伊達尚宗(だて ひさむね 1453年~1514年)とは、伊達家伝統親子喧嘩の開祖疑惑がある武将であり、独立運動家であり、越後の便利屋である。伊達家第13代当主。大膳大夫。
権力闘争の生涯
1453年出生。父は伊達成宗。母は大崎教兼の娘・恵厳院(伊達綱村治世時の追号で当時の名ではない)
幼名は千代松丸とされている。実弟に葛西宗清、庶弟に伊達出羽守守基または秀宗(どちらも生年不明)
※ちなみに尚宗は2人の伊達政宗からちょうど真ん中に位置する当主である。
政宗(大膳大夫)→氏宗→持宗→成宗→尚宗→稙宗→晴宗→輝宗→政宗(仙台藩祖)
1473年足利義尚が将軍に就任する。
同年元服。
1483年父・成宗上洛。足利義政、室・日野富子、子・義尚他、細川持賢、細川政元ら幕閣、寺社、公家へ大量の進物を献上する。(成宗公御上洛之日記によればおおよそ太刀26振、馬84頭、砂金378両、銭559貫の他、香木など)
この時将軍の偏諱を賜り、伊達次郎尚宗と名乗る。
当時の伊達家は奥羽支配を目論んだ鎌倉府に端を発する古河公方との主権争いを、室町幕府と連携して退けようとしていた。足利将軍家より代々偏諱を賜ったことも、関東方の干渉を排するための大義名分である。
成宗はこの上洛に加え、関東管領・上杉氏への牽制として越後守護・上杉氏から積翠院を尚宗の嫁に貰い受け、奥州における伊達家の地位確立を画策している。
※伊達家の記録では積翠院を上杉定実の娘としているが、定実はこの時元服前である。当世の守護職は上杉房定であり、その娘(あるいは養女)と見る説が主流。
1487年(諸説有り)父の死去にともない家督を継ぐ。
1488年嫡子・次郎(伊達稙宗)誕生。
同年奥州探題・大崎義兼が家中の内乱に遭い伊達郡梁川まで避難。兵300を出して大崎へ帰還させる。
1489年伊具郡神次郎郷の法華・海善坊より訴訟があり、棟役(税金)を免除する。
同年越後国岩船郡村上城主・本庄房長が越後守護・上杉房定に対して謀反を起こし、房定に援軍を乞われる。
さらに同年、山入佐竹氏・佐竹義藤の要請により蘆名盛高、岩城常隆、結城政朝らと結んで常陸へ攻め入るも、佐竹義治に撃退される。
1490年火災によって前々年に消失した塩野毘沙門堂を米沢に再建。
1492年次男・四郎(留守景宗)誕生。
1493年置賜郡・成島八幡神社の遷宮式を挙行する。
1494年奸臣により庶弟・伊達出羽守(守基/秀宗)を当主に立てる動きがあり、合戦に敗れて猪苗代へ落ちる。
蘆名盛高の援軍3000を得て置賜郡長井へ侵攻し、竹森城の謀反軍を破る。出羽守は近江へ逃亡。
※この戦いは成宗・尚宗親子の争い、尚宗・留守郡宗の争い、尚宗・稙宗親子の争いを含めた4つの説があるが、生没年を勘案するといずれも確実性に欠ける。
成宗はすでに没し、郡宗は留守家当主で翌年死去、稙宗は当時数えで7歳。ただし、伊達出羽守の実在も疑わしい。
1495年置賜郡篠野村を大町三河守に与える。
1498年叔父・蘂源が金剛宝山輪王寺第三世の住持となる。これに対し尚宗は僧録の職を与え、領内の僧侶や住持の人事権を蘂源に一任している。
1500年次男を留守家へ入嗣、当主・留守景宗とする。
叔父の留守郡宗が1495年に死去し、その子・留守藤王丸も当年早世したため。
同年三男・久松丸誕生。他に生年未詳の一女(最上義定室)がいる。
1503年蘆名の将・山内左近が伊達家へ内応。蘆名盛高は討伐の兵を起こす。
尚宗は越後守護・上杉房能へ援軍を要請するが、越後では伊達家を一介の国人としか見ておらず、色よい返事はもらえなかったようである。
1505年久松丸早世。
同年蘆名盛高とその子・蘆名盛滋の間に合戦があり、敗れた盛滋は尚宗の元へ敗走している。
1506年久松丸供養のため米沢に奕葉山昌伝庵を建立し、越前大芸寺より喜山高悦を招いて開山とする。
同年米沢に滞在していた蘆名盛滋が会津へ帰参。
1507年関東管領・上杉顕定の後継を巡って養子の上杉顕実と上杉憲房が争い、山内上杉氏に内紛が起こる。
顕実は実兄の古河公方・足利政氏を味方につけ、憲房は政氏の子・足利高基と結んだため公方が分裂。
高基の援軍要請を受けて尚宗・稙宗親子が出陣。
さらには顕定の実弟である越後守護・上杉房能と守護代・長尾為景の間に下剋上が起き、為景に擁された上杉定実へ伊達家は援軍を派遣する。結果房能は敗死し、定実は翌年越後守護に就任した。
1509年将軍・足利義稙が前年に京都を奪還したことについて、大内義興へ太刀1振、銭2000疋を贈り、祝賀する。
返礼として義興より月壺作の三幅一対絵が贈られる。
※伊達次郎名義であるため、嫡子・稙宗に外交させたと思われる。またこの頃から知行割の書状が稙宗(次郎)の名で発行されており、家督継承があったと推測される。
同年上杉顕定が実弟を殺された報復として長尾為景・上杉定実を越後から追い落とす。
尚宗は定実へ援軍を出している。
1510年佐渡から挙兵した長尾為景・上杉定実が越後を奪還。関東管領・上杉顕定は自刃に追い込まれる。
同年幕府の命により越後へ侵入しようとする不逞の浪人を討伐。
1513年正室・積翠院死去。
同年越後守護代・長尾為景の傀儡に抑え込まれていた同守護・上杉定実が主権回復を目指して兵を挙げる。
定実より援軍の要請が来る。
1514年(永正11年5月5日)、死去。享年62。
菩提・墓所・位牌などは現存しない。東昌寺(仙台市)、秀麗斎(名取市)がかろうじて縁のある寺となっている。
戒名:護國院殿香山圓桂大居士
尚宗の生涯は古河公方、関東管領、越後守護の内紛対策に費やされた。
しかしながら足利将軍家との関係を堅持して家名を守り続け、ようやく次代に飛躍の時を迎えることになる。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録(PK) | 統率 | 69 | 知略 | 75 | 政治 | 73 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 39 | 武勇 | 35 | 知略 | 62 | 政治 | 57 | ※架空実父としての仮データ |
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