諸葛亮
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211
ななしのよっしん
2012/11/22(木) 18:19:31 ID: QYE2MfPs0a
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212
ななしのよっしん
2012/11/23(金) 23:23:23 ID: eyB/t8PRG1
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まずは行動の補足。
当事者の列伝を読んだ限りでは、安定は曹真が、南安は徐邈が開放した可能性が高い。
しかし趙雲が箕谷で破れ退却したタイミングは確定できなかった。
可能性の高い時期は、曹真伝の順番から街亭の敗戦の後、諸葛亮伝の記述から総撤退の前だろうな。
箕谷の敗戦は北伐中の失敗として上疏で言及されている。
次に北伐が失敗した理由の再検討。
231年と234年の北伐では、双方の本隊が対陣し、交戦までしている。
一方で最初の北伐では、別働隊に比べて本隊の記述が少ない。
分かっている別働隊には、趙雲ら陽動、街亭の馬謖、列城の高翔、隴西を包囲した軍、南安の軍がいる。
これらの別働隊は全て作戦失敗か敗退しており、兵力を分散したことが裏目に出ている。
後の二回の北伐はこの失敗を生かし、戦場を限定し戦力を集中させるようになったのではないか。
ならば逆に最初の北伐では本隊の戦力が不足していたのではないか。
馬謖が短時間で敗れた結果、十分な戦力を集める期間が無かった。
そして張郃との決戦を選べず撤退に追い込まれたのだろう。
手を広げ過ぎて兵力を分散させたことは、北伐失敗の要因の一つだろうな。 -
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213
ななしのよっしん
2012/11/30(金) 23:27:30 ID: ZjKWkQubQH
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214
ななしのよっしん
2012/12/08(土) 09:22:36 ID: OOAFDX++xU
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勘違いされている方が多いですね。
正史において「臨機応変の軍略は得意でなかった」と書かれたのは、諸葛亮大好きな陳寿による悔恨に満ちたフォローです。
これはキチンと正史を読めば分かることで、00年代以後の"日本の"専門家の間では一般的な見解です。
結果的に一流だったというのと一流の才能があったというのは違います。
劉備は諸葛亮を単独で軍事に当たらせたことは基本的にありませんでしたし、その死後に諸葛亮が門外漢の仕事に当たったのは極端な人材不足故に止むを得なかったからです。
それでも一定の結果を残してしまうのが諸葛亮のチートなところですが、彼の軍略というのは政治家的な発想から出たものです。
桁違いの知略で外連味を全て潰したある種の理想的な作戦ですが、それでは一進一退にしかならないので、国の延命は出来ても魏の打倒は無理です。
しかし諸葛亮の立場からするとそれは必然であり、魏を倒すことは不可能と言っても良い状況の中、「攻めることで相手の行動を制約する」という出来る最善を彼は尽くしたわけです。
「諸葛亮は天才軍師」という評価は少しおかしいですが、軍政家や政治家としては正に超一流と言えますね。 -
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215
ななしのよっしん
2012/12/08(土) 09:58:00 ID: 1JAWvgDpPl
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「司馬懿ですら、打ち破られて堅固に守り続けるしかない状態に追い込まれたことは紛れもない事実である。」←突っ込み所満載
「(敵の司馬懿からも「天下の奇才」と最大限に評価されている)」←軍略を評価して言ったのではない
だいたい国力低下させて少しも土地を得られず、その戦術や行蔵を辿って見ても軍才は大したことない
南中は明らかに幸運だっただけ
軍才もあるっぽく思えるのは無意識下で演義に洗脳されて、必死に良いところを拾い上げて悪いところを見ようとしないから
諸葛亮じゃない人物を評価すると思って諸葛亮を冷静に公正に見てみるとあら不思議、軍師としては微妙って諸葛亮ファンの皆さんも気づけるよ
なんとか認めたくないって気持ちは分かるけどね -
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216
ななしのよっしん
2012/12/08(土) 17:43:07 ID: jH1IZ2/9C9
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217
ななしのよっしん
2012/12/14(金) 12:53:40 ID: QYE2MfPs0a
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218
ななしのよっしん
2012/12/14(金) 23:51:38 ID: OOAFDX++xU
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219
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220
ななしのよっしん
2012/12/21(金) 08:21:51 ID: QYE2MfPs0a
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221
