伊能忠敬単語

95件
イノウタダタカ
4.4千文字の記事
  • 1
  • 0pt
掲示板へ

伊能忠敬(いのう・ただたか 1745~1818)とは、江戸時代商人、測量士である。

概要

各地を巡り、正確な日本地図を作り上げた、歴史教科書には必ず載っているであろう重要人物。彼が測量して作り上げた地図(通称・図)は誤差僅か0.2%という極めて正確な物である。

元々は商人であり、50歳で隠居してから本格的に測量や天文学を学び始め、56歳から測量のを開始、74歳で亡くなるまで地図作成に携わった高性能じいちゃんでもある。

生涯

商人・名主として

上総のひと・神保貞恒の末っ子として誕生。幼名は三治郎。幼き頃についてはほとんど伝わっていない。一方、神保の遠い縁戚にあたる、下総佐原で造や貸を営んでいたは当が若くして死去し、妻と1歳のが遺されていた。やがてその・ミチが成人すると婿養子を迎える事となり、三治郎に白羽の矢が立った。こうして1762年、18歳婿入りすると同時に「忠敬」の名を与えられ、三郎衛門忠敬と名乗る。

当時の佐原は利根川運を使った交通の要所として栄えており、領(幕府直轄の領地)であったため武士がおらず、住民の自治によって治められていた。その中でも特にを持っていたのがと永沢だった。だが、は10年以上も当不在の時期が続いていたためすっかり弱体化しており、新当・忠敬の手腕が問われることになった。そのため若くして名後見の座につくことになる。

忠敬は永沢と共に佐原の町をよく治め、様々な騒動を解決していき、の商売も再び盛んとなった。1778年、佐原は領から旗本・津田の領地となった。この時、新領への挨拶に出向くが、永沢の当苗字を認められていた一方で忠敬は認められていなかったため、扱いに大きな差をつけられて屈辱を味わうことになる。1781年に名が死去したため、後見から正式な名となった。

1783年、妻・ミチが病のために死去する。この年は浅間山噴火して天明の大飢饉が起こっており、津田に年貢の免除を訴えて受け入れられた。ただ津田の財政はあまりよろしくなく、や永沢からたびたび借をするようになる。この為、自然と忠敬の発言は大きいものとなり、苗字を許される。そして名から後見へと役が変わった。後見とは名の監視役で、永沢もその職についていた。長年の努が実り、はようやく再び永沢と並び立つ存在になったのである。

天明の大飢饉は続き、1785年、が値上がりすると踏んだ忠敬はを大量購入する。ところがその論見は外れて相場は下がり、赤字となってしまう。損が少ないうちに売り払うべきという周囲の意見を無視して、忠敬は敢えてを売らなかった。するとその年、利根川が大洪水を起こして佐原の農民は大きな被害を受けてしまう。ここで忠敬は銭を住民に分け与えて、数年に渡って住民救済に努した。それが功を奏し、天明の打ちこわしが発生しても佐原は何事も起こらなかった。その後、残ったは売り払って利益を上げ、町の統治者としても商人としても成功を収めた。ちなみに佐原はたびたび洪水被害を受ける土地であり、その後の変わり果てた田畑を再測量する必要があり、後の測量事業にを与えたとみられている。

1790年に後妻を迎え入れるが、息子も成人していたので隠居を考え始める。だが領津田はちょうど代替わりしたばかりだったため、経験豊富な忠敬の存在を必要としており、隠居願いは断られてしまう。この頃から興味を持ち始め、天体観測などを行うようになった。1794年、ようやく隠居の許可が下り、息子敬に督を譲った。ところが、またも妻に先立たれてしまうという不幸もあった。

当時の財産は、現代の額に換算すると30億円に匹敵するものであったと言われている。すごい

測量士として

1795年、隠居した忠敬50歳は、江戸に上ると深に居を構えた。そして民間天文学者として高く評価されていた高橋至時(たかはし・よしとき)に子入りする。至時は忠敬より20歳近く年下である。至時の門下となった忠敬は天文学を熱心に学んだ。また、詩人大崎栄(おおさき・えい)を妻に迎えている。栄は文学のほか算術などにも明るい才女で、忠敬の天体観測などを補佐したと言われる。

