欅(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦18番艦である。1944年12月15日竣工。終戦まで生き残った後、復員輸送任務に従事し、1947年10月29日に標的艦として海没処分される。
概要
艦名の由来はイラクサ目ニレ科ニレ亜科ケヤキ属の双子葉植物の総称から。欅の名を冠する艦は本艦で二代目にあたり、先代は楢型駆逐艦5番艦欅。
高さ30mに達する落葉高木で、本州・四国・九州・朝鮮半島・中国北東部に分布。林の美しさ、加工のしやすさ、狂いの少なさ、耐久性の高さなどが特徴で、成長が早く、大きく真っすぐな木材になる事から、寺社建立の建築用材として最高級の評価を得ており、ケヤキの名前も「けやけき(素晴らしい)木」と呼ばれていたのが訛ったもの。ただし乾燥による反りが強い欠点がある。
ガダルカナル島争奪戦や、それに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は、安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。
1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、重油積載量370トン、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
艦歴
ミッドウェー海戦後に策定された改マル五計画において、丁型一等駆逐艦第5508号艦の仮称で建造が決定。
1944年6月22日、横須賀海軍工廠で起工、9月1日に駆逐艦欅と命名され、9月30日進水、11月6日より艤装員事務所を設置し、11月15日、艤装員長として余田四郎少佐が着任するが、余田少佐は11月14日にマニラ湾で大破着底するまで駆逐艦曙の艦長を務めていた関係上、帰国に時間を要して長らく事務作業を行えなかった。そして12月15日、余田少佐指揮のもと無事竣工を果たす。横須賀鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第11水雷戦隊へ部署。士官10名、特務士官3名、准士官4名、下士官62名、水兵200名の計279名が欅に乗艦した。
12月23日、瀬戸内海西部に向かうべく横須賀を出港、館山で仮泊したのち、12月25日午前5時に同地を出発、遊弋中の米潜水艦を警戒しながら本州南岸に沿って西進し、12月25日13時に鳴門海峡を通過、次いで12月27日14時に呉へと入港して補給を受ける。
1945年1月3日午前9時に呉を出港、瀬戸内海西部へ向かいながら航海諸訓練を実施し、翌4日15時8分に八島泊地へ到着して第11水雷戦隊と合流。そして1月9日より月月火水木金金の猛訓練が始まった。
2月上旬より呉工廠に入渠して修理。同時に四式射撃装置三型と電探射撃装置の搭載、及び防空指揮所の拡張工事を行う。2月19日午前に呉を出港、3日間安下庄で停泊したのち、2月22日より光沖で回天と連合訓練に従事。それが終わると2月25日正午に姉妹艦楢と光沖を出発して同日午後に呉へ入港、岸壁に係留されて残工事を片付けた。
3月1日、楢とともに艦隊作戦指導を受けるべく第1海上護衛隊に編入。海防艦が多数を占める中で数少ない駆逐艦兵力となった。修理を終えた欅は3月3日に呉を出港、対潜訓練を行いながら進み、姫島を経由したのち、翌4日午前10時10分に門司へ回航、ここでシンガポール行きのヒ99船団護衛を命じられる。
竣工したばかりの1万トン級高速タンカー第五山水丸を、駆逐艦欅、朝顔、楢、海防艦宇久、新南の計5隻が護衛する。船団の指揮は先任の朝顔艦長・森栄大尉に任された。第五山水丸は15ノットまで出す事が出来、欅と楢の艦長はもちろん、宇久と新南の艦長も第一級のベテランで、森艦長が「各々に一個船団を任せても良い」と述懐するほど、彼らは優れた能力を持つ。更に森艦長の提案で第五山水丸には優秀な通話員4名と超短波電話機が積み込まれている。
門司の岸壁に横付け中の護衛艦艇5隻は、毎日作戦打ち合わせ、通話訓練、放流信号訓練などに追われた。精鋭揃いの艦長・船長を見て、乗組員たちも「今度の船団は凄いぞ」と士気は最高潮に達したという。3月11日に前進地の六連泊地へ進出。
3月12日午前7時、楢や海防艦新南、宇久等とともにヒ99船団を護衛して六連を出発。最初の寄港地である台湾南西部の要港高雄を目指す。航海速力は第五山水丸に合わせて15ノットとした。
朝鮮海峡を横断して鎮海へ達するまでの数時間、本船団の基本隊形である輪形陣による回転整合、視覚信号を全く使わない電話による各種陣形運動の訓練を実施、船団の機敏な動きを見た森艦長は「これなら相当の無理が効く」と喜んだ。朝顔がこれまでに護衛してきたどの船団よりも優れていたからだ。この船団なら敵機動部隊の波状攻撃を受けても何回かは耐え抜くだろう。