ななしのよっしん
2012/12/21(金) 13:49:29 ID: AqAxEjhc0j
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ななしのよっしん
2012/12/21(金) 13:59:57 ID: DOtp+jdhE7
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223
ななしのよっしん
2012/12/26(水) 09:24:07 ID: erLIZu9HP5
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224
ななしのよっしん
2012/12/30(日) 03:00:37 ID: VBMxogSYxF
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225
ななしのよっしん
2013/01/10(木) 20:54:36 ID: dtdz7FC3Ig
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226
ななしのよっしん
2013/01/10(木) 21:09:26 ID: +z7bxdBdvj
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227
ななしのよっしん
2013/01/11(金) 01:29:17 ID: JpdHkq+LMF
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228
ななしのよっしん
2013/01/12(土) 22:50:50 ID: Aw6wBTDWiK
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>>215
んじゃ、諸葛亮じゃないとして軍事面での事績を羅列してみましょ
1.蜀攻略戦で軍団を率いて途中の諸郡県を攻略して主君達と合流。
2.反乱を起こした南中を速攻で鎮圧
3.陽動作戦を用いて敵主力を誘い出し、その間に別方向を
攻略する、という策を見事に成功させ三郡平定。部下が命令違反して撤退。
4.20日分くらいの兵糧をもって敵の城を攻める。攻略できずに
タイムリミットで引き揚げ。追撃してきた敵軍を大破して敵将も戦死させる
その勝利は「軍の威光を輝かせた」と評価されてるから、結構なもんがあったようだ。
5.4の後で間髪入れずに別方向の2郡を攻略。救援にきた敵軍を主力軍を率いて迎撃に出る。敵軍は戦略的に包囲される事を恐れて撤退。2郡掌握。
あまりのタイミングの良さに、4の遠征は陽動作戦だったのでは?という
説もある。というか、その方がかなりしっくりくる。
6.敵地に出撃して速攻かけてきた敵軍総大将を撃破して追い込み。
その後、敵軍総大将が2面同時攻撃で決戦を仕掛けて来たけど、大破。
後方の部下の怠慢で兵糧問題が起きて撤退。撤退中に追撃してきた敵軍の大物武将を大破して戦死させる。
7.寡兵で堂々と敵地の重要拠点である長安に近い場所まで進出。
敵軍総大将は引きこもり。対陣中に病死。引き揚げ中の軍を敵軍が追撃してきたけど、将が死んだ後でも軍が迎撃して追い返す。
敵軍総大将は後世の名将からも「敵より戦力的に優勢なのに、
引きこもって戦おうとせず、死亡した後に追撃しても迎撃されたら
また逃げたってどういう事?これで良将と言えるの?」と批判されている。
名前なしで評価してみたけど、これだけの事績があれば結構な名将として
評価してもらえると思うよ。敵国が9倍の国力差だった事も考慮するとね
特に追撃してきた敵をいずれも大破してるのは凄い。三国志でも珍しい。
実際に呉の学者とか「国力9分の1の相手に引きこもる司馬懿って
諸葛亮より才能が少ない」と言われてる。 -
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229
ななしのよっしん
2013/01/12(土) 22:55:02 ID: Aw6wBTDWiK
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230
ななしのよっしん
2013/01/12(土) 22:59:38 ID: Aw6wBTDWiK
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231
ななしのよっしん
2013/01/13(日) 05:32:23 ID: 3Xq4yLtT59
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232
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削除しました ID: Aw6wBTDWiK
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233
ななし
2013/01/13(日) 07:01:40 ID: jFBYK8QlgO
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「軍才」って曖昧でよく分からないんだけど
なんなの -
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234
ななしのよっしん
2013/01/13(日) 23:21:50 ID: VBMxogSYxF
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>>231
>>232
一体何を言い争っておられるのです?
