衣通姫(そとおりひめ、そとおしひめ)とは、主に『古事記』、『日本書紀』に登場する女性である。
概要
小野小町・藤原道綱母と並んで、本朝三美人に数えられる女性の名。『古事記』においては、衣通郎女・衣通王とも、『日本書紀』においては、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)とも表記される。
名の由来は、「その美しさが衣を通して現れるようだ」「美しさのあまりその身から出た光が衣を通して輝いているよう」などと形容されたことによる。
『古事記』と『日本書紀』の間で、この名で呼ばれる人物が異なっており、衣通姫とは、それほどのずば抜けた美人に対する呼び名、尊称のようなものと考えられる。
『古事記』における衣通姫(衣通姫伝説)
『古事記』における衣通姫とは、第十九代天皇、允恭天皇の第二皇女である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の別名とされ、実兄である第一皇子、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)との悲恋が綴られている。
皇太子である木梨軽皇子は、允恭天皇亡き後に皇位を継ぐことを約束されていた。だが、いざ允恭天皇が崩御し、木梨軽皇子が皇位を継承するのを待つ間に、木梨軽皇子は同母実妹である軽大娘皇女と情を通じてしまう(異母兄妹であれば当時は許されたのだが、同母はタブーである)。この時、木梨軽皇子は次の歌を詠んだ。
阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾 和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀布禮(あしひきの やまだをつくり やまだかみ したびをわしせ したどひに わがとふいもを したなきに わがなくつまを こぞこそは やすくはだふれ)
山の高いところに作った田に水を引くために、地中に水路を通すかのように、ひっそりと妹のところへ通っている。忍び泣く我が妻の肌に、今夜こそは触れよう。というような意味である。この歌を、志良宜歌(しらげうた)という。
また、次の歌も詠んだ。
佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆(ささはに うつやあられの たしだしに ゐねてむのちは ひとはかゆとも うるはしと さねしさねてば かりこもの みだればみだれ さねしさねてば)
笹の葉同士が互いに触れ合って音を立てるように、こうして共に寝た後ならば、私から人が離れてしまってもかまわない。何がどうなってもどうでもいい。こうして寝てしまったのならば。というような意味である。この歌を、夷振之上歌(ひなぶりのあげうた)という。
この二人の関係はたちまち周囲に知れ渡ってしまい、役人達を含む多くの人々は、タブーを犯した木梨軽皇子から離反し、穴穂皇子(あなほのみこ。允恭天皇の第三皇子。後の安康天皇)の元につく。これを恐れた木梨軽皇子は、大前小前宿禰(おおまえおまえのすくね)という名の物部氏の大臣の家に逃げ込み、大前小前宿禰と共謀して穴穂皇子を討つことに決め、武器を作って備えていた。一方の穴穂皇子も、武器を作り、軍備を整えた。そして、皇子自ら軍を率いて出撃し、大前小前宿禰の家を取り囲むのだが、門に着いたとき、大きなあられや雹が降ってきた。ここで、穴穂皇子は次の歌を詠む。
意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟(おほまへをまへすくねが かなとかげ かくよりこね あめたちやめむ)
大前小前宿禰の家の門まで来い。私は雨が止むまで待っているぞ。というような意味である。すると大前小前宿禰が穴穂皇子の前に出て、手を挙げ膝を叩き舞踊り、次の歌を詠む。
美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登登余牟 佐斗毘登母由米(みやひとの あゆひのこすず おちにきと みやひととよむ さとびともゆめ)
