支那事変とは、1937年〜1941年の期間、盧溝橋事件に端を発する大日本帝国と中華民国における戦闘である。1941年に太平洋戦争がはじまると当時の呼称であった大東亜戦争の一部に組み込まれ、支那事変とは呼ばれなくなったが戦闘自体は1945年の日本の降伏まで継続されている。中国では満州事変も含めて15年戦争と呼ばれており、支那事変は15年戦争の後期として扱われる。
なぜ支那事変という呼称が用いられたかについてだが、当初は両国とも宣戦布告をおこなわなかったためである。(戦争とは宣戦布告をした上でおこなわれる戦闘であるのに対し、事変は宣戦布告がないままおこなわれる戦闘である。)
宣戦布告がされなかった理由は日本も中国も同じで、宣戦布告して開戦することでアメリカから石油をはじめとする資源が買えなくなることとにある。当時のアメリカは国家中立法に基づいて戦争を行っている交戦国には軍事利用されうる資源は売らないことが決まっていた。これはアメリカにとっても世界恐慌から立ち直っていないなかで資源の輸出先が潰れてしまう不利益があった。他にも1928年に日本はパリ不戦条約に調印しており侵略戦争はしないということを国際社会の場で約束しており、国際連盟脱退で国際関係が冷え切っていた状況からの悪化を避けようとした狙いがある。しかし実際には戦争と呼ばないだけで実質的に起きていたことは全面戦争である。そこから1941年の日米開戦の後、中国は宣戦布告をおこない、支那事変は戦争となった。
戦後は日中戦争と呼ばれるのが一般的な呼称になり、現在は一般的に支那事変とは呼ばない。
概要
満州事変の発生で日本軍が中国の領土に侵攻して武力に任せて強引に占領、中国東北部を満州国として独立させて日本の傀儡国家にしたことが発端である。
それ以前の対華二十一ヶ条要求や山東省出兵、張作霖爆殺事件などで既に中国の反日感情が強まっていたのをさらに激化させ、そこから熱河地方への侵略、華北侵略と日本軍の侵略は広がるにつれて中国人の反日感情は全土に広がっていき、柳条湖事件での戦闘開始と第二次上海事変での全面戦争が始まったことで、中国国民党の蒋介石が日中全面戦争を宣言、当時は中国国民党と中国共産党は内戦状態にあったのを中止して抗日(日本に抵抗する)で一致して中国人全てが日本の侵略に対抗する態勢が出来上がった。
最終的に8年にわたって戦闘は続き、日本のポツダム宣言受諾で中華民国に対して日本は降伏し中国の勝利に終わった。なおこの8年の戦争で中国は1000万人以上の死者を出し、1985年の最終的な調査では軍人と民間人を含めた総数は2000万人とされている。大幅に増えていることを不自然に感じるかもしれないが、1000万人は終戦から国共内戦を終えて中華人民共和国の建国から間もない1950年の短期間での調査からの発表で調査が終えていない時期での発表である。日本もまた終戦直後は東久邇宮内閣が発表した陸海軍の軍人と軍属と民間人を合わせて死者70万人としていたのが、東南アジア諸国との国交回復後に調査が進むにつれて年を追うごとに増加、現在は330万人以上と発表しており、決して被害が水増しされているというわけではない。
支那事変までの流れ
19世紀の帝国主義時代、ヨーロッパ・アメリカ列強はアジア・アフリカの植民地化を推し進めていた。
中国大陸は日本を含む列強各国によって租界と呼ばれる外国人居留地が無数に存在していた。
その状況を憂いた孫文は辛亥革命を起こし、清朝を滅亡させると列強に負けない強い中国を目指し中国統一を推し進めた。しかし中国内部は分裂し各軍閥が中国統一を目指した。所謂、軍閥割拠時代である。
第一次世界大戦後、ロシア帝国、ドイツ帝国、トルコ帝国などの消滅により全世界で民族自決運動が展開。
植民地各国でも独立運動が盛んとなった。租界地でも独立運動が活発になり列強各国は警備の為に軍隊を派遣する。日本も相次ぐ破壊活動(現地邦人が拉致殺害、商店の襲撃)により軍隊を派遣する。中国軍閥同士の争いも活発になった。
