チャック・イェーガーとは、アメリカ合衆国の軍人である。世界で初めて水平飛行で音速を超えた人として知られる。
概要
本名はチャールズ・エルウッド・イェーガー、チャックはニックネームである。アメリカ軍の戦闘機パイロットとして第二次世界大戦の欧州戦線でP-51"グラマラス・グレニス"を駆って活躍し、スコアは11.5機で内訳はBf109が6.5機(.5は共同戦果を意味する)、Fw190が4機、Me262が1機である。
戦後、アメリカ空軍へ移籍し、ロケット飛行機ベルX-1による音速突破実験にテストパイロットとして参加。1947年10月14日、世界で初めて水平飛行で音速を超えた人物となる。この実験後も軍務を続けながら数々の実験でテストパイロットを務め、多くの記録を打ち立てた。1975年に准将で退役し予備役に編入される。その後予備役少将に昇進。2012年10月14日には音速突破65周年記念としてF-15Dで再び超音速飛行を行った。
2020年12月7日(日本時間では8日)、死去[1]。97歳だった。
生涯
1923年2月13日、ウェストバージニア州マイラで農業を営む両親のもとに生まれる。兄ロイ、弟ハルJr、妹ドリス・アン[2]、パンシー・リーの五人兄弟の次男。少年の頃は好奇心旺盛で、祖父からハンティングや釣りを教わり、勉学よりもこちらを好んだ。また、10代の頃には父の手伝いから機械に興味を持ち、ピックアップトラックのエンジンをバラしたりしている。
高校卒業から3ヶ月後の1941年9月にアメリカ陸軍航空軍(USAAF)に入隊し、航空機メカニックとして配属された。この時は年齢や学歴からパイロットに適さないと判断されての配属決定だったが、その直後にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦し状況が一変する。パイロットの選定基準が緩和され、イェーガーは視力の良さも相まって戦闘機パイロットとしての道を歩むことになる。
P-39での訓練を受けたのち、1943年9月にイギリス本土へと移動し、P-51B(イェーガーはグラマラス・グレニスと命名)に機種転換して訓練を行う。1944年2月から戦闘任務に従事するようになり、早々にBf109を1機撃墜するが、3月5日における8回目の任務で撃墜され、フランス本土に一人降り立つ。何とかマキ(フランスのレジスタンス組織)の助けを借りて中立国スペインへと脱出、5月15日にイギリス本土へと帰還する。ちなみにマキと一緒に行動する間、爆弾作りでマキを手伝ったとか。なんというリアルエネミーライン。その後、「レジスタンスに助けられたパイロットは再びパイロットとして復帰できない」という規定の問題で一悶着があったが、なんとか戦闘機パイロットとして復帰、1944年9月6日には着陸直前のMe262を撃墜、同9月27日には4機のFw190を撃墜してエースパイロットとなる。極めつけは1944年10月12日、1度の任務でBf109を5機撃墜して“Ace in a day”の称号を得た。これ以外にも、共同戦果としてBf109を1機撃墜している。最終的な第二次世界大戦での彼の撃墜スコアは11.5機である。
1945年2月26日にガールフレンドのグレニスと結婚。戦後は航空機メカニックの知識がある点を買われ、テストパイロットとしてアメリカ空軍へと移籍する。そこでベル社の開発したロケット航空機X-1(当時はXS-1)に搭乗、複数回の実験を行った後、1947年10月14日にX-1の4基中3基のロケットエンジンを使って高度13,700mをマッハ1.07で飛行することに成功。世界で初めて水平飛行で音速を超えた人間となる[3]。その後も同年11月6日にマッハ1.36、翌1948年3月26日にはマッハ1.44を達成するなど順当に超音速の記録を更新し続けた。1953年にはマッハ2を突破する実験に参加。残念ながら同年11月20日に初のマッハ2突破を他人に達成されてしまうが、12月12日にX-1Aでマッハ2.44を達成し再び最速の男となる。
