白作戦とは、1939年9月1日から10月6日にかけて行われたドイツ軍によるポーランド侵攻作戦である。この作戦は成功したが、第二次世界大戦勃発の引き金となった。ファル・ヴァイス、白の場合とも。作戦は成功し、ポーランドは降伏してドイツの占領下に置かれた。
1933年1月30日、この日は皆さんご存じアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)が政権を握った日となった。翌1934年にドイツはポーランドと不可侵条約を結び、防共同盟に引き入れてソ連に対抗する仲間にしようとした。協力の暁にはウクライナとベラルーシ北東部をプレゼントする事まで決まっていたようだが、失地回復による「強いドイツ」の再来を目指すヒトラー総統にとって、不可侵条約は見た目だけの友好姿勢に過ぎなかった。
ドイツを十重二十重に縛るヴェルサイユ条約の破棄、オーストリア併合、ズデーテンラントの割譲とチェコスロバキアの解体、メーメルの割譲と着実に失地を取り戻していく。世界大戦の再来を恐れる英仏はヒトラー総統の行動を非難しつつも常時及び腰であり、また併合や割譲は地元住民による選挙の結果という民族自決だったという事もあり、何ら手を打てなかった。
そんなドイツが最も欲しがったのが、ポーランドが領有する自由港湾都市ダンツィヒであった。ダンツィヒは旧ドイツ領だけあって多数のドイツ人が住んでおり、彼らの多くはドイツへの帰属を望んでいた。またヴェルサイユ条約で飛び地になってしまった東プロイセンと本国を繋ぐ重要な回廊でもあるため、地理的にも重要だったのだ。ドイツのダンツィヒに対する要求は1937年頃から始まり、東プロイセンと本国の橋渡しとなるアウトバーン建設を提案。当初はチェコスロバキアの二の舞を避けるべくポーランド側は静かに従っていたが、1938年10月にドイツはポーランドにダンツィヒの返還を要求。
1939年3月21日にも再度返還要求を行ったが、ダンツィヒはポーランドにとって唯一の港であり、そう簡単に手放せなかった。それどころか3月31日に英仏と軍事同盟を結んで明確な対抗姿勢を見せたため、ドイツは4月3日より白作戦の準備を開始した。4月28日にはポーランドとの不可侵条約を破棄している。5月、よせば良いのにポーランド外相は要求を拒否する声明を発表。両国の関係は悪化の一途を辿った。8月23日、ドイツはイデオロギー的に対立するソ連と密約を結ぶ(モロトフ=リッベントロップ協定)。これはポーランドを東西で仲良く半分こする議定書であった。当初ドイツ軍は8月26日午前4時の攻撃開始に定め、それに合わせて部隊を移動。海からは親善訪問の名目で練習戦艦シュレースヴィッヒ・ホシュタインがシュヴィーネミュンデを出港した。ところがイギリスが「ポーランドに対して同盟の義務を果たす」と発表したため、英仏との全面戦争を避けるべく攻撃を延期。ヒトラー総統はイギリスが手を引くのを待ったが、一向に引き下がらなかったため攻撃を決意。ポーランド領空を高高度で飛行するドイツ軍偵察機の数が増大した。
8月29日、ドイツは三度目のダンツィヒ返還要求と最後通牒を行った。ダンツィヒか、戦争か。しかしポーランドはこれを無視し、時間切れとなった(回答する気はあったがグダグダになってしまったらしい)。ドイツ外相リッベントロップはポーランドとの交渉打ち切りを宣言。翌30日、ポーランド軍のエドヴァルト・リッツ・シミグウィ元帥は軍の動員を発表したが、ドイツ軍が動いている事を知らないフランスは外交的和平を望んでポーランドに動員を解除するよう圧力をかけ、取り消されてしまう。当然迎撃態勢に悪影響を及ぼし、開戦までに動員出来たのは予定の1/3にあたる90万人のみだった。
8月31日、ドイツは親衛隊を使って「ポーランド人がラジオ局を襲撃した」という自作自演を実施(グライヴィッツ事件)。ポーランド侵攻を正当化した。
ドイツ軍…総兵力200万
1939年9月1日未明、遂に白作戦が開始され、ポーランドの領空にドイツ空軍のスツーカの編隊が飛来。まず最初に行ったのがヴィスツラ川に架かるディルシャワ鉄橋の死守だった。この鉄橋はドイツ本国と東プロイセンから攻める部隊が合流する要衝であり、ポーランド軍に爆破される危険性があったのだ。パイロットたちは作戦に備えて事前に旅客としてポーランドに入り、その位置情報を頭の中に叩きこんでいた。午前4時34分、3機のスツーカから250kg爆弾4発と50kg爆弾4発が投下され、土手沿いに走る爆破用電線を破壊して作戦を成功させた。
