中島春雄 単語

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ミスターゴジラ

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中島春雄とは、世界初のスーツアクター日本最初期のスタントマンで、役者である。

概要

1929年元日生まれ。

山形県酒田市出身で、実家屋、5人兄弟の3男坊。

民兵召集により、14歳海軍航空技術に入営。養成員となって、発着機部配属。当時は後の仕事仲間となる円谷英二らと同じく飛行機乗りをしていたが、2年後に日本は敗戦。復員後、業を手伝う。

復員後、実家に帰ってきたため、進駐軍のトラック運転手転職するも、翌年スピードオーバーで拘留されて解雇。しかし、このときに見た映画俳優学校新聞広告を見て面そうだと思い、応募し映画界入りする。

1949年、20歳にしてついに黒澤明野良』に端役で出演。しかし、出演シーンは全部カットされてしまった。
翌年、俳優学校講師の誘いで正式に東宝に入社。しかし、大部屋俳優としての生活は決して楽ではなく、運転手時代の貯を切り崩しながらなんとかやりくりしていたという。

1953年、『太平洋』の攻撃機航空兵役で日本初のファイヤースタント(火達磨になる危険なスタント)をこなす。この後、暫くこういうスタントの役が多く舞い込むが、このことが翌年の人生を変える役に出会う大きなきっかけとなる。ちなみに当時はスタントマンではなく『吹き替え』と呼称されていたらしい。氏く「石綿を着ていたんだけど、暖かいもんだったよ(笑)。若かったから、がむしゃらにやったわけよ。だからけがをするなんて何も考えてなかった。昔はスタントマンなんていなかったからね」だそうである。

1954年日本最初の怪獣映画ゴジラ』において役の大怪獣ゴジラを演じる。その後も『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』までゴジラを演じ続け、他の怪獣も多く演じ、怪獣映画にはくてはならない存在にまで上り詰める。同年には東宝の『七人の侍』にも端役ではあるが出演している。ゴジラ開前の特撮映画全に『ゲテモノ』と報道されていたが、彼の熱演もあり、一躍怪獣ブームを生み出すまでになる。

1965年以降はデパートの巡回イベントなどで撮用の本物の着ぐるみを使ってのショー出演なども行う。本物のスーツに本人入ってるという今にしてみればかなり贅沢な時代だったといえよう(当時は他に代役がいなかったという事情もあるが)。
また、『ウルトラQ』のゴメスや『ウルトラマン』のジラースをはじめとしてテレビ特撮ドラマでも怪獣役を演じ、後進の育成のために怪獣役における立ち回り導なども熱心に行った。 

この中には日本万国博覧会(いわゆる大阪万博)も含まれており、万博怪獣ショーではガメラと共演しての『ゴジラvsガメラ』が、しかも本人の演技で観られていたらしい(写真は何枚か残っているが、映像は残っていない)。なお、気になる勝敗についてだが、毎回特に決まった立ち回りをしていた訳ではないので勝った時もあれば負けの時も引き分けだったこともあるらしく、ガメラゴジラの正式な決着は付いていない。

1970年には、恩人だった円谷英二が死去、その翌年には東宝から専属解除(事実上の解雇)を言い渡されて、東宝ボウリング場に勤務となる。

円谷英二が亡くなってからは特撮映画に関する情熱も薄れてしまい、1972年スーツアクター引退。その後は職を転々としながらゴジラに関する講演会なども行っている。

2011年にはアメリカロサンゼルスから市民栄誉賞を受賞、翌年には出身地酒田市から「第1回ふるさと栄誉賞」を受賞。

2014年ゴジラ生誕60周年となり、日本のみならず海外メディアからも多数の取材を受ける。横須賀基地の上映会ではファンと共にこの年に新たに完成したハリウッド版『GODZILLA(2014年)』を鑑賞、記念撮も行った。

54年版ゴジラ黒澤映画の両方に出演した俳優の中では数少ない21世紀の存命者として、初代ゴジラ俳優としてテレビ番組などによく登場し、当時の重な撮秘話の多くを話してくれる文字通り昭和特撮の生き字引となっていた。

2017年8月7日炎により88歳で逝去。

ミスターゴジラ

世界初のスーツアクターとなった中島だが、彼がゴジラに抜された経緯は初代ゴジラスーツ(重量150kgほど)を着て円谷監督より「お前歩いてみろ」とされてそのままの状態で10mほど動けたことに由来する。スーツ内はライトの熱もあって60℃はあったらしい。もう一人のテスターは3mほど歩いた後に国会議事堂のセットに躓いて転倒したためNGになったとか。ちなみに、で30kgほどだったので、軍隊で鍛えられた経験や特技の素潜り(スキューバ免許も持っている)が役に立ったそうな。円谷からは『坊』の称でしまれ、撮所でも『春ちゃん』と呼ばれていた。中島円谷を『オヤジ』と慕っていた。核がテーマゴジラ映画だが、円谷とは政治的な話は一切しなかったという。

ゴジラに抜された当時、「俳優は「いらっしゃいませ」の一言を貰うことが最大の標ではあったので、顔が見えない、というのは役者じゃないという潮が当時はあったが、顔は見えなくても役だもん、二つ返事でOKしたよ」「世界で初めての映画役だったから、周りから何を言われても自信を持っていた。」と振り返る。