孔明の軍才について?
それなら>>214の人が答えを出しているではありませんか。
要点はこれ。
「結果的に一流だったというのと一流の才能があったというのは違います」
即ち、はっきり言って孔明に軍才はなかったが、
それでも一流と呼べる結果は一応出しました、って事です。
まあ、一流の基準は人それぞれですが、問題がややこしくなっているのは、
仲達の才を重く見ているか軽んじているか、でありましょう。
仲達には軍才があり、彼ももちろん一流だった。
ただし孔明を潰す事は出来なかった。
両者は大まかに五分五分で、もし立場が逆でも結局勝負はつかなかったのでは?
どちらも方向性が同系統の軍略家なようですし。
>>233
ここで云う軍才とは、もうそのまんま軍事の才能でしょうね。
実戦指揮に関する生まれ持ったセンス、とでも呼ぶべきでしょうか。
ただ、生まれ持った才があって元からその力があるのと、
努力して才ある者と同等の力(こうした表現をすると、孔明は仲達よりor
仲達は孔明より云々の水掛け論になるが)を身につけるのとでは、
一般的には前者が絶対凄いみたいな風潮ですが、自分はそうは思いません。
どちらも偉い。 -
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235
ななしのよっしん
2013/01/14(月) 01:47:38 ID: Aw6wBTDWiK
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>>234
いや、ちょっとお待ちください。
なんでそれが結論になるのか意味不明です。
「諸葛亮に軍才が無かった」とするのは戦歴から見て
かなり疑問です。彼は三国志時代における戦争において
不利な殿戦においても逆に敵軍を大破し続けた、という点で
極めて稀有な存在です。
直接指揮を執った戦闘では正面からの野戦でも勝利を続けています。
魏より国力9分の1でありながら不利な殿戦まで含めた野戦で勝ち続け
敵の大国の将帥を引きこもらせた、という点で彼の名声は後世の伝説となり
名将10傑にまで選ばれています。この10傑の中で諸葛亮は孫武、呉子、
韓信、楽毅、白起、といった史上に錚々たる名将達と同格の評価を受けて
いるわけです。彼が生み出したとされる陣形や軍制も後世の参考になり
兵学における論考の題材とされています。相応の実績を残し、
これ程の高い評価を受けた人物に対して「軍才無し」というのが当然、
というのは疑問すぎます。>>214さんの言う「主流な見解」というのは
本当に主流なのかどうか疑問です。諸葛亮の軍事的能力について評価を
高くしている人間は昔から現在まで数多くいます。
それから「臨機応変の軍略が~」というのを>>214さんは
挙げておられますが、これに関しては正直、その部分だけを取り上げて
「軍才無し」とこき下ろした数十年前の風潮に相通じるものと思えます。
この件と残りの件については次レスでもう少し詳しく説明します。
(続く) -
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236
ななしのよっしん
2013/01/14(月) 02:31:13 ID: Aw6wBTDWiK
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>>235の続き
先ほどの続きではありますが、「臨機応変の軍略は~」の文章は正史における原文では以下のようになっています。
「蓋し応変の将略はその長じる所にあらざるか」つまり、陳寿は
「もしかすると、応変の将略は長所ではなかったのかもしれない」と述べて
いるわけです。しかしこれをもって陳寿は諸葛亮を「軍略家としての能力なし」と評価しているのでしょうか?
