上方落語(かみがたらくご)とは、関西地方で発展を遂げた落語芸能である。
上方(かみがた)とは江戸時代など近代以前での、大坂、京などの畿内地方での呼び名であり、名の通り京に皇居を構えてたことから、大坂も含め上方(かみがた)と呼ばれた。後に天皇家は東京に遷都させられてしまうが、慣習的に上方落語という名称が残っている。また、かつては大坂だけでなく京でも京落語という独自の落語が存在したそうだが、今日では大坂落語だけが残り(あるいは京落語を吸収し)、主に大阪で演じられる、そして関西弁を用いる落語をそのように呼んでいる。
上方落語という呼び名は相対的な呼称であり、上方落語も江戸落語も広義の落語に含まれるものである。しかしながら、関東地方など関西以外では落語=江戸落語を指し、それと差別化を図る意味で上方落語と呼んでいるケースも少なくない。
上方落語の始祖と呼ばれる人が京と大坂にそれぞれいる。京にいたのが初代露の五郎兵衛という人物で、江戸時代初期に、日蓮宗の談義僧から還俗し、辻咄と呼ばれる笑い話や歌舞伎役者の物真似などのパフォーマンスを披露したとされる。なお、露の五郎兵衛という名跡は今も残っているが、初代と二代目は300年近く空いており、先人へのリスペクトで名乗ったものである。
かたや、大坂にいたのが米沢彦八という人物であり、落語家というよりは軽業師、大道芸人の類であった。だが、小咄も評判を呼んだので、自ら軽口本集を上梓している。これが後に数百年と続く上方落語へとつながっていくのである。その後は松田彌助という人物が現れ、その弟子に初代桂文治が現れ、大坂で、江戸のような寄席を開き、また鳴物道具を用いたとされ、今の上方落語のスタイルを確立していったとされる。後に文治は東西にわかれ、上方では文枝が止め名として受け継がれた。また、桂に並ぶ屋号、笑福亭一門は天保から安永に成立したと伝わっている。また、立川、林屋も上方で勢力を効かせたことがあった。
なお、江戸落語の祖と呼ばれる鹿野武左衛門も元は難波、あるいは京の出身といわれている。
明治には好対照な桂派(保守派)、三友派(笑福亭が軸で派手で陽気な笑いを提供した)の切磋琢磨などもあり隆盛を迎えるが、大正から横山エンタツ、花菱アチャコに代表される新興芸能、漫才が台頭し、吉本興行部が漫才に注力してしまった(落語用の寄席を漫才用に買収した)ため、落語は大きく衰退し、存亡の危機に立たされる(滅びたわけではなく、水面下の隙間産業となってしまった)。
しかし、そんな中でも落語の復権を目指したのが5代目笑福亭松鶴や4代目桂米團治らであり、後に彼らの次世代となって、後に上方落語四天王と呼ばれる三代目桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝、そして三代目桂春團治らが台頭したことで、復活を遂げることになる。この復権の陰には民放系ラジオ放送の開局もあり、聴取率を取れる落語に白羽の矢が立ったのである。その後テレビがメディアの主役になると、笑福亭仁鶴を筆頭に、桂三枝(現在の六代・桂文枝)、笑福亭鶴光などが人気を集めた。
1980年代からは、横山やすし・西川きよし(いわゆる「やすきよ」)、オール阪神巨人、今いくよ・くるよ、宮川大助花子などの漫才が絶大な人気を誇り、また東京から訪れたコントブームも浸透していく(クレイジーキャッツやザ・ドリフターズは大阪でも絶大な人気を誇った)が、浪速の爆笑王といわれた桂枝雀を筆頭に、桂南光、月亭八方、桂文珍らが芸能界に入り込み大健闘を見せた。その一方で桂枝雀の自殺、また桂吉朝、笑福亭松葉、桂春蝶など将来を嘱望された実力派落語家の相次ぐ早世という不運にも見舞われた。
後に、上方落語界は東京との交流が密接となり、江戸落語一辺倒だった東京などでも上方落語愛好家は増えることとなる。特にNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」は上方落語ブームにとって追い風となり、草原兄さんを演じた桂吉弥は一躍時の人となった。また、大名跡の襲名も相次いでいる。桂米團治、桂春蝶、桂塩鯛、そして桂三枝が桂文枝を襲名したことも話題となった。
また、「天満天神繁昌亭」は日本初の落語専門寄席であり、オープンからずっと安定した人気を保ち、若い世代の落語人気確保にも一役買っている。
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最終更新:2025/01/13(月) 05:00
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