役ということで円谷から『キングコング』のフィルムを貸し出されたが、イマイチイメージが掴めず、自分で動物園に通い、まだも見たことのない『怪獣』という生命体の動きを自分から開拓していった。サルの動きはぜんぜん参考にならなかったが、のドッシリとした摺り足での動きや立ち上がったときの腕の動かし方、ハゲタカの首の動きなどは大いに参考になったという。ゴジラのみならず、怪獣の「ズシーン、ズシーン」という重厚感ある歩き方や立ち回りは後の作品でも脈々と踏襲されている。「を開かず、足を蹴り上げながら、足の裏を見せずに動く」のが中島怪獣の動きであるそうな。「怪獣着ぐるみ重いもので、それを軽そうに演じるのが本来の怪獣」「昨今の怪獣は動きが軽すぎる」と後の粗製濫造にも苦言を呈していた。

中島ゴジラ製作の半年前に最を亡くしており、『顔は出ないけど役を貰ったんだ』とこの役を天国母親のためにも遂する意気込みだったという。

銀座時計台を壊す有名なシーンでは当初NGを連発したが円谷監督より「考えてみろ」と言われ、「音が鳴っているわけだから、何だこのやろう、うるせえな、何だろうこれは?」といった雰囲気でゴジラになりきって演じてOKとなったという。

劇場での封切り時に中島は端の席で観客の反応を確認していたが、ゴジラスクリーンに登場した間に劇場内が一気にシーンとなったことで「やった。」と確信したという。「映画をみんな観に来てるわけだから、役者利に尽きる」と後年った。

キングコング対ゴジラぐらいからは怪獣同士の戦いがメインとなっていき、次第に本来の持ち味であるアクション俳優としての動きをゴジラの動きに取り入れていった。中島柔道2段でもあり、日々撮所のトレーニングルームでバーベルを使って次の作品に備えて鍛えていたという。

そのため、着ぐるみバトルが始まったゴジラの逆襲以降は全なオーダーメイドになり、まず新品が完成すると中島が動き回って中身に傷をいれ、修繕の継ぎ接ぎを入れて動きやすくしてから本番に入った。
仕舞いにはそれまで操演係の動かしていた尻尾でさえ、を動かして中から尻尾を動かす『技』も編み出して、着ぐるみ内部のバッテリー(顔の部分を動かすためのギミック用)に掛けて居眠りするぐらいにまでなったという。

ただ、バトルシーンは念入りに相手役のアクターと打ち合わせをし、立ち回りは全部自分で考えていた。
円谷監督本多監督もそれには全面的な信頼を置き、黙って任せてくれたそうである。
昭和ゴジラ平成以降にべると岩石を投げつけたり、パンチやプレスといった柔術的な技が多いのもこうした「立ち回り」への拘りからで、中島時代のゴジラは1作品ごとに撮了すればボロボロになってまず使いまわしはできないようなぐらいになっていた。 ただ、全く使い物にならなかったかというとそうでもなく、に顔が見えないダメージシーンでは旧作着ぐるみを使っていた。例えばモスラ対ゴジラの糸に絡まったゴジラゴジラ対ヘドラの泥まみれゴジラは使われなくなったスーツをそのまま使い回している。

ゴジラ対ガイガンではゴジラ対ヘドラスーツがそのまま使われたため、外観上のくたびれぶりもさることながら、手に施された化表現がそのまま残っているため、まるで前作のダメージがまだ回復しきっていないかのような演出となった。

ゴジラ以外の怪獣だと、ガイラがお気に入りだそうで、この怪獣巨人なのだが、人間的なパワフルな動きが随所に用いられ、事実映画役であるガイラは中島アクションが最も楽しめる怪獣の一つであろう。 

なお、サラリーマン収3万の時代にこの仕事では一本20万という破格の待遇だった。それによって妬む仲間も少なくなかったというが「当時はスーツアクターなんて格好いい言葉はなかった。“中に入って演じるなんて俳優仕事なんかじゃない”と陰口をかれることがありました。でもね、ゴジラゴジラらしく演じられる俳優は私しかいない。そう誇りを持ってやり続けました」と振り返っている。

平成ゴジラ薩摩八郎ゴジラについても、熱線によるビームでの破壊がメインになってしまったことで「立ち回りが足りない」と評しているほか、「どういう気持ちでゴジラ建物を壊しているのかを考えずにすぐ壊してしまっている。わざと壊すのはおかしい、だめだよ。」ともっていた。

なお、中島によれば本多監督は当時の東宝監督の中では温厚な方で割りとすんなり「ハイ、OK」と通してくれることが多かったとか。(対する黒澤監督は一番うるさかった演出として名ししていた)

近年では海外でもその名が知れ渡り、『ミスターゴジラ』として講演に招かれることも少なくない。10年ほど前に、その講演会のギャラでが建ったという。

福本清三と並んで「たとえ名前や顔が知れていない端役でも、努すれば名ではなくなる」という例としてよく話題になる役者である。

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