一方、1790年代は極東へ勢を広げようとするロシア帝国の存在が脅威となりつつあり、夷地の正確な地理握が早急事案とされていた。また、至時と忠敬は地球の正確な大きさ(すなわち子午線の長さ)を調べるには江戸から夷くらいまでの距離を測る必要があると考えていた。こうした利の一致から、高橋至時は幕府に夷地の測量を行う事、およびそれを技術に加えて財もある忠敬に実施させることを願い出た。

1800年4月、遂に幕府から「測量試み」の命が下された。この時忠敬56歳。試みという辺りからして、いち商人出身の忠敬はあまり期待されていなかったようだ。一行は徒歩で奥州街道を測量しつつ進み、館に渡ると襟釧路根室まで測量して帰還した。

この成果は幕閣の予想以上のものであり高い評価を得た。その為1800年の暮れにはくも第二次測量の話があがり、翌年実施に移る。今回は伊豆半島以東の測量が行われ、下田から三島、銚子、宮古下北半島陸奥三厩まで測量して帰還した。また子午線の調も引き続き行っており、緯度1度=28.2里と算出している。

1802年、第三次測量の命が下る。この頃になると幕府の忠敬への信頼は篤くなっており、若干ながら人足やが支給されている。前回終点の三厩から新潟へと日本海側を南下。当初の計画ではそのまま越前まで行って、帰りに尾駿河を調して本州東部の地図完成させる予定であったが、越後までの観測で断念、江戸へ戻った。

1803年、第四次測量が行われる。残る東本州佐渡を計測し江戸へ帰還した。またこの頃、師の高橋至時が西洋の文書を解読した結果、忠敬が導き出した子午線の長さが正しいと分かり二人は喜び合った。が、至時は翌1804年に41歳でくしてこの世を去った。

1804年、忠敬は10人扶持で幕臣に取り立てられる。翌1805年、第五次測量が行われる。これまでの測量は忠敬が自費で行っていたが、これ以降は幕府直々の任務となった。また前回は測量に非協的ながあって問題が起こったが、今回は幕府からこの事業に協するように示が出された。この時忠敬60歳。伊勢大坂紀伊半島を計測したが、想像以上に海岸線が入り組んでいたため測定は難航する。琵琶湖を計測したあとは下関まで瀬戸内海々を含めて測量する。ここでも瀬戸内海岸線の複雑さで測量は難航した。また忠敬が一時病気に倒れたため、江まで計測したところで離脱。部隊だけで隠岐に渡って測量を行った。忠敬は回復して江に戻ってきた部隊と合流する。そのまま日本海側を若狭まで測量して江戸へと戻り、2年近くに渡る長を終えた。

1808年、第六次測量として四国の計測を行う。淡路島を計測して四国に渡り、徳島から時計回りで測量して帰還した。

1809年、第七次測量が命ぜられ九州へと向かう。翌1810年、小倉から時計回りで測量を行った。しかし甑天草の測量に手間がかかり、種子島屋久島の測量は行わずに翌年江戸へと戻った。このの間に間宮蔵と出会っており、間宮はのちに忠敬が成し得なかった夷地北西部の測量を行う事になる。

1811年、第八次測量として、前回できなかった種子島屋久島壱岐対馬五島列島などを計測する。1814年に江戸に帰還するという長になったが、この間に息子敬がに先立ち亡くなった。

1814年、大量の地図を作成していた事で深が手狭になったので八丁へと引っ越す。翌1815年、第九次測量として伊豆の計測が行われることになったが、忠敬は既に71歳の高齢の身であったため、この回は子や役人たちだけで測量が行われた。これと並行して、第十次測量として江戸の各街道スタート地点と日本橋との間を測量することになり、忠敬はこちらに参加した。

これで日本の大部分の測量が終わり、そのデータから地図を作成する作業に入った。1817年には間宮蔵が夷地の測量結果を持ってきている。そして子たちに地図作成の示を行っていたが、1818年になると病床にせるようになり、4月にこの世を去った。74歳であった。

その後

忠敬の死の時点では未だ地図完成していなかった。その為、忠敬が死去したことはせられ、至時の子・高橋保を中心に作業が進められた。そして3年後の1821年に「大日本沿輿地全図」と名付けられて地図完成し、忠敬の死も明らかにされた。敬の息子忠誨が継いでいたが、21歳の若さで亡くなり忠敬の血筋は断絶した。このため名・商としてのは衰え、勢は分へと移っていった。