答えは陳寿が諸葛亮について書きまとめた諸葛亮氏集を見る事で明らかと
なります。陳寿は諸葛亮についての事績評価を詳しく行ったこの論文で
諸葛亮についてこう述べています。「その才は軍隊統率には長じていたが
奇謀においては短であった」と。つまり陳寿が亮伝で述べた「応変の将略」
とはこういった奇策について述べているわけ、奇策は得意としないが
軍隊統率に長じた正攻法タイプの将帥として陳寿は諸葛亮を評価しています
実際に諸葛亮は正攻法の野戦で成果を出していきました。そして陳寿は
魏打倒が成らなかった理由をこうまとめています。「敵将帥(司馬懿)も
人傑であるのに加え、諸葛亮の兵は少なく、しかも多い側が守るという
攻守逆転の状況だった。なので連年衆を動かしたけれど、ついに最終的な
勝利は得られなかった。諸葛亮の政治能力は蕭何や管仲に匹敵する。
しかし彼らには韓信や王子城父がいて、軍事まで兼任しなくてよかった。
でも諸葛亮には彼らに相当する人材が無く、軍事まで兼任しなくては
ならなかった。だから最終的な成功は収められなかった。これは天命に
よる所であって智力をもって争うべき問題ではないのだ。」と。
つまり陳寿は諸葛亮の軍事的能力をしっかりと認め、そのうえで彼が
最終的な勝利を得られなかったのは天命によるものであったと結論づけて
いるわけで、決してその軍事的能力を否定しているわけではないのです。
むしろ、「能力は十分すぎる程にあったけど、天命によって最終的な勝利に
及ばなかった。」と最大級の評価をしているわけです。
大抵の場合、解説本とかでは正史の「応変の将略は~」の所は引用して
「軍事能力なし」と結論づける人多いのですが、
陳寿が諸葛亮の事績を論評しぬいたこれらの文章はスルーされがちなのは
そうしてしまうと、「諸葛亮の軍事能力は凄かった」という従来通りの結論
に至ってしまうので、読者に与えるインパクトが薄い、と考えられているからのように思えます。 -
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237
ななしのよっしん
2013/01/14(月) 02:33:53 ID: Aw6wBTDWiK
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238
ななしのよっしん
2013/01/14(月) 02:43:02 ID: DOtp+jdhE7
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ななしのよっしん
2013/01/14(月) 02:52:15 ID: 2L9MJeKC8c
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ななしのよっしん
2013/01/14(月) 03:48:51 ID: Aw6wBTDWiK
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>>238
いや、何を言いたいのかよくわかりません。
諸葛亮が軍を率いた実績については南蛮戦、北伐戦のほかに
蜀攻略戦の時に軍団を率いて荊州から諸郡県を攻略して成都で劉備と
合流した実績があります。
というか、その蜀前半期に諸葛亮に軍を率いた経験が少なかったからと
いってそれが後世評価やこの議論の論点にどう関係するのか疑問です。
「前半にあまり軍を率いなかった」という事と、軍事的能力がない、
という事は全く完全に脈絡のない結論であって、貴方がそれを拠り所にして
諸葛亮に軍事的能力がない、と主張されるのでしたら、正直な話的外れと
しか私には思えない次第です。
諸葛亮は劉備死亡後に本格的に軍の総指揮をとるようになりましたが、
後世からの高い評価はその南蛮戦、北伐戦での個々の事績評価を
基にしてされているわけです。
だから貴方が「前半に軍団指揮を執る事が少なかった」と述べたところで
後世からの評価にもこの議論の論点にもろくすっぽ関係ない話です。
そもそも陳寿が言うように、諸葛亮には優れた軍事的能力がありましたが
それ以前に蕭何や管仲に匹敵する名宰相だったわけで、
本来なら軍事まで兼任する必要はなかったし、出来れば兼任しない方が
良かったのです。いくら優秀だろうと人間には体力の限界がありますから。
だから歴戦の将である劉備の在世中は劉備が総司令を務め、諸葛亮は
後方支援や内政に専念してました。まさに蕭何・管仲ですね。
それが劉備が死亡した後で、総司令を託するに足る人材がおらず内政と軍事を両方兼任する事になった、と。
これでもって前半に諸葛亮が軍を率いた事績が多くなかったから、と言って軍事的能力が無い、というのは明らかに筋違いとしか言えません。
彼の軍事的能力は彼が軍の総指揮を執って以降の個々の事績を見れば明らかです。 -
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