タンネンフェルス(封鎖突破船)とは、1938年6月11日に竣工したエーレンフェルス級貨物船3番船である。第二次世界大戦中にドイツ海軍が徴用し、補給用タンカーや封鎖突破船として運用した。1944年8月25日、連合軍の侵攻が迫るジロンド河にて閉塞船となるべく自沈処分。
タンネンフェルス(Tannenfels)は、ドイツの汽船会社ハンザがペルシャ湾やビルマ方面でサービスを開始するために発注したエーレンフェルス級貨物船8隻のうちの1隻。姉妹船がAGヴェーザー社のブレーメン造船所で建造される中、唯一タンネンフェルスのみデシマーグ社のゼーベック造船所で建造されている。
エーレンフェルス級は前期型と後期型に分かれており、タンネンフェルスを含む1938年以降に竣工した後期型は前期型より僅かに全長が長く、積載ブームが15基から13基に減らされているが、前期型が持っていない6トンブーム2基を持つ。またデジマーグ社で建造されたタンネンフェルスは船橋の直線的な前面部分が他の姉妹船と異なっている。姉妹船のうち、ゴールデンフェルスとカンデルフェルスは仮装巡洋艦に改装されてそれぞれアトランティスとピングィンとなり、ホーエンフェルスは英ソ軍のイラン侵攻時に自沈するがイギリス軍に鹵獲されて再就役し、そしてタンネンフェルスは封鎖突破船に改装された。MAN社製の6気筒複動2ストロークエンジン2基を搭載した事で出力が7600馬力に達し、客船にしては高速な速力16ノットを獲得した。
第二次世界大戦勃発とともに中立国であるイタリア領ソマリランドに退避。しかし、1940年6月10日にイタリアが枢軸国側で参戦した事でソマリランドも連合軍に攻撃されるようになり、1941年1月31日に脱出し、インド洋にて仮装巡洋艦アトランティスや重巡アドミラル・シェーアと合流。無事ボルドーへ帰投して敵の包囲網から脱した。その後は補給用タンカーに改装されるとともに封鎖突破船に指定。日本への派遣任務を成功させて貴重な資源を持ち帰った。その後、イギリス軍特殊部隊のコマンド攻撃を受けるも沈没には至らず。1944年8月25日、連合軍の侵攻が迫るジロンド河口にて閉塞船になるべく自沈処分された。
要目は排水量7840トン、全長155.47m、全幅18.69m、出力7600馬力、最大速力16ノット、乗員45名、載荷重量1万663トン。封鎖突破船となった後は15cm SK C/28砲1門、37mm高射機関砲1基、20mm高射機関砲1基を装備した。
1938年6月11日、ヴェーザーミュンデにあるデシマーグ社ゼーベック造船所でタンネンフェルスは竣工。母港をブレーメンに定め、開戦前は欧州と中東を往来して定期便サービスを提供していた。
ところが1939年9月3日にドイツ軍がポーランドへ侵攻した事で第二次世界大戦が勃発。当時インド洋を航海中だったタンネンフェルスは、ドイツ政府より「最寄りの中立国に入れ」との緊急通信を受け、イタリア領ソマリランド南部キスマヨ港に退避。だが、ここで完全に身動きが取れなくなってしまう。インド洋は英東洋艦隊の勢力圏であるし、スエズ運河はイギリス軍に押さえられているため通行不可、運良くインド洋を突破して同盟国の日本へ逃げようとしても今度は英植民地マレー半島が立ちはだかる。こうしてドイツ本国への道を断たれてしまったタンネンフェルスは、長らくソマリランドでの係留を強いられてしまう事に。ソマリランドにはまともな港湾施設や物資が無いため現状維持するだけでも涙ぐましい努力を要した。1940年6月10日にイタリアがドイツの側に立って枢軸国として参戦。これに伴い、ソマリランドも連合軍の攻撃対象となってイギリス軍の侵攻が始まったばかりか、イタリアの補給船もスエズを通れなくなって更に物資が欠乏する。
一時は優勢を誇った東アフリカ戦線のイタリア軍であったが、1941年に入るとイギリス軍の反攻作戦とエチオピア人による反イタリア蜂起が起こり、徐々に戦線を後退させられていく。キスマヨに程近いケニアからイタリア軍が叩き出されるのを見てタンネンフェルスは脱出を決意、寄港から1年4ヶ月が経った1941年1月31日、キスマヨを脱出してインド洋に落ち延びる。その直後の2月初旬よりイギリス軍のソマリランド侵攻が始まったため間一髪であった。ソマリアに寄港していたイタリアの輸送船団もインド洋へ脱出したが、その殆どが英東洋艦隊に捕まって壊滅の末路を辿ってしまった。