図は誤差0.2%という驚異の精度であり、特に緯度に関してはほぼ誤差がない。一方経度では誤差が生じており、天体観測が不十分だった為、忠敬が地球全な球形だと思っていた為、などと言われている。他、秋田県にある潟(きさかた)はかつては潟ラグーン)だったが、1804年の地震底が起して現在平野となっている。図ではその地震の直前である1802年の第三次測量で得られたデータが用いられており、かつての姿を遺した重な記録となっている。

最後の妻である栄は、忠敬が測量のに出て長期間けるようになると、佐原のに身を寄せた。そしてくしくも夫と同じ1818年に死去している。

後年、フィリップフランツ・フォン・シーボルト日本を離れる際、高橋保が外持ち出し禁止とされていた図を贈ったため、保は逮捕され獄死している。これがシーボルト事件である。なにしろ当時の世界情勢ではこれほど正確な地図国家機密ものなので当然と言える。保は死後に斬首刑とされ、保存されていた遺体斬首されている。しかしこうしてヨーロッパに渡った図は、日本人の測量技術の高さを異に十分に知らしめた。

その後、関東大震災など2度の火災により図は焼失してしまった。とされていたが、2001年に全214枚のうち207枚の写しがアメリカに残っていたことが判明、その後の調で残る7枚も日本国内で発見された。

生誕地の九十九商人としての前半生を過ごした香取市佐原、の前に毎回参拝していた富岡八幡宮などには忠敬の像が建てられている。

関連商品

関連項目

関連リンク

【スポンサーリンク】

  • 1
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

シャミ子が悪いんだよ (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: まちカドまぞく 小原好美 千代 「まちカドまぞく 小原好美 千代田桃 鬼頭明里 アニメ」
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

伊能忠敬

1 ななしのよっしん
2022/09/12(月) 21:44:59 ID: Pa6Mp1Qo7X
シーボルト事件、聞いたことはあったものの思った以上にヤバい事件で笑った。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
2 ななしのよっしん
2022/09/13(火) 08:15:49 ID: J2v56CH8lD
記事作成乙です、50代からほぼ一から地図の勉強してあの全図を作り上げたのは尊敬に値する
👍
高評価
0
👎
低評価
0
3 ななしのよっしん
2022/09/13(火) 10:53:19 ID: eVDshzFCkt
👍
高評価
0
👎
低評価
0
4 ななしのよっしん
2022/09/13(火) 12:20:23 ID: hjYHdbS1+1
侵食されたりして当時から変わってる場所とかあるのかな?
👍
高評価
0
👎
低評価
0
5 ななしのよっしん
2022/09/13(火) 12:34:27 ID: FLi4v3SOZb
有名なのだと今は鹿児島と陸続きになっている桜島伊能忠敬地図では離れているとか
地図ができた1821年からほぼ100年後の1914年に噴火が起きてくっついたらしい
👍
高評価
0
👎
低評価
0
6 ななしのよっしん
2022/09/13(火) 12:46:57 ID: lmIGlvnSMZ
伊能忠敬夷地測量に出発した4月19日が「地図の日」として広まっているが制定の経緯が不明瞭でどうも一冊の本が起らしい
もしかすると他にも起が不明瞭な記念日はこの本が由来かもしれない

4月19日地図の日」を考える|意外な制定経緯が発覚
https://club.informatix.co.jp/?p=5671exit
>・「地図の日」が1994年10月にごま書房から発行された『記念日の本』(生活情報研究会編)に記載されている記念日であること
>・その前年に朝日ソノラマから発行されている『366の記念日カレンダー』には4月19日伊能忠敬夷地の測量に出発した事実が記されているが「地図の日」という記載はないこと
>・それ以前の1989年新潮社から発行されている『歴史366日』(萩著)にも「地図の日」の記載がないこと
であった。

>これらの状況を勘案すれば、「地図の日」は『記念日の本』が初出であることはほぼ間違いない。

(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
👍
高評価
0
👎
低評価
0
7 ななしのよっしん
2024/01/10(水) 21:13:25 ID: fqDmrevDv1
向学心というより好学心だよなこの人は
本当に学問が大好きだったんだと思う
プロジェクトの成功はこの溢れんばかりの知的好奇心が支えたのだろう
隠居までの実業の経験もリーダーシップとして生きたであろうことを考えると
50歳からの出発も一概に回りと言うものではないな
👍
高評価
0
👎
低評価
0

スマホで作られた新規記事

こちらの記事に加筆・修正してみませんか?

健康優良児 画面遷移確認のための記事 あらそう