スラバヤ沖海戦とは、大東亜戦争中の1942年2月27日に生起した日本海軍vs連合軍艦隊の戦闘である。この戦闘で連合軍艦隊の主力は壊滅し、生き残った艦艇もバタビア沖海戦で殲滅された。
概要
海戦まで
開戦劈頭より行われていた帝國陸海軍の猛攻によりマレー半島、レガスピー、シンガポール、セレベス島、バリ島等が電撃的に占領され、東南アジアから連合軍が一掃されつつあった。連合軍に残された勢力圏はアメリカ軍が抵抗を続けるフィリピン北部とオランダ軍が支配するジャワ島くらいであった。
1942年2月18日、日本軍は蘭印作戦の総仕上げをすべく、70隻に及ぶ輸送船団をカムラン湾から出航させる。攻略目標は蘭印作戦の最終攻略目標でありオランダ軍の中枢を担うジャワ島。輸送船団は二手に分かれて東西から進撃し、ジャワ西部の攻略船団には第5水雷戦隊の第7駆逐隊第1小隊(潮、漣)、第4水雷戦隊の第24駆逐隊(山風、江風)が護衛。ジャワ東部の攻略船団には第5戦隊の重巡那智と羽黒、第4水雷戦隊旗艦の軽巡那珂、同第2駆逐隊(春風、五月雨、村雨、夕立)、同第9駆逐隊(朝雲、叢雲)、第2水雷戦隊旗艦の軽巡神通、同第16駆逐隊(雪風、天津風、時津風、初風)が護衛についていた。
2月24日、米潜水艦シールとS-38がジャワ攻略部隊を発見。この情報はカレル・ドールマン少将率いる連合軍艦隊にも届けられたが、2月4日のジャワ沖海戦の敗北で戦力が減少し、続いて2月20日に生起したバリ島沖海戦で反撃の芽を摘まれ、戦力・制海権ともに失いつつあった。だが本丸のジャワ島を失陥すればオランダ軍は降伏しなければならず、それは連合軍の一角が崩れる事を意味する。是が非でも日本軍の快進撃を食い止めるべくコンラッド・ヘルフリッヒ中将はドールマン少将に「貴官は、敵を撃滅するまで攻撃を続けるべし」と命令を与えた。ドールマン少将は蘭軽巡洋艦デ・ロイデルを旗艦にし、スラバヤにある少数の戦闘機に航空支援を要請したが、何故か返答は無かった。
2月25日(26日18時30分とも)にスラバヤ軍港を出撃。連合軍の戦力はオランダ軽巡デ・ロイテル、ジャワ、駆逐艦ヴィテ・デ・ヴィット、コルテノール、アメリカ重巡ヒューストン、駆逐艦ポール・ジョーンズ、エドワーズ、ジョン・D・フォード、オールデン、ポープの10隻であった。そこへジャワ西部を哨戒していたイギリス海軍の重巡エクセターと駆逐艦エレクトラ、エンカウンター、ジュピター、オーストラリア軽巡パースが合流し、総戦力を16隻に増強。総力を挙げて帝國海軍の進撃を拒む。またバタビア軍港からもオーストラリア海軍の軽巡3隻と駆逐艦2隻が出撃し、接近する日本船団の捜索に当たった。しかし2日間に渡る捜索を以ってしても輸送船団を発見出来ず、連合軍艦隊は一度母港へ帰投する事に決定。バタビア軍港が一式陸攻の空襲を受けたためバタビアを出撃したオーストラリア海軍の艦艇はインド洋セイロン方面へと脱出する。スラバヤへと引き揚げる連合軍は全く気付いていなかったが、ドールマン少将の艦隊は既に日本側の偵察機に発見されていた。
2月27日午前11時50分、バリクパパンを出撃した日本海軍第2空襲部隊の陸攻が連合軍艦隊を発見。「敵巡洋艦5隻、駆逐艦6隻、速力12ノット」と報じた。この近くにはジャワ東部の攻略船団がおり、午後12時45分に第5戦隊は輸送船団に護衛をつけて西方へ退避させた。残った第2、第4水雷戦隊及び第5戦隊は雷撃戦の準備を整えて迎撃に向かった。13時15分、那智の水上機が出撃。スラバヤへ帰港中の連合軍艦隊を発見し、詳細な位置情報を送り続けた。スラバヤに向かっているとの事だったので、退避させた輸送船団を予定の航路に戻した。
