西川貴教のオールナイトニッポン 単語

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ニシカワタカノリノオールナイトニッポン

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西川貴教のオールナイトニッポンとは、ニッポン放送1997年1月6日から2005年9月26日まで放送されていたラジオ番組。

概要

パーソナリティT.M.Revolutionこと西川貴教

女性ファンによるアイドル人気の高かった西川貴教が、この番組では開けっぴろげかつ過フリートークコーナーを展開し、男性ファンも獲得するきっかけを作った人気深夜番組である。

放送時間を転々としながら、レギュラー期間8年9ヶという、歴代6位の長期にわたって放送されたラジオ。番組放送期間中に「ニッポン放送旧社屋⇒建て替え中、お台場フジテレビから放送⇒有楽町新社屋に移転」を経験したオールナイトニッポンパーソナリティナインティナイン1994年2014年)、福山雅治1992年2015年)と西川貴教1997年2005年)だけである。

この番組で活躍したハガキ職人の中には楽屋ニュースサービスカード高柳など放送作家としてプロデビューした者も多くおり、いわゆる「お笑いラジオ番組」としても非常に高い評価を得ていた。

歴史

その始まりは1997年1月月曜深夜3時からの2部であった。
後々明かされた話では、T.M.Revolutionとしての3rdシングルHEART OF SWORD」のスマッシュヒットで注が高まっていた西川貴教と、オリコンシングルチャートトップ10常連声優となりつつあった林原めぐみ、どちらかが起用される予定だったという。
(余談だが、仮に林原が起用されていれば、京AMラジオ局同時期制覇が達成されていた。)

月曜2部での好評を受けて、1997年10月金曜日へ移転。「Music Revolution」の副題が加えられ、1時3時の1部、3時5時の2部、計4時間を1人で務め抜く。のち、1998年4月金曜1部のみの担当となり、副題も撤去された。
明石家さんまが、いつになったら歌を辞めて芸人に転身するんだという表現で絶賛するトークセンスは既に健在であり、この頃から、リスナーも巻き込んだ企画が多々行われるようになる。

そして1999年4月ニッポン放送の大規模な放送日程改変により、22時0時に「オールナイトニッポンSUPERが新設され、火曜SUPERの担当に抜される。今でも伝説的に語られるレイヴの数々は、だいたい火曜SUPER時代に行われたものである。

ときに始末書が飛び交いながらも好調を維持していた西川ANNだったが、2003年SUPER止にともない、放送変更を余儀なくされる。
移転先は月曜1部。TBSラジオでは「伊集院光 深夜の馬鹿力」がそびえる、いわばマニア向けっ向勝負を挑んだ格好だったが、それまでを支えていたスタッフの降人気DJの放送時間が重なったことによるリスナーの流動化などにより、かつて公式サイトでも暗期と称されたほど迷走していた。
2005年に往年の担当スタッフ復活するも、2005年9月レギュラー放送終了レギュラー最終回では、それまでにもハガキ職人レースの成績上位者を対に行っていたスタジオ見学招待権を広く開放、リスナーフレンドリーな番組らしい大団円を迎えた。

…が、約3ヶ後の2006年元日深夜1時、TMRセルフカバーベスト『UNDER:COVER』発売記念として1日限りの復活2010年にはミュージカルの宣伝として単発放送を行い、そこからほぼ年1回は特別放送を行っている。
一方、2011年からは、平日の10分間に「ちょこっとナイトニッポン」と題された帯番組の放送も開始。ただし、野球シーズンには中継時間延長で休止になることも少なくなく、西川本人も、2013年5月ANN特別回にて、当時セ・リーグ最下位に沈んでいた中日ドラゴンズ勝率と、ちょこっとの放送頻度、どっちが低いのかとネタにしていた。

