新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)とは、1990年から2000年にかけて発生した誘拐監禁事件である。
概要
新潟県三条市で学校の帰りに行方不明になっていた少女が、約9年後に柏崎市で発見された事件である。犯人がほぼ引きこもり生活を送っていた事や、あまりにも長期に渡る出来事であったため、世間の注目を集めた。
裁判において「併合罪」の是非が問われた事件でもある。
犯人像
犯人・佐藤宣行(1962年7月15日生)の父は既に5人の子をもうけていたが、妻に先立たれた為、子供とほとんど歳の変わらない年下の女性と再婚し、父62歳・母36歳の時に産まれたのが佐藤だった。異母兄姉が次々独立していく中で溺愛して育てられた。
潔癖症なところがあり、学校ではいじめられがち、高校卒業後就職するが数ヶ月で退職。以降、ニート・引きこもりと化した。1981年、19歳の時に父を異母姉の家に追放。母と二人暮らしになった。のち事件を起こしてから競馬を好むようになり、母親に競馬新聞を買いに行かせたり、母運転の車で競馬場に行ったりしていた。
1989年、柏崎市の小学4年生女子を空き地に連れ込んでわいせつ行為をしようとしたが、他の児童に目撃されて事務員がかけつけ、逮捕された。これで懲役1年・執行猶予3年の判決が下りた。ところがこの時警察がミスを犯し、前歴者リストに佐藤の名を登録していなかったことが後に明らかになる。この年、父が89歳で死去。
誘拐
1990年11月13日(まだ執行猶予中)、母の車を運転して三条市まで移動すると、人気のない農道を歩く少女を見つけて誘拐することを決意。ナイフで脅迫して車のトランクに閉じ込めた。帰宅すると一旦少女を抱えて外壁をよじ登り、2階の自室の窓際に置くと、何事もなかったかのように玄関から帰宅、そして窓から少女を連れ込んだ。
当時、宮崎勤による連続誘拐殺人事件が起こっていたこともあり、「お前もそうなりたいか」「この部屋からは出られない」「約束を守らなかったらお前なんか要らなくなる」と少女を脅迫し、監禁生活が始まった。
一方少女の母は駐在所に捜索願を出し、大規模な捜査が行われたが情報は全く得られなかった。地元の人間しか通らないような農道で誘拐されたとみられた事から、土地勘のある者が疑われたが空振りに終わった。身代金の要求もなく、捜査は暗礁に乗り上げた。
監禁
佐藤は少女に対して暴行したり言葉やナイフで脅迫したりしつつ、自分の外出および就寝の際は手足を縛って動けなくした。少女に対しては大声を上げない、佐藤が部屋を出入りするときは毛布に潜る(家の構造を知られない為)、ベッドから降りない、暴れない、といった命令を出し、破れば暴行が行われた。やがて佐藤は暴行の手段としてスタンガンを使うようになる。
食事はもっぱらコンビニ弁当が与えられていたが、1996年頃になると少女の足にあざが出来ていることに気付く。高たんぱくな食事で栄養バランスが悪い上に、監禁して運動が全くできないためであったと思われる。だが運動はさせられないと考えた佐藤は食事を減らすという手段をとり、1日1食に減らす。結果、少女の体調は余計に悪化した。階下の母親に気付かれないように微弱な運動が認められたが、遂には自力で立てないほどになっていった。
監禁する一方、少女には新聞や漫画を与え、ニュースや佐藤の趣味(競馬など)について会話することを佐藤は好んでいた。他、簡単な数学などを教えており、保護後の確認では少女の知識レベルは一般並であった。佐藤にとって少女は「友達」であり、ずっと一緒に暮らしながら、好きな話題を対等に話していきたいと思っていた。だが、裁判での少女の証言により、これは佐藤の身勝手で一方的な思考に過ぎず、少女から激しく恨まれていた事を知ることになる。
なお後の裁判で訴えられていない辺りからして、わいせつ行為などはしていなかったようだ。
この監禁生活の間に少女の為の服を万引きしているのだが、これがのちの裁判において焦点となる。
強制入院、逮捕
佐藤は少女監禁前から自宅の物を破壊するなどしており、1996年には母が保健所に佐藤の家庭内暴力を訴えた。だが家庭訪問をすると佐藤が暴れることが容易に予想されたため、代替案として精神病院に行くことになり、そこで出された向精神薬を服用していた。(結果論だが、事件発覚のチャンスを逃してしまったともいえる)
母も歳を重ね60歳を過ぎていたが、1999年頃になると母に対してもスタンガンを使うようになった。その為精神病院に現状を訴えたところ、医療保護入院(強制入院)が提案され、母もそれに了承した。精神病院、保健所、市役所などが話し合い、強制入院の計画が立てられた。
2000年1月28日、男性7人のチームが佐藤家を訪問し、2階の臭気漂う佐藤の部屋に強行突入する。佐藤は暴れて抵抗。「もう終わりだ!上手くいってたのに!」と叫んだが、医師が鎮静剤をうった為、しばらくすると眠りに落ちた。
