スマーティージョーンズ(Smarty Jones)とは、2001年アメリカ産の競走馬・種牡馬である。
左目の視力をかなり失いながらも圧倒的快速でアメリカ三冠を駆け抜けた栗毛のスピードスター。
主な勝鞍
2004年:アーカンソーダービー(GⅡ)、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス(GⅠ)
父はGone West産駒で芝1マイルの世界記録を樹立するほどの快速を誇ったが、スピード以外の要素が足りずGⅢまでの勝鞍しかなかったElusive Quality、母は現役時39戦12勝、彼を管理する予定であったボビー・カマック師がセールで見繕ってきたI'll Get Along、母父はマンノウォー系の大種牡馬In Reality産駒でBCスプリントなどを制した快速馬Smileという血統。
実績不足の父に、ステークス競走を含む12勝を挙げたがローカル競馬場中心で目立った馬ではなかった母。そこまで期待された馬とはいえなかったし、生まれた牧場もペンシルベニア州と中心からは外れた場所であった。父のElusive Qualityはその後アメリカ・オーストラリア・ブラジルでGⅠ馬を多数輩出する大種牡馬になるのだが、本馬は2世代目の産駒でありそんなことはまだ誰一人として知る由もなかった。
とはいえ生産者のロイとパトリシアのチャップマン夫妻はメジャーな競馬場に送り込んでガハガハするような大規模生産者とは無縁の生き方をする2人であったのでそこはどうでも良かっただろうが。彼も母同様にチャップマン夫妻に所有され、生まれ育った牧場・フェアソーネファーム名義でデビューする予定であった。
ちなみに馬名は誕生日が2/28で同じであったパトリシア氏の母の愛称から。「自惚れ屋(Smarty)のジョーンズ」ということである。気が強くて知ったかぶりをよくする性格だったそうで。彼も意志堅固で勝ち気、パトリシア氏いわくよく似た性格だったとか。
管理する予定だったのは夫妻の知己であり、前述の通り母を見繕ってきたカマック師だったのだが、彼が生まれた年の12月に精神疾患を患っていた妻の連れ子に射殺されるという悲劇に見舞われる。
この事件を受けて病気がちになっていたロイ氏はすっかり意気消沈しフェアソーネファームの解散を決意。所有馬の殆どを手放してしまった。しかし彼と後一頭は残した。もうパトリシア氏の母から取った名前を決めていたからなのだろうか。
その後フロリダの育成牧場に送られ、2歳になるとカマック師の知人であったジョン・サーヴィス師に預けられ、デビューすることとなったのだが……7月にスタート練習中に頭をぶつけてしまう。
軽くではなく強打であったようで、鼻から血を流し昏倒するほどであった。サーヴィス師が即死したと勘違いするレベルであったが、意識を取り戻したために獣医を呼び治療を開始。
頭蓋骨、特に左目のあたりがひどく折れており眼球摘出もあり得たのだが、なんとか2ヶ月の加療期間で眼球摘出とはならず無事に回復した。
しかし左目の視力はかなり落ち込み、視野にハンデを背負うこととなった。しかし不思議なものであんなことがあったのにゲート難に陥ることはなく、練習の成果かスタートはとても上手になったという。
2003年の11月、サーヴィス師が拠点を置くフィラデルフィア競馬場の6f戦でデビュー。その後全レースで手綱を取るカナダ出身のスチュアート・エリオット騎手を鞍上に迎える。彼はこの当時すでに3300勝を挙げていた名手であったが、いかんせんほとんどがドマイナーなフィラデルフィア競馬場での数字だったので全国的な知名度には乏しかった。それでもゲートのうまさからか2.1倍の断然人気に支持され、2番手からスピード任せに早め先頭に立つ競馬で7馬身3/4という差を付けて圧勝。
2戦目の7f戦ペンシルベニアナーサリーSでもスピードの違いを見せつけスタートからずっと先頭で独走。15馬身差をつけて圧勝した。これにはサーヴィス師も「この馬はすごい馬です!メジャーなレースに行っても勝ち負け出来ます!」と大興奮でチャップマン夫妻に伝えると「ケンタッキーダービーを目標にしましょう」ということとなった。
こうして2歳を2戦2勝、どちらもスピード任せに圧勝した彼はローカル競馬場のペンシルベニア競馬場を飛び出し、ケンタッキーダービーに向けた全米行脚に旅立つこととなった。
2004年、3歳初戦はニューヨーク州アケダクト競馬場の1月の8f70yのリステッド競走カウントフリートS。初のメジャー競馬場参戦となったが、直線で逃げ馬をかわし5馬身差付けてまたも圧勝。
