やりがい搾取とは、労働に関する用語の1つである。
概要
定義
やりがい搾取とは、使用者が労働者に対して内発的動機付けによって労働を奨励しつつ適切な賃金を支払わない行為である。
内発的動機付けの2つの定義
やりがい搾取を支えるのは内発的動機付けであるが、その内発的動機付けの定義は2つに分かれる。
定義1.の内発的動機付けの代表例は、ゲーム感覚で労働をするように誘導して労働者に「労働をすると自分の能力の高さを実感できる」と期待させるものや、労働の成果を目立つように公表して労働者に「労働をすると自分の能力の高さを実感できる」と期待させるものである。
定義2.の内発的動機付けの代表例は、顧客の感謝の声を労働者に聞かせて労働者に「労働をすると感謝されて自分の能力の高さを実感できる」と期待させるものである。
本記事において『定義1.の内発的動機付けによるやりがい搾取』や『定義2.の内発的動機付けによるやりがい搾取』の項目でそれぞれの例を紹介する。
抵触する法律
やりがい搾取で使用者が労働者に賃金を支払わないのなら、労働基準法第24条の「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」に違反する行為であり、使用者は同法第120条第1項により30万円以下の罰金を科される可能性がある。ただし、公務員労働者には労働基準法が適用されない。
やりがい搾取で使用者が労働者に残業代や休日出勤手当を支払わないのなら、労働基準法第37条の「使用者が、第三十三条又は前条第一項の規定により労働時間を延長し、又は休日に労働させた場合においては、その時間又はその日の労働については、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の二割五分以上五割以下の範囲内でそれぞれ政令で定める率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならない」に違反する行為であり、使用者は同法第119条第1項により6ヶ月以下の懲役または30万円以下の罰金を科される可能性がある。ただし、一般的に「管理職」と呼ばれる管理監督労働者には労働基準法第37条が適用されない(労働基準法第41条)。
労働市場の市場原理に反抗する
やりがい搾取は、たとえば「労働市場で形成される賃金の均衡水準が時給1,000円の労働者を1時間労働させても、その労働者に対して1,000円の賃金を支払わず、1,000円より少ない賃金を支払ったり、全く賃金を支払わなかったりする」といった行為を指す。言い換えると、やりがい搾取は労働市場の市場原理に反抗する行為である。
経済学の教科書のようにタテ軸名目賃金・ヨコ軸労働時間の労働市場モデルを用いてやりがい搾取を説明すると、次のようになる。労働需要曲線が右肩下がりで労働供給曲線が垂直線であり、その交点Xが名目賃金の均衡水準である。しかし、やりがい搾取をする使用者は、名目賃金の均衡水準よりも低い名目賃金を指定し、その名目賃金で水平線を引く。やりがい搾取の名目賃金の水平線と労働需要曲線の交点X'があり、その交点X'を通る垂直線が実際の労働供給曲線となる。やりがい搾取が発生したときの労働時間は均衡水準よりもはるかに長くなり、使用者はやりがい搾取による利益を享受できる。
やりがい搾取は、使用者の都合によって名目賃金の最高額を労働市場で形成される均衡水準よりも低く保つ行為である。それを行うと構造的失業が完全に無くなって雇用が大量に発生するが、労働者の名目賃金が低くなって労働者の生活水準が劣化するという欠点がある。
ちなみに、労働者が労働運動を行ったり政府が最低賃金を定めたりして名目賃金の最低額を労働市場で形成される均衡水準よりも高く保つことがある。それを行うと労働者の名目賃金が高くなって労働者の生活水準を向上させられるが、構造的失業が発生して雇用が減少するという欠点がある。やりがい搾取は、そうした労働者を保護する行為の正反対である。
やりがい搾取は使用者を保護する目的で労働市場の市場原理に反抗する行為であり、労働運動や最低賃金は労働者を保護する目的で労働市場の市場原理に反抗する行為である。
使用者が金銭債務と金銭債権を相殺して少ない賃金を渡す
やりがい搾取を行う使用者は「我々は、労働者に対して、やりがいがあって満足感を得られる素晴らしい仕事に参加させてやっている」といったような心理に酔っていることが多い。
