三線(沖縄三味線・琉球三味線)とは、琉球王国を代表する弦楽器である。読みは「サンセン・サンシン・サンシル・サミシナ」などあるが、「サンシン」が一般的である。
日本(大和・内地)では蛇皮線(ジャヒセン)・蛇味線(ジャミセン)などの蔑称がある。
概要
本島(沖縄島)で用いられる三線について
本土の三味線と比較すると小柄で、サワリがなく音は重厚である。演奏の際、指掛けを用いない。
棹(ソー)の形状によって、最古の南風原型(フェーバル)、知念大工型(チネンデーク)、久場春殿型(クバシュンディン)、久場の骨型(クバヌフニ)、真壁型(マカビ)、平仲知念型(ヒラナカチネン)、与那城型(ヨナグスィク)と七つの代表的な型がある。各々の型は製作者の名前に由来し、「天」や「鳩胸」などが異なる。最も一般的なものはマカビである。また近年でも新しい型の製作は試みられており、又吉真栄が千鳥・鶴亀を作った。これらは崇元寺通り「またよし三線店」で求められる。
三線の名器を指して開鐘(ケージョー)と呼び、有名なものに名器中の名器と呼ばれる盛嶋開鐘(ムリシマケージョー)がある。ほかに、西平開鐘(ニシンダ ケージョー)、翁長開鐘(オーナガケージョー)、志多伯開鐘(シタハクケージョー)、湧川開鐘(ワクガーケージョー)、富盛開鐘(トムーイケージョー)などが知られている。
各パーツについて
棹(ソー)は黒木(クルチ)が一般的であり、八重山のものが上等とされる。他に紫檀、ゆし木、桑の木などが用いられる。表面は黒く漆塗りされるが、近年ではウレタン塗装である。
胴(チーガ)に張る皮はビルマニシキヘビである。決して沖縄で有名なハブではない。近年、ビルマニシキヘビの輸入はワシントン条約によりベトナムのみに依存しているため、人工皮の普及も著しい。本物のヘビを使用したものを「本皮」、布素材を用いたものを「人工皮」、人工皮の上に本物のヘビ皮を重ねたものを「二重張り」という。本土の三味線は湿気を極度に嫌うが、三線はむしろ過度な乾燥は大敵である。
爪(バチ)は水牛の角であり、右手の人差し指にはめ、親指で支える。
馬(ンマ)・からくり(カラクイ・ムディ・ジーファー)の素材は特に決められておらず、棹を切り出した際に余った木材等を使用している。
弦(チル)は白色ナイロンである。低音部から順に、男弦(ヲゥーヂル)・中弦(ナカヂル)・女弦(ミーヂル)と呼ぶ。
胴を巻く手掛け(ティーガー)には、琉球王家の紋章の左三つ巴が模様づけられる。
奄美の三線について
バチには細く長い竹の皮を用いる。沖縄の三線ではあまり使われない返しバチ(スクイ)というテクニックを多用するため、しなる素材が適している。沖縄より皮は薄く、弦は細く黄色である。その昔、絹で作った細い弦を補強する為に卵黄を塗った名残である。棹は塗りをしないことが多い。各部呼称が異なる。奄美地域では蛇皮線と呼称する奏者が比較的多い。また、工工四のような楽譜は存在しない。
琉球古典音楽と三線について
三線には工工四(読みはクンクンシー・クルルンシー・クンクルシーなどあり、クンクンシーが一般的である)と呼ばれる楽譜が存在する。縦書きで表記され、各種記号と漢字(合・乙・老・四・上・中・尺・工・五・六・七・八・九及び下)とカタカナ(イ・ロ・ハ)を用いる。
奏法はほぼ声楽と併用される。一部、琉球筝曲との演奏は器楽として三線を用いる。詩は主に琉歌(和歌の対語)である。 調子には、本調子・二揚がり・三下がりなどがあるが、本調子の曲目が多い。
湛水流・安冨祖流・野村流の三流がある。奏法・発声法などに差異がある。その正装は紋付袴である。これは日本向けの服装であり、琉球王国時代は役人の服装:黒朝衣鉢巻(クルチョーハチマチ)であった。現在野村流は琉球古典音楽において多数派である。現在湛水流は指で数えられるほどの者しか教師免許を持っておらず、絶滅が危ぶまれる。
