ホテルニュージャパン火災とは、1982年2月8日未明に発生した火災である。
ホテルニュージャパンとは?
- 1964年に開催される東京五輪に合わせて、4年前の1960年にホテルニュージャパンが(以降ニュージャパンと略す)地上10階地下2階という規模で東京都千代田区永田町に開業した。
- 和洋折衷をコンセプトにしたニュージャパンは『リョーテル』(料亭とホテルを併せ持ったホテル)と呼ばれた。
- 東洋一の格式を謳い、日本初のオープンカフェ、ショッピングアーケードを備えた高級ホテルであった。
- 永田町(外堀通りを挟んだ向かい側は赤坂の繁華街)に立地し、営団地下鉄(当時)赤坂見附駅徒歩数分[1]の場所で、道路は目の前を新橋、銀座、東京駅を通る外堀通り、東に行けば溜池交差点から六本木や渋谷に向かう六本木通り、西に行けば赤坂見附交差点から青山、表参道に向かう青山通り、さらに近くの山王下交差点からはやはり六本木、表参道に向かう赤坂通りと多くの道があった。さらにはテレビ局や国会議事堂に至近という好立地から政財界、芸能界の利用者が多かった。
- しかしながら、後々に開業したホテルニューオータニなどと比べると設備面等で見劣りしたことと、莫大な借入金の影響で経営状態は芳しくなかった。
- 建物が中央から三方向に伸びさらにその先で二手に分かれる構造で、避難時にはどちらに進めばいいか分からなくなる危険性があった。この構造は、元々高級分譲マンションとして建設が計画されたものが急遽高級ホテルへ仕様変更された名残である。
- 因みに真裏坂の上には頭がいいことで知られる都立日比谷高校、徳川家所縁の日枝神社がある。
買収とコストカット
- その後、ニュージャパンは乗っ取り屋の異名を持つ実業家・横井英樹(以降、横井)によって買収された。横井は華美な面や、人員削減、さらには安全面までも省く合理化を行った。勿論防災訓練なんて行われていないし、内装は可燃剤。ドアは木製、スプリンクラーはダミー(配管がない)。さらには館内放送設備は使えないという有り様であった。
- そのことを所轄の消防署に再三注意されていたが、改善すること無く放置し続けた。
火災発生
- 2月8日午前3時24分頃、9階938号室から出火(原因は宿泊中の泥酔していたイギリス人男性の寝煙草)。たまたま仮眠に向かったフロント係がドアから漏れる煙に気付き、フロントに戻り火災を知らせた。そして9階に戻ってみればさらに煙が増えていた。何とかドアを開けて消火器を使用したが火はもちろん消えない。あろうことかドアを開放して避難をしてしまった。因みに出火元の部屋に泊っていたイギリス人男性は廊下の行き止まりで焼死体となって発見されている。
- フロント係は真っ先に横井の自宅に火災を知らせる電話をした。そして横井は「ホテル内の高級家具を外に出せ!」と指示をだした。そしてその後消防に通報するという行動をとった。(因みに火災の1報目はたまたま外堀通りを通りかかったタクシードライバーから午前3時39分になされている。2報目は議員宿舎関係者、ホテルは3報目)
- 一報を受けて消防隊員が駆け付けた時には窓から炎や黒煙が吹き出し、耐えられなくなった宿泊客が窓から次々転落するという地獄絵図であった。
- ホテル正面は低層階が張り出し、東京消防庁が持っていた大型梯子車(30m級)の梯子が要救助者のもとに届きづらかった。(一般的に30m級梯子車は10階程度までなら届くとされる)
- シーツやカーテンを繋いで脱出した宿泊客が多くいた。(実は簡単に結ぶことが出来る)
- 結果としては9階、10階、塔屋が全焼、8階等を部分焼し、死者33名、負傷者34名を出す大惨事となった。この火災で死傷した宿泊客の多くは札幌雪まつり目当てに韓国や台湾から来日した観光客である。因みに死者の約3分の1にあたる13名の死因は飛び降りによる外傷である。
