普通の日本人とは、普通の日本人のことである。
な… 何を言っているのか わからねーと思うが言葉のままである。
概要
いわゆる普通の日本人のことである。
これだけでは全く説明になっていないので、掘り下げて考察する。
日本人とは何か
日本人とは日本人のことである。説明になっていない(;´Д`)
まず日本人の定義を考えることになるが、それなら日本国籍を持っていることに尽きる。それも日本国籍だけを持っているとよりハッキリすると言えよう。もっとも国籍の問題は日本に限らず複数の国の問題であり、日本人であるというなら日本国籍だけにして、他の国の国籍は抹消しろなどと言っても当該国が国籍の抹消は認めないと言ってしまえばそれまでの話で、日本人でありながら外国の国籍も持っているという人も少なくない。そういう場合は日本国内において日本国籍の選択を宣言し、外国の国籍は抹消するように努力すれば良いと国籍法第16条で明記されている。
もっとも日本国籍だけを持つということにこだわっている国というのは意外と少なく、特にヨーロッパなどではベルギーのように国民の大半が複数の国籍を持っていてベルギー国籍だけというベルギー人の方が少数派なんていう国もあるし、難民となって祖国から逃げてきて他国に亡命して国籍を得たなどということも珍しくは無く、日本においても戦前の日本の傀儡国家であった満州国の国籍を持っている日本人が現在も残っている。
まず言えることは日本人というのは日本国籍を所持しているということである。
普通とは何か
普通、とは辞書を引いてみると『特に珍しくもない』『ありふれた』『当たり前の水準』『平均的』といった何らかの一定の水準で、なおかつ普遍的、多くの人に共通または似通っていて、幅広く広まっている一種の程度を表すものといったことが書かれている。
つまり単純に表現するならば、どこにでもいるような感じの日本人が普通の日本人なのである。
単純に言ってしまえばそれまでなのだが、この普通の概念が厄介で曲者なのである。
普通の主観と客観
普通の概念は定義づけられるが、厄介なのはその普通の水準が人によってまちまちなのである。つまり普通という言葉が示す一定の水準、一定の目安と言ったものは定義づけられるものではなく、普通という言葉で水準を見出す基準が無く、人によっては同じ水準が普通であったり普通でなかったりするのである。
学校の成績などで表現すると分かりやすいが、あるテストの成績が100点満点であったとする。その100点という成績は早稲田大学の学生だったら100点満点で当たり前のレベルで、一方で早稲田の隣のバカ田大学の学生だったら秀才と称賛される、と言ったように普通の基準は人それぞれなのである。
それよりも厄介なのが、普通という基準が主観と客観でギャップがあるということなのである。ただでさえ同じ水準でもその水準を見る者の視点によって普通であったりなかったりするのだが、それが個人単位で存在するということになるので、そうなると何が普通なのか、これが普通だということは非常に難しくなるのである。そうなってくると普通の概念が自分から見ての主観と他人から見ての客観とで見る対象が普通であるか、普通ではないか、違いが出てくるというのは言うまでもない。普通というのは何とも難しい、普通とは何かという問いに対して何なら普通であると誰もが答える答えが存在しない解答不能の概念、それが普通なのである。
こうしてただでさえ見る者によって基準が違うことで難しさを醸し出す概念『普通』を自分の主観で普通を決めつけ、なおその普通の基準や価値観の主観を他人に押し付けて強要するとなれば、強要された側の他人は迷惑千万である。それを自分自身の主義思想をもって普通を周囲に強いるのが『自称、普通の日本人』なのである。
自称、普通の日本人
近年になって普通の日本人を自称する人が増え始めた。
この普通の日本人を自称する人たちは、その多くが自身の政治的信条をアピールしたい人たちである。特に右翼系の主張をする者の使用が多く、日本が大好きな普通の日本人、日本を愛する普通の日本人、といった愛国をアピールしつつ普通の日本人と言って自身を紹介するパターンが多い。こういった表現は21世紀初頭にベストセラーになった小林よしのり著作の戦争論シリーズあたりから、著書内で作者の小林よしのり本人が自分は日本への愛国心を持った普通の人であると言ったぐあいにたびたび自分を紹介しており、こういう形で自分が愛国者で普通の日本人だと自分を紹介するスタイルが2012年あたりを境にツイッターなどのSNSの普及と並んで急速に増えはじめた。