2月10日、通商破壊任務のためインド洋西部まで長駆していたドイツ海軍の仮装巡洋艦アトランティスと拿捕船ケティ・ブロヴィッヒ、スペイーバンクからなる小船団と合流。4隻は何かしらの物資不足や問題を抱えていたため、アトランティスのロッゲ船長の判断によって各船に任務を与え、任務に従事するにあたって足りないものは別の船から供出する方式を取る。タンネンフェルスは長期間の停泊の影響で船の状態が良くなかった。2月12日に部品と燃料の交換を終え、新たにインド洋へやってくる僚艦アドミラル・シェーアを迎えに行くため合流地点に向かうが、2月14日に猛烈な嵐に巻き込まれる。何とかマダガスカル東方約1000海里の合流地点に到着してシェーアと会同。ケティ・ブローヴィッヒがシェーアにディーゼル燃料を補給、そのシェーアからタンネンフェルスとアトランティスは燃料補給を受けた。ここへ来るまでにシェーアは英冷蔵船デュケーサを拿捕しており、出迎えてくれた3隻に新鮮な卵を振る舞った。
シェーアは通商破壊のためモザンビーク海峡へ行き、ケティ・ブローヴィッヒはオーストラリア方面での補給任務のため3月4日に離脱、タンネンフェルスとスペイーバンクもフランス回航が決まった。タンネンフェルスはスペイーバンクにパウル・シュナイデヴィント中尉率いる回航部隊を派遣し、アトランティスと別れてインド洋を出発。4月7日午前4時28分、哨戒中のU-105が英商船を発見して雷撃しようとしたが、直前でタンネンフェルスだと気付いて中止している。それ以外は何事も無く4月19日に無事ボルドーへ到着した。スペイーバンクも5月10日にボルドーへ入港。シュナイデヴィント中尉はタンネンフェルスに復帰せず、そのままドッガーバンク(スペイーバンクを改名したもの)の船長に就任した。
長らく整備を受けていなかったのでボルドーの造船所に入渠してオーバーホール。その際に海軍へ徴用されるとともに補給用タンカーに改装、補給に必要な諸設備を搭載する。タンネンフェルスが改装されている間にも戦況は目まぐるしく変わっていた。極東の同盟国日本が12月8日に枢軸国として参戦し、アメリカが連合国として参戦。今まで比較的安全だった太平洋方面にも戦火が及ぶようになった。そしてタンネンフェルスは、連合軍の海上封鎖を突破して日本に派遣される封鎖突破船に指定。新たに15cm SK C/28砲1門、37mm高射機関砲1基、20mm高射機関砲1基を装備する。商船に化ける必要があるため自衛程度の武装が限界だった。
1942年2月2日、ハース大尉指揮のもと、日本向けの工作機械や軍需品を積載してボルドーを出発。アメリカが参戦したとはいえ、この頃はまだ連合軍も戦力が整っておらず、その隙を突いてタンネンフェルスは突き進む。また連合軍の攻撃だけでなく味方のUボートの誤射にも気を付けなければならなかった。何せ、封鎖突破船シュプレーヴァルトは去る1月31日にU-333の誤射で撃沈されていたのだから。連合軍の警戒網を巧みに掻い潜りながら大西洋、喜望峰、インド洋、南シナ海を突破。5月11日、神子元島の160度5海里沖で敷設艇高千代丸と合流、同日深夜には八丈島近海を哨戒していた雑用船第2日吉丸が護衛に加わり、館山まで警護を受けた。そして5月12日に横浜へ到着。運んできた積み荷を降ろして往路を成功させる。
8月8日、戦争遂行に必要な生ゴム、タングステン、チタン、銅、アヘン、キニーネ、食用油などの原材料を、そしてお土産として供与された中島飛行機製水上機を積載して横浜を出港。帰国の途上で仮装巡洋艦トール、ミヒェル、シュティーアに補給を施す予定となっていた。8月29日、インド洋上で最初にトールと会同。拿捕したノルウェータンカーヘルボルグとマドロノ、撃沈した英冷蔵船インダスから得た捕虜をトールから引き取る。身軽になったトールはオーストラリア方面へ向かって去っていった。9月21日、南大西洋でミヒェルと会同。捕虜を引き取るとともに物資を補給する。9月25日に最後の相手となるシュティーアと合流し、持っていた中島製水上機を譲渡するが、調べてみたところ使用出来ない事が判明してしまった。
9月27日早朝、視界不良かつ海が荒れる中、タンネンフェルスはシュティーアの後ろを続航していた。乗組員が船体側面の掃除や再塗装を行っていたその時、左舷側のスコールから突如としてアメリカ船スティーヴン・ホプキンスが出現。予期せぬ形で敵船と横並びとなる。直ちにシュティーアが速力を上げて砲塔を旋回させ、スティーブン・ホプキンスも船尾の10.2cm砲で攻撃するべく速力を上げる。
武装が貧弱なタンネンフェルスは一定の距離を取ってスティーブン・ホプキンスが発信する救難信号を妨害、増援が来ないよう仕向ける。スティーブン・ホプキンスに砲撃を仕掛けるシュティーアだったが、逆に2発の命中弾を受けて右舷側にしか舵を切れなくなり、船内電源を喪失して魚雷も発射不可能、またエンジンへの送油管を断たれて航行不能に陥ってしまう。それでもシュティーアは左舷側の武装を使って応戦。スティーブン・ホプキンスとの距離が1000mも離れていない事から高射機関砲による射撃も有効で、シュティーアとともにタンネンフェルスも高射機関砲をスティーブン・ホプキンスに激しく叩き込み、あっと言う間に炎上させた。シュティーアは特にうるさい敵の船尾砲を集中的に狙って砲座にしがみつく砲手を次々に打ち倒していたが、損害を物ともせず続々とやってくる交代要員に手を焼く。ようやく交代要員が尽きた事で船尾砲は沈黙。戦う術を失ったスティーブン・ホプキンスは2隻から容赦のない機銃掃射を浴びせられ、ついに観念したのか海へ飛び込む敵船員が出始めた。