- なお、この火災を受けて、東京消防庁は第4出場(東京23区の消防車両を総動員するレベル。この場合はトップである消防総監自ら出動して指揮を執る)をかけ消防車両123台(内訳…ポンプ車:48台、梯子車:12台、救助工作車:8台、救急車:22台、空気補給車(空気呼吸器のボンベを輸送するトラック):6台、その他車両:27台)ヘリコプター2機、消防職員、消防団員合わせて649人がこのニュージャパンに集結し、目の前の外堀通りを埋め尽くした。(外堀通り自体片側3車線と広い道であることからかなりの数の消防車両が集結したことがわかる)
- 火災自体は0時36分に鎮圧された。約9時間にも及ぶ大火災であった。
- 2001年、プロジェクトXでこの火災に立ち向かった麹町消防署永田町出張所特別救助隊を取り上げた。
その後
- 安全対策を軽視し続けた横井は糾弾され、ホテル自体も行政からの営業禁止処分を受けた後に廃業した。
- その後、社長の横井は業務上過失致死罪で逮捕。1993年、禁固3年の実刑が確定し服役した。
- 長らく廃墟は放置され、心霊スポットとして有名だったが、1996年に解体。2002年12月16日に高層オフィスビルのプルデンシャルタワーが建ち、現在に至る。
- この火災の反省から、第二第三のホテルニュージャパンを出さないために東京消防庁(東京都)、ならびに国は、防火体制不備の指摘・改善指導に再三に渡って応じない事業所はその名前を実名公表・刑事告発するようになった。
補足
- ホテルニュージャパンが建設される以前、太平洋戦争前にはこの地に「幸楽」という料亭があった。この店は1936年2月に発生した二・二六事件で実行部隊が立ち寄った場所とされている。
- このホテルの地下には高級ナイトクラブとして有名だった「ニューラテンクォーター」という店が入居していた。経営者がニュージャパンと異なっていたため、火災によるホテル廃業後も1989年まで営業を続けた。ちなみに、プロレスラーの力道山は1963年にこの店で暴漢に襲われたのが原因となり、傷害事件の1週間後に亡くなっている。
- 火災当日にビートたけしがニュージャパンに宿泊しようとしたが、北海道で営業の仕事をこなしした後に遨遊をしたため所持金が底を尽き、やむを得ず新宿区に在住していた友人の高田文夫に借金をして新宿プリンスホテルに宿泊先を変更したおかげで難を逃れている。(当時はテレビ局関係者のツケでニュージャパンに泊まることも可能であったのだが、なぜか当日はそれも悪いなと思い踏みとどまったと言う)
このエピソードは後に、2015年10月8日放送の「奇跡体験アンビリバボー」でも紹介された。 - ホテルニュージャパン火災の発生翌日、1982年2月9日には羽田空港沖に日本航空のDC-8型機が着陸前の逆噴射により墜落した「日本航空350便墜落事故(日航羽田沖墜落事故)」が発生。2日続けての大災害の発生に東京消防庁は大混乱に陥った。
- ホテル業は廃業したものの、運営会社であった株式会社ホテルニユージャパン自体は現存している。
- この現場に突入した永田町特別救助隊隊長の高野甲子雄は逃げ遅れた9階の宿泊客を救助する際にフラッシュオーバーで大火傷を負い、頭部と喉元を酷くやられたが命に別状はなかった。しかし、助け出した宿泊客は惜しくも亡くなってしまった。
- 横井は口止め料と称して高野に贈賄を贈りつけようとしたが、これに激昂した高野は賄賂を持ってきた横井の使いを追い返した。
- 港区芝公園四丁目の増上寺で犠牲者の仮通夜が営まれ、その5年後の1987年2月8日には犠牲者の慰霊と事故の教訓を後世に伝えるための観音像が横井によって建立されている。
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関連項目
脚注
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