TOYOTA
トヨタ自動車株式会社(TOYOTA, Toyota Mortor Corporation)とは、愛知県豊田市と東京都文京区に本社がある自動車メーカーである。日本の自動車販売台数シェア45%を占める大企業であり、またゼネラルモーターズやフォルクスワーゲングループと世界販売台数1位の座を争うトヨタグループの中核でもある。「トヨタ」や「TOYOTA」と呼ばれることが多い。
歴史
1933年、トヨタグループの創始者で豊田自動織機の創業者・豊田佐吉の長男・豊田喜一郎が、「日本が一流国になるためには自動車産業が必要だ」と豊田自動織機内に作った自動車製造部が起源である。エンジンはGM、シャーシはフォード、デザインはクライスラーから学びながら1935年に自動車製造を開始、1937年にはトヨタ自動車工業として独立をする。
1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより経営危機に陥り、三井銀行の融資と引き替えに開発&製造部門のトヨタ自動車工業と販売部門のトヨタ自動車販売が分離することを迫られた。しかしその結果、1935年から掲げていた「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益を考えよ」という販売理念と、当時推し進めていた分割払い方式がかみ合い、大衆が車を手に入れやすい体制を生み出した。1982年まで続いたこの工販分離は危機に見えてトヨタの構想内だったというわけで、トヨタ躍進の原動力にもなった。
当時政府は外国メーカーから技術提供を受けることを推奨したが、日産、ダイハツ、いすゞらがそれに従う中でトヨタだけが純国産車を作ることに拘った。そして誕生したのが1955年のクラウンで、この日本初の純国産高級車は戦後復興に湧く日本国民に大ウケした。
1966年にはカローラが誕生。販売2年目で16万台を売る大ヒットとなり、日本のモータリゼーションを大幅に促進した。
1970年代には各社がDOHCを一旦放棄する中トヨタだけはDOHC(ツインカム)にこだわり続け、日産・三菱のSOHCターボと激しく争った。しかし1980年代にトヨタがターボ付きDOHCを開発し、この争いに決着を付けた。また1980年代のハイソカーブームではソアラやマーク三兄弟、1990年代のスポーツカーブームではAE86やセリカ、スープラなどが人気を博し、時代の牽引役であり続けた。
1995年、豊田一族ではない奥田碩が社長になったことでトヨタは大きく変貌を遂げた。奥田は持ち前の仕事の速さで大胆なコストカットと役員入れ替えを行い、バブル崩壊後の不況に苦しむトヨタを一年で回復させ、さらに海外展開路線を強力に打ち出し、トヨタを世界一の自動車企業に押し上げることを目標に邁進し続けた。加えてヴィッツやプリウスなど消費者に21世紀の目新しさを感じさせる新車種を次々に打ち出して、現在のトヨタのイメージの基礎を作っている。
しかし一方で過度なサービス残業強要、下請けイジメなどがはびこるようになった。また奥田は株主総会で「クラウンは5年持てば良い。オーナーは金持ちなんだから買い換えてくれる」などと品質管理を軽視する発言をしたため、「金儲けしか考えないトヨタ」という悪いイメージも作ってしまった。車が「白物家電化」した、と言われているのもこの頃である。
1999年に奥田は社長職を辞したが、代わりに会長となってそのままトヨタに君臨し続け、拡大路線をひた走った。その後2007年にはリーマン・ショックの影響でGMが後退したことで、ついにトヨタグループは世界販売台数一位を獲得する。しかしこの金融ショックはトヨタにも襲いかかり、58年ぶりに営業赤字を計上した。トヨタの海外拡大路線はあまりに性急すぎて、世界中に展開した工場では円高による原材料高騰に対処し切れておらず、一方で売れる車種は廉価な小型車やハイブリッド車ばかりで、著しい利益率の低下を招いていた。そこへきてこの大不況で、過剰設備・人員・過剰在庫の三重苦である。トヨタは破綻したGMと同じく「大企業病」を発症しており、破綻寸前まで追い込まれた。なお同年、年間生産台数1000台にまで落ち込んだMR-Sが生産中止となり、トヨタのラインナップからスポーツカーが消滅している。