なお、右翼系の使用者が比較的多いというだけで、それ以外の信条を持つ者が使うこともままある。なので、発言者が何を「普通」と考えているのかを見極めずに批判や同意をしてしまうとおかしなことになりかねない。
日の丸クラスタ
普通の日本人という表現が日の丸クラスタとして広まるようになってくると、ネトウヨが自身の愛国持論を説いた末、もしくは愛国持論を説き始める前に普通の日本人を主張することが多くなってくる。
といった具合に自身の愛国心をアピールしながら、自分が普通の日本人であるというのである。
実はこれは相当に矛盾した考えであり、まず国内でも国際的にも認知されているが、日本人の他人にすぐ合わせようとする、空気を読もうとする国民性からして、自分で自分を普通と言って周囲にアピールすることは珍しい。自分は普通と相手に対して自分の普通の基準を合わせさせながら、自分の愛国心を付け加える、つまり自分の愛国心の価値観を他人に押し付ける意図を自己紹介に織り交ぜているのである。本人の価値観を普通として他人に押し付け、そのうえに自分の愛国ぶりをアピールしてくるのだから、よほど愛国心に興味がない限り相手をさせられる方は迷惑この上ないのである。
またこれ以上に始末が悪いのは、自身の愛国心が普通の基準であるとして相手に押し付けるという厚かましさもさることながら、そのうえで自分の価値観である愛国心を相手が否定すると自分の愛国心の基準が否定されたと受け取って、相手を左翼、パヨク、売国奴といった具合に自分の価値観のなかでの異端と見なすことである。普通の日本人なら自分の基準くらいの愛国心を持っていて当たり前だ、自分の愛国心を否定したなら、お前は日本人ではない!と言うのがネトウヨが言う普通の日本人の価値観であり、日本人なら持っていて当然の愛国心なのだと彼らは主張する。
要は自分の愛国心の価値観を否定する者は異端である、という強要であり、一種の虐めのようなものである。日本人の国民性として他人に合わせようとする、空気を読んで合わせようとする心理があると言ったのは前述したとおりであるが、一方で合わせない者に対しては異端を見なして蔑視するところがあり、それが集団であればあるほど、その集団で力のある者がまとめているようなときであると、その傾向が顕著になってくる。そういう日本人の気質を逆手にとって悪用したのが日の丸クラスタとしての普通の日本人である。
非国民
この普通の日本人の概念は既に戦時中から存在していた。
これは戦時中の東京都中央区銀座で実際に街頭に張られた戦時標語であり、日本人に対して日本人ならこうだ!といった日本人のあるべき価値観を相手に刷り込む意図をもって書かれている。実際に戦時中の日本は大政翼賛会による翼賛体制に入っており、大政翼賛会の会長を頂点に各都道府県支部長、地域の町内会長へ、末端にご近所の隣組で国民一人一人が翼賛体制のもと、戦争のために国民一人一人が団結して国家のために尽くすようにさせる仕組みが作られた。この翼賛体制について行けない人や、もしくは戦争に反対したり、戦時における軍国主義体制下にそぐわないと見なされた人物は隣組から始まって上部組織へと情報が伝わり、特高警察もしくは憲兵によって逮捕、罰せられるのである。
右翼だと思われたくない
普通の日本人を自称する別の理由としては、自分が右翼だと思われたくないという意味もある。
ネトウヨは大都市圏、主に東京都の皇居周辺や靖国神社の周辺などの路上で街宣活動している右翼との差別化を図りたがる傾向が強く、街宣右翼を保守思想を貶めるための在日韓国人や左翼が偽装しているなどと言って偽物の保守であると主張し、自分たちこそ本当の保守思想だと自認している。(実際には街宣右翼などは殆どが日本人であり、実際に事件を起こして逮捕されているような右翼は警察発表を見れば分かる通り十中八九が日本人の名前である。にもかかわらず日本人に偽装した韓国籍などと言って同じ日本人であることを認めないことも多い)
つまりそれほどにまで街宣右翼を嫌っており、自分自身が右翼の同類であることを認めないがために、自分の立場を守ろうとする意味で普通の日本人を自称しているのである。
関連項目
- 10
- 0pt