楓(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦17番艦である。1944年10月30日竣工。戦後は中華民国に引き渡され、1962年頃に解体された。
艦名の由来はムクロジ目カエデ科カエデ属の植物の双子葉植物の総称から。日本には27種類が自生し、葉っぱの形状から「カエルの手」と呼ばれていたものが、訛って「カエデ」と呼ばれるようになったという。秋になると紅葉して季節感を演出する。ちなみにカエデとモミジは同一の植物であり、葉っぱの形状だけで区別しているに過ぎない。更に言うとモミジは「紅葉する植物の総称」なので正式名称はカエデという事になる。英語ではメープルと呼ぶ。
楓の名を冠する艦は本艦で二代目で、先代は樺型駆逐艦3番艦楓。
ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は、安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
改マル五計画において、丁型一等駆逐艦第5505号艦の仮称で建造が決定。
1944年3月4日、横須賀海軍工廠で起工、6月20日に駆逐艦楓と命名され、7月25日進水、9月18日より工廠内に艤装員事務所を設置して事務を開始し、秋も深まった10月30日に無事竣工を果たした。初代艦長には諸石高大尉が着任。横須賀鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。
竣工後、第11水雷戦隊から「準備出来次第、瀬戸内海西部に回航せよ」と命じられる。
11月6日正午に東京湾を出港、本土近海でも遊弋するようになった米潜水艦を警戒して速力20ノットで航行、危険な夜間航行を避けるべく今沼沖で仮泊し、11月8日午前9時40分に安下庄へと到着。翌日司令部の巡視を受けた。11月12日から呉で停泊。
11月20日より単独での出動諸訓練に従事。12月5日に姉妹艦の楢や椿と一緒に出動諸訓練を行い、続く7日の訓練には軽巡酒匂も加わった。そして12月15日、16日の両日は第11水雷戦隊全体で行う大規模な訓練となり、途中亀川沖に停泊、宇佐神宮に参拝している。
楓の出撃が1945年1月中旬に決まった。これを受けて、呉工廠で電波探知機三型の搭載工事が予定された。GF電令作第609号により、第1駆逐隊(神風、野風)と楓は、海上護衛隊司令部の指揮下に入って門司港から出発する船団を護衛しつつ高雄へ進出し、現地で第31戦隊との合流を命じられる。
1月20日、訓練を終えて第31戦隊第52駆逐隊に転属。第52駆逐隊には姉妹艦の桑、樅、檜、杉、樫が所属していたが、楓が編入された時点で桑、樅、檜は沈没、生き残っている杉と樫も空襲で損傷を負って本土への帰投が命じられており、実質第52駆逐隊の実働戦力は楓ただ1隻のみだった。このため楓の台湾来航は現地の部隊から切望されていたという。
1月22日午前6時、門司発高雄行きのモタ33船団(輸送船8隻)を第14号、第16号、第46号海防艦と護衛して出発、道中には既に米潜水艦や敵機の出現が認められていたため、敵潜の襲撃を受けにくく、味方の支援が受けやすい大陸接岸航路を選択、中国大陸に沿って慎重に南下していく。船団護衛中の1月25日午前11時40分、新たな命令が発令され、楓は護衛任務を切り上げて船団から分離、1月27日午前7時30分に台湾北東部の基隆へ入港した。楓が抜けた後、モタ33船団は基隆北方で米潜ピクーダの雷撃を受け、くらいど丸が沈没している。
基隆港では駆逐艦汐風と梅が待っており、彼らが所属する第43駆逐隊の指揮下に入って、翌28日17時出港、1月29日午前7時30分に高雄へと進出する。
去る1月9日、ルソン島北西部のリンガエン湾にアメリカ軍第6軍が上陸した事により、マニラとクラークフィールドに配備されていた第1及び第2航空艦隊、陸軍第4航空軍の搭乗員、整備員は完全に退路を断たれる形となった。貴重な航空要員を内地に戻す事は戦略的重要であると判断され、撤収作戦の実施が決定する。
しかしアメリカ軍はリンガエン湾に航空基地を設営しており、ここを拠点に台湾への空襲を始めていたため、輸送船での救出は困難に陥り、南西方面艦隊司令部は駆逐艦による救出を企図、脱出口をフィリピン北端部アパリに定めて陸海軍の航空要員を移動させた。