この歌を宮人振(みやひとぶり)という。宮中の人々が、足結(袴の膝のあたりをくくって纏める紐のこと)の鈴が落ちてしまったと騒いでいる。里の住人は慎ましやかにして、決して騒がぬようにというような意味である(周囲の住人をなだめて戒めるための歌であろうか)。続けて大前小前宿禰が穴穂皇子に次のように言った。
「我が天皇の御子よ。兄である王(木梨軽皇子のこと)に兵を向けてはなりません。そのようなことをすれば、人々は笑う(嘲笑のようなニュアンスと思われる)でしょう。私が捕らえ、差し出します」
こうして木梨軽皇子は、この大前小前宿禰の裏切りによって捕らえられ、穴穂皇子のもとに差し出されてしまう。このとき、木梨軽皇子は次の歌を詠んでいる。
阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久(あまだむ かるのをとめ いたなかば ひとしりぬべし はさのやまの はとの したなきになく)
軽の乙女(軽大娘皇女のこと)よ。あまりにひどく泣くと、ますます人々が私たちのことを知ってしまう。波佐(地名と思われる。具体的な場所は不明)の山の鳩のように、忍んで泣こう。というような意味である。さらに続けて次の歌を詠む。
阿麻陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母(あまだむ かるをとめ したたにも よりねてとほれ かるをとめども)
軽の乙女よ。私に寄り添って寝て行きなさい。というような意味である。
そして、木梨軽皇子は、伊余の国(現在の愛媛県)の湯の地(現在の道後温泉)へ、流刑となる。流される直前、次の歌を詠んでいる。
阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥(あまとぶ とりもつかひそ たづがねの きこえむときは わがなとはさね)
空を飛ぶ鳥は使いの鳥である。鶴の声が聞こえたときは、私の名を尋ねてくれ。というような意味である。以上の、木梨軽皇子が詠んだ3つの歌を。天田振(あまたぶり)という。さらに続けて、次の歌も詠んでいる。
意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多多彌由米 許登袁許曾 多多美登伊波米 和賀都麻波由米(おほきみを しまにはぶらば ふなあまり いかへりこむぞ わがたたみゆめ ことをこそ たたみといはめ わがつまはゆめ)
この歌は、夷振の片下(ひなぶりのかたおろし)という。王(おおきみ。木梨軽皇子自身のこと)を追放したところで、私は帰って来る。だから、私の敷物は変わらずそのままにしておけ。いや、言葉では敷物と言ったが、本当は私の妻(言うまでもなく軽大娘皇女のこと)にこそ、変わらずにいて欲しい。というような意味である。これに対し、軽大娘皇女は次の歌を木梨軽皇子に送っている。
那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮(なつくさの あひねのはまの かきかひに あしふますな あかしてとほれ)
どうか、夜が明けてから行ってください。あひね(地名と思われるが具体的な場所は不明)の浜の、牡蠣の殻を、足で踏むことのないように。というような意味である。離れ離れになってしまう兄の身を案じてのことであろうか。
こうして流された木梨軽皇子であるが、帰って来るぞと歌では詠みつつも、戻ることは叶わなかった。しばらく後、兄を慕う気持ちを抑えきれなくなった軽大娘皇女は、兄を追って伊余の国へと旅立つ。出立のとき、軽大娘皇女が詠んだ歌がある。
岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士(きみがゆき けながくなりぬ やまたづの むかへをゆかむ まつにはまたじ)