1921年、中国共産党が結成される。孫文の後継者、蒋介石は反共主義者であり、中国共産党がクーデターを企画しているとして共産党員を多数処刑している。(上海クーデター)これにより中華民国(国民党)と中国共産党による国共内戦(1927年)が始まる。同年、日本は中華民国の北伐(中国国内の軍閥を潰し全国統一を目指すこと)に刺激を受け、山東省に出兵を決定。第三次山東出兵まで行った。それにより中国人の感情が、反欧米から反日に転換した。現地では小規模な衝突が起こり国民党軍兵士による日本民間人の射殺事件も起こり、日本世論も反中、嫌中になった。
1930年、満州事変が起こり満州国が誕生する。これにより、中国人及び大陸での権益独占を狙っていたアメリカが反発。日本は国際非難(主に植民地を持っている欧米)を浴び国際連盟を脱退する。
1933年、国共内戦は国民党軍が中国共産党を壊滅寸前まで追いつめていた。共産党軍は長征(撤退)を行う。蒋介石は大日本帝国との関係補修を図るが、日本の侵略にたいする反日感情の激化からテロが活発になり日本軍もまたテロを理由に侵略を正当化させようとしていたことから、大規模戦闘は終わっても火種はくすぶり続けた。
支那事変
当初から支那事変と呼ばれていたのではなく、盧溝橋事件のときまでは北支事変と呼ばれていた。
あくまで北支、つまり中国大陸北部である華北より北の部分で済ますつもりであったのが支那、つまり中国全土に事変が拡大して状況が変わったことが窺える。
盧溝橋事件
1937年、当時北支に居留民保護の名目で駐在していた日本陸軍部隊の駐屯地に実弾が二発発砲され盧溝橋事件が勃発する。当時の日本軍支那駐屯軍歩兵第一連隊長であった牟田口廉也は部下の一木清直大隊長に中国国民党軍への攻撃を許可し、日本軍と中国国民党軍の間で戦闘が開始された。当初は戦闘は小規模で日中の現地軍の双方が早期終結を模索して現地協定を結び事件は沈静化するも、同じ日に日本政府の近衛内閣は中国への日本軍の追加派兵を決定。今回の事件を北支事変と名付けて華北侵略の足掛かりにしようとした。
この日本政府の決定を知った中国国民党の蒋介石は日本の二枚舌外交に激怒して現地の国民党軍に戦闘が起きてもいいように準備を指示し、中国共産党は対日戦争を呼びかけると蒋介石もやむを得ない場合は全面対決する決断、1937年7月に廬山にて蒋介石は正式に中国人民に向けた抗日宣言を行って日本と戦うことを世界にアピールした。
郎坊事件と広安門事件
国民党軍は早速、北京及び天津の電線切断作戦を展開。修理に訪れた日本軍を襲撃する郎坊事件が発生した。日本軍は修理した電線で援軍を要請。翌日には日本軍戦闘機による国民党軍陣地を空襲して陣地を占領。日本軍は事情の説明を求めるも国民党軍より回答はなかった。
また居留民保護の為に出動していた日本軍に国民党軍が発砲する広安門事件が発生。
さらに在留日本人230人が虐殺される通州事件が起こると日本国内世論は激昂し『暴戻支那膺懲』(暴虐に振舞う生意気な中国を懲らしめる)を唱えて中国との戦争の正当性をアピールし、全面戦争も辞さない構えとなった。
もっとも通州事件は現在の中国の通州で、当時は日本軍がでっちあげた傀儡政権における中国人治安部隊の反乱であり、その事実を書くのを軍部や政府から厳しく禁じられて中国人による虐殺を虚飾をつけて衝撃的な内容で記事にしたために日本国内では猛烈な反中感情の激化が起きたのが実態である。日本人が通州事件の背景には満州事変と同じく日本軍の謀略によって行われた侵略と傀儡政権を作られたという背景を知るのは戦後の東京裁判でのことである。
第二次上海事変
上海では、盧溝橋事件前から日本軍と国民党軍との間では険悪な空気が漂っていた。
1936年4月には中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは蒋介石に対日開戦を進言、1936年末には上海停戦協定を破って、上海の非武装地帯に陣地構築を行っていた。国民党軍は精鋭部隊を配備。特に教導総隊などは前記したドイツ軍事顧問団から訓練を受け、ドイツ製の武器を装備しており最精鋭部隊と評価されていた。また一部の部隊は毒ガスを装備していた。
1937年、北支事変が起こると緊張は一気に高まり一触即発の様相を呈していた。