主なハガキコーナー

踊るダメ人間日記
毎日意味、無気力的に生きるダメ人間どもの日常日記ってもらう、このラジオの名物コーナー。単独記事があるのでそちらも参照。
寝た子も叫べ!起きぬけテレフォン
踊るダメ人間日記」とならぶ名物コーナー。番組宛てで送られたハガキに書いてあった番号電話をかけ、西川の「んちゃ!」という第一に「えへ。」と返すことで、ラジオを聞いていたかどうか判断するという内容。携帯電話が普及する以前からあったコーナーであり、また深夜帯の放送ということもあって、事情を知らないリスナーなどが電話に出た際は身低頭に旨を説明し、本人に電話に出てもらうよう理解をめていた。
かつて、第一電話に出なかった、当時札幌市在住のリスナー住所と本名を(気まぐれで)開したところ、知らない人から年賀状が大量に届いたという。もちろん、個人情報概念が定着した現代ではできないネタである。
ヒムニッキ
日記ネタコーナーではあるが、氷室京介の歌のを織り込むのが絶対条件。TM NETWORK編にあたる「TM NIKKIWORK」、浜崎あゆみ編にあたる「カリスマちゃんのヒョウ柄日誌」も存在し、ヒョウ柄日誌期には、「釣りバカ日誌」の主人公浜崎伝助とかけあわせたネタが通例だった。
あなたが私にくれたもの
JITTERIN' JINNのヒット曲「プレゼント」の替え歌を考えるコーナー1999年に、当時水曜SUPERを担当していたゆずハガキ職人対抗戦を開催したときに使われた。
キリンが食べ残したピラフは出てこない。とりあえずヴァン・ヘイレン
マル得ネットサーフィン
とあるホームページに書いてあった情報という体で商品や人物などを紹介するコーナーネタ紹介の際には、「(投稿者)のホームページアクセス」という定句があった。
本当にあったらコワイ
実際に起こったら怖いと思うシチュエーションを、芸能人と組み合わせて披露するコーナー。後半で大きな方向転換が行われることになるが、詳細は後述。
深田恭子 in my room
平日深夜0時40分頃に放送されていた帯番組「深田恭子 in my room」のパロディコーナー2000年8月に行われたマラソンレイヴの発端でもある。
ちょボラ
ネタ元は、ちょっとしたボラティアの略として、2000年頃にACジャパンが提唱した言葉。
黄色いTシャツのせいか、日本ではとかく大げさにとらえられがちなボランティア、慈善といった言葉を、身近なレベルでとらえてもらおうという旨の運動に引っかけたコーナー
検索結果ゼロ
インターネット検索エンジンに入力しても情報を得られなかったキーワード3語の組合わせを送ってもらうコーナー。決して面い言葉を3つに区切って発表するコーナーではない。あとスパッツは万じゃない

レイヴ

元は「馬鹿騒ぎ状態」をす英単語。このラジオでは「お祭り」とも表現され、ときにハガキ職人たちも巻き込んでさまざまな「お祭り」が行われた。ちなみに、ラジオ界におけるスペシャルウィークの期間は「聴取率を調するレイヴ」と表現していた。

一部、厳密にはレイヴと呼ばれない番組の名迷場面もあるが、以下に一例を列挙。

早大合格応援プロジェクト

金曜1部後期のレイヴ

1990年代後半に俳優アイドルとして絶大な人気を集めていた、広末子の早稲田大学入学が報じられると、同級生になりたい一心で早大入学したファンが続出。西川ANNハガキ職人「広末教信者」氏もその1人であり、「ASAYAN」のごとく、番組で入試までのもようを逐一追いかけていくことに。
結果として、広末と同期にあたる1999年度での早大入学は実現しなかったが、多くのリスナー感動と反を与えた。

史上最強のダメ人間グランプリ

踊るダメ人間日記」のスピンオフとして、金曜1部後期火曜SUPER初期にかけて行われた企画

優勝者「ユースケ」には、副賞として女子リスナー「やぐっち」と週1回の電話デート権が与えられ、その様子は番組内で開されていた。
そして1999年、2人を実際に会わせようということになり、ユースケが住んでいた岐阜県から、やぐっちの住む青森県まで普通列車を乗り継ぐお見合い旅行が行われて企画はひと区切りを迎えた。

お野菜クイズ

女子リスナーひとのあやまち懺悔大会」にてその存在が全に知れ渡った、性交渉中のゲーム

元は、女子目隠しをされた状態で下半身に刺さった野菜が何かを当てるのを旨とするゲームだったが、この告白を聞いた人たちから反が殺到。女子リスナーが口に野菜をくわえた状態で何と言ったのかを当てるようにアレンジしてコーナー化もされたが、マイナスの反も殺到したため数回で中止に。
しかし、後継の下ネタクイズコーナーとして、女子リスナー性感帯を当てるクイズが始まり、5週勝ち抜きを達成した「楽屋ニュース先生は、セクハラアンケートに欠かせない存在となる。