もう待ってはいられません。あなたが往ってしまったから、長い月日が経ってしまいました。迎えに行きます。というような意味である。当時の都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)、現在の奈良県高市郡明日香村(ほぼ奈良県の中央部)周辺にあり、そこから伊余の国のある現在の愛媛県へとなると、当時としては結構な長旅であったはずだが、軽大娘皇女は無事、兄の元へと辿り着く。その姿を見た木梨軽皇子は、次の歌を詠んだ。
許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮(こもりくの はつせのやまの おほをには はたはりだて さををには はたはりだて おほをにし なかさだめる おもひつまあはれ つくゆみの こやるこやりも あづさゆみ たてりたてりも のちもとりみる おもひつまあはれ)
泊瀬(はつせ。現在の奈良県桜井市初瀬町)の山の高い峰と低い峰に幡(はた)を立て、私との仲を定めた愛しい妻よ。臥せている時でも、起きている時でも、ずっと見守っていきたいと思う。というような意味である。続いて次の歌を詠んだ。
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 麻久比爾波 麻多麻袁加氣 麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許曾爾 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米(こもりくの はつせのかはの かみつせに いくひをうち しもつせに まくひをうち いくひには かがみをかけ まくひには またまをかけ またまなす あがもふいも かがみなす あがもふつま ありといはばこそに いへにもゆかめ くにをもしのはめ)
泊瀬の川の上流に清浄な、下流に正統な杙(くい)を立て、清浄な杙には鏡を、正統な杙には玉をかける。その立派な玉のように妹を、その鏡のように大切な妻を、私は想う。お前が家にいるならば、私はそこに行くこともするし、故郷のことを懐かしむこともするが、その必要もない。お前がここにいるのだから。というような意味である。
こうして再会を喜んだ二人であるが、僅かな時間を愛し合った後、共に自害したところで、この伝説は終わる。このときの二首は、読歌(よみうた)という。
『日本書紀』における木梨軽皇子と軽大娘皇女
『日本書紀』においても、この二人の悲恋は綴られているが、『古事記』に比べて短くまとまっており、『古事記』とは異る記述も見られる。
また、軽大娘皇女が衣通姫であるともされていない。
『古事記』においては、この説話は允恭天皇が崩御した直後の物語であるが、『日本書紀』では、允恭天皇がまだ存命の頃の物語として書かれている。
ある朝、允恭天皇が食事を摂ろうとすると、冬ではないにも関わらず汁物が凍りついていた。これはどうしたことだろうと思った天皇は、これを人に占わせた。占った者は次のように言った。
「国が乱れています。親しい者が通じているのではないでしょうか」
そして、別の者が言った。
これを問い詰めたところ、事実であった。同母兄妹が情を通じることは罪である。しかし、皇太子である木梨軽皇子は罪に問われなかった。だが、軽大娘皇女はそうはいかない。こうして、軽大娘皇女は伊余の国へと流刑になった。
というところで、『日本書紀』でのこの二人の物語は終わる(木梨軽皇子はこの後も少し登場するのだが、軽大娘皇女に関してはこの後の記述はない)。
この説話の信憑性
最初の歌である志良宜歌であるが、これを木梨軽皇子が詠んだとすると、二人の秘密の逢瀬を農作業に例えていることになり、皇太子という木梨軽皇子の身分からすると不自然さが残る。
天田振の第二首の最後で、かるをとめども(軽の乙女たちよ)と複数形になっている点も疑問である。軽の乙女とは、軽大娘皇女という一人の女性のことではなく、本来は何か別の意味があったのではないかとも考えられる。
『日本書紀』での記述も合わせて考えると、更なる疑問が浮かび上がる。『日本書紀』においては、島流しにされるのは木梨軽皇子ではなく軽大娘皇女であることは先述したとおりであるが、『日本書紀』においても、『古事記』でいうところの夷振の片下に相当する歌が詠まれているのである。それも、『古事記』とまったく同じ歌の内容で、その詠み手も変わらず、である。すると、都に残されたはずの木梨軽皇子が、「私は帰って来るぞ」と詠んだことになり、矛盾する。