続いて午前4時45分、国境線に集結したドイツ陸軍が一挙に越境し、ポーランド国内へと雪崩れ込む。バルト海では前弩級戦艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインがダンツィヒ市内とヘラ要塞に28cm砲を撃ち込む。上空からはドイツ軍の爆撃機が飛来し、駐機しているポーランド軍機を片端から破壊していったが、事前に最新鋭機は避難していたため地上撃破されたのは旧式機のみだった。午前8時にドイツ陸軍がモクラ村への攻撃を開始。東プロイセンから侵入した北方軍集団は南方へ向かって突撃し、スロバキアより北上する南方軍集団は首都ワルシャワ方面へと突撃、ポーランド西部の国境線を渡った部隊は東方へ進撃するという三方向同時攻撃を受けてポーランド軍は初日にして窮する。進軍路にあったポーランド軍陣地は地上と空からの協同攻撃で粉砕された。ポーランド軍が持つ銃器類は戦車には無力で、あっと言う間に前線は崩壊。昔ながらの騎兵部隊がドイツ軍の戦車に襲い掛かったが、相手がⅡ号戦車ではどうにもならず、わずか数日で壊滅の憂き目を見た。22時30分、ドイツ軍はクロブクを占領。しかし橋が破壊されていたので、リスヴァルテ河は渡れなかった。
この日、ヒトラー総統は演説し「昨夜、ポーランド正規兵が我々の領土に向かって砲火を放った。午前5時45分以降、我々も撃ち帰しているし、これから先は爆弾に対しては爆弾を以って答えるつもりだ」と語った。
9月2日、ポーランド軍は温存した最新鋭機を使って反撃。しかし機甲師団の電撃戦によって出撃拠点の航空基地が次々に制圧され、後方の補給路も激しい爆撃によって寸断。勢いはすぐに衰えてしまった。それでもポーランド空軍は勇敢に立ち向かったがドイツ空軍の精鋭には歯が立たず、たちまち壊滅してしまった。これ以降、ポーランドの空はドイツ空軍機の支配下となった。ポーランド軍の動静は筒抜けとなり、後方の道路や鉄道は繰り返し爆撃を受けて使用不能。機甲師団はスツーカの援護を得てガンガン進撃し、退却する地上のポーランド軍を蹴散らした。悲劇はこれだけではなかった。スツーカはバルト海でも猛威を振るい、ポーランド海軍の潜水艦ライスとセプは大破。砲艦ハラーとピルズスキ、掃海艇チャイカ、チャプラ、メワ、リュビトワ、ズラウなど多数の艦艇を喪失。生き残った艦艇はイギリスに脱出するか、袋小路のヘラ半島に逃げ込むしかなくポーランド海軍も虫の息になってしまう。そしてヘラ半島に逃げ込んだ艦もスツーカの餌食となり、壊滅する。
ポーランド軍司令官のクツルツェーバ将軍は「あらゆる瞬間に、あらゆる軍団とあらゆる道路は、空からのせん滅的火力に捉えられていた。まさに地上に現出した地獄だった。橋梁は破壊され、渡河店は遮断され、高射砲やその他砲兵戦力は壊滅させられた…。対空防御姿勢は完全に失われた。(中略) その場に留まれば、やがてドイツ空軍によって墓場に変えられてしまう。」と泣きついている。
9月3日、ポーランドの頼みである英仏がドイツに宣戦布告。ここに、第二次世界大戦が勃発した。しかし英仏はポーランドに増援を送らず、ただただ野次を飛ばすだけであった。見捨てられたポーランドはただ一国で強大な軍事国家と戦わなければならなかった。ちなみにドイツは機甲戦力の85%をポーランドに投入しており、もしこの時背後からチクッとしていれば容易に勝てたはずである。
ヒトラー総統は自ら軍用列車に乗り込み、前線に進出。陣頭指揮を執り始めた。陸での戦いは完全にドイツ有利で進んでいたが、首都ワルシャワはポーランド軍によってガチガチに防備が固められていた。市民10万の士気も高く、ドイツ軍がバラまいた降伏勧告のビラにも全く応じなかった。9月5日、ドイツ軍は刑務所や収容所に収監されていたドイツ人女性を解放した。またポーランド在住のドイツ人は、ドイツ軍がやってくると手を振って歓迎した。ヴェステルプラッテを守備するポーランド兵はわずか182名しかいなかったが、シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの支援を受けるドイツ陸兵2000名以上を釘付けにして勇戦。頑強に抵抗していたが、9月7日に陥落した。翌8日、進撃が最も速かった部隊がワルシャワ近郊に到達。他の部隊も続々とワルシャワ近郊へと辿り着く。執拗な爆撃で通信網を破壊されたポーランド陸軍は連携が取れず、各々が近くのドイツ軍に戦闘を仕掛け、そして各個撃破された。