お台場までマラソン

前述のパロディコーナーをきっかけとして、深田恭子本人をゲストに迎え、そのローテンションぶりを実際に体感しようとしたが、2000年8月の招聘に失敗。罰として、スタッフの1人を、深田が所属するホリプロの本社前からニッポン放送台場スタジオまでマラソンさせることになり、抽選を経てディレクター岡部氏が走らされることに。
ゴールを迎えたのは深夜1時直前、「加藤オールナイトニッポン」が始まろうかというときだった。

なお、深田ゲスト出演自体も、2000年10月スペシャル企画として事に実現させている。

急襲引越祝い

実家を発って一人暮らしを始めたスタッフへのお祝いと称して、ハガキ職人たちが侵入。面をビジュアル系バンドポスターで埋め尽くしたり、浴槽一杯にフルーチェを作ったりとやりたい放題暴れていった。

引越しにまつわるレイヴはその後も数回行われ、あるときは風呂場で引越しそばを楽しんだり、あるときは構成作家本間氏をニッポン放送社屋内の階段下に転居させて怒られたりした。

玉鉄からの苦情

2001年SUPER全曜日共通のスペシャル企画として行われていた、リスナー庭訪問でのエピソード

当時、甥ので「百獣戦隊ガオレンジャー」にはまり、劇中で変身と通信に用いられていた携帯電話、Gフォンのおもちゃまで買っちゃった西川ちゃんは、この庭訪問企画ガオレンジャー変身後のスーツを借りられないかと提案。実際に訪問した時には、ガオレッドスーツを着た操演者と、ガオレンジャーを支える巫女役の岳美に加えて、ネバギバコンビと呼ばれて共に行動することも多かった、ガオブルー役の柴木丈瑠とガオブラック役の酒井一圭も急遽参加するというな顔ぶれに。
ここで、遅くということもあり、寝ぼけていた訪問先の子どもからガオシルバーに間違われた西川ちゃんは、明日から撮に参加しようかなどと言い出し、直後の曲紹介でも「ガオシルバーBOARDING」などと浮かれまくっていた。
そして、本来なら番組名をコールするジングルが流れるCM明け、ガオシルバー役の玉山鉄二本人が電話出演で釘をさし、聞いていた多くの人が「ちょwwおまww」状態になった。

加藤晴彦心霊ドッキリ

2001年まで西川SUPER終了後の火曜深夜1時からのオールナイトニッポン(com)を担当していた縁で交流を深めた俳優加藤に対して行われたドッキリ加藤ANNレギュラー放送が終了していた2002年11月26日映画開のためゲストとして読んだ加藤に、心霊現象に見立てたドッキリを敢行。このときの悲鳴は、西川ANNCMや本当にあったらコワイ話のSEとして使われることとなる。

なお、本当にあったらコワイ話の方については、悲鳴SEが面すぎてネタが食われる事態に発展した。

吉田尚記アナ(通称:よっぴー)レイヴ

1999年ニッポン放送に入社。このラジオにも必要不可欠な、1会社員を飛び越えて活躍を見せるアナウンサー吉田尚記過去にはレイヴ実況も務めていた彼だが、復活祭のときには被害を受けることが多い。

西川ANNでのデビュー2001年07月10日ディレクター石田部屋吉田尚記+リスナー二人でポスター貼りまくる「石田EXPO」を開催した際に登場。さらに2001年08月28日には石田君の宅のお風呂フルーチェを作るというレイブでも現場中継を担当、対応の良さなどから西川から高い評価を受け、すっかり番組には欠かせない存在となった。・・が後に彼自身もレイブの対となってしまう。

2002年08月13日、放送中に本間石田吉田尚記を外に出し、見つけてタックルすると番組ステッカーが貰える「ホンマにタックル2002」を開催。このレイブでタックルされた吉田アナ骨折し、始末書よりも重い末書を提出する事態となった。

2006年には、元日深夜神社にて、に打たれるなどして身を清める「離」の名熱湯をかけられる、
2010年には、夫人に高価なアニメDVD-BOXなどの私物をいて壊される など。

サービスカード夫人公開パーティ

このラジオハガキ職人として活躍し、今ではニッポン放送で放送作家になった「サービスカード高柳」氏。
2012年結婚しており、2013年2月オールナイトニッポン45周年記念45時間放送が行われた際に、かつての仲間たちへの夫人披露会の様子が放送され、引越しレイヴと変わらないノリで祝われた。

ちなみに、2013年4月に正式な結婚式を行ったもよう。

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