そもそも、『古事記』と『日本書紀』で島流しにされる人物が異なる点や、この説話の時系列が、允恭天皇が崩御した後なのか存命中なのかなどといった点で食い違っていることの理由が、現在でも明らかになっていない。
歌について更に述べるならば、『古事記』において、軽大娘皇女が兄を追って旅立ったときの歌であるが、これと酷似した内容の歌が、『万葉集』の第二巻にて詠まれている。だがその詠み手は、第十六代仁徳天皇の皇后である磐之媛(いわのひめ)である。
読歌の第一首の幡とは、葬式の旗であるという説が有力である。するとこの歌は、夫が亡き妻を懐かしんで詠んだ歌と見るのが自然である。
これらの歌は、木梨軽皇子と軽大娘皇女の二人が詠んだものではなく、記紀の成立以前に、物語とは関係のない、まったくの別人が詠んだものである可能性が捨てきれない。歌がまず先にあり、それを記紀に取り込み、それに合わせて物語を作ったとも考えられる。この説話が完全なる創作であるという証拠はないが、仮に何らかの史実に基いているとしても、すべてを事実とみなすことには無理がある。
『日本書紀』における衣通姫
『古事記』における衣通姫とは、允恭天皇の皇后である忍坂大中姬(おしさかのおおなかつひめ)の妹、弟姫(おとひめ)のこととされ、彼女に惹かれていく天皇と、それに嫉妬する皇后の物語が綴られている。
允恭天皇が即位して7年目の12月1日、新居の完成祝いの宴会が催された。天皇自ら琴を弾き、皇后は舞を舞った。
当時、宴会にて舞を舞う者は、舞い終わった後、最も上席の者に対して「娘子(おみな)を奉りましょう」と言うのが習わしであった。だが、皇后は何も言わないので、天皇は皇后に、なぜ常に言うはずの礼を言わないのかと問うた。
皇后は立ち上がると改めて舞い、それが終わると天皇に「娘子を奉りましょう」と言った。
それに対して天皇は更に問うた。「誰を奉るつもりか。名を知りたいと思う」と。
皇后は答えた。「私の妹です。名は弟姫です」と。
弟姫と言えば、その身の美しさで体から光が溢れ、それが衣を通して外に現れているようだと形容されるほどの絶世の美女で評判であり、人々からは衣通郎姫と呼ばれていた。天皇の興味もまた、衣通郎姫に傾いた。それが分かっていたからこそ、皇后は礼をするのを躊躇ったのであった。
翌日、天皇は早速、近江の坂田にいる弟姫の元へ遣いをやった。だが、弟姫も皇后の心を案じ、参上せよとの詔を辞退した。その後も天皇は、七度使者を遣わしたが、弟姫の返事は変わらなかった。
次に天皇は、舎人の中臣烏賦津使主(なかとみのいかつのおみ)を使者とした。
「皇后が奉ると言った、娘子の弟姫を連れてきたならば、必ず恩賞を与えよう」
天皇にそう命じられた中臣烏賦津使主は、着物の内に干した飯を忍ばせて坂田に出かけて行った。
坂田に着いた中臣烏賦津使主は、弟姫の住まう屋敷の庭に伏せると、天皇が弟姫を待っているという旨を伝えた。それに対して弟姫は答えた。
「天皇のお言葉に対してかしこまらないことはありません。ただ、皇后のお心を傷つけたくはありません。私は、死んだとしても参ることはできないのです」
「私は天皇から必ず連れてこいと命を受けています。できなかったら極刑に処すとも言われております。帰って処刑されるくらいならば、ここでこうして伏したまま死にましょう」
言葉通り、中臣烏賦津使主は七日間もの間、ずっと庭に伏していた。弟姫が彼に与えた食物や水も、一切口にしなかった。その代わり、懐に忍ばせていた干飯を、気づかれぬようにこっそり食して凌いでいた。弟姫は思った。このまま天皇の命を拒み続けた結果、天皇の忠臣を死なすことになってしまえば、自分が罪に問われることになってしまう、と。そこでついに、弟姫は中臣烏賦津使主に従うことに決めた。
檪井(現在の奈良県天理市櫟本)にて二人は食事を摂り、弟姫は中臣烏賦津使主に酒を与えて慰労した。