米潜水艦の襲撃を受けにくい半島南部の狭い水道を単縦陣で西進。が、3月13日午前1時、狭水道を抜けて外洋に出ようとした時、豪雨に見舞われたため、午前5時25分、朝鮮半島南端に位置する居金島南方で仮泊を強いられる。雨が上がるのを待っていた時、第1海上護衛隊司令部より「ヒ99船団作戦取り止め、引き返せ」との電報が入り、同日午前6時30分に居金島を出発。途中で光島丸船団護衛のため新南と宇久がアモイ方面へ向けて離脱し、加徳水道を経由して翌16日19時に六連へ帰投した。以降、ヒ船団の運航は完全に停止する。3月17日13時10分、佐世保行きの第二高砂丸を楢と護衛して出港。また3月17日から26日まで佐世保鎮守府の指揮下に入った。
3月15日付で、残余の松型を集めた第53駆逐隊(欅、椿、桜、楢、橘、柳)を第11水雷戦隊指揮下に新編。司令の豊嶋俊一大佐は桜に乗艦した。第53駆逐隊は帝國海軍が最後に編制した駆逐隊でもあった。
4月6日、第53駆逐隊は対潜掃討を専門とする第31戦隊に編入。翌7日15時14分、第53駆逐隊は待機部隊第二部隊直卒に部署し、4月8日午前8時に楢ともども佐世保を出港、回航中に爆雷1個を使って教練投射を行った。門司で仮泊したのち瀬戸内海西部に入り、安下庄へ向かう楢と別れて、4月9日午後に八島泊地へ到着、続いて4月12日に欅も安下庄へ回航されている。
戦艦大和率いる水上特攻部隊により第二艦隊は戦力を喪失。これに伴って4月20日、第31戦隊は連合艦隊所属となる。4月22日午前10時、姉妹艦桜とともに安下庄を出発、桜は光基地に、欅は大津島に移動して、回天の標的艦を務めた後、4月25日正午に大津島を出発して同日17時30分に小積へ回航。
度重なる空襲と機雷敷設により、瀬戸内海西部が訓練地に適さない危険な場所と化してしまったため、第11水雷戦隊は機雷敷設が進んでいない日本海側へ脱出する事となった。
5月21日午前11時、旗艦の軽巡酒匂に率いられて欅、楢、桜、楠、菫、柿が呉を出港。ところが5月25日16時45分、部埼灯台沖5.4海里で桜が触雷小破してしまい、急遽欅、楢、桜の3隻は門司に寄港、傷付いた桜を援護しながら5月26日に呉へ反転帰投した。日本海側へと脱出しなかった3隻は大阪警備府部隊に編入されて神戸へ移動。明石海峡にて大阪湾に投下される機雷の監視任務に就く。
欅には中堅幹部養成を見越した海軍特別年少兵が乗り組んでおり、艦長室前の電探室で寝起きして、暗号解読任務や機雷投下情報の収集を担った。最年少は14歳で、先輩から大層可愛がられたとか。
6月の第31戦隊への燃料補給量は僅か750トンであった。6月5日午前7時22分から午前8時47分にかけて530機に及ぶB-29が神戸を盲爆。神戸港内の岸壁で修理中だった欅は高角砲で応戦するが、この空襲により神戸市民の生活基盤や工場生産能力は回復不能レベルの大打撃を受けてしまった。
7月10日、米機動部隊が接近中との報告が寄せられたため、神戸港東灯台沖に配備中の桜とともに友ヶ島東岸への退避を開始、欅は無事に退避出来たが、翌11日に移動中の桜が触雷沈没してしまった。また7月15日付で第53駆逐隊は解隊。大阪警備府警備駆逐艦となる。
戦後
10月5日除籍。
未曾有の大戦争は終わった。だが外地にはまだ600万人を超える軍人や邦人が取り残されており、彼らの帰国は急務であると同時に一大事業と言えた。航行可能の状態だった欅は12月1日に横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定。両舷側に「KEYAKI」と記入、武装解除、居住区と厠の増設などの工事を呉で行い、連合国の指揮下に入る。
上海、葫蘆島、汕頭、グアム、高雄、マニラといった場所から計15回の復員任務に従事。1946年7月、葫蘆島からの引き揚げ任務の際、艦内でコレラ患者が発生したため、鹿児島を目前にして10日間の海上隔離を強いられる一幕があった。10月15日、父島に帰島する欧米系島民129名を乗せて浦賀を出発、10月17日に無事彼らを上陸させた。
父島出発後、台風に遭遇して最大40度の傾斜を受けながらもグアムに到着、400名の引き揚げ者を乗せて10月23日に出発するも、再び台風が接近、北マリアナ諸島パガン島に避難するが、ここで暗礁に乗り上げて推進器が破損してしまう。速力9ノットでよろよろと進み、10月27日に何とか浦賀まで帰り着く。これが欅最後の復員輸送となり、12月3日に特別保管艦の指定を受け、横須賀で係留される。
海軍力に乏しい中華民国とソ連からの強い働きかけで、特別保管艦をくじ引きで米・英・ソ・中の四ヵ国で分配、その結果、欅はアメリカが獲得する事になったが、既に大量の戦闘艦を有しているアメリカにとって丁型駆逐艦は不要なものだった。
1947年7月5日、横須賀でアメリカに引き渡され、10月29日に横須賀沖にて爆撃標的艦となって撃沈処分。
1983年6月、当時の艦長と乗組員44名が宮城・松島で保管されていた軍艦旗と艦内神社の御神体を使って慰霊祭を挙行している。
関連項目
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