この年アーカンソー州のオークローン競馬場が「我が競馬場で施行される3月のレベルSと4月のアーカンソーダービーを勝った上で!ケンタッキーダービーを勝ってくれたら!なんと!500万ドル贈呈!!」というキャンペーンを打っていたのでこれに乗ってケンタッキーダービーへ向かう方針となり、2月から乗り込んで慣れておこうということで8f戦・リステッド競走サウスウエストSに出走。10ポンドの斤量差をもあって自身をマークしていた馬との接戦には持ち込まれたが3/4馬身差で競り勝ち、一介のスピード馬ではない懐の深さを見せた。
そして当時はまだリステッド競走、今はキャンペーンの甲斐もあってレートが上がってGⅡにまで成り上がったレベルSに挑戦。キャリア最長の8.5f戦となった上に実績馬も多く、トップハンデを背負ったためキャリア初の3番人気となったがここも3馬身1/4差で快勝。
続くアーカンソーダービー(当時GⅡ、2010年にGⅠ昇格)でついにグレード競走初見参。キャリア最長の9fも重馬場も物ともせず、1馬身1/4差を付けて第2関門を突破。ボーナス500万ドルにリーチをかけた。
こうしてローカル競馬場出身の天才は全米一の大レース・ケンタッキーダービーに人気馬の一角として乗り込むこととなった。
しかしさすがにケンタッキーダービー、メンツがまあ今までとは違っていた。
他精鋭17頭を相手にすることとなった。それでも6戦無敗、ほぼ圧勝して底を見せていない本馬がかなり僅差とはいえ1番人気となった。
レースは不良馬場と思わせない速さで逃げたLion Heartを2番手集団で追走。重馬場への適応力は前走示したとおりであり、直線では後続を置き去りにしてLion Heartと一騎討ち。残り1ハロン付近で前に出るとそのまま突き放し2馬身3/4差を付けてバラのレイを獲得。ついでに500万ドルボーナスも獲得した。
無敗でケンタッキーダービーを制したのは1977年の三冠馬Seattle Slew以来27年ぶり、ペンシルベニア州産馬の勝利は1992年Lil E. Tee以来12年ぶり、カナダ出身騎手の勝利は1973年の三冠馬Secretariatの鞍上ロン・ターコット騎手以来31年ぶり、さらに調教師・騎手ともにケンタッキーダービー初出走での勝利は1979年の勝ち馬Spectacular BidのG.デルプ師とR.フランクリン騎手以来25年ぶりという記録づくめの勝ちであった。
多分皆さんもLil E. Tee以外はよく知ってるんじゃないだろうか。
二冠を目指し出走したプリークネスステークスでは2着のLion Heart、3着のImperialismといったケンタッキーダービー組の他、ケンタッキーダービー前哨戦でやらかしてここからになった後のGⅠ2勝馬Rock Hard Ten、ステークス競走3勝を含む5連勝でやってきたWater Cannonらが揃ったが、5900万ドルというレース史上最高額の売上を叩き出した本馬が単勝1.7倍の1番人気に推された。
しかし例によって強気に逃げるLion Heartを3角で捕まえ、直線手前で早くも先頭に立つと最早独壇場。後続馬を歯牙にもかけない圧勝劇でSeattle Slew以来の無敗二冠を達成した。後方から差して2着となったRock Hard Tenとの着差は衝撃の11馬身半差。プリークネスS129回目にして史上最大の着差であり、またしても記録を塗り替えてしまった。
これで周囲の期待も一気にヒートアップし、「もうこれセクレタリアトの再来でしょ!」「種牡馬の権利に5000万ドル出しちゃう!」など狂騒もよりかしましくなりつつ、最終関門であるベルモントSに向かった。
老年で夢を叶えた生産者兼馬主のチャップマン夫妻の人気も上がって全米からファンレター殺到するような情勢で、ベルモントパーク競馬場には当時のレコードとなる12万139人が来場。視聴率も近10年では最高レベルを記録するなど、無敗三冠に挑む彼は全米の関心事となっていた。相手どころも前走までに大方勝負付けが済んだ馬ばかりで、単勝1.35倍の断然人気。もはや無敗の三冠は決まったも同然と見られていた。
しかし元々マイラーの父とスプリンターの母父という血統で距離には不安があり、さらにこれまでハイペースな逃げで折り合いを助けてくれていたLion Heartが回避。元来の勝ち気な性格も祟り、前に行かせようとした馬がスローに落としたために折り合いを欠き、向正面で先頭に立たされてしまう。