そんな中で1937年8月9日、日本海軍軍人銃撃事件(大山海軍中尉事件)、日本海軍水兵拉致事件が発生。衝突は時間の問題となった。この大山事件は中国人の反日感情の高まりを利用して大山中尉に丸腰で中国軍の飛行基地をウロウロさせるように命じて中国軍を刺激させるもので、ワザと大山中尉を殺害させて上海攻撃の口実にした日本軍におけるマッチポンプである。大山中尉は殺害されると戦死ではないにもかかわらず異例の1階級特進している。
8月12日、国民党軍約3万が上海市内の国際共同租界の日本人地区を包囲。対する日本軍は、海軍陸戦隊4千だけだった。日本側は撤退を要求するも聞き入れられず、陸軍に増援を要請した。13日には中国側の銃撃により戦闘開始。日本海軍陸戦隊は応戦するが中国軍が本腰を入れて戦闘を準備していたため予想外の苦戦を強いられ、援軍を待つことになり積極的な攻撃を行わず防戦一方であった。国民党軍機が爆撃を行っても対空戦闘を行わなかった。しかし砲撃も始まり、15日には日本政府も不拡大方針を撤回。海軍航空隊による初の渡洋爆撃を敢行。また日本各地の特別陸戦隊を上海に派遣、国民党軍の攻撃が続く中、各拠点を死守した。
8月23日、上海派遣軍(日本陸軍2個師団)が上陸。攻勢に出るも、強固なトーチカに阻まれ思うように進撃が出来なかった。10月、上海派遣軍はゼークトラインを攻撃し突破。日本軍にとって初めての塹壕戦で、その際には有名な爆弾三勇士の活躍がある。殉職した3人の一等兵は二階級特進して伍長になり、軍歌や当時の運動会の種目になるほどに有名になり、軍部の宣伝に使われて遺族に多額の義援金が送られた。
11月、第10軍(日本軍)が広州に上陸すると、国民党軍は北側の長江上陸した日本軍と南北から挟み撃ちに合って退路を断たれる危険から蒋介石が退却を命令、一斉に退却して第二次上海事変は日本の勝利に終わった。
この事変では3ヶ月の戦闘で日本軍は9千人の戦死者、戦傷者3万1千人を出す前代未聞の大損害を受けた。中国側も国民党軍の主力を注ぎ込んで70万人もの兵力で死力を尽くして戦ったため25万人もの死傷者が出た。当初は満州事変や華北侵略のときのように少ない損害で簡単に勝てると見込んでいたのに反する大損害であった。盧溝橋事件以降は中国人の抵抗が激しくなり朗坊事件や広安門事件、通州事件などで中国人への憎悪を深めていた日本軍は今回の中国軍の抵抗で怒り心頭し、中国国民党政府の本拠地である南京の陥落を目指して日本政府の承認も受けないまま進軍していく。
石原莞爾
当時の陸軍参謀本部に所属していた石原莞爾少将は盧溝橋事件から侵略を拡大していく日本軍の動きに一貫して反対していた。盧溝橋事件で日本軍は3師団20万人もの兵力の増派を行うことにも反対していた。華北侵略で現在の中国の内モンゴル自治区にあたる地域にまで進出してしまい、ソ連の同盟国であったモンゴルに迫ったことでソ連を刺激してしまううえに戦線を拡大して中国相手に戦力を消耗してしまうことを恐れたのである。
朗坊事件、広安門事件で中国軍の攻撃にあったため止むを得ず増派を容認して北京から天津周辺の短期戦で北支事変を終わらせるつもりであったが、不拡大方針を取っていた陸軍参謀本部に反して現地の日本軍は内モンゴル自治区のチャハルにまで侵攻してしまい、東京の陸軍参謀本部の方針を聞かなくなっていた。
結局、現地軍は陸軍参謀本部の方針を無視して内モンゴルの東半分を占領してしまい、日本政府も近衛内閣が暴支膺懲(暴れている生意気な中国を懲らしめる)を謳ったスローガンを声明で発表した。政府が不拡大方針を廃棄すると戦線拡大に反対していた陸軍参謀本部は一挙に戦線拡大に転じ、石原莞爾は参謀本部内での立場が急速に悪くなっていく。指導権は陸軍参謀本部から現地の関東軍参謀本部に移り、関東軍参謀長であった東条英機が直接指揮を執るようになると石原莞爾辞表を出した。その後は関東軍参謀副長として満州に行き、その後は終戦まで閑職を転々とすることになる。
満州事変を起こして中国侵略を始めた張本人は中国侵略が自分の思っていた以上に広まると拡大を止める側に移ったが、その時点で陸軍から疎まれ、捨てられた。自分の起こした波に吞まれる皮肉なものである。
南京攻略戦
