オリバー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日)とは、17世紀のイングランドの政治家、革命家、軍人である。
清教徒革命(ピューリタン革命)を主導し、イングランド国王チャールズ1世を処刑してイングランド共和国を建国して、護国卿に就任し事実上の独裁体制を敷いた。
概要
議員になる
1599年にイングランド、ハンティンドンで生まれる。クロムウェル家は土地持ちのジェントリ階級で、オリバーのひいひいお婆さんの兄はヘンリー8世の元で宗教・行政改革に取り組んだトマス・クロムウェルがいる名家であった。
ケンブリッジ大学在学中にプロテスタントの一派である清教徒(ピューリタン)となる。大学卒業後、政治の世界に興味を持ち29歳の時に庶民院の議員に立候補して初当選したが、当時の国王チャールズ1世は議会を軽視しており、予算だけを引き出すと議会を期限を切らず解散してしまった為に、クロムウェルは働く場を失ってしまう。この経験はクロムウェルのイングランド王室への尊敬の念を著しく損なわせた。
議会が招集されないのでやむなく判事をしたり、鬱病になったり、一念発起して土地を売って牧場を運営したりしながら静かに日々を送っていたのだが、1640年についにチャールズ1世は議会を再招集したので議員として復帰。ここでクロムウェルは痛烈な国王批判の論陣を張り、法案の起草などに携わり名を挙げる。
次々と矢継ぎ早に国王の権限を削る法案が可決されていく議会に追い詰められたチャールズ1世はついに王党派の騎士を率いて挙兵、力づくでの解決を図るが議会軍も民兵を集めて対抗し、ここにイングランド内戦が勃発。クロムウェルは議会軍陣営に付き、この戦に身を投じる。
王党派との戦争
当初は本職の騎士を率いる王党派に対して、議会軍たるや酒場の給仕やら職人やらを寄せ集めて結成した素人集団である上に、そもそも何を求めて戦うのかという目的もなく、士気も著しく低かった。この現状にクロムウェルは「真の信仰者の軍隊が必要だ!」と決意して民兵たちに聖書を配り、意識改革に乗り出す。
また、三十年戦争でスウェーデン王グスタフ・アドルフの軍勢が元は傭兵や徴兵した市民の寄せ集まりであるにも関わらず猛威を奮った事に注目し、この軍制を徹底的に研究。配下の民兵を徹底的に鍛え上げ、やがてクロムウェルの手勢は「鉄騎隊」の異名を取る議会軍の最精鋭として知られるようになる。鉄騎隊に参加する条件は「信仰を同じくする同志」であることのみであり、不正や略奪を厳しく取締り、家の生まれに関わらず有能ならば指揮官へと昇進する事が出来るという体制は革新的なものであった。
クロムウェルの改革の成果は王党派との戦争で顕著に現されるようになっていく。特に1644年のマーストン・ムーアの戦いで議会軍左翼に置かれたクロムウェルの軍勢は、議会軍の右翼と中軍が国王軍に歯が立たない中でクロムウェル率いる左翼軍だけでほぼ国王軍全軍を敗走させるというデタラメな強さを発揮し、一躍注目を浴びた。
やがて議会軍は全軍にクロムウェルの軍制を導入する事を検討し、完成した「ニューモデル軍」は王党派の騎士たちを圧倒し始め、ネイズビーの戦いでついに王党派に再起不能の打撃を与えて内戦を終結させ、チャールズ1世はスコットランドへと逃亡したが、スコットランドに身柄を売られてイングランドに引き渡され、宮殿に監禁された。
しかし、戦後に議会は親国王の派閥がニューモデル軍を解散させようと目論み、クロムウェルはこれを拒むなど議会もまた内訌状態に陥る。そんな中、チャールズ1世は宮殿から脱出してスコットランドへと落ち延び、ここで反クロムウェルの兵を挙げる(第二次イングランド内戦)。…が、クロムウェルは直接出馬してこれに完勝し再びチャールズ1世を捕縛した。
この内戦を経てもまだニューモデル軍の解散を目論む議会に対して、軍は強硬策に出ることをクロムウェルに求め、既に軍と切っても切れない関係になっていたクロムウェルはクーデターを断行して親国王派を追放。続けて国王チャールズ1世を処刑して、イングランドは王冠を戴かない共和制へと移行する(イングランド共和国)。