それでも並の二冠馬ではなかったかラスト1ハロンまでは快調に飛ばしたが、ついに力尽きたところにケンタッキーダービー8着から直行の伏兵・Birdstoneが強襲。抗いきれずゴール前で差し切られ、1馬身差の2着に終わり無敗記録もアメリカ三冠の夢も潰えたのであった。
ゴールの瞬間ベルモントパーク競馬場は「同日レーガン元大統領が逝去した報せがもたらされた時以上」だったと形容されたほどの沈黙に包まれた。勝ち馬であるBirdstoneの関係者も、馬主が「騎手に2着でいいと言い続けたのですが」とコメントし、その騎手であるエドガー・プラドは「スマーティージョーンズやサーヴィス調教師に申し訳ない。僕は自分の仕事を果たさなければならなかった」と謝罪するというクラシックを勝利した陣営とは思えない雰囲気であった。一部ではエリオット騎手の騎乗ミスを指摘する声や本馬を先頭に押し出した他馬の騎手への非難も聞かれたが、現在は距離不適だったという見方が大勢を占めている。
その後はBCクラシックを目標に調整されていたが、8月に四肢の管骨に慢性的な挫傷が発見されて現役続行を断念。引退となった。
年度代表馬は本馬が出走できなかったBCクラシック圧勝など5戦5勝(GⅠ3勝)のGhostzapperに攫われたが、最優秀3歳牡馬は受賞した。
引退後は大いなる期待を抱かれ名門スリーチムニーズファームで種牡馬入り。LexingtonやGlencoe、Seattle Slewが使った馬房を充てがわれ、国外からもダンスパートナーが種付けにやってくるなど大いに期待されたのだが、その期待にはイマイチ応えきれなかったと言わざるを得ない結果が続いている。
勝ち上がりやステークスウイナー率は悪くないのだがいかんせん小粒でGⅠまで届く産駒が多くなかったのが痛かった。
2011年にはスリーチムニーズを放出され、生まれ故郷のペンシルベニア州で種牡馬生活を送ることとなった。
種牡馬としてはケンタッキーダービーで破ったTapitはもちろん、BCターフ勝ち馬や後継種牡馬Kantharosを出したLion Heart、*ブラインドラックを出したPollard's Visionにも負けてしまったかもしれない。
日本関連だと持込馬として誕生した、左回りと関東遠征が苦手というハンデがあったダートスプリンター牝馬・ケイアイガーベラが有名だろう。
その特性故に現役時代はGⅢまでしか勝てなかったが、繁殖牝馬としてオーストラリアでGⅠ3勝を挙げて種牡馬入りした Fierce Impact、NHKマイルCを勝ちフランスで種牡馬入りしたケイアイノーテック兄弟を輩出するなど優れた才覚を見せた。
Elusive Quality 1993 鹿毛 |
Gone West 1984 鹿毛 |
Mr. Prospector | Raise a Native |
Gold Digger | |||
Secrettame | Secretariat | ||
Tamerett | |||
Touch of Greatness 1986 鹿毛 |
Hero's Honor | Nothern Dancer | |
Glowing Tribute | |||
Ivory Wand | Sir Ivor | ||
Natashka | |||
I'll Get Along 1992 鹿毛 FNo.1-x |
Smile 1982 黒鹿毛 |
In Reality | Intentionally |
My Dear Girl | |||
Sunny Smile | Boldnesian | ||
Sunny Sal | |||
Don't Worry Bout Me 1983 鹿毛 |
Foolish Pleasure | What a Pleasure | |
Fool-Me-Not | |||
Stolen Bace | Herbager | ||
Bases Full |
クロス:Bold Ruler 5×5×5(9.38%)
プリークネスステークスの勝ちっぷりは伝説級、一見の価値あり
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最終更新:2024/12/02(月) 17:00
最終更新:2024/12/02(月) 17:00
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