2009年にはさらに品質管理を怠ったツケがきて、大規模なリコール問題に発展。奥田は会長職を辞し、豊田家から4代ぶりに章男が社長に就任した。章男は「従来のトヨタの良さを取り戻す」と原点回帰を表明。ものづくりに対する姿勢や拡大路線の見直し、経営体制の大規模な変更、原材料のコストカットを重点的に行った。2010年に営業利益は黒字に戻るが、再度大規模リコールが発生。これらの問題に関してアメリカの公聴会に召喚され、つるし上げを食らう。さらにトヨタの苦難は続き、2011年の円高や東日本大震災、タイの洪水、中国の日本バッシング、など立て続けにトヨタの工場がストップ、生産・消費にともに大きなダメージを受け、GMにも首位を奪われた。このため大幅に取締役を削減し、社内カンパニー制度を導入したり、海外事業体が各自で意志決定できる仕組みを作るなどさらなる大企業病の改善に努めた。
2012年に円安に転じると我慢と改革がついに実り、GMからシェア一位を奪還。又この年86を発売し、5年ぶりにラインナップにスポーツカーを復活させた。2013年には営業利益1兆円突破、2014年には1000万台を突破するなど、奇跡的な復活劇を遂げた。
2015年には「環境チャレンジ2050」を発表して2050年までにエンジン車を無くすと宣言。また同年プラットフォーム「TNGA」を発表、低燃費と低コストに加えて走りの楽しさを加えた車作りへと踏み込んだ。しかし、2021年には水素を燃焼するレシプロエンジンのレーシングカーを作り、富士スピードウェイでの24時間レースに参戦。レシプロエンジンそのものを「諦める」わけではないことをアピールしている。
企業の特徴
高品質(故障しにくい)
トヨタ車といえば壊れにくい、である。トヨタ生産方式に代表される「カイゼン」のおかげで1960年代頃から均一な部品を作ることに定評があり、他の自動車メーカーもこぞって手本にした。
今でこそ壊れにくさはトヨタに限らず日本車の代名詞と言えるが、それでもトヨタ車は一つ頭抜けているところがある。6~7年で100万キロ近い距離を走れるため、日本のタクシーのシェアはトヨタが9割近くを占めている。また日本で使われなくなったトヨタ車は東南アジアなどで使われており、何十年前の車種が走っていることも多い。
またランドクルーザーとハイラックスの頑丈さは圧倒的であり、水に沈んでも鉄球をぶつけても火であぶっても完全には壊れない。そのため戦場でも人気であり、特に中東ではさかんに用いられている。イスラム国などはあまりにトヨタ車ばかり使うので、「トヨタはイスラム国を支援しているのでは無いか」とアメリカに疑われたこともある。
多彩な販売チャネルとラインナップ
トヨタは戦時中の輸入車禁止令下のもとにGMやフォードのディーラーを吸収しており、一番最初に全国に販売網を強いた日本車メーカーである。そのため日本のモータリゼーション黎明期からトヨタは日本のシェアトップだった。なおイストやハリアーなど、トヨタのエンブレムが車種毎違うことが多いのは、当時のGMに学んでいた頃の名残である。
現在はトヨタ、トヨペット、カローラ、ネッツと4つの販売チャネルを持ち、そこに高級車ブランドのレクサスが加わっている。それぞれが違う階層の車の販売を担当しており、なおかつそれぞれが近い距離に存在している。販売窓口の数の有利に加え、販売店同士で販売目標を設定させて競合あるいは協力させる戦略だ。また販売車種を価格帯によって分けることで、客層の違いにも対応している。
ラインナップも豊富で、セダンやコンパクトカーを中心に似たような、しかし異なる車種やグレードをOEMも含めて多数用意し、細かいニーズに応えることが可能になっている。これらが「販売のトヨタ」と呼ばれたゆえんである。