これと同時に、チームはベッド上の毛布がもぞもぞと動いていることに気付いていた。毛布をどかすとそこには少女(19歳)がおり、職員が誰なのか尋ねるも「気持ちの整理がつかない」として説明しなかった。1階の母親にも質問したが全く知らないという回答であった。9年の監禁生活で諦めが生まれていたのか、少女は自分のことについて説明せず、仕方ないので眠った佐藤とは別の車に乗せて、チームはいったん病院へと向かった。その道中で少女はようやく自分の名前、住所、生年月日、両親の名前を話し始め、それを聞いた職員は9年前の三条市の事件を覚えており、まずは少女が話した自宅の電話にかけるが誰も出なかったので、柏崎署に連絡を入れた。
少女は柏崎署へと預けられ、指紋照合で本人であることが確認でき、その夜、母親が駆けつけて9年2か月ぶりの再会を果たした。警察は佐藤の身柄引き渡しを求めるが、病院は医療優先であることを伝え、警察の了承を得た。佐藤は目を覚ますと突然病院にいたこと等で混乱をきたし、それらがおさまるのに10日を要した。その間に捜査本部が設置され、佐藤の部屋の家宅捜索を行った結果、誘拐当時の衣服やランドセルといった物証が見つかった。強制入院から2週間後、2000年2月11日、未成年者略取・逮捕監禁致傷の容疑で佐藤は逮捕された。長期間の監禁で心の障害(PTSD)を負わせたことや筋力の低下などをふまえ、逮捕監禁ではなく逮捕監禁致傷として逮捕された。
かつて発生した『女子高生コンクリート詰め殺人事件』では、1階の家族が2階の女子高生の存在を知りながら何もしなかった、ということから佐藤の母の責任が問われたが、母は「監禁は知らなかった」「2階には何年も上がっていない」と証言し、実際指紋が検出されなかった事、少女自身も佐藤の母が住んでいるのを知らなかった事から、母は重要参考人とされ、特に罪は問われなかった。
裁判
2000年3月3日、未成年者略取・逮捕監禁致傷罪で佐藤は起訴された。あまりにも酷な事件のため、被害者である少女に関してはプライバシーが最大限保護され、弁護側も証人として本人を呼ぶことは一切しなかった。佐藤は罪状を認めたため、責任能力の有無が問われることになった。
すると検察は、かつて少女の服を万引きした事を窃盗罪で追起訴した。これは「併合罪」の適用を狙ったものである。併合罪とは、一連の事件中に複数の罪を犯した場合、その中で最も重い刑罰の1.5倍まで求刑できる、というもので逮捕監禁致傷罪では懲役10年が限度のところを併合罪で15年に引き上げるのが目的であった。窃盗という比較的軽い犯行で、5年もの懲役期間を増やそうとする事については、反対意見も集まって紛糾した。
精神病院への通院歴もある事から精神鑑定も問われたが、いくつかの人格障害はあるが犯行には影響していないとされた。最終的に検察は懲役15年を求刑、弁護側は人格障害などから心神耗弱の状態にあったと主張した。佐藤は「被害者に申し訳ないことをした」と述べ、結審した。
2002年1月22日、地裁は佐藤に懲役14年の判決を言い渡した。少女の著しい心身の衰弱、植えつけられた恐怖感、重要な成長期を悲惨な監禁生活で奪われて取り返せない事、被害者少女の気持ちを推し量れない自己中心的な態度、執行猶予期間に犯行に及んだ事、などが判決理由とされた。併合罪についても、窃盗は監禁を続けるために行った犯行であるとして適用された。佐藤は控訴した。
2002年12月10日、高裁は一審を破棄、佐藤に懲役11年の判決を言い渡した。併合罪は適用できないとしつつも監禁致傷については最も重い年数とし、監禁致傷の10年と窃盗の1年を足した判決となった。検察は「併合罪の解釈は最高裁の判例がない」ことと、「憲法違反がない」ということで通常の上告を断念した(憲法違反か判例違反がないと上告できない)。だが、法令解釈に重要な事項が含まれている場合は特例として上告が出来るため、これを適用して上告した。一方の佐藤も罪が重いとして上告した、
2003年7月10日、最高裁は控訴審を破棄、佐藤に懲役14年を言い渡した。併合罪については再び適用が認められた。こうして懲役14年が確定した。
その後
少女は無事明るく平穏な日々を取り戻し、成人式に出席したり運転免許を取得したり、家族旅行に出かけるなど、社会へと復帰していった。
2004年、刑法改正により逮捕監禁致傷罪の懲役上限が10年から15年に引き上げられた。この事件が影響している可能性は高いだろう。
佐藤は千葉刑務所に入れられたが不真面目な態度で服役していた。その為仮釈放されることもなく、2015年4月、刑期を満期で終えて出所。千葉県で福祉サービスや生活保護を受けながらアパートで独り暮らししていたが、2017年頃、死亡しているのが見つかった。事件性はみられず、病死だったとされる。享年54~55歳。
佐藤の母は当初面会にも訪れていたが、認知症となって老人福祉施設に入り、そこで亡くなった。事件現場となった佐藤の実家は母親名義のまま、誰も住んでいない空き家となっているという。
関連項目
- 0
- 0pt