第二次上海事変で国民党軍が敗退すると、早期に戦闘を終わらせようと現地軍(日本軍)は追撃戦に移行した。1937年11月の第二次上海事変終結の時点で中支那方面軍(第二次上海事変の当初の派遣軍と増援の第10軍をまとめた軍)を編成していた。大本営(1937年設置)は追撃は限定して上海から西の蘇州付近までとして、それ以上は作戦範囲から逸脱するとしていたが、現地軍はそれを無視して南京を目指して急ピッチで軍を進めていた。大本営は困惑したが早期解決の判断から追撃を容認、昭和天皇に上奏して天皇の勅令である大陸令、大海令をもって首都南京攻略戦の許可を出した。
1937年12月10日、日本軍は南京市にある中国国民党軍の本拠地の南京城へ総攻撃を開始する。狭い南京城には中国軍15万人、対する日本軍は25万人であった。日本軍の方が兵力にくわえ第二次上海事変から増強してきた兵器を充実させており戦力としては日本軍の方が格段に強かった。
12月13日、3日にわたる日本軍の総攻撃で南京城は陥落、僅か3日で中国軍の兵のほとんどが死傷してしまい、これ以上戦えないと判断した蒋介石は中国軍に対して南京の放棄を宣言して日本軍の包囲を破って南京から脱出した。日本軍は12月14日に南京城内に一斉突入、後の12月17日には日本軍の南京入城式が行われ、中国人の死体が散乱する南京城内でパレードを行った。
日本国内では南京陥落を祝い提灯行列など祝賀会が開かれ、各地で戦勝記念パーティー、銀座の百貨店では南京陥落記念セールが行われ、日本国内は祝賀ムードに包まれ中国との講和で得られる領土と賠償金に注目が集まっていた。しかし既に蒋介石と日本政府から講和交渉を引き受けたトラウトマンとの講和交渉は日本側の苛烈な講和条件によって難航した。日本側が提示した条件は以下のものである。
中国に対し、満州国を独立国と認めるうえに、中国の一部を割譲して日本のものにさせ、更に賠償金まで支払えという前世紀の帝国主義を剥き出しにした講和条件である。この講和交渉自体は南京攻城戦が行われる前の1937年11月から始まっていたが、交渉期限が一度切れて南京攻城戦が行われた以降の12月には上記のような苛烈な内容の条件になっていた。
この講和条件を呑めば中国は日本に分割されると断じた蒋介石は交渉を拒否してしまう。
蒋介石には勝算があった。この講和条件は欧米列強各国を交えて取り決めた1922年の9ヶ国条約に明白に違反しており、当時は欧米列強国の租界もたくさんある国際都市の上海と南京を侵略した日本軍に対して激しい嫌悪を示していたアメリカやイギリスが黙っていないと見込んでいたのである。結局、蒋介石は講和条件を呑まなかったため交渉は失敗。中国国民党政府は南京西の武漢に首都を移し、北西の徐州で新たに国民党軍を編成し、徹底抗戦の構えを取った。
南京事件(南京大虐殺)
第二次上海事変の苦戦で中国人に対して猛烈な憎悪を高めていた日本軍将兵は南京陥落をもって戦争は終わったと判断して中国軍の敗残兵を殺し、その次に南京城内の国際安全区に避難していた南京市民や南京市内の民間人に襲い掛かり、無差別に殺戮するジェノサイド(大量虐殺)を行った。
このジェノサイドは日本軍の命令ではなく、本来は南京市内の中国軍の残存兵を排除する掃討戦であった。しかし日本軍将兵たちの中国人への憎悪は頂点に達し、戦争が終わった解放感も手伝って、武器も持たない民間人が避難した国際安全区に踏み込んで民間人の殺戮を始め、南京市内の住宅地や商業地にも踏み込んで中国軍とは無関係の民間人を問答無用に殺害、略奪、強姦、リンチなどの暴挙を行った。
この日本軍のジェノサイド、略奪、暴行、強姦は日本軍が蒋介石を追って武漢三鎮を目指して進撃を開始する1938年4月まで4か月にわたって続き、それまでの間に中国人20万人を虐殺した。
虐殺した中国人の遺体は南京城内、南京市内に放置されて散乱し、春が来て暖かくなれば腐敗して伝染病が発生する恐れがあったことから3月に入ると埋葬作業が進められ、揚子江付近の遺体は埋められることなく揚子江に捨てられた。揚子江は浮き上がった中国人の死体で埋まり、停泊していた帝国海軍の兵士は水で膨らんだ死体に気持ちが悪くなるものが続出、このおぞましい様子は当時の海軍将兵が刻銘に記録している。なお揚子江に捨てられた遺体は川を下って第二次上海事変のあった上海にまで流れ、現地で回収されている。