先進的環境技術
「販売のトヨタ」のイメージが先行して技術力が無いと思われがちなトヨタだが、実際は優れた技術を多く持っている。
特に環境技術には強く、ハイブリッド技術はトヨタの代名詞として知られる。THSと名付けられたこのスプリット式ハイブリッド技術は、エンジンとモーターを同時に使いながら、エンジンの余った馬力を充電に回すことができる画期的なシステムだ。いわゆるマイルド・ハイブリッドなどとは比べものにならない極めて複雑なこのシステムを、21世紀が始まる前(1997年)に開発できたのはトヨタだけである。ちなみに第二号は2005年にGM、ダイムラー、BMWの共同開発の末にようやく登場した。
アイドリングストップもトヨタが最初で、1970年代のクラウンからすでに装備されていた。また燃料電池車や、太陽光で発電するPHVを初めて量産したのもトヨタだ。
その他には世界初では無いが、スバルの水平対向エンジンをノンターボで200馬力まで押し上げた直噴技術D-4、ハイブリッドの低燃費を内燃機関でも支えるVVT-iやアトキンソンサイクルエンジン技術なども有名である。
研究開発に使われている費用や特許数も日本メーカー随一であり、細かい技術の開発では他社の追随を許さない。2016年には自動車メーカーだけで無く全国内企業中トップの特許申請数となった。一方で自社技術を広めることは苦手で、ガラパゴス化の危険性が指摘されている。そのため近年は他社へのハイブリッド技術提供や燃料電池車に関する特許5680件を無料公開をするなどしている。
多数のグループ企業と積極的な業務関係
トヨタは1960年代の業界再編時代から深く提携してきた日野・ダイハツと共に、生産の委託し合いや技術の学び合いを通して成長した。また同時期にヤマハ発動機からはDOHC、ホンダからCVCCの技術供与も受けた。
現在はダイハツを完全子会社、日野を連結子会社化しており、スバルの筆頭株主にも収まっている。またヤマハ発動機、パナソニック、デンソー、アイシン、KDDI、東和不動産、曙ブレーキ、いすゞ、あいおいニッセイ同和損保、ロータス・カーズなどにも株主として関わっていること知られている。
ダイハツには軽自動車中心に小型車の生産、日野にはダイナやFJクルーザーなどの小型トラックやSUVの生産を委託している。
スバルは2005年にGMからトヨタ傘下入り。稼働率の著しく低下したスバルの北米工場の危機を、トヨタ・カムリの生産を請け負うことで乗り切ったり、その後も利益の上げ方についてトヨタのやり方を大いに参考にしたりとトヨタから助けてもらっていることが多い。逆にトヨタもスバルと共同開発をすることで、スポーツカー文化再興のきっかけとなる86/BRZを誕生させることができた。ちなみに「スバルがダメになったのはトヨタのせい」という論調が2ちゃんねるなどでよく見られるが、トヨタが株主となったとき、渡辺社長や豊田章一郎名誉会長から「トヨタにならないでください」と言われており、むしろ今のスバルはスバル自身が望んでなったのが真実である。
マツダもトヨタからハイブリッドの供給を受けたり、北米工場の設備投資を負担してもらったり、燃料電池車やEV技術の供与も受けたりしている。一方でマツダはセダン型デミオをトヨタにOEM供給していたり、ガソリンやディーゼルエンジン技術の供与をしている。
2017年にはスズキとも提携することで合意、自動運転技術やハイブリッド技術の提供や、IT技術と安全技術の共同開発に取り組むとしている。トヨタとスズキは元々縁が深く、かつてスズキがバイク事業に進出する際、当時社長が同郷であったトヨタがこれを援助するために、トヨタでスズキのバイクを販売していたことがある。後を継いだ現スズキ社長の鈴木修は、父から「何かあったらトヨタを頼れ」と言われており、実際に1970年代に排ガス規制をクリアするために4stエンジンを供給してもらったことがある。