16時頃、触接されてるとは知らずに連合軍艦隊はスラバヤの外港に達した。その時、連合軍の偵察機がバウエアン島北西で二手に分かれたジャワ攻略船団を発見・通報してきた。近い方の船団は僅か80海里しか離れていなかったため、ドールマン少将は攻撃を決断。反転して増速し、船団に突撃を開始する。先頭をデ・ロイテルが走り、その後ろにエクセター、ヒューストン、パース、ジャワが単縦陣を組む。イギリス駆逐艦が両側を、アメリカ駆逐艦が後方を固めた。連合軍艦隊の変針は那智の水上機によって16時30分に通達され、東部ジャワ攻略船団は再び退避。第5戦隊と第2、第4水雷戦隊が迎撃に向かい、16時59分に神通の見張り員が南の水平線にマストを発見。スラバヤの北西48kmの地点で両軍の艦隊が接触し、スラバヤ沖海戦が生起した。
スラバヤ沖海戦
一戦目
日本艦隊はT字有利の姿勢に持っていこうとしたが、意図を察した連合軍艦隊が針路を変更し、同航戦に持ち込んだ。17時45分、距離1万6800mから軽巡洋艦神通が初弾を発射。駆逐艦エレクトラに夾叉し、戦端が開かれた。重巡エクセター、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、エレクトラが一斉に反撃の砲火を放ち、魚雷を放ったが、命中しなかった。両軍とも激しい砲火を放ち、次々に水柱が築かれる。第5戦隊の羽黒と那智は敵重巡を狙って距離約2万2000mの距離から砲撃。第2水雷戦隊は敵の針路前方を押さえてT字有利を狙ったが、接近するにつれ至近弾が増えてきたため一旦煙幕を張って退避した。入れ替わりに第4水雷戦隊が突入し、18時4分から15分にかけて27本の魚雷を発射。退避中の神通も4本発射し、一気に勝負をつけようとしたが、信管が鋭敏だったため全て早爆してしまった。だが連合軍は酸素魚雷の存在を知らなかったので「至近距離から潜水艦の雷撃を受けた」と勘違いし、混乱が生じた。一方の日本側も魚雷の早爆を敵艦の管制機雷によるものと間違い、那智と羽黒に2万m以下の接近を禁じた。
18時35分、羽黒の主砲弾が英重巡エクセターの対空砲架に命中。甲板を貫通して機関室で爆発し、乗員10名を殺害した。被弾したエクセターは後続艦に追突されないよう左に舵を切って落伍したが、これを艦隊運動と勘違いした重巡ヒューストンと軽巡パースが追随した事で陣形が乱れる。その直後に羽黒は8本の魚雷を発射し、18時45分に蘭駆逐艦コルテノールに命中。船体を真っ二つに折って沈没した。この雷撃も日本の潜水艦による攻撃と早とちりした連合軍艦隊は煙幕を張って遁走し始めた。混乱状態に陥った連合軍艦隊を見て、高木武雄少将は全軍に突撃を命令。那珂と神通が魚雷を放ったが、命中しなかった。
19時15分、陣形の右側を航行していた那珂が連合軍艦隊を発見。那智と羽黒が距離2万5000mの距離から砲撃したものの命中しなかった。代わりに第2と第9駆逐隊が突撃。逃げる連合軍艦隊は煙幕を張りつつ、エレクトラ、エンカウンター、ジュピターの3隻に足止めを命令。第9駆逐隊と交戦状態に入る。煙幕の切れ目からエレクトラとエンカウンターが飛び出してきたため、朝雲と叢雲が迎撃。砲撃戦となる。エンカウンターは早々に離脱したが、エレクトラは猛攻を浴びせてきた。朝雲の機関室に命中弾を受け小破したが、人力操舵で反撃を続け、19時54分にエレクトラを撃沈。時間を稼いだ連合軍艦隊は陣形を建て直すと、20時頃に反転。先頭にジュピターとエンカウンターを押し立てて突撃してきた。だが周囲は日没ですっかり暗くなっており、20時5分に高木少将は追撃中止を命令。夜戦に備えて艦艇を集結させ、輸送船団を北方へ退避させた。しかし羽黒と那智は水上機収容のため他の艦より退避が遅れていた。そこへ突撃してきた連合軍艦隊に発見され、パースとヒューストンから砲撃を受ける。第2水雷戦隊が援護に入り、神通が魚雷4本を発射して牽制している間に2隻の重巡は離脱に成功した。