勝負はついた。1時間以上に及ぶ砲撃戦の勝者はシュティーア…のはずだったが、シュティーアにも最期の時が迫りつつあった。15発もの命中弾を受けた事で石炭貯蔵庫を含む船全体が火災に見舞われ、喫水線より下に穿たれた破孔により浸水も進んでいた上、電気系統の喪失で消火すらままならない絶望的状況に追いやられる。もはや救う手立ては無いと悟ったシュティーアのガーラッハ船長はハーセ船長に船の放棄を伝えた。スティーブン・ホプキンスは沈没の途上にありながらも、敵の無線通信士が救難信号を発信しようとしていたため、シュティーアからの砲弾がキャビンごと通信士を吹き飛ばした。いつ大爆発が起こるか分からない中、タンネンフェルスは救助活動のため果敢にシュティーアへ接近。燃え盛る船体を目の当たりにしてタンネンフェルスの乗組員は「これほど重武装を施したシュティーアが撃沈されるとは信じられない」と一様に思ったという。シュティーアの生存者321名に加え、かつてシュティーアが撃沈したパナマ船スタンバック・カルカッタの捕虜もまとめて救助したため、タンネンフェルスの船体はパンパンとなって燃料や物資の不足が表面化してきたという。救助されたルドルフ・ペーターセン一等航海士は「我々はこれ以上長くは生きられなかった。今回は助かる事が出来たが、毎回タンネンフェルスがいるとは限らない」と感謝の言葉を述べた。
シュティーアを呑み込む炎が魚雷保管庫に到達した事で遂に大爆発を起こし、船体は急速に沈没。続いてタンネンフェルスは同じく沈没したスティーブ・ホプキンスの生存者を探したが、視界不良に阻まれて誰一人救う事は出来なかった。ちなみにシュティーアからの救援要請はミヒェルが受信していたがイギリス軍の罠と疑って来なかった。救助活動を終えた後、ボルドーに向けて出発。
10月16日、タンネンフェルスの帰国を援護するためU-105とU-154に護衛命令が下るが、封鎖突破船の位置は司令部しか把握していないため合流に手間取り、10月22日14時にようやくU-154が合流に成功した。数々の困難を突破して11月2日にジロンド河口まで辿り着いた。タンネンフェルスは引き続き封鎖突破船としてフランスを出発する予定だったが…。
12月7日、ビスケー湾ジロンド河口沖16kmに英潜水艦ツナが浮上。H.G.ハスラー少佐率いるイギリス軍の特殊部隊10名が5隻のコックルMk.Vカヌーに分乗し、ボルドーに停泊中の封鎖突破船を攻撃するため川を遡行し始めた。荒天により2隻が途中で沈没したが、ドイツ軍のフリケード艦や検問所を突破して最終的に3隻のカヌーが港内まで辿り着き、12月11日21時より埠頭の西側の船舶から攻撃を開始。停泊中の船舶に長さ約1mの棒を使ってリムペット吸着機雷を取り付ける。それが終わると翌12日午前0時45分、引き潮とともに港内から脱出していった。午前8時30分、タンネンフェルスに付けられた吸着機雷2発が爆発し、船倉に穿たれた破孔から海水が流入、左舷側へ24度傾きながら大破着底してしまった(異説では着底しなかったとも)。このコマンド攻撃によりタンネンフェルス、アラバマ、ポートランド、ドレスデンが沈没。対する特殊部隊はと言うと、10名中8名がドイツ軍に拘束・処刑されるか、カヌーから落水した事が原因で低体温症を起こして死亡している。
ドイツ軍がダイバーを潜らせたところ、タンネンフェルス、アラバマ、ポートランドの3隻は修理可能と判断し、何とか浮揚して乾ドックへ入渠。大規模な修理を実施して復帰させる事に成功した。復旧させた他の船舶同様、1943年末に封鎖突破船として再び日本に赴く予定だったが、同年中の封鎖突破船の喪失率が非常に高かった事から中止となり、以降はボルドーで係留。
1944年6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸してフランス方面に第二線を構築。大西洋に面したUボートの出撃基地を潰すべく、8月初旬よりアメリカ軍がブルターニュ半島を南下。フランス在泊のUボートは続々とノルウェー方面への脱出を図った。連合軍の足音が迫る8月25日、ドレスデン、フジヤマ、機雷原突破船14号、クンメルラント等とともにバッサン近郊で閉塞船となって自沈処分。
長らく残骸は放置されていたようで少なくとも1956年12月までは残っていた模様。
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