BMWとも提携をしており、トヨタがハイブリッドや燃料電池、BMWがスポーツカーや炭素繊維の技術を持ち寄っている。次世代スープラもBMWとの共同開発の可能性が極めて高いとされる。
ロータス・カーズとは1970年代から協力関係にあり、セリカXXのサスペンション開発やランドクルーザーのハードトップの技術提供をしてもらった。なおセリカXXのCMにはコリン・チャップマンも出ていた。逆にトヨタも1980年代から部品を供給し始め、2004年のエリーゼからはトヨタエンジンを供給。現在は全ラインナップがトヨタ製エンジンである。
さらにはPSA(プジョー・シトロエン)とも2002年にTPCAという合弁会社を設立し、小型車を共同開発している。またPSAからバンをプロエースの名でOEM供給してもらっている。
自動車メーカー以外では、マイクロソフトと合弁会社「Toyota Connected,Inc」を設立し、ビッグデータを利用したシャーシの開発や自動運転技術の研究にも力を入れている。
このように多様な企業と提携を行っていることからも分かる様に、トヨタは総じて自社の技術のみに拘泥せず、パッケージとして優れた車を量産することに長けていると言える。
80点+α主義
カローラに代表されるように基本的に死角が無く、外れの少ないメーカーとして知られている。尖った車でも、普段遣いに困らない最低限の装備があることが多い。
ただし「トヨタの80点主義」は長所も短所も無い車にするものだ・・・というイメージのは誤解である。1960年代に80点主義を提唱し、パブリカやカローラを手がけた長谷川龍雄によると元々80点+「α」主義であり、「お客様に我慢してもらうことは絶対になくてはならない。走行性能や安全性などあらゆる特性において欠点があってはならない」「何の個性もない車であってもならない」という気概の表れであったと述懐している。
この「80点主義」の独り歩きするイメージは安心を保証する一方で、「個性が無い」「刺激が足りない」と批判されることも多い。特にこの傾向は90年代半ばから2000年代の車種に顕著である。ただし個性がないのは、単にトヨタ車が多く売れているというだけの理由で、車自体は個性的であったりする(後述)。
なおこれと関連して「トヨタ車は足回りが柔らかい」と批判されることがあるが、ストップ&ゴーばかりで高速道路でも100km/hまでしか出せない日本ではむしろそのくらいの足回りが多くの消費者に好まれていると言うことでもある。海外ではきちんと現地に見合ったセッティングで販売しており、特に欧州での生産車は現地に合わせて堅めの足回りになっている。オーリス、アベンシスはその代表例だ。
近年は退屈なイメージからの脱却に心血を注いでおり、新プラットフォームのTNGAでは、従来の低燃費・低コストに加えて走る楽しさを盛り込むクルマづくりを打ち出した。そのためヴィッツを始め全体的に足回りがしっかりしてきている。またデザインもキーンルックと呼ばれる鋭さのあるもので、見る者に強いインパクトを与えることを第一に考えている。
高い市場調査力と企画力
一部の車好きから「パクリが得意」などと叩かれるトヨタだが、これも誤解である。実際には消費者の隠れたニーズを掘り起こして時代の先を行く車を作ることにも長けている。そのため車好きから「こんな車誰が買うんだ?」と言われながら実際売れている車種は多い。
例えば耐久性だけでなく快適性も重視し「もはや戦後では無い」という国民意識を掴んだクラウン、優れた機能性と経済性で40年以上販売トップを占めたカローラ、ハイソカーブームの中心となったマーク三兄弟やソアラ、若者向けスペシャリティカーのセリカ、安さ・軽さ・いじりやすさ・高性能エンジンで大ヒットしたAE86(レビン・トレノ)、街で乗るためのSUVであるRAV4、洗練されたコンパクトカーのヴィッツ、高級セダンの乗り心地を持ったSUVのハリアー、世界初量産ハイブリッド車のプリウス、ターボも四駆もハイグリップタイヤも不要なクーペの86/BRZなど、トヨタが切り拓いてヒットさせたジャンルは枚挙に暇が無い。また高級車=派手・壊れるというイメージの時代に、高品質・高性能をウリとするレクサスブランドを立ち上げて北米で大ヒットさせたのもトヨタである。