軍人としてのキャリアも重ね続け、1954年に第50戦闘爆撃航空団第417戦闘爆撃飛行隊の指揮官となり、1957年までドイツとフランスに駐留した。ちなみにこの部隊、F-86Hセイバーで構成され、最初は防空任務を担当していたが、イェーガーが指揮官として率いている間に任務が変更され、戦術核攻撃が任務となっている。その後はアメリカ本土に戻り、1960年まで戦術航空軍団(TAC)でもエリート部隊の1つである第1昼間戦闘飛行隊の指揮官となる。当時、第1昼間戦闘飛行隊では長距離展開のための空中給油能力獲得を目指していた最中であり、ナビゲートミスや空中給油機とのランデブー失敗など問題も多かった。イェーガーはこの部隊を訓練・指揮し、1958年にはTACとしては初となるアメリカから大西洋を越える長距離展開を行い、スケジュール通りに第1昼間戦闘飛行隊に所属する全てのF-100をスペインのモロン空軍基地に着陸させた。この完璧な成功は「初めて音速を突破したのと同じくらい良かった」と彼は後に回顧している。部隊はこの成功から4ヶ月後には再び大西洋を渡ってアメリカに帰還した。
1961年、中佐に昇進。同時に再び飛行試験に関わるようになる。1962年にイェーガーはアメリカ軍で宇宙飛行を行うテストパイロットを養成する学校の校長となり、既存のテストパイロット向けカリキュラムに天体物理学や軌道力学も取り入れた新しいカリキュラムをもって、厳しい入学審査を通った学生たちを鍛え上げた。この学校は1961年から1971年までの10年間で素晴らしい功績をあげ、37名の卒業者がアメリカの宇宙プログラムに選抜され、26名がジェミニやアポロ、スペースシャトルのプログラムに従事して宇宙飛行士であることを示すアストロノートバッジを得ている。
1963年12月10日、学校のカリキュラムで使用するNF-104をイェーガーが試験飛行している際にトラブルが発生。機体がきりもみ状態となり、イェーガーはリカバーしようとするが最終的にはじき出され、生還するも重傷を負う。が、わずか6週間で飛行可能なまでに回復して復帰を果たし、1964年1月29日には前年12月3日からテストパイロットに任命されていたリフティングボディ[4]実験機のM2-F1(通称「空飛ぶバスタブ」)で試験飛行を行っている。
1966年、第405戦術戦闘航空団の指揮官となってベトナム戦争に従軍。414時間、127の任務をこなし、その大半はB-57の機上で過ごした。1968年3月から6月まではF-4ファントムIIで構成された第4戦術戦闘航空団の司令官として韓国に駐留し、この航空団を素晴らしい部隊に育て上げる。同年6月22日には准将に昇進。以降、退役までその階級であった。1969年7月、イェーガーは第17空軍の副司令官としてヨーロッパに戻り、西ドイツ軍との合同軍事演習や合同訓練の構築のため働く。1971年から1973年にはパキスタンで勤務、パキスタン空軍にアドバイスを行う。その後はアメリカ本土に戻り、ノートン空軍基地で航空安全局長として勤務する。1975年、エドワード空軍基地でF-4Cでの最後の公式飛行任務を終えたのち、ノートン空軍基地で退役する。退役までに殊勲十字章、シルバースター、ブロンズスター、パープルハート等幾多の勲章を授与され、搭乗した軍用機のモデルはおよそ180種類にのぼり、総飛行時間は10,131.6時間であった。しかし、退役後もエドワード空軍基地で空軍とNASAのテストパイロットとして時たま飛行することがあった。
1983年には自分が主人公の一人となっている映画「ライトスタッフ」にバーのマスター役でカメオ出演。1997年10月14日の音速突破50周年記念式典において、F-15D"グラマラス・グレニスIII"で再び音速突破を果たし、これがアメリカ空軍における彼の最後の公式飛行記録となった。2005年にはテストパイロットからも完全に引退する。同年、2004年の議会決定に基づいて予備役少将に昇進する。2012年10月14日、音速突破65周年記念式典においてF-15で再び音速を突破、ちなみにこの時御歳89歳。元気すぎだろ。
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関連項目
脚注
- *チャック・イェーガーのTwitterアカウントへご夫人のヴィクトリアさんが投稿したツイート
- *チャックが4歳の時、ロイが父親のショットガンで遊んで暴発させ、弾があたってわずか2歳で死亡している。
- *ちなみにこの時、イェーガーは2日前の落馬事故で肋骨を骨折していた。
- *翼ではなく胴体で揚力を得ようというコンセプトの飛行機。この飛行機の開発で得られたデータは、スペースシャトル設計において参考の1つとされた。
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