連合軍艦隊は南へ退避し、どうにかジャワ沿岸まで帰り着く事が出来た。魚雷を撃ち尽くし、燃料も不足していたアメリカ駆逐艦4隻はスラバヤへと向かった。しかし命令を出した駆逐隊司令ピンフォード大佐は、ドールマン少将と連絡する手段を持っておらず、ドールマン少将は駆逐艦4隻が離脱した事を知らなかった。22時55分、オランダ海軍が断りなく敷設した機雷にジュピターが被雷して沈没。泣きっ面に蜂である。この触雷を日本潜水艦の雷撃と勘違いし、連合軍艦隊は北上した。道中でコルテノールの生存者を発見、エンカウンターに救助させてスラバヤに退避させた。これにより連合軍艦隊から駆逐艦が1隻もいなくなってしまった。
ドールマン少将は、日本船団への攻撃を諦めていなかった。艦隊を北上させ、闇夜に紛れての奇襲を試みた。ちょうど日本艦隊も索敵のため南下しており、翌28日午前0時33分、スラバヤの北西100海里で第5戦隊と連合軍艦隊が鉢合わせとなった。羽黒と那智は増速し、連合軍艦隊もデ・ロイテル、パース、ヒューストン、ジャワの単縦陣で突撃。午前0時40分、互いに砲撃戦を開始するも有効弾は出ず。午前0時52分、那智は8本、羽黒は4本の魚雷を発射。これに気付いていなかった連合軍艦隊に魚雷が突き刺さり、午前1時9分に巡洋艦ジャワと旗艦デ・ロイテルが大破炎上。ドールマン少将は後続のヒューストンとパースに「我が生存者に構わずバタビアに退避せよ」と最期の命令を下し、自身はデ・ロイテルとともに沈んでいった。
ヒューストンとパースは命令を無視して生存者の救助を行い、デ・ロイテルから17名、ジャワから2名を救助して全速で退避。午前1時35分、第5戦隊は2隻を見失って船団護衛に戻った。その後、ヒューストンとパースはセイロン方面への脱出を図ったが、バタビア沖海戦で殲滅された。
戦間期
2月28日朝、スラバヤに停泊していた蘭病院船オプテンノールが生存者の救出に向かった。しかし生存者を発見できなかった上、日本の駆逐艦2隻に拿捕されてしまった。
その後、生き残った連合軍艦艇が続々とスラバヤに帰投。スラバヤには魚雷を撃ち尽くした米駆逐艦4隻、機関室に命中弾を受けたエクセター、駆逐艦エンカウンター、ポープ、ヴィテ・デ・ヴィットが残っていた。もはや反撃に出るだけの力は無く、包囲下のスラバヤからどうやって脱出するかが議論された。戦力にならない米駆逐艦4隻はオーストラリアへの脱出が命じられ、ポートダーウィンを目指して出港。米駆逐艦の中で一連の海戦に参加していなかったポープのみが唯一戦力を有していたため、スラバヤに残留。
同日、西方のタンジュン・プリオク港から英巡洋艦ドラゴン、ダナエ、ホバートと駆逐艦スカウト、テナドが出撃。日本艦隊の捕捉に努めたが、発見できず。やがてスンダ海峡を通ってコロンボへ退却するよう命じられ、無事包囲網から脱した。燃料の不足とタンジュン・プリオクが空襲を受けた事が退却の主因だったが、これでただでさえ少ない連合軍艦艇が更に減少した。
被弾して修理が必要なエクセターはセイロン方面への脱出が命じられ、駆逐艦3隻(エンカウンター、ポープ、ヴィテ・デ・ヴィット)が護衛につく予定だった。しかし日本軍機による空襲を受け、ヴィテ・デ・ヴィットが大破。エクセターの脱出に同伴できなくなった。2月28日18時、エクセター率いる小艦隊は己の運に生存の望みを託してスラバヤを脱出した。道中のスンダ海峡に日本軍は殆どいないと推測されていたが、実際にはガチガチに防御を固められていた。