民謡と三線について
民謡の奏法は音楽的に自由である。流派もあるが、古典ほど厳密ではない。宮古民謡・八重山民謡・沖縄民謡の別は多くあり、詩・発声・曲風に現れるが、楽器としての三線はほぼ同質である。
踊りと三線について
琉球舞踊の伴奏には必ず三線が行う。また、ユネスコ無形文化遺産の組踊でも三線を必ず用いる。エイサーでは地謡(ジウテー・ジカタなどと呼ぶ)が久場傘をかぶり三線を弾く。他多くの祝い事・式典・祭事の際、三線による演奏が用いられる。
三線の歴史
- 伝説では、屋嘉村(現石川市)の赤犬子(アカインコ)、もしくはいんこねあがり(インクニアガリ)と呼ばれる者が、雨だれの音を聞き、久場の木から三線を作り出したとされ、読谷村にお宮が祀られる。
- 14世紀末以前に中国福建省南部の三弦(samhian)が本島に舶来したとされる。その後琉球王国が誕生し、奄美・宮古・八重山に支配層の持ち込みにより伝達される。高級品であり、士族には漆の箱にいれて床の間に飾る習慣が広まったが、庶民は芭蕉の渋を紙に張って皮とした「渋張り(シブハイ)三線」を作り、仕事終わりの村遊びである毛遊び(モーアシビ)で演奏したりした。
- 16世紀、大阪泉州の堺港に渡来し、琵琶法師に目をつけられこれが日本三味線の元となる。
- 17世紀、琉球王国は薩摩の支配下に入ったため、日本文化励行が流行った。この頃、三線の音楽的要素や部品の呼称などが日本化されたと推測される。
- 17世紀中頃、三線は琉球王国を代表する楽器にまで普及し、王府が国楽として取り入れ、三線主取(サンシンヌシドゥイ)なる役職を設け、中国からの冊封使歓待の七宴や、各種儀式で用いられるようになった。
- 17世紀後半、湛水親方(和名:幸地賢忠)が湛水流で三線の音楽体系を作った。
- 1719年、踊奉行(ウドゥイブジョー)なる役人であった玉城朝薫(唐名:向受祐)により組踊が考案され、組踊に三線が用いられる。
- 19世紀中頃、湛水流の中から野村安趙が野村流を、安冨祖正元が安冨祖流を興す。
- 去る大戦の直後、米統治下の沖縄において「缶から三線」が誰ともなく生み出された。これは、従来の渋張り三線の現代版であり、米軍兵のゴミ:クッキーの缶・2×4(ツーバイフォー)のベッド用木材・パラシュートの紐などから作られた。
- 戦後復帰の中で、沖縄民謡の巨匠、登川誠仁(幼名:盛仁)により「民謡ショー」が考案され、それまで踊りとセットが常識であった三線を、演奏のみの披露に昇華させた。これはラジオの普及が一因でもある。また、照屋林助が三線漫談「ボードビルショー」を考案した。その息子、照屋林賢が「りんけんバンド」を結成し、三線・沖縄音楽のポップミュージック化を図った。
- 1990年代以降にはTHE BOOMが日本音楽と沖縄音楽の融合を目指した「島唄」で使用され、日本全国に一躍三線の名が知られるようになった。知名定男、喜納昌吉、古謝美佐子(ネーネーズ)、BEGIN、夏川りみ、オレンジレンジなどの手により、三線を用いた新しいポップスが誕生していった。
- 現在では一本の棹に六本の弦を張った六線や、調弦の異なる双頭の棹をひとつの胴に挿したダブルネック三線、照屋林賢とESPとの共同開発による全く新しい電気三線チェレンや、コンピュータ上で楽しむ三線ソフト、工工四製作エディター、iPhone・iPod touch上で演奏する三線アプリ等も見られる。
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