救出作戦に先立って梅には「トリ1」、楓には「トリ2」、汐風には「トリ3」の暗号名が付けられ、連絡を円滑なものにすべく仮設通信隊を開設。予定では1月30日に出港するはずだったが敵情を鑑みて一日遅らせている。収容予定人数は海軍が500名、陸軍が250名。
1月31日午前8時、楓、梅(司令駆逐艦)、汐風の3隻はアパリ防衛に投入される高雄陸戦隊を乗せて出撃、24ノットの高速で約530km先にあるアパリ近郊パトリナオ村を目指して南下する。
直接アパリに向かわないのは空襲を避けるためだが、天候不順等の理由で空襲が起こりにくいと判断した場合は直接アパリへ向かう事も認められていた。また、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡は米潜水艦の待ち伏せ場所と化しており、之字運動をするとなると、直線で向かった時よりも2時間の遅延が発生すると見積もられている。
出港から2時間が経過した午前10時、3隻が難所のバシー海峡へ差し掛かった頃、水平線上にアメリカ軍の哨戒機が見え隠れしているのを発見。14時、梅に座乗する駆逐隊司令吉田正義大佐は西方への偽装航路を取るよう命じるも、敵機はそれに引っかからず、追跡及びレーダー探知を続けてきたため当初の航路へ戻る。間もなく攻撃が始まるのは誰の目から見ても明らかであった。
15時、台湾最南端ガランピ岬沖35km付近に到達したところで、中国大陸から発進してきたP-38戦闘機の護衛付きB-25双発爆撃機12機、P-47サンダーボルト4機が右舷側に出現。艦と並走するB-25を梅は味方機と誤認してしまい、対応が遅れた事で、まず最初に先頭を走っていた梅が集中攻撃を浴び、瞬く間に3発の直撃弾を喰らってしまう。そのうちの1発が下甲板を貫いて炸裂したため機械室が破壊され、大破航行不能に陥る。
次の標的にされたのは楓だった。15時18分、1番砲塔後部に直撃弾を受け、艦橋下部構造物が大破、長さ3m幅5mに及ぶ破孔が生じ、艦前部が浸水すると同時に大火災が発生。そこへサンダーボルト4機から機銃掃射を浴びて乗組員30名と便乗者54名が死亡。幸い応急修理が間に合って沈没だけは避けられた。
汐風もまた至近弾を受けて右舷高低圧タービンを損傷し速力低下。無論3隻もただやられっぱなしだった訳ではなく、対空砲火によりB-25爆撃機3機を撃墜して一矢報いている。
空襲自体は30分程度で終了したが、作戦の続行など望むべくもなかった。
17時11分、沈没の恐れがあると考えた楓は一旦浅瀬のある海域に移動。18時には汐風が喫水線付近に砲弾を撃ち込んで海没処分している。駆逐隊司令の吉田大佐や大西艦長ら生存者は楓と汐風に分乗し、高雄へと引き返す。中破状態だったものの、楓の機関は無事らしく、低速でしか航行出来ない汐風を尻目に、先に高雄へ帰り着いて応急修理を受けた。
撤収作戦は呂46が約40名の救出に成功した事以外は全て失敗、救出の可能性を閉ざされた航空要員は現地の陸戦隊に編入されて絶望的な戦いに身を投じていく。
2月1日、戦傷により砲術長の松崎弘栄中尉が死亡。連日の激しい空襲によって高雄は軍港の機能を失っており、また台湾には楓の損傷を直せるほどの修理施設も無いため、内地での本格的な修理が決定、2月14日15時に高雄を出発して基隆に移動、現地で再度応急修理を行う。
2月18日14時、タホ船団を護衛して基隆を出港。翌19日午前1時30分から午前2時にかけて、敵大型機1機からレーダー爆撃を受け、命中こそしなかったものの、夜間の爆撃ながら侮りがたい精度だったという。同日午前8時に牛山島へ到着した際に船団と分離。ここからは楓単独で北上し、2月23日午前7時48分に呉へ帰投。工廠で入渠修理を受ける。
4月16日出渠、4月23日に工事を完了し、4月24日より諸試験を開始するが、二号缶安全弁及び同弁箱取り付け部に蒸気の漏洩箇所が認められたため、修理に2日を要する。また手配中にも関わらずセンチメートル逆探知装置、三式探信儀二型、特殊転換器二型発射舷用といった一部の装備が届いていなかった。