そして、やりがい搾取を行う使用者は「我々は、労働者に対して、素晴らしい体験をする機会を提供してやっているのだから、それに対する料金を請求しても許される。遊園地が利用客に料金を請求するのと同じように、我々も労働者に『素晴らしい経験をするための料金』を請求してもよいのだ」といったような考えに染まっていることが多い。
さらに、やりがい搾取を行う使用者は「我々は、労働者に対して『賃金を支払う金銭債務』を抱えているが、それと同時に労働者に対して『素晴らしい経験をするための料金を請求する金銭債権』を持っている。このため債務と債権を相殺して、賃金から料金を天引きして、労働者に対して少ない賃金を渡す」と思考することが多い。
ちなみに使用者が、労働者に対する賃金支払いという金銭債務と労働者に対する金銭債権を相殺して、金銭債権の分だけ少ない賃金を支払うことは、労働基準法第24条で禁止されている行為である。労働基準法第24条では賃金全額払いの原則が定められており、「仮に使用者が労働者に金銭債権を持っているとしても、いったんは使用者が賃金を労働者に全額支払わねばならない」としている。
「日本型雇用における内発的動機付けによる労働奨励」とやりがい搾取の相違点
昭和時代の末期まで日本の大企業のほとんどが日本型雇用と呼ばれる雇用形態を維持していた。日本型雇用とは年功主義(年功序列)を基礎とした人事制度である。
日本型雇用においては、内発的動機付けで労働を奨励するのが常であった[1]。そして内発的動機付けで奨励された労働に対して即座に賃金を払わないことも多々見られた。
しかし日本型雇用において、内発的動機付けで奨励された労働に対する賃金が永久に支払われないわけではなく、長期にわたって後払いという形態で支払われていた[2]。「無償労働を繰り返した短期勤続年数の労働者に対して即座に賃金を与えないが、遠い将来において過酷な仕事を免除される高給取りの平社員に変化させたり、遠い将来において管理職に登用して高額の管理職手当を与えたり、遠い将来において役員に登用して高額の役員報酬を与えたりする」というのが典型例である。
このため、日本型雇用における内発的動機付けによる労働奨励のことをやりがい搾取と呼ぶことは少ない。やりがい搾取とは、内発的動機付けによって労働を奨励しつつ適切な賃金を永久に支払わない行為のことだからである。
罪悪感刺激とやりがい搾取の比較
定義2.の内発的動機付けによるやりがい搾取とよく似た使用者の行動として、労働者の罪悪感を刺激して「労働をしないと顧客に迷惑が掛かる」と思わせて労働させるというものがある。
いずれの行動も、ブラック企業の使用者やブラックバイトの使用者が盛んに行うという点で共通している。
定義2.の内発的動機付けによるやりがい搾取は、労働者に「労働をすると周囲から感謝の声を掛けられて自分の能力の高さを実感して満足できる」と期待させて労働を奨励するものであり、労働者に肯定的でポジティブな期待をさせるものである。
一方で罪悪感の刺激は、労働者に「労働をしないと周囲に迷惑が掛かり自分の能力の低さを実感して満足できなくなる」というものであり、労働者に否定的でネガティブな期待をさせるものである。
やりがい搾取という言葉の由来
やりがい搾取という言葉を作り出したのは社会学者の本田由紀である。
社会学者の阿部真大が、好きなことを仕事にしていると長時間労働にのめり込んでいくことを自己実現系ワーカホリックと呼んだ[3]。
それに対して本田由紀は「『自己実現系ワーカホリック』という言葉は、個人側の動機を強調しているように見えるため、不適切な面があるかもしれない。働かせる側の要因の重要性を言いあらわすために、ただしくは『〈やりがい〉の搾取』と呼ぶべきであろう」と述べ、やりがい搾取という言葉を提唱した[4]。
定義1.の内発的動機付けによるやりがい搾取
官公庁の公務員労働者
官公庁の公務員労働者は内発的動機付けを掛けられやすく、やりがい搾取の犠牲になりやすい。
官公庁の権力は強く、官公庁が何かを決めるとそれに従って関連業界の民間企業のすべてが大きく動いていく。そういう状況を目撃したり体験したりした官公庁の公務員労働者は、ゲーム感覚で面白がって労働をするようになり、「労働することで自分の能力の高さを実感して満足できる」と期待するようになり、内発的動機付けを強く掛けられる。
公務員には労働基準法が適用されず、非現業公務員の労働組合(職員組合)は重い刑罰によって争議権を剥奪されていて強力な労働運動をすることが不可能であるので[5]、公務員労働者は安い賃金になりやすく、残業代や休日出勤手当がまったく支給されないことが多い。このため、官公庁において使用者が労働者に残業や休日出勤を軽々しく依頼する状況が出現しており、長時間労働が発生しやすい状況になっている。