他にはバタフライドアのセラ、国産車唯一のV12エンジン搭載車センチュリー、7人乗りの小型車シエンタ、ニュルで鍛えたSUVのC-HRなどの「変態」な車も結構作っている。そのため「ラインナップが豊富だから万人ウケ狙いに見えるだけで、一台一台は尖っている」と言う人もいる。
販売車種
トヨタがこれまでに販売してきた車種については、トヨタ自動車の車種一覧を参照のこと。
モータースポーツ
エコな大衆車メーカーのイメージとは裏腹に、モータースポーツでも成功を収めているメーカーである。
オフロード
1947年、終戦後の困窮に耐えて喜一郎が作った四輪独立懸架のSA型乗用車を、名古屋~大阪間を走る急行列車とレースさせて、46分差で圧勝した記録が残っている(もちろん警察の許可は取ってあった)が、これをモータースポーツと呼ぶのかは微妙なところだ。公式では1957年にオーストラリア一周ラリーにクラウンで参戦し、完走したのがトヨタのモータースポーツの始まりとしている。
1972年にオベ・アンダーソンのプライベートチームを支援し、1975年からこれをワークスチーム「TTE」としてWRC(世界ラリー選手権)にレビンで参戦、同年初優勝した。その後も幾度の勝利を収め、1990年代前半にセリカで日本車メーカーとして初めてドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。1995年には「悪質な」リストリクター違反をしたため1年間の出場停止処分を下されたが、トヨタはこの決定を重く受け止め、さらに1年の活動を自主的に停止。復帰後の1999年にカローラでマニュファクチャラーズタイトルを獲得、有終の美を飾った。
それから18年の時を経て2017年に復帰。わずか2戦目で優勝を挙げ、「ラリーのトヨタ」復活を知らしめた。2017年4月までに、4回のドライバーズタイトルと3回のマニュファクチャラーズタイトル、44回の優勝を記録している。またTRDラリーチャレンジの開催や全日本ラリー選手権への参戦など、草の根レベルからのラリーの普及活動に最も積極的なメーカーである。
ダカールラリーでは市販車部門に1995年からランドクルーザーで参戦、2017年までに17回の優勝を獲得している。なお2007年からは廃油を集めて作ったバイオディーゼルを燃料にして走っている。他には南アフリカ法人のトヨタがハイラックスを改造して2012年からアンリミテッドクラスに参戦・プライベーター供給しており、最高で総合2位となっている。ちなみに2017年のダカールで出走した(カミオン・クアッドを除く)79台の四輪車のうち、36台がトヨタ車だった。
サーキット
1963年の記念すべき第一回日本グランプリに参戦し、クラウン、コロナ、パブリカで3クラスを制覇した。ちなみにこのときのパブリカは、初の国産の水平対抗エンジン車の、初のレース勝利記録にもなっている。
その後も日本グランプリや富士24時間、日本CAN-AMなどで1970年まで市販車・プロトタイプレーシングカーで日産と激しく戦いを繰り広げ、日本のモータースポーツ文化の基礎を作った。
その後排ガス基準に適応することに専念したために一度は撤退したものの、1980年代にサーキットに復帰。WEC、WSPC、SWC、JSPC、ル・マン24時間レースなどのプロトタイプカーレースに挑戦し続けた。ル・マンでは1992年はトップを猛追するも途中でエンジンがオーバーヒートして2位、1994年は残り1時間でトラブルが発生して2位、1999年は残り1時間でタイヤがバーストしていずれも2位に終わっている(クラス優勝なら1993年、1994年、1999年に達成している)。