戦況が末期戦の様相を呈する中、駆逐艦竹と回天の標的艦を務める事となり、4月28日午前8時に呉を出港して大津島へ回航。大湊警備府に異動となった橘、柳に代わって5月10日まで標的艦の役割を担った。突入してくる回天が深度を誤って舷側に衝突したトラブルもあったとか。5月27日に呉へ帰投。修理を受けたのち回天1基の運用能力を持つ回天母艦へと改装される。
後甲板中心線上に爆雷投射機をまたぐ形で鉄製架台を設け、艦尾水線上にスロープを溶接、木製の台に回天を載せ、発進の際は架台から滑り落とすという仕組みである。ただ先に改装を受けた北上や波風のものと違って、松型/橘型のものは簡易的なものだった。
本土決戦に備え、7月8日より倉島島本浦泊地で敵機の目から逃れるべく擬装係留に入る。
7月15日、第31戦隊、第41駆逐隊、第43駆逐隊、第52駆逐隊で編制された海上挺身部隊に転属。軽巡1隻、駆逐艦17隻からなる当部隊は作戦行動可能な唯一の水上部隊であった。祝島を中心に半径180海里圏内を行動範囲に定め、侵入してきた敵艦隊に対し、戦隊所属の駆逐艦は可能な限り近づいた上で回天による夜戦を仕掛け、回天発進後は通常魚雷で輸送船団を攻撃する手はずとなっていた。ところが深刻な燃料不足で統一訓練の実施すら困難に陥り、やむなく呉や柳井で擬装係留するしかなかった。
8月15日の終戦時、呉にて残存。連合艦隊に残された実働戦力は軽巡酒匂、楓を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻のみだった。
凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰国が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商船は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。楓は航行可能な状態だったため、武装解除、居住区の拡張、厠の設置、舷側に「KAEDE」と記入するなどの改装工事を行い、12月1日より特別輸送艦に指定。
復員輸送任務が一段落すると、今度は特別保管艦の指定を受けて横須賀に係留。仮設したデッキハウス、残っていた兵装を撤去し、最低限マニラまで自力航行できるよう、船体・機関・艤装などを良好な状態に整備する。大した海軍力を持たない中華民国とソ連の強い働きかけにより、1947年6月18日から米・英・中・ソの四ヵ国で賠償艦艇配分会議を実施、抽選で振り分けた結果、中華民国が楓を含む34隻を獲得した。
支那事変で海軍が壊滅して再建途上だった中華民国は配分された全艦艇を最も喜んで受け入れたという。ただ、人手不足や整備能力不足が原因で巡洋艦以上は手に入れられなかった。
楓は中華民国に向かう艦艇の第一陣に加わって出発、7月6日に上海で引き渡された。接2と仮命名された後、衝陽級駆逐艦1番艦衝陽に改名、2番艦信陽(元初梅)、3番艦華陽(元蔦)、4番艦恵陽(元杉)と中華民国海軍に属する衡陽由来は湖南省南西部長沙の南南西約150kmに位置する同名の都市から。ちなみに陽級は旧日本駆逐艦だけでなく、アメリカから供与された駆逐艦も含めた日米混同等級であった。
ところが、衡陽、華陽、恵陽の3隻は引き渡し前の整備状況こそ良好だったが、上海で引き渡された時には機器類が壊れていたり、水没したりしていたため、中華民国側は日本人回航員の破壊工作だと判断。特に衡陽は機関の調子が悪く、自力での修理も出来ないので再武装されなかった。
間もなくして第二次国共内戦が勃発。支那事変で日本軍の矢面に立たされ続けた中華民国/中国国民党の弱体化は著しく、中国共産党の猛攻であっと言う間に劣勢へと陥り、1949年4月23日に首都南京を放棄、中共の包囲網から逃れるべく、衡陽は中華民国が実効支配する台湾北部の淡水に避難。10月1日より練習艦隊に編入。
1954年2月に米華相互防衛条約が締結、アメリカ海軍のベンソン級駆逐艦2隻が譲渡されたためか、同年11月11日除籍となる。1962年から翌年にかけて解体。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 13:00
最終更新:2025/12/11(木) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。