その日のうちに都に到着すると、中臣烏賦津使主は倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)の屋敷に弟姫を預け、天皇に復命(報告)した。報告を聞いた天皇は大変喜び、約束通り中臣烏賦津使主に褒美を取らせた。だが、このことを皇后は快く思わなかった。そこで天皇は、藤原に殿舎を建て、弟姫をそこに住まわせることにした。
皇后が大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと。後の雄略天皇)を産んだ日、天皇は藤原の弟姫の元に始めて通った。それを聞いた皇后は、天皇を恨み、
「私が髪上げをし、後宮に侍って、もう何年にもなります。私が出産で生死の境をさまよっている時に、天皇はなぜ藤原においでになったのですか」
そう言うと皇后は産殿に火をつけ、自殺しようとした。天皇は大変に驚いて、「私が悪かった」と皇后に謝罪し、慰めた。
翌年の2月、天皇は藤原の宮にこっそり出向いた。弟姫は、天皇が来ていることに気づかずに天皇を想い、次の歌を詠んだ。
和餓勢故餓 勾倍枳豫臂奈利 佐瑳餓泥能 區茂能於虛奈比 虛豫比辭流辭毛(わがせこが くべきよひなり ささがねの くものおこなひ こよひしるしも)
私の夫が訪ねて来そうな宵である。蜘蛛が巣を営む様子が、今宵はよく目に付く。というような意味である(当時、蜘蛛が巣を張るのは吉兆と考えられた)。天皇は感動し、次の歌を詠んだ。
佐瑳羅餓多 邇之枳能臂毛弘 等枳舍氣帝 阿麻哆絆泥受邇 多儾比等用能未(ささらがた にしきのひもを ときさけて あまたはねずに ただひとよのみ)
幾夜とは言わない。錦の腰紐を解いて、ただ今夜だけはともに寝よう。というような意味である。
波那具波辭 佐區羅能梅涅 許等梅涅麼 波椰區波梅涅孺 和我梅豆留古羅(はなぐはし さくらのめで ことめでば はやくはめでず わがめづるこら)
桜の花の美しさの見事さよ。もっと早くに愛しておけばよかったのに、惜しいことをしたものだ。我が愛しの姫よ。というような意味である。
これを知った皇后は、再び天皇を大いに恨んだ。そこで弟姫は天皇に申し上げた。
「王宮のそばで、昼夜問わず陛下のお姿を見ていたいと思います。ですが、皇后は私の姉です。皇后は陛下を常に恨み、苦しんでおられます。私は、王宮から遠く離れたどこかに住みたいと思います。皇后のお心も少しは休まりましょう」
天皇は、河内の茅渟(ちぬ)に宮を建て、弟姫をそこに移した。これより後、天皇は日根野(現在の大阪府泉佐野市日根野)に度々狩猟に出かけるようになった。
さらに翌年の1月に天皇が茅渟宮においでになった後、皇后は天皇に言った。
「私は少しも弟姫を妬んではおりません。ですが、陛下がしばしば茅渟においでになることを恐れています。百姓たちも苦しんでいると思います。お出ましの数を減らしていただきたいと、願います」
それより後、その言葉通り、天皇が茅渟宮に通うのはまれになった。
翌年3月4日、天皇が茅渟宮においでになると、弟姫は次の歌を詠んだ。
等虚辭陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舎儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘(とこしへに きみもあへやも いさなとり うみはまもの よるときときを)
いつも変わらずあなたにお会いできるわけではありません。波に運ばれた海藻が寄せては返すように、まれにしかお会いできません。というような意味である。この歌を聞いた天皇は弟姫に、皇后に恨まれるからその歌を他人に聞かせないようにと諌めた。その時代の人々は、その浜の海藻を「なのりそ藻(人に告げてはいけない藻)」と名付けた。
これより前、まだ弟姫が藤原の宮に居たときのこと、天皇は大伴室屋連(おおとものむろやのむらじ)に次のように詔した。
「私はこの頃、特別に美しい嬢子(おみな)を得た。皇后の妹だ。後世にも、この名を伝えたいと思う」
こうして、藤原部という屯倉の部民を定められた。
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