結果としてではあるが、王制を武力により打破して、共和制へと移行させる事となったこの一連の騒乱は清教徒革命(ピューリタン革命)と後世呼ばれる事になる。
アイルランド・スコットランド平定
ひとまず邪魔者を排除したクロムウェルは、次に王党派残党の潜伏先アイルランド平定に乗り出す。ここでもニューモデル軍は強さを発揮し、次々とアイルランドの軍勢を打ち破って制圧に成功したが、ここで悪名高いアイルランド虐殺を行う。クロムウェルはカトリックを信仰する人々に対しては冷酷非情であり、反乱に関わったものは誰であろうと平等に処刑され、カトリック貴族の土地は例外なく全て接収するという容赦ない政策を行い、数百年に渡る遺恨を残した。
次にスコットランドでチャールズ2世(1世の息子)がスコットランド王に即位する動きがあることを察知すると、クロムウェルはスコットランド遠征を決定。焦土戦術に苦戦したもののダンバーの戦いで起死回生の一勝を収める。追い詰められたチャールズ2世ら王党派は一転攻勢を狙ってイングランドへと侵入し、ウスターに籠もるも、クロムウェルはこれをウスターの戦いで完膚無きまでに叩き、返す刀でスコットランドにも派兵し、これも平定した。
晩年
圧倒的な軍事的名声を得たクロムウェルは軍から国王就任を要求されたがこれを断固拒否して護国卿になり、事実上の独裁体制を敷いた。しかし、裏を返せば議会の混乱は全く収まっておらず、戦争での圧倒的に強さとは裏腹にこの不安定な共和体制はクロムウェルの存在有りきで成り立っていた。
クロムウェルは1658年にインフルエンザで死亡する。死後は息子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継いだが、軍の忠誠を繋ぎ止めることが出来ずに翌1659年には体制が崩壊。1660年にはチャールズ2世がイングランド王に復位して短い共和制イングランドの時代は終焉を迎えた。
軍事的な評価
前歴からわかるように、40歳過ぎまで一度も戦争というものに従軍したことのないズブの素人であり、グスタフ・アドルフの戦法も又聞きや本の情報を漁って知ったに過ぎない。
しかしながら、イングランド内戦を通じてその天賦の才を持っていたとしか形容しようのない軍事的なセンスを開花させていき、その的確な指揮ぶりは軍内部でも広く認められていく存在となっていく。マーストン・ムーアの戦いで衝突するも敗走した王党派の「気狂い公」カンバーランド公ルパートもその強さに「Ironside(武勇の人)」という賛辞を送っている。
クロムウェルの指揮で特筆すべきは味方の損害の少なさであり、ニューモデル軍が完成してからは敵の10分の1以下の被害しか出さずに完勝する事は茶飯事であり、特にダンバーの戦いでは2倍の総兵力を誇るスコットランド軍に死者3,000、捕虜1万という大損害を与えつつ、自軍の被害を死者20人、負傷者58人に抑えて圧倒して見せた。
死後の影響
チャールズ2世のクロムウェルへの憎悪は激しく、王政復古後にクロムウェルの棺は掘り返され、その死体は絞首刑の末に斬首されてその首は25年間さらし首にされ、その存在は王党派にあらゆる書籍で徹底的に扱き下ろされた。また、忌々しい記憶を呼び覚ますものとしてリチャード以降「護国卿」のポストに就くものは現在に至るまで現れていない。
しかし、ステュアート朝が断絶した頃から再評価の機運が出始め、特にその陸軍司令官としての強さは「イングランドに一人か二人」と評価する歴史家もいる。
ウィンストン・チャーチルもクロムウェルを評価しており、海軍大臣時代に艦船に「オリバー・クロムウェル」という名前を付けようとした所、国王ジョージ5世直々に「(アイルランドの民が怒るから)やめろ」と言い渡されたのはあちらでは有名なエピソードである。
また、第二次世界大戦中に完成したクロムウェル巡航戦車の名はオリバー・クロムウェルにあやかった物である。
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