戦後に連合国軍によって埋葬された遺体は全て掘り返され約15万5千人の遺体を回収、揚子江に捨てられていた遺体で回収出来たもの、その他に日本軍将兵の捕虜殺害の記録などをもとに調査と研究が進み、南京大虐殺での死者は20万人以上とされた。
このジェノサイドは日本国内においては徹底した報道管制と検閲が行われ終戦まで誰もジェノサイドの事実を知らなかった。日本人がこのことを知るのは極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判のときである。
徐州攻略~武漢作戦まで
南京から北西の徐州に主力が集まっているとの情報を受けて日本軍は徐州へ向かう。ここでも素早い退却により国民党軍は殲滅を免れる。
蒋介石は日本軍の進撃速度を遅らせる為に黄河の堤防を破壊する作戦を決行した。1938年6月、中国国民党軍は黄河の堤防を爆破して決壊させ、黄河から南の武漢までの進路を濁流で飲み込み周辺を大洪水にさせた。その結果、黄河から南は濁流によって道路も流されて地面はぬかるみになったため軍用車はタイヤがハマって使えなくなり、歩兵も泥沼と化した地面に足を取られて進軍は大幅に鈍り、日本軍の武漢早期攻略は不可能になった。しかしこの黄河決壊作戦は日本軍に事前に察知されないように周辺住民には無勧告で行われたため、濁流にのまれた中国人80~90万人が死亡し、農地も全て濁流に飲まれてしまった。なおこの黄河決壊は中国国民党軍による工作であるが、一貫して蒋介石らは日本軍の砲撃によるものとして日本のせいだと主張した。もっとも日本軍が侵攻してきたから壊したといえばそれまでなのだが。
日本は濁流に飲まれた黄河よりの進路を避け、北西まわり、南回り、西回りの3ルートから9個師団、さらに軍属も含め関係する総兵力50万人の大兵力で中国の要衝である武漢攻略作戦を実行した。対する中国国民党軍は現地の志願兵にソ連の航空志願兵も含め60万人あまりの兵力で構えていた。各地での激戦で日本軍は1万、中国軍は20万人の戦死者を出して日本軍は武漢市を占領。武漢作戦そのものは成功するが、そのときには蒋介石は既に武漢を脱出して重慶市に中国国民党政府の本拠地を移したため、結局殲滅には至らなかった。
重慶爆撃
武漢市を脱出した蒋介石ら中国国民党は遥か西の重慶市に首都を移した。重慶市は四川盆地の中心部で周囲は2000~5000メートルの山地に囲まれた盆地で大軍を送り込むのが極めて困難な地形であった。
武漢攻略作戦で大兵力を投入した日本軍ははるか奥地の山地になる重慶市にも大軍を送ろうにも補給が届かず、補給線を整備しようとすれば中国共産党軍のゲリラに車両を襲われたり通信線を切られたり、自動車道路を破壊されたりと進路すら安定せず、重慶攻略作戦を実行に移すことが出来なくなった。
進撃に行き詰った日本軍は飛行機を使っての重慶市への徹底空爆で降伏させる方針に切り替えた。日本軍は陸海軍の航空隊が1939年~1943年の5年にわたって重慶市を空爆。最初は目標を軍事施設に定めた限定爆撃であったが、中国国民党が降伏しないと見ると次第に無駄別爆撃へと転換され、重慶市は爆撃で火の海になった。その爆撃された対象にはイギリス人租界やイギリス資本が建てた施設も多数含まれており、無差別爆撃で重慶市内が地獄絵図になって行く様子はイギリスメディアが刻銘に撮影し世界中に報道され、アジアのゲルニカと呼ばれて衝撃を与えた。
蒋介石が捕まらない理由
南京を陥落させても、武漢を占領しても、ことごとく蒋介石ら中国国民党政府の幹部たちに逃げられた。中国大陸の奥地に新たな本拠地を構えて軍を編成され、次から次へと攻略作戦を強いられているのは単純に中国側の兵力が日本軍の兵力の3~5倍の兵力を持っていたからである。常に日本軍が包囲しようとすると戦線を放棄して早めに逃げ、包囲網から脱出したら各地に離散して中国共産党軍を中心とするゲリラ攻撃で日本軍の足を止めるというヒットアンドアウェー戦術をとり、日本軍が地理を知るはずもない中国大陸の内陸部へと引き込んでいたからである。