日本の官公庁に勤める公務員労働者の中には過労死するものがしばしば発生する。
官公庁の公務員労働者に対して定義1.の内発的動機付けをするときの言い回しは「大きな仕事をすることができてやりがいがある」といったものである。
ちなみに、官公庁の公務員労働者に対して定義2.の内発的動機付けをすることもあり、そのときの言い回しは「国民の皆さんが君に期待していて、君が頑張ると君に感謝するだろう」といったものである。
人事権や予算を与えられた管理職労働者
一般的な職場において管理労働者は内発的動機付けを掛けられやすく、やりがい搾取の犠牲になりやすい。
人事権や予算を与えられた管理労働者は、人事権をふるって人を好きなように動かしたり巨額の予算を使ってモノを好きなように購入したりすると、自分の能力の高さを実感して満足するようになり、「労働すれば自分の能力の高さを実感して満足できる」と期待するようになり、内発的動機付けを掛けられて長時間労働を苦にしなくなる。
小売業・飲食業では「店長に取り立ててやりがい搾取する」という手法が使われる。小売業・飲食業において、20代のうちに店長になり、人事権を行使して人を動かすという面白い仕事を与えられると、仕事の面白さに夢中になってしまい、やりがい搾取の犠牲になりやすい。学校において試験や学園祭が行われる季節になると学生アルバイトが少なくなりやすいのだが、そういうときに店長が長時間労働を強いられることになる。管理職なので残業代を支払われず、サービス残業という名の無償労働を大量に負担することになり、「店長なのに時給で換算すると学生アルバイトよりも給与が安い」ということになりがちである。
労働の成果が目立つように公表される労働者
労働の成果が目立つように公表される労働者は内発的動機付けを掛けられやすく、やりがい搾取の犠牲になりやすい。
労働の成果が目立つように公表される労働者の例として、漫画家・アニメーター・イラストレーター・小説家・彫刻家・陶芸家・画家・音楽家・俳優・声優・美容師・服飾デザイナー・建設労働者・スポーツ選手などが挙げられる。
自らの労働の成果が人目の付くところで派手に公表される様子を見ると、自分の能力の高さを実感して満足するようになり、「労働すれば自分の能力の高さを実感して満足できる」と期待するようになり、内発的動機付けを掛けられて長時間労働を苦にしなくなり、やりがい搾取の犠牲になる可能性が高くなる。
労働の成果が目立つように公表される労働者に対してやりがい搾取をするときの言い回しは「賃金が安価だけど、世には出るから宣伝になる。これが理由で人気が出るかもしれない。一種の未来への投資だと思えば良い。悪い話じゃないだろう?」といったものがある。
自らの発想に基づいて創造性を発揮する要素の強い労働者
労働の成果が目立つように公表される労働者のなかでも、漫画家・アニメーター・イラストレーター・小説家・彫刻家・陶芸家・画家・音楽家・俳優・声優・美容師・服飾デザイナーのように自らの発想に基づいて創造性を発揮する要素の強い労働者は、やりがい搾取の犠牲者になりやすい。
そうした労働者は、自らの発想を大事にしたいがために組織の支援をできるだけ受けずに独立してフリーになろうとする傾向がある。そうなると組織からの入れ知恵を受けにくくなり、業界における需要や供給の情報を知りにくくなり、やりがい搾取の犠牲になりやすくなる。
また、そうした労働者は「自分の技術だけで自立して立派に生きている」という印象を持たれやすく、人々に憧れられていて人気が高く、どれだけ過酷な労働条件になっても希望者が殺到する。このため、そうした労働者が集まる業界ではやりがい搾取が横行しやすい。
自らの発想に基づいて創造性を発揮する要素の強い労働者に対してやりがい搾取をするときの言い回しは「この仕事は安いが、しかし、この仕事をすることで技能・技術が身について才能や能力が開花し、技術者として成長してスキルアップすることができ、独立して自分の会社を起業してこの業界で生き抜いていくことができ、自己実現することができ、夢を実現することができる」といったものである。
定義2.の内発的動機付けによるやりがい搾取
顧客との距離が近い労働者
保育士・教師・看護師・医師・介護士・営業職労働者・小売業労働者・飲食業労働者・観光業労働者・宗教団体職員は、顧客(患者・信者)との距離が近い労働者であり、顧客(患者・信者)からの感謝の声を受けやすく、内発的動機付けを掛けられやすい。
顧客との距離が近い労働者に内発的動機付けを掛けてやりがい搾取するときの言い回しは「顧客の笑顔や感謝の声が最高の報酬である」といったものである。
