスのどこかのチームに所属してメカニックをやっていた。
この記事やこの記事によると、サンディはかなり強い訛りの英語を喋る人だった。いかにもといった感じのカリフォルニア州の田舎親父だったという。
ケニー・ロバーツ・シニアの父親バスターとサンディは顔見知りだった。
サンディはウェインに対していつも周りのライダーと違うマシンを与える人だった。皆がカワサキのバイクに乗ってレースしているときにウェインだけスズキ車に乗せられたり、皆がヤマハのバイクに乗っているときにウェインだけブルタコ(スペインのバイクメーカー)のバイクに乗せられていた。「皆が素晴らしいと思っているバイクで勝っても、面白くないじゃないか。皆がポンコツだと思っているバイクで勝つことの方が、ずっと面白いだろう」という考えの人だったという。その考えがウェインにも伝わり、ウェインはやや劣勢と思われているダンロップタイヤを使って優勢と思われているミシュランタイヤを倒すことに情熱を燃やすようになった。(この本の61ページ)
ウェインの姉または妹。この記事の写真の、下にいる。
レニーとケヴィン・シュワンツが交際していた時期があり、ケヴィンがレイニー家に行くとウェインが仁王立ちしており、『何をしに来た。』と睨まれたことがある・・・という逸話がウェイン・レイニー日本語版Wikipediaに載っている。
ウェインの奥さん。旧姓はグリッグスビー(Grigsby)。
1月1日が誕生日(画像1、画像2、画像3、画像4)。ウェインの3歳年下と言われているので、おそらく1964年1月1日生まれだと思われる。
ロサンゼルス近郊レイクウッド生まれ。父親が大工、母親は専業主婦。シェイ自身は運動好きで、自転車・バイクを乗り回したり、野球・ソフトボールをしたりと活発な少女だった。
5歳年上の兄はオートバイ好きで、ダートトラックをしていた。ダートトラックを通じてウェインと仲良くなっており、その縁でシェイとウェインは知り合った。それがシェイが高校生の時だったというから、おそらく1981年頃(ウェイン20歳、シェイ17歳)のことだろう。
1984年頃(ウェイン23歳、シェイ20歳)から正式に付き合い始め、1986年の暮れにウェインからプロポーズを受けた。
1987年3月28日に結婚した(画像1、画像2)。このときのウェインはアメリカ合衆国でAMAスーパーバイク選手権を走っていた。
ウェインが現役の時はレースに帯同していた。この画像では傘を持っている。
シェイへの詳しいインタビューはRACERS vol.24の93~97ページに載っている。
シェイの父親で、ウェインにとって義理の父親(father in law)に当たる。この人が酒好きで、ウィスキーやバドワイザーのビールが好きだったらしい(画像1、画像2)。
ウェインの息子。1992年10月12日生まれ。「バイクレーサーは、子供ができると遅くなる」と言われるが、ウェインに関してはその言い伝えが当てはまず、1993年シーズンもやっぱり速かった。
マリブ(ロサンゼルス近郊の海岸で、ハリウッド俳優など富豪が住む高級住宅が並んでいる)に住みながら、そのすぐそばのペパーダイン大学(授業料が高い富裕層向け大学として有名)に通っていた。
ペパーダイン大学を卒業し、CBSというテレビ局に就職して、エンターテイメント・トゥナイトやザ・インサイダーといった情報番組を制作している。
大学を卒業したのは2015年5月2日である。
レックスはTwitterアカウントを持っているが、更新は少ない。
結婚したのは2016年6月12日。この画像は、ウェインとシェイと息子夫婦勢揃いの写真。レックスの嫁は、結婚する前からウェインやシェイから娘扱いされている(画像1、画像2)。
ウェインの家とその周辺の土地
1993年からカリフォルニア州中部のモントレーに住むようになった。ラグナセカのコースを見渡せる丘の上に家を建てている。サーキットのすぐそばだから、レースが開催される時期はさぞかしうるさいことだろう。
家からの眺めはこんな感じ。
この画像も家からの眺めを映しているが、モントレーから南に15kmほどのこの場所にあるガラパタ州立公園の山火事が映っている。
家の近くのこの場所に、カーメル・バレーという谷がある。そこで山火事が起こったらしく、この画像では煙が映っている。カリフォルニア州は雨が少なくて乾燥しているので、山火事がしょっちゅう起こる。
モントレーの中のこの場所にモントレー地方空港がある。いつもは民間機が離着陸するのだが、たまに軍用機が着陸することがある。このツイートでは、たまたま着陸したF-22ラプターという戦闘機をウェインが撮影している。
モントレーは海に面したところにあり、この場所に漁港があるので、そこに遊びに行く画像もある。モントレーはかつてイワシ漁で栄えた土地である。
休暇の定番は、モントレーから北東に300km離れたこの場所にあるタホー湖。夏の景色はこんな感じになり、青い湖と緑色の山々の対比が綺麗。高地なので冬はしっかり雪が降り、そこを訪れたウェインが「たっぷり雪が降ったな!あとはサンタが来るだけだ」といったことを喋っている。
歴代マシンの画像と、チャンピオンマシンを飾ってある博物館
ウェインのTwitterには、昔のバイクの画像がちょくちょく投稿されている。ゼッケンやスポンサーが年によって変化している。
ウェインの時代のMotoGPには、「前年度のランキングをそのままゼッケンにする」という風習が続いていた。前年ランキングが3位ならその年はゼッケン3番を付ける、といった調子だった。このため、ウェインの成績が頭に入っていると、ゼッケンだけでその写真の年代が分かることがある。