欧米列強国の怒り
南京陥落で南京市における日本軍の蛮行は日本のメディアは徹底した報道管制で日本人には伝わらなかったが、アメリカをはじめとする海外メディアは国際都市の南京で日本軍が民間人を大量虐殺を始めたことはすぐに報道され、数多くの記録映画や写真によって証拠を撮られて世界中に拡散された。
アメリカでは新聞各社が一面で大々的に日本軍の蛮行を報道したためアメリカ人の反日感情は急速に高まった。それ以前にも南京攻略戦において揚子江に停泊していたアメリカの軍艦も誤爆で沈没させてしまっていたため政治的にも対日関係が悪化しており、外交面で暗雲がかかった。
東亜新秩序
南京陥落後のトラウトマン講和交渉が失敗に終わると日本政府の近衛内閣は講和を放棄した中国国民党に対して『国民政府を相手とせず』という第一次近衛声明を出した。国民党政権を相手にしなくては講和交渉などできるはずがないことを考えれば中国国民党を潰すと宣言したようなものである。
しかし武漢を攻略しても重慶に首都を移されてしまい、中国国民党政権をなかなか潰せず中国共産党のゲリラに邪魔されて重慶攻略作戦の準備すらままならなくなってくると近衛内閣は第二次近衛声明を発表した。声明内容は『日本の戦争目的は中国における東亜新秩序の建設であり、国民政府が協力するなら拒否しない』という従来の国民党政府を徹底的に潰すという内容からブレて、日本に協力すれば許してやるという内容であった。
この東亜新秩序という声明にアメリカとイギリスは激怒し、アメリカとイギリスの租界や資本が数多くある中国を日本の好きなように作り替えようとしていると断じ、ルーズベルト大統領は日本の中国侵略をアメリカとイギリスの権益を著しく侵害した行動であるとして外交的制裁を含ませた厳重な抗議声明を発表した。
中華民国南京国民政府
この近衛声明に乗って東亜新秩序に協力しようとして現れたのが中国国民党の幹部の一人の汪兆銘である。
汪兆銘は中国からの日本兵の撤退を含めた講和を条件に東亜新秩序に協力に踏み切り、1938年12月に中国国民党を脱退して部下とともにベトナムのハノイに脱出し、日本軍に招き入れられた。そして近衛文麿は『汪兆銘と共に善隣友好、共同防共、経済提携の3原則のもとで東亜新秩序を建設する』という第三次近衛声明を発表し、1年後に中華民国南京国民政府を樹立した。しかし当初の日本兵の撤退は守られず、政権の全てにおいて日本軍の将官が監督、補佐、顧問の名目で背後について指導の下で政治を行うという条件を日本軍に呑まされ、形だけ取り繕った日本軍に操られるままの傀儡政権でしかなかった。そんな日本軍がバックに付いた政権など反日に沸き上がる中国人民に支持されるはずもなく、抗日をあげて戦っている国民からは漢奸(民族の裏切り者)のレッテルを張られて現在に至るまで売国奴として忌み嫌われている。
戦線の暗雲
アメリカとイギリスが強い態度で日本の中国侵略を非難し、外交的制裁を含ませた警告を発しても日本政府は抗議を受け付けなかった。近衛内閣の外務大臣である有田八郎は東亜新秩序の正当性を掲げて反論したが、その東亜新秩序そのものが日本が勝手にでっち上げたものに過ぎず、それを押し通すことは中国の主権と領土を奪う侵略そのものだったからである。
話にならないと判断したアメリカとイギリスは中国国民党の本格的な支援に乗り出し、ベトナムから現在のチワン自治区ルート、ビルマ(現在のミャンマー)から雲南省ルートで、更にはソ連からも現在の新疆ウイグル自治区を通じて重慶の中国国民党に最新の武器や食糧が送られ、アメリカ軍の軍指導者まで派遣して中国国民党軍の強化にあたった。独断ででっちあげて正当化を謳った東亜新秩序という名の侵略は欧米列強国を次第に中国の味方につけてしまう結果になったのである。
外交関係も著しく悪化したうえに欧米の支援で強化されてきた中国国民党軍は次第に日本軍の進撃を阻んで戦線を硬直化させるほどになり、完全に日中戦争は行き詰まりを見せていた。外交も戦争も行き詰って今後の見通しが立たない泥沼の長期戦の様相を示してくると、近衛文麿総理大臣は内閣を総辞職してしまう。『支那事変は新たな局面に入った』と言うのが総辞職の理由で、何とも無責任極まりない辞任であった。