二戦目
3月1日午前11時3分、駆逐艦江風と山風に護衛された第5戦隊が、インド洋を目指して逃走する重巡エクセターと駆逐艦エンカウンター、ポープをバウエアン島西方90海里で発見。昨日から戦い続けていた羽黒と那智には残弾が少なく、別働隊(重巡妙高、足柄、駆逐艦曙、雷)に増援を要請しながら観測機を飛ばした。気付いたエクセターは北西に逃げ、スコールに隠れながら追跡を振り切ろうとしたが、エクセターは23ノットしか出せず、30ノット以上を出せる日本艦隊からはどうあがいても逃げ切れなかった。
午前11時40分、応援の妙高と足柄が到着。南北から挟撃する形を取る。10分後、別働隊が距離2万4000mで砲撃を開始。午後12時24分、距離2万5000mから羽黒がエクセターを砲撃し、エクセター側も反撃を行う。ところが間もなくエクセターは航行不能に陥り、集中砲火を浴びる。満身創痍と化したエクセターは右舷側に傾斜し、沈没は免れない事態となった。やがて総員退艦が下され、乗組員がエクセターを捨てて次々に海へと飛び込んでいった。駆逐艦雷は救助活動中を示す国際信号旗を掲げ、敵潜水艦に狙われる危険を冒して生存者422名全員を救助した。そして13時30分、エクセターは駆逐艦電と雷から雷撃を受けて沈没した。ポープとエンカウンターも激しい砲火にさらされ、ポープはスコールに逃げ込めたが、エンカウンターは後を追うように撃沈された。エンカウンターの生存者は電に収容された。
1隻だけ逃げ延びたポープであったが、スコールから出たところを龍驤艦載機の九七式艦攻6機に発見される。15時20分、ポープの右舷側から緩降下爆撃を仕掛け、ポープも対空砲で抵抗。ところが75発目を撃ったところで故障し、射撃不能に陥った。60kg爆弾と250kg爆弾が投下されたが、命中弾は出なかった。が、艦尾左舷への至近弾が推進軸を破壊。振動が激化し、まともに航行できなくなったポープは遂に船体放棄となり、乗組員は脱出した。無人船と化したポープは漂流。15時40分に重巡足柄、妙高、駆逐艦曙、雷に捕捉され、集中砲火を浴びて撃沈された。151名の乗員が雷に救助された。ポープの撃沈によって、46時間続いたスラバヤ沖海戦は終結した。
3月2日にはスラバヤに残っていたヴィテ・デ・ヴィットもドック内で自沈している。
その後
スラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦によって、連合軍艦艇15隻中9隻が沈没。生き残った艦艇もオーストラリアやインド洋方面に脱出し、1942年3月1日を以って東南アジアの連合軍艦隊は壊滅した。駆逐艦以上の艦艇はいなくなり、残っていたのは潜水艦と掃海艇くらいだった。戦闘艦艇が壊滅してもなおチラチャップ港などには多数の商船が取り残されており、彼らは武装商船といった貧弱な護衛を伴って離脱を図り、そして拿捕ないし撃沈された。制海権を完全に失った連合軍は、3月9日にジャワ島をも失う事になった。
撃沈されたエクセターは同盟国ドイツの装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを自沈に追いやる原因を作った因縁の艦だったので、日本政府は「アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を取った」と喧伝した。
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