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小久保裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日-)とは、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)である。2024年からは福岡ソフトバンクホークスの一軍監督を務める。
ファンからの愛称は「キャプテン」「かぷてん」。強豪ホークスの礎にして精神的支柱であった。
概要
福岡ソフトバンクホークス #90 一軍監督 |
|
---|---|
小久保裕紀 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1971年10月8日 |
身長 体重 |
182cm 87kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手、一塁手、 二塁手 |
プロ入り | 1993年ドラフト2位 |
引退 | 2012年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 1992年 |
プロ野球選手テンプレート |
和歌山県立星林高校から青山学院大学に進み、1992年のバルセロナオリンピックで活躍。1993年のドラフト2位(逆指名)で福岡ダイエーホークスに入団。背番号は9。この時のポジションは右翼手だった。
ダイエー時代
1995年は二塁手のレギュラーを確保し、本塁打王(28本)を獲得し、イチロー(25本)の六冠王を阻止した。このとき二塁でのゴールデングラブ賞も受賞している。
1997年から三塁手と一塁手を守るようになる。シーズン終了後にプロ野球脱税事件に関わっていた事が発覚し、主犯格として有罪判決が言い渡され、1998年はまともに出場できなかった。
小久保はこの事件に関わった選手で最も脱税の額が大きく、刑罰、処分共に最も重いものであったことから、今でも「脱税王」と呼ばれることがある。
1999年は4番打者として活躍し、福岡ダイエーホークスの初のリーグ優勝と日本一に貢献した。その後も2001年には自己最多の44本塁打を記録するなど長打でチームに貢献したが、2003年には右膝の靭帯を断裂する重傷を負い、1試合も出場できなかった。
巨人時代
2003年11月3日に読売ジャイアンツ(以降巨人)に無償トレードで移籍することになるという問題が勃発した。背番号は9。詳しくはWikipediaを参照。
2004年は巨人史上初の右打者での40本塁打を記録し主軸として活躍。
ソフトバンク時代
2006年シーズン終了後にFA宣言をし、古巣である福岡ソフトバンクホークスに復帰した。孫オーナーは就任当時から小久保を復帰させることを考え、背番号9も欠番状態にしていた。
2007年は主に一塁手として出場、チーム状況に応じて4番、5番、6番を打つ。元々あまり打率を残すタイプでもないが(1999年の優勝時の打率は.234、夏頃まで1割台だったが4番で使われ続けた)、年齢と怪我、本拠地が狭い東京ドームから広い福岡ドームに戻ったこともあってだいたい打率.250、20本塁打ぐらいの成績に留まっている。
2008年は56打点と勝負弱かったり、大不振でも中軸で使われ続けたので最下位の戦犯扱いされることもあった。
2009年は全試合出場で18本塁打ながら、チームトップの81打点と面目を保った。
2010年は出場した112試合のうち、107試合は4番として出場。9月18日の埼玉西武ライオンズ戦では、送りバントを決める。その後、ブライアン・シコースキーから通算399号となるサヨナラツーランホームランを放ち、チームはそこから5連勝。7年ぶりのリーグ優勝に貢献し、秋山幸二監督に続いて胴上げされた。が、クライマックスシリーズではフェンス直撃の当たりをホームランと勘違いしてガッツポーズしながらゆっくり走ってシングルヒットにしてしまうという見事な風物詩フラグを建築してしまった。
2011年5月12日のオリックス戦(ヤフードーム)で史上16人目の通算400本塁打を達成。8年ぶりの日本一に貢献し、秋山幸二の最年長記録を更新する40歳での日本シリーズMVPを受賞した。
2012年は通算1999安打とした時点で腰痛が悪化、椎間板ヘルニアと診断され登録抹消というアクシデントに見舞われるが、僅か1ヶ月で戦線復帰し、6月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦(ヤフードーム)でブライアン・ウルフから第2打席目にセンター前ヒットを放ち、通算2000本安打を達成した。8月14日に2012年シーズン限りでの現役引退を表明。CSファイナルステージ第3戦は、最後のバッターとなり、日本ハムの日本シリーズ出場が確定。日本ハムとソフトバンク双方の選手から胴上げされた。
ちなみに400本塁打と2000本安打両方の達成者は史上14人目。大卒では小久保の他には長嶋茂雄、山本浩二、金本知憲しかいない大記録である。
引退後
NHKと西日本スポーツで野球解説者・評論家に就任。2014年からはNHK専属となる。
2013年、解説者業と並行して、野球日本代表「侍ジャパン」の監督に就任。2015年の第1回WBSCプレミア12では準決勝で3点リードを9回に逆転され3位に終わり、継投ミスを批判された。2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシックでは準決勝でアメリカに敗れベスト4に終わり、この年限りで代表監督を退いた。
2021年から満を持してソフトバンクに復帰、一軍ヘッドコーチに就任。工藤公康監督が同年限りで退任の方向であったためそのまま次期監督とみられていたが、チームはBクラスに低迷。結局工藤監督の後任は藤本博史となり、2022年からは二軍監督に回ることになった。
人物・その他
- 練習熱心で知られ、誰よりも早く球場入りし一番最後まで残っていると言われる。その姿がチーム全体の練習量を増やし、強豪ホークスの土台を作った。
- レフト方向へ非常に滞空時間の長い美しいホームランを放つ。現役晩年はホームランの数こそ減ったものの、その美しさは引退まで健在であった。
- 足は決して速くないが、若手時代には2桁盗塁やリーグ最多三塁打をマークしたこともあり、1999年にはランニング満塁ホームランを放ったこともある。
- 一塁の守備も上手く、捕球の安定感は高い。痛烈な当たりをダイビングで捕球する場面はしばしば見られた。
- マウンドの投手がピンチになると、誰よりも早く声を掛けにいく。ふがいない投球をしている投手(主に大隣憲司)には、マウンド上でそのまま公開説教を始めたことも。
- そのファッションセンスはよくネタにされる。具体的には「小久保 ファッション」あたりで画像検索していただきたい。
応援歌
タイトル | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
メドレー | 応援歌のピコカキコ一覧#331 | 9369 |
成績
通算打撃成績
通算:18年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2057 | 8368 | 7474 | 1091 | 2041 | 381 | 24 | 413 | 1304 | 58 | 20 | 63 | 723 | 88 | 1516 | 161 | .273 | .342 |
通算守備成績
機構 | 守備位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 一塁手 | 607 | 4559 | 296 | 19 | 342 | .996 |
二塁手 | 368 | 866 | 995 | 19 | 217 | .990 | |
三塁手 | 950 | 645 | 1517 | 54 | 154 | .976 | |
外野手 | 52 | 69 | 3 | 2 | 0 | .973 |
タイトル・表彰・記録
タイトル | ||
---|---|---|
最多本塁打 | 1回 | 1995年 |
最多打点 | 1回 | 1997年 |
表彰 | ||
ベストナイン | 3回 | 1995年、1997年(二塁手)、2011年(一塁手) |
ゴールデングラブ賞 | 3回 | 1995年(二塁手)、2010年、2011年(一塁手) |
月間MVP | 3回 | 2000年6月、2004年7月、2007年4月 |
カムバック賞 | 1回 | 2004年 |
日本シリーズMVP | 1回 | 2011年 |
記録・その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 11回 | 1995年-1997年、2000年-2002年、2004年、2007年-2009年、2011年 |
210守備機会連続無失策 | 2001年5月13日-9月9日(三塁手、パ・リーグ記録) | |
2000本安打 | 2012年6月24日 |
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関連項目
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