行き詰まる日本
1940年、ついにアメリカは中国大陸の撤兵要求に応じない日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告。明治44年に日本が欧米列強国に対して関税自主権を得て不平等条約解消、対等に渡り合える国になった節目の条約が破棄された。これによってアメリカは日本に対して輸出における規制がアメリカ連邦政府の判断で自由に行えるようになり、アメリカは同年の6月に特殊工作機械、7月に航空燃料、8月に屑鉄の輸出を政府の許可制にして、翌9月には北部仏印進駐に伴い屑鉄の輸出が全面禁止された。日本への戦争資源封鎖を本格化させ、戦争経済が行き詰まった。
一方では軍部も早期の中国国民党政権打倒のために兵力や兵器の増強と予算拡大を要求する支那方面軍と、アメリカの経済制裁で戦時体制が崩壊しかけている状況で欧米列強がバックの中国とこれ以上戦えないと見る陸軍参謀本部で方針が真っ向から対立していた。結局この対立は現地の支那方面軍が陸軍参謀本部の方針を押し切り、一撃必殺の短期撃滅作戦で中国国民党軍を破るという現地軍の主張が通った。もはや本土の陸軍参謀本部ですら暴走する現地の日本軍を抑えることが出来なくなっていたのである。
日独伊三国同盟
日本政府はこのころには第二次近衛内閣が発足しており、外交も戦争も行き詰った打開策として、当時ヨーロッパで勃発した第二次世界大戦で破竹の快進撃をしていたドイツであった。ドイツとは既に日独防共協定を結んで外交的な繋がりを深めていたが、ここにきてヨーロッパ戦線でフランスを打倒してイギリスを苦しめているドイツの強さに関心を持った近衛内閣は『ドイツと同盟すればアメリカの牽制になるのではないか』と考えるようになり、中国戦線の降着とアメリカとの関係悪化の打開策としてドイツとの同盟を模索し始める。そして1940年9月に日独伊三国同盟を締結、調印に帰りにソ連にも立ち寄ってスターリンと日ソ中立条約を結んだ。
イギリスを散々苦しめているドイツと同盟し、共産圏のソ連とも不戦同盟を組んだことで外交力が強化されたと考えた近衛内閣はアメリカとの関係が回復し、中国との戦争に勝って状況を打開できると考えていた。しかしそれはアメリカとイギリスを完全に敵に回す愚策であり、外交における大失策でしかなかった。
援蒋ルートの破壊
日本軍はアメリカとイギリスが中国国民党を支援しているから日本に降伏しないのだと考えるようになり、東京の陸軍参謀本部を通じて陸軍省に蒋介石の支援ルートであるベトナムとビルマへの軍の派遣を打診するようになった。元関東軍参謀長で中国戦線に長く赴任していた陸軍大臣の東条英機は近衛文麿に陸軍の南進と仏印進駐を中国戦線の打開策として強く要求して承認させ、後の大本営政府連絡会議において北部仏印(ベトナム)進駐が決定、1940年9月に北部仏印進駐が行われる。
仏印ことベトナムはフランスの植民地で、当時フランスは第二次世界大戦でドイツに降伏したため、ベトナムには新ドイツ政権のヴィジー政権が出来上がっていた。日本軍はヴィジー協定を結んでベトナム北半分の北部仏印に日本軍を進駐、これは隣国にイギリスの植民地であるマレーシアとアメリカの植民地であるフィリピンのすぐ近くに日本軍が進駐する軍事的挑発行為であった。
この行為に激怒したアメリカは日本に対して屑鉄の輸出を許可制から全面輸出禁止に移行して本格的な経済封鎖に入った。日本への本格的な制裁に踏み切り、中国および仏印の日本軍の撤退も合わせて要求した。
日米交渉
アメリカの経済制裁が本格化したことで日本は政府も困惑していた。軍は中国戦線の行き詰まり、東南アジアへの南下方針も暗礁に乗り上げたことで今後の方針が見出せなくなり、東京の陸軍参謀本部は中国国民党とこれ以上戦う意味が見出せなくなったことから撤兵を考える意見も出たが、参謀本部内でも戦争続行の意見が強く、現地軍も撤兵は固く拒否した。しかし既に中国戦線は中国側にアメリカとイギリスが完全に味方に付いていて日本軍は中国国民党軍との決戦どころか前線までの戦線維持も中国共産党軍のゲリラに散々に邪魔されて手一杯の状況であった。