2020年東京オリンピックでは医師や案内人をボランティアでまかなったが、これは典型的なやりがい搾取であった。
若い顧客との距離が近い労働者や、若い労働者と一緒に働く管理職労働者
顧客との距離が近い労働者のなかでも、保育士・教師といった若い顧客との距離が近い労働者は深い感謝の声を掛けられやすく、強力な内発的動機付けを掛けられやすい。若者は経験と知識が少なく、ごく初歩的なことを教えられただけで感激することが多く、感謝の声を発しやすい存在である。
日本において公立学校の教員の待遇が極めて悪く、大量のサービス残業を課される教員が多いのだが、これは日本政府のやりがい搾取の典型例である。
すでに述べたように管理職労働者は内発的動機付けが掛かりやすいが、その中でも若い労働者と一緒に働く管理職労働者には内発的動機付けが掛かりやすい。やはり、若者は経験と知識が少なく、ごく初歩的なことを教えられただけで感激することが多く、感謝の声を発しやすい存在だからである。
小売業・飲食業には学生の若いアルバイトが多い。そうした企業の管理職労働者は若い労働者からの感謝の声を聞くだけで発奮してしまい、やりがい搾取の犠牲になりやすい。
人の生命を支える労働者
医師・看護師・医療機器産業労働者・介護士・介護機器産業労働者・軍人・兵器産業労働者・警察官・警察装備産業労働者・消防士・消防装備産業労働者は、人の生命を支える財・サービスを生産する労働者であり、内発的動機付けを強く掛けられやすい。
人の生命を支える財・サービスを提供すると、顧客から深く感謝する声を掛けられることが多く、内発的動機付けを強力に掛けられる。
日本の医療業界において医師のサービス残業が多く、やりがい搾取が常態化している。
日本の防衛産業は利益率がかなり低く(記事)、「お国のために仕方なく低い利益率で受注している」という企業も多い(記事1、記事2)。これはやりがい搾取の典型である。
自衛官や警察官や消防士に対して内発的動機付けを掛ける時の言い回しは「君の労働のおかげで皆の安全や笑顔が守られている」といったものである。
日本において災害が起きるたびに政府や地方公共団体が災害ボランティアを組織している。政府が国庫支出金で財政支援しつつ地方公共団体が現業の一環として事業を始めて有償で労働者を有期雇用するということを行わず、「君の労働のおかげで被災者が笑顔を取り戻すだろう」「君は被災者に深く感謝されるだろう」という言い回しを駆使して内発的動機付けを強力に掛けて賃金を支払わない。
宗教団体の職員
宗教団体の職員は、人の生命を支える財・サービスを生産する労働者の一種である。なぜなら、宗教というのは人々の心のよりどころであり、人々の生きる希望であるからである。
このため宗教団体の職員は、内発的動機付けを強力に掛けられてやりがい搾取の犠牲になりやすい。宗教団体が職員にやりがい搾取するときの言い回しは「君が働くことで人々が苦難から解放され、君は深く感謝される」というものである。
特に、カルト宗教団体のやりがい搾取は有名である。カルト宗教団体のやりがい搾取の例としては、崇教真光の農作業(眞光青年隊)、創価学会の新聞配達(無冠の友)、統一教会の霊感商法、エホバの証人の宗教勧誘、オウム真理教の飲食業などである。
オウム真理教はうまかろう安かろう亭やオウムのお弁当屋さんという飲食業を経営していて、そこで信者を無償かまたは極めて安い給与で働かせて多額の利益を得ていた。信者に対して「働くと修行になり、宗教的能力が高まり、将来において人々を救って人々から感謝されるようになる」と吹き込み、内発的動機付けをしていたので、典型的なやりがい搾取であった。
関連リンク
関連項目
脚注
- *『虚妄の成果主義(日経BP社)高橋伸夫』4ページ
- *『日本型「成果主義」の可能性(東洋経済新報社)城繁幸』20ページ、180ページ
- *2006年の『搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社)』にてその表現を用いた。
- *『世界(岩波書店)2007年3月号』でこのことを述べた。その文章は2008年の『軋む社会(双風舎)』や2011年の『軋む社会(河出書房新社)』に掲載されている。
- *非現業公務員の労働組合が争議行為をすると3年以下の禁錮又は100万円以下の罰金を課される。詳しくは日本国憲法第28条の記事を参照のこと。
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