奥田が社長になった頃にトヨタはフォーミュラへと転身し始め、1996年にCARTにエンジン供給を開始。2000年にはル・マン、WRCとこれまで注力してきたレースを捨ててF1に転身した(参照→トヨタF1)。2006年からはフォーミュラ・ニッポンにもエンジン供給を開始している。インディ500、CART、IRL全てでタイトルを獲得した後2006年に撤退、F1は優勝を遂げられないまま2009年に撤退した。
リーマン・ショックを乗り切った2012年にTMG(旧TTE)、オレカと共にプロトタイプカーレースへ復帰。ここで多くの勝利を収めており、2014年のWECではダブルタイトルを獲得した。しかしル・マン24時間だけはなぜか勝てず、2014年はPPから首位を維持していたのに電装系トラブルでリタイア、2016年はトップ快走中のなんと残り6分で駆動系トラブルでリタイアと悪魔的にツいていない。だが、2018年に悲願の総合優勝を達成し日本のメーカーとしては1991年のマツダ以来2度目、そして日本のチーム+日本車+日本人の組み合わせで初の優勝となった。それ以来、2021年に至るまで4連勝を重ねている。
2015年にはNASCARでドライバーズタイトルを獲得、2016年には3大カップ戦全てでマニュファクチャラーズタイトルを獲得する完全制覇を収めた。これによりトヨタはアメリカ三大レース(デイトナ500、インディ500、デイトナ24時間)とそれに付随したシリーズ(NASCAR、インディカー、IMSA)を全て制したことのある唯一の外国メーカーとなっている。
また国内でも活躍は目覚ましく、2020年シーズン終了現在ではスーパーGTではJGTC時代も含めて13回のドライバーズタイトル(日産は11回、ホンダは5回)、スーパーフォーミュラはFポン時代から数えて11回のドライバーズタイトル(ホンダは4回)を獲得している。
GAZOOレーシング
GAZOOとは、豊田章男社長の下積み時代に中古車販売サイトを見やすくするために画像を大量に使ってみたら、それが好評で売り上げもグンと伸びたことに由来する。画像が大量にある様子が動物園(ZOO)のようだとして、画像のZOO→画ZOO→GAZOOとなり、その名がつけられた車情報サイトが1998年から現在に至るまで運営されている。後にこのGAZOOは章男の象徴となった。
章男は社長就任前の2007年からニュルブルクリンク24時間を通じて「人と車を鍛える」レース活動をGAZOOレーシングの名で行っていたが、2015年には全てのトヨタとレクサスのモータースポーツ活動をGAZOOレーシングの名の下に一本化した。これによりトヨタのモータースポーツ活動は、「もっといいクルマづくり」の象徴に格上げされた。特にオフロードと耐久は「道が人を鍛え、人が車を鍛える」という思想のもとに重要視されている。また章男自身もステアリングを握ってニュル24時間や新城ラリーに登場したり、WRカーやNASCARをテストドライブしたりと国際C級ライセンスの腕前を披露している。このように現在のトヨタは、GAZOOの名のもとに日本で最もモータースポーツに積極的なメーカーとなっている。
2017年にGAZOOレーシングは現在社内カンパニーの1つに昇格された。これによりモータースポーツの中で生まれた知見を市販車に還元することで収益を得るサイクルを作り、景気に左右されないモータースポーツ活動を狙う。
原点回帰を掲げる章男の理念の根底にあるのは、次の言葉である。
『これから、乗用車製造を物にせねばならない日本の自動車製造事業にとって、
耐久性や性能試験のため、オートレースにおいて、その自動車の性能のありったけを発揮してみて、
その優劣を争う所に改良進歩が行われ、モーターファンの興味を沸かすのである・・・
単なる興味本位のレースではなく、日本の乗用車製造事業の発達に、必要欠くべからざるものである』
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