陸軍がこれほどまでに中国戦線での戦闘継続に固執したのは、これまでに100万人以上の兵力を送り込んで20万人の戦死者、これまで毎年国家予算の70%、金額にして100億円にまで及ぶ軍事費を投入してきたにもかかわらず何ら戦果が得られずに撤退することでの軍への責任追及と国民の批判、アメリカの圧力に屈して中国との戦争に負けたという屈辱を背負わされることを受け入れられない軍の体面が全てであった。特に支那事変勃発から関東軍参謀長として中国戦線を指導してきた東条英機陸軍大臣はアメリカの撤退要求に強硬に反発し、対米譲歩の意見を頑として聞き入れなかった。
状況打開に日米交渉に臨んだ近衛内閣は1941年2月に野村元海軍大将を駐米大使としてアメリカに送り、資源供給再開と外交回復に向けての交渉に入った。4月には日米両国の条件がそろったが、日本側は日中間の講和仲介、満州国の承認、日本軍の中国における防共駐兵を認める、と言ったものに対し、アメリカは東南アジアおよび中国大陸からの全面撤兵、満州国も承認はしない、といった大きく隔たりがある内容で、日米交渉もまた暗礁に乗り上げた。
南部仏印進駐の強行
日米交渉が暗礁に乗り上げていたことに業を煮やした東条英機陸軍大臣は武力行使に出ることを強硬に主張するようになり、日本軍は1941年7月28日に南部仏印進駐を独断で強行してしまう。それ以前にアメリカの野村駐米大使から南部仏印進駐だけは絶対にしないよう釘を刺されていたのを無視した進駐であった。
日米交渉中の侵略行動に激怒したアメリカ側はルーズベルト大統領からハル国務次官を通じて1941年8月1日、日本に対して石油の全面禁輸を通告する。これによって日本は命綱ともいえるエネルギーまでも封鎖されてしまった。当時の日本の石油の輸入依存度は92%で、その80%をアメリカから輸入していたので、この制裁は日本のエネルギー供給の大半が封鎖されたに等しい。満州国と中国での戦利に固執するあまり、外交も経済も都合の悪い事実から全て逃げて軍部の都合が最優先された末路の最悪の事態だった。
当時の日本の石油の備蓄量は戦争をしなくても2年分に満たず、日米交渉に臨みを賭けつつ対米開戦も視野に入れる形で交渉継続を選んだ。大本営政府連絡会議は1941年10月を目途に方針を決定することになったが、最終的な決定を陸海軍から委ねられた近衛文麿は、絶対にアメリカと戦ってはならないことは分かっていながら対米譲歩をして中国から撤兵を決定すれば軍部から殺されることを恐れ、究極の選択を前に自己保身を選んで内閣を総辞職。またしても近衛は最悪の事態を招いておきながら自分だけ逃げたのだった。
ハルノート
近衛内閣の後を継いだのは陸軍大臣であった東条英機が総理大臣に就任する東条内閣であった。
東条英機は昭和天皇から前回の大本営政府連絡会議の決定を一度白紙に戻して日米交渉に尽くせと指示を受けており、アメリカとの和平のため日米交渉を継続する方針をとった。しかしアメリカは既に態度を硬化させて交渉継続は困難を極め、アメリカはハル国務長官を通じて日本側の交渉案を拒否、アメリカ側の暫定案を提出した。いわゆるハルノートである。
アメリカの暫定案は中国および仏印からの全面撤退、日独伊三国同盟の破棄、満州国は認めない、と言ったもので、要は満州事変以前の状態に修復しろと言っているに等しいものであった。中国戦線に固執して勝利を欲するままに人命も金も国家を痩せ細らせてまで注ぎ込んできたことが全て無になる条件であった。
支那事変から大東亜戦争へ
東條内閣はハルノートをアメリカ側の最後通告と見なして対米開戦を決意し、御前会議で昭和天皇の承認を得る。これによって日本は支那事変も片付いていない状況で経済もボロボロで資源も供給の目途が立たないという満身創痍の状況でアメリカと戦争をするという最悪の選択を取ったのである。
1941年日本時間12月9日にアメリカ領のハワイ諸島オアフ島に向けて真珠湾攻撃が決行された。
その同日に中華民国は正式に日本、ドイツ、イタリアに宣戦布告。
日本政府は対米英戦争を含め「大東亜戦争」と呼称することを決めた。
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