1982~1983年にカワサキワークスのマシンに乗ってAMAスーパーバイク選手権に出場していたときは、ゼッケン60番を付けていた。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6、画像7)
1986~1987年にホンダワークスのマシンに乗ってAMAスーパーバイク選手権に出場していたときは、ゼッケン6番を付けていた。(画像1、画像2、画像3)
1988年のMotoGP最大排気量クラス1年目は、ゼッケン17番を付けた。スポンサーはラッキーストライク、タイヤはダンロップ。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5)
1989年はゼッケン3番を付けた。スポンサーはラッキーストライク、タイヤはダンロップで前年と同じ。(画像1、画像2)
1990年はゼッケン2番を付けた。所属するチーム・ロバーツが実質的ヤマハワークスとなったのでスポンサーはマルボロになり、現役最終年までマルボロと付き合うことになった。そしてタイヤもミシュランに替わった。この年に初めてチャンピオンを獲得した。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5)
1991年はゼッケン1番を付けた。この年以降、現役引退までずっと1番を付け続けている。スポンサーはマルボロで、タイヤがダンロップに替わった。タイヤが替わってもチャンピオンを連覇している。(画像1、画像2)
1992年はゼッケン1番、マルボロ、タイヤがまた替わってミシュラン。(画像1、画像2)
1993年はゼッケン1番、マルボロ、タイヤがまたまた替わってダンロップ。タイヤというのはマシンのセッティングに多大な影響を与える根幹の部品で、タイヤ変更で調子を崩すことが普通なのだが、ウェインとチーム・ロバーツは技術力が高いのか、タイヤをコロコロ変えても好成績を残し続けている。(画像1、画像2)
1990年の初チャンピオン獲得時のマシンは、ヤマハからウェインの元に寄贈された。ウェインはそのマシンを博物館に貸し出している。その博物館はモト・タルボット(Moto Talbott)といい、ウェインの家があるモントレーから東南に15kmほど離れたこの場所にある。
ウェインのTwitterに、モト・タルボット博物館所蔵のマシンが出てくる。(画像1、画像2)
ウェインのマシン(ゼッケン2番で赤い)のとなりには、ケニー・ロバーツ・シニアのマシン(ゼッケン1番で黄色い。1980年チャンピオン獲得時のマシン)が置かれている。(画像1、画像2、画像3、画像4)
さらには、ケニー・ロバーツ・ジュニアのマシン(ゼッケン1番で青い。2000年チャンピオン獲得時のマシン)が置かれている。(画像1、画像2、画像3)
さらに、青木宣篤が乗っていたプロトンKRのマシンが置いてある。(画像1、画像2)
その他の雑記
レイニー(Rainey)という名字の語源は雨(rain)。
同時代のMotoGP最大排気量クラスライダーにワイン・ガードナー(Wayne Gardner)という選手がいる。ウェイン・レイニー(Wayne Rainey)と綴りは全く同じだが、ガードナーはオーストラリア人なのでワインと読んでいた。オーストラリアには、day(デイ)をダイと読む慣習がある。
ウェインのTwitterにはダートトラックを走っていた頃の写真が上がっているが、ゼッケン60番のものが多い。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5) ウェインのTwitterアカウントも「WayneRainey60」。ウェインは1960年生まれなので、そこから60を取ったのだろうと思われる。
デカいボートを所有している。
いかにもといった感じのアメ車を所有している(画像1、画像2)。1966年製のフォード・ギャラクシー500というクルマ。
釣りを楽しむウェイン。
野球好きで、サンフランシスコ・ジャイアンツの応援をしている。(画像)息子のレックスもジャイアンツファン。
現役時代のシーズン中は、スペインのバルセロナ郊外にあるシッチェスに住んでいた(RACERS vol.24 95ページ)後年のシッチェスは阿部典史も生活の拠点にしていた。
ウェインのTwitterにはエディ・ローソンやケニー・ロバーツ・シニアがたまに出てくる。2人ともカリフォルニア州近くに住んでいるので、会おうと思えばすぐに会える。この画像では3人が会って、エディ・ローソンの誕生日を祝っている。この画像には、ケニー・ロバーツ・シニアとその奥さん、ケニー・ロバーツ・ジュニアとその子供2人が映っている。この画像はシニアとジュニアが映っている。この画像では、シニアとジュニアと一緒にパエリアを作っている。
関連動画
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ウェインの1990~1991年シーズンを取り上げている。52~65ページでウェインへの詳細なインタビューがある。 | |
ウェインの1992~1993年シーズンを取り上げている。48~57ページにウェインへの詳細なインタビューがある。 |
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関連項目
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