9月9日、ポーランド戦最大の戦闘であるブズラの戦いが生起する。ブズラ川沿いで、ポーランド軍主力のポズナン軍団とポメラニア軍団がワルシャワを攻囲するドイツ第8軍の背面を攻撃。当初はポーランド軍側が優勢で押していたが、やがて数に勝るドイツ軍が反撃開始。9月11日、スツーカが殺到しポズナン軍団を爆撃、進軍を停止させる。そこへ機甲師団が到着し、激戦に発展した。やがてポーランド軍の主力がドイツ軍によって敗北。ポーランド政府は戦前「ドイツ軍のどのような侵略も速やかに撃退できる」と宣言しており、この連戦連敗にポーランド国民の士気は削がれ、パニックを引き起こした。その結果、兵員輸送に悪影響を及ぼしてしまう。最初の一週間で、ポーランド軍はポモージェ地方、ヴィエルコポルスカ地方、シロンスク地方を失った。総司令官ルィツ・シミグウィ元帥は全軍に東南部への撤退を命じた。
9月15日未明、400機以上に及ぶドイツ軍機がワルシャワを空襲。英仏が参戦した事により、背後を突かれる事を恐れたヒトラー総統が早期の決着を目指したのである。9月17日には遂にポーランド陸軍も壊滅し、陸海空全ての軍隊が崩壊した。ワルシャワが陥落すれば戦闘は終結したも同然の状態となった。加えてMR協定によりソ連軍が参戦。ソビエト・ポーランド不可侵条約を破って80万の兵力が東より攻めてくる。大国に挟撃されたポーランドにもはや助かる道はなく、予想外の攻撃を受けたポーランド政府は全軍に中立国ルーマニアへ脱出するよう命じた。一部地域ではドイツ軍とソ連軍がすれ違ったり、共同作戦を行うなど死体蹴りの様相が見受けられた。9月19日、ヒトラー総統は演説で「ポーランド軍は勇敢に戦った」と、その抵抗ぶりを賞賛した。
9月25日、砲兵と爆撃機による猛攻が始まった。通常爆弾560トン、焼夷弾72トンが投下され市街地が破壊されていく様子を、郊外の司令部でヒトラー総統は楽しみながら見ていた。この攻撃でワルシャワ市民に大きな犠牲が生じ、立てこもる守備隊は9月27日に降伏。ラジオは「今、ドイツ重砲の発射音が聞こえています。では祖国の皆さん、これが最後です」と告げ、ポーランド国家が流れたのちに途絶した。翌28日、モドリン要塞にこもっていたボーランド軍が降伏。残ったポーランド兵が散発的に抵抗を行ったが、それも10月5日に終結。ポーランドの戦いは終わった。ポーランド政府はルーマニアに脱出し、抵抗運動を続行。
ドイツ側の被害は北方軍集団1500名、南方軍集団6500名、パイロット413名が戦死。戦車217輌と航空機285機を喪失した。一方ポーランド兵は数十万人が捕虜となり、ドイツの捕虜となった者は工員として生産工場に送られた。だがこれはまだ幸福な方だった。ソ連の捕虜になった者は強制収容所に送られたり、カティンの森事件に巻き込まれたりと惨い末路を辿っていた。
密約通りポーランドは独ソの二カ国によって仲良く分断された。ドイツは国内のユダヤ人をポーランドへと追い出し、およそ200万人が追放。終戦までに50万人が死亡した。ポーランド人もドイツ人の奴隷のような扱いを受け、財産は没収。教育は最低限しか受けられず、就労も制限された。反ドイツのパルチザンは摘発され、1943年のワルシャワ・ゲットーの反乱まで大きな事件は起きなかった。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/05/14(木) 20:49:12 ID: hGZf6SX1d9
敗北後、他の連合軍に合流したりポーランドに残って潜伏したりしたりしてドイツに抵抗したポーランド軍人が好きである
ただ、ソ連に合流したポーランド軍人やポーランドに残ったポーランド軍人はかわいそうである
2 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 23:34:04 ID: VcS6YxjOh5
>ちなみにドイツは機甲戦力の85%をポーランドに投入しており、もしこの時背後からチクッとしていれば容易に勝てたはずである。
>https://
一応フランス軍もポーズだけ侵攻してたんだけど、まやかし戦争に見捨てられたんだよね…
3 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 23:36:22 ID: hGZf6SX1d9
>>2
さすがに皮算用